断想さまざま

研究者(哲学)の日々の断想

南木曽駅にて

2013-09-21 19:37:57 | 旅行
 夏休みを利用して信州へ小旅行をしてきた。その帰り、松本から名古屋方面の列車に乗った。松本を出たのが午後の三時過ぎで、名古屋に着くのが夜の八時である。長丁場の行程に備えてビールやつまみをたっぷり買い込み、日差しがゆっくりと傾いてゆく木曽谷の車窓を眺めているうちに、いつしか列車は南木曽駅に到着した。特急の通過待ちで二十分ほど停車するという車内放送が流れた。荷物を車内に置いたまま外へ出た。
 南木曽は有名な中山道妻籠宿の玄関口で、夏休みともなれば観光客であふれていそうだが、遅い時間帯の普通列車ということもあって、私のほかには誰も客はいなかった。駅前の小さなロータリーに数台のタクシーが所在なげに停まっている。すでに陽は山の向うへと没し、あたりはしっとりとした夏の黄昏が浸していた。
 ロータリーに脇に立ってぼんやりしていると、若い西洋人の二人連れ男女が、何やら甲高い声を交わしながら降りてきた。タクシーの運転手がすっと車の中から出てきた。「ツマゴ」と客が言うのを聞くと、物慣れた様子で荷物をよこせという手振りをした。女が小声で男に何かをささやいた。男はそれにうなずくと、運転手に向かって「うん、でもちょっと待ってくれ。」と英語で言った。女は男を置いたままロータリーを横切り、ちょっと離れた場所にあるバス停へ小走りに走っていった。
 女はすぐに戻ってきた。二言三言男と話すと、男は運転手のほうを向き、値段はいくらなのかと訊いた。運転手は何か言おうとしたが、うまく言えなかったらしく、「ちょっと待ってくれ」という身振りをして自分の車の運転席へ戻った。携帯電話を持ち出し、金額を打って二人に示した。女はそれを見ると、論外だといった顔で首を振り、男に預けていたキャリーバッグを取り戻してさっさと歩き出した。男もあわててそれを追いかけた。
 薄暮の山間に突然起こった小さなつむじ風のようなこの幕間劇が過ぎると、あたりは再び静かになった。ふと見ると向かいの土産店がまだ開いている。そこへ行こうと思って歩き出すと、突然、後ろのほうでドンドンと何かを叩きつけている音がした。びっくりして振り返ると、さっきの女が、すでに閉まっているバスの切符売り場のシャッターを叩いている。「そこはもう閉まってるよ!」と大声で教えてやると、「どこで切符を買えばいいのか?」と訊き返してきた。「バスの中で払えばいい!」というと、「OK!」とだけ返ってきた。
 しばらくの後、私は暮色に沈む駅の待合室に座っていた。自分のほかには誰もいなかった。外の夕暮れは水のように明るかったが、ここはすでに夜の色がにじんでいる。発車まで五分少々。ぎりぎりまでここにいるつもりだった。
 実はまだ十代のころ、家族旅行でここへ来たことがあるのである。その時、この同じ待合室でぶらぶらしていると、若い二人連れの女につかまって、カメラのフィルムを入れてくれと頼まれたのだった。男子校育ちで女慣れしていなかった私は、どぎまぎしてうまく入れることができず、それでますます恥ずかしい思いをしたのである。
 思えば自分にもそんな時代があったのであった。

大井川の晩夏

2013-09-03 21:22:12 | 旅行
 いま僕は、大井川の河川敷にある大きな樹の下にいる。河川敷は幅が一キロもあり、しかも視界が数キロ先の上流まで開けているから、まるで広大な平原にいるようだ。川面ははるか遠くに見え隠れするばかりで、あとは一面の草の原である。ところどころに生えた樹木が、まるでサバンナの孤樹のように大きく枝を張っている。人影は見当たらない。時々通りすぎる車のほかは、強い川風と盛んな蝉時雨の音だけが、辺りを宰領している。
 残暑の厳しい日差しが照りつけているが、空はすでに秋めいた明るい色をしている。だが湿気は強く、地平線近くは霞がかっている。
 ふと僕は、現実ではなくて記憶の光景の中にいるような気がした。子供のころは「夏」は一つの均質な季節だった。(夏休みが始まるときのわくわくする気分と、終わるときの憂鬱な気分との対比はあったけれども。)だが年とともに、季節の微妙な移ろいが記憶に蓄積され、目前の風景にもそれを読み取るようになった。夏はもはや均質な一季ではなく、日一日と秋の気配に浸潤されてゆく存在となった。
 遠い屏風のような山並みに、夏の名残の入道雲が無数に湧き、午後の強い日を受けて燃えるように輝いている。それは季節の終焉の巨大な象徴図のようでもあれば、やがて来る季節への明るい希望を湛えているようでもあった。これまで体験してきた無数の晩夏を純化抽象し、一つの濃厚な主観的印象にまで凝縮したもの、いわば記憶における理念的な層とでもいうべきものであった。(この記事は2022年10月に改稿しました。)