断想さまざま

研究者(哲学)の日々の断想

自転車が壊れた話(1)

2017-02-26 19:48:49 | エッセイ
 いま使っている自転車はギヤなしのママチャリで、長距離ツーリングに使うにはちょっとしんどい代物である。以前、大井川沿いの激しいアップダウンを走っていて、足を痛めたことがあった。以来、あんまり急な山道は走らないようにしているのだが、それにはもう一つ、別の理由がある。あまりにハードな走行を続けると、チェーンが伸びてしまうのである。その場合チェーンの長さを調整せねばならぬが、これが結構、面倒なのだ。安物のせいかチェーンカッターがきかず、自転車屋へ持って行って整備してもらわなければならないのである。
 そんなわけで用心しつつ、なるべくチェーンが伸びないように使っているのだが、それでも何年か使っていれば伸びは出てくる。最近、頻繁にチェーンが外れるようになってきたので、直さなければと思いながら先延ばしにしていたら、三日ほど前、また外れてしまった。駐輪場で強風にあおられて転倒し、そのはずみにチェーンが落ちてしまったのである。またかと思って自転車をひっくり返し、取り付け作業にかかろうとすると、何とチェーンが切れているではないか。びっくりした。いくら安物の自転車でも、まさかチェーンが切れてしまうとは夢にも思わなかったからである。駐輪中だったから良かったものの、走行中に切れていたら大変なことになっていた。切れたチェーンが車輪にからみつき、大事故につながったかもしれない。
 さすがに古いチェーンは使う気にはなれず、新しいものを買って取り付けた。オイルもたっぷり差しておいた。この自転車ももうしばらくはもつだろう。さて今回は幸い大事に至らなかったが、実は数年前、別の自転車でかなり怖い目に遭ったのである。

悪い話もし放題

2017-02-13 22:27:47 | エッセイ
 藝大の学期が終了して三週間が経った。この間、東京へは一度も出ていない。実家が神奈川にあるので、そちらへは戻る予定だが、これもいつになるかは分からない。
 東京には大きな書店があって便利だが、静岡にもそこそこの大きさの本屋がある。戸田書店である。規模的には東京の八重洲ブックセンターの半分くらいであろうか。静岡駅を出てすぐの葵タワーというビルに入っており、仕事の帰りなどに手軽に立ち寄れる。
 さてその戸田書店の向かい(正確には地下街の向かい)に「光のしずく」という飲み屋がある。「完全個室」を売りものにしているらしいのだが、店の入り口に面白いポスターが貼ってある。時代劇に出てきそうな悪人どもを描いたイラストの上に、「悪い話もし放題!!」というキャプションがでかでかと掲げられ、その中の一人がこうつぶやいているのである。「こないだ3時間も立ち読みしちゃってさあ」
 ぜひ一度行ってみねばなるまい。


梅と私

2017-02-11 20:43:29 | エッセイ
 梅の季節が来た。数ある花の中で梅が一番好きだが、昔からそうだったわけではない。きっかけは二十代のころ、東京青梅市の吉野梅郷へ行ったことである。その後、本駒込に下宿するようになって近所の小石川植物園に親しみ出し、梅の季節には何度もそこへ通った。ここは植物園ということだけあって品種が豊富で、色々な香りの梅が楽しめる。そうこうしている内に梅は、私にとってこの季節の不可欠のコンポーネントのようなものになってしまった。もし将来、日本以外の国に移り住むようなことがあったら、何よりも梅の季節がないことを悲しく思うだろう。
 写真は近所の瀬戸川沿いの道の梅である。写真からではちょっと分かりづらいが、ここは数十本の梅が植えてあり、今が見頃を迎えている。






池大雅瞥見(「西湖春景・銭塘観潮図屏風」)

2017-02-06 23:22:50 | 美術
 さる一月二十五日、東京国立博物館の常設展示を見てきたが、池大雅の作品で大きなものが二つ出ていた。「楼閣山水図屏風」と「西湖春景・銭塘観潮図屏風」である。
 「楼閣山水図屏風」は国宝で、展示解説でも「ベストオブ大雅」などと持ち上げられていたが、個人的にこの手の即興的な筆致はあまり好きではない。むしろこの絵の魅力は、物語的な楽しさと大雅らしい飄逸な人物像、禅画を思わせる無個性の個性ともいうべき人物の表現であろう。
 「楼閣山水図屏風」は国宝が展示される本館2階第2室に置かれていたが、「西湖春景・銭塘観潮図屏風」は同じ2階の第7室に出されていた。こちらはランクが一つ下の重要文化財である。六曲一双で、右隻が「西湖春景図」、左隻が「銭塘観潮図」となっている。
 「西湖春景図」は大雅の天才的な構成感覚がいかんなく発揮された作品である。西湖を中心に描かれた島や山々は、画中に巧みに配置されているというよりは、むしろ対象相互の関係の力動性によって、空間そのものを新たに生成しているように見える。構成の妙を尽くしている反面、細部の筆致はやや粗いので、ある程度離れた距離から眺めるとよい絵である。
 「銭塘観潮図」はそれとは対照的に筆致の妙を尽くしており、こちらは近づいてじっくりと味わうべきだ。この絵における大雅のタッチは、精密というよりは一種の「力」を感じさせるものだが、その「力」とは、雪舟や永徳のような筆勢の強さではなく、むしろセザンヌ的な筆致の「のっぴきならなさ」である。一筆一筆が、まるでこの場で生れ出たばかりのように生き生きとしている。この瑞々しさはちょっと比類がないものだ。今回、この記事を書くにあたってウェブ上で画像を検索してみたが、筆の見事さは、やはり実物を見なければ分からないと痛感した。
 世には数多くの「名画」があるが、見ていておのずとため息が出てしまう絵というのは、そうざらにあるものではない。「西湖春景・銭塘観潮図屏風」はそうした稀な絵の一つである。