23年前の1月17日、5時46分。
大きな揺れで目を覚ました。主人は「こりゃ、なんじゃ~~」と大声をあげ、隣の部屋では本箱が倒れ、本が散乱していた。
二男が階下に降りて行き、「ガラスが散乱しているから・・・」と、スリッパを持って来てくれた。階下に降りてみると、食器棚の扉は開き、食器や洋酒、中国土産の紹興酒の甕が割れて、匂いがあたりに充満していた。
テレビをかけると、今まで見たことのない映像が次々と映し出されていた。 高速道路上で今にも落ちそうになっているバスの車体。
ビルの窓のブラインドが割れたガラス窓から、はみ出してユラユラと揺れている。
幸いなことに我が家は被災は免れたけれど、甲子園の姉と姪の家は半倒壊。
電話は通じなくて、いらいらが募る。 ようやく姉から電話があり、近くの小学校が避難場所になっていることが判った。
とにかく、食べ物がないということなので、3つの炊飯器を出して、炊き出しの用意をすることにした。 大きな洋服ケースにおにぎりを出来るだけ握って入れたが、最後の方はご飯をそのまま、いれる事になる。
国道2号線は通行規制で、被災地に入るには警察で「通行証」を貰わなけてはならない。 神戸へ行く息子と甲子園へ行く主人の分の「通行証」をもらい、一先ず食料・水などを届けるようにした。
神戸は23年経ち、復興も出来たが、東日本大震災、熊本地震の被災地はまだまだ復興に程遠いことです。
このことを忘れずに、後世に伝えていかなければならないことでしょう。