断想さまざま

研究者(哲学)の日々の断想

「無明」の美学的考察

2024-03-24 18:44:28 | 批評
 昨年末くらいから岡潔のことばかり書いてきたので、ここらで一区切りということにしたい。今回は一連の記事の総まとめとして、彼の思想を美学や芸術学の難問へ応用してみた。原稿用紙にして20枚近くあるので、ブログ記事というよりはちょっとした小論である。

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 岡潔の思想において、「情緒」と「無明」はセットになっている概念である。すでに述べたように、彼のいう「情緒」とは、普通の意味での情緒(心の情感的内容)ではない。情感的内容には、怒りや攻撃性といったネガティヴな感情(無明)も含まれている。岡のいう「情緒」とは、こうした一般的な意味での情緒から、無明の濁りを取り去ったあとに残るものである。

人の情緒には無明による濁りがある。私はこの濁りは情緒の中には入れていない。私は、かように内容を規定された、「情緒」という言葉を使うことにしているのである。(岡潔集第二巻、50頁)

 だが人の心に「無明の濁り」があるとしたら、そこには「濁りの度合い」もあるはずだ。あたかも曇りの多いガラスと少ないガラスがあるように、無明が多い人と少ない人がいる。その意味で情緒と無明は、相互排除的なものではない。情緒の純粋性の、いわば負の相関物が無明なのである。したがって無明がどれだけ深くても、その奥には情緒がひそんでいるだろうし、逆に純一無垢な情緒などというのは、よほどのことがなければ到達できない理念的極点であろう。じっさい岡潔も以下のように述べている。

すべて文化と呼ばれるものには、ある程度無明が働いている。それは人類の進化の現状ではある程度肯定しなければならないものらしい。仏教の人たちがすすめているような、生死に無関係な所に文化を開くというほどには人は進歩していない。(岡潔集第二巻、140頁)

 仏教で「生死に無関係な所」といえば悟りの境地であろう。悟りにおいては、一切の無明が祓い清められている。だがそんな純一無垢な境地に、人間的文化を形成することなどできない。無明は文化にとって、いわば必要悪である。とはいえ濁りを少なくすること自体は可能だから、それを基準に文化や芸術を評価することもできる。たとえば池大雅のような画家は、生前からその超俗ぶりが評価されていた。
 とはいえ無明の少なさが、そのまま芸術的価値となるわけではない。大雅にしても、その評価の根本にあったのは、絵描きとしての天才的な技量である。また無明から自由であることが、ありとあらゆる芸術の評価基準になるわけではない。たとえばピカソは、岡潔によれば無明を描いた大家であり、「『あやしくも人をひきつける美』を、豊かな天分によってよく追い求めている」(同24-25頁)。これに対して白隠の書画は「何かカラッとして非常に気持のよいものを持っている」、つまり無明からもっとも遠い地点で描かれているが、「美ということを感じさせない」(同139頁)。岡はピカソへの嫌悪感を隠さないが、しかしピカソと白隠のどちらがすぐれた画家かは、衆目の一致するところであろう。(なおピカソについては、『春風夏雨』に収められた「無明」というエッセイに詳しく書かれている。小林秀雄との対談「人間の建設」でも、ピカソの無明をめぐる話が出てくる。)無明と芸術の関係は、一筋縄では行かないのである。
 ベートーヴェンは無明から自由だっただろうか。彼が無明とは無縁の場所で創作したとは、たぶん誰も思わないだろう。が、だからといって彼の音楽が、俗臭にまみれているわけではない。むしろ無明をくぐりぬけたところに開ける境地こそ、ベートーヴェンの真骨頂である。
 現実の中で生きる人間は、程度の差はあれども無明にまみれている。仮に「無明のないこと」が芸術家の前提条件だったら、芸術はこの世から滅びるほかないだろう。ところが創られた作品の方は、多かれ少なかれ俗臭を拭い去られている。のみならず人格破綻者のような人物から、世にも崇高な作品が生み出されたりもする。考えてみればこれは、不思議な現象ではないだろうか。

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 芸術家は人格破綻者である「にもかかわらず」すぐれた作品を創るのではない。人格破綻者「だから」それをなしうるのである。芸術家の非凡な着想、常識にとらわれぬ思考と感性、汲めども尽きせぬエネルギーなどは、その人格が「壊れている」がゆえのものである。普通の人間は、社会の制度や常識で凝り固められていて、自由な活動性やエネルギーが枯渇している。だが芸術家は、生の根源的エネルギーと一体化しており、そこから無限の創造力を汲みとっている。
 以上はロマン派以降おびただしく生産され、社会に流布されてきた、ステレオタイプの芸術家像である。のみならず一個の芸術家像が、このステレオタイプに合うように変形されることさえ稀ではない。たとえば映画『アマデウス』に見られるモーツァルト像は、そのようなデフォルメの産物である。
 もちろんエキセントリックな芸術家は枚挙にいとまがないが、かといってエキセントリックであることが、そのまま芸術家の必要条件というわけではない。穏健な人間が、奇想天外な作品を生み出したりもする。芸術家と作品の関係は、もっと別の側面から考えてみる必要がある。
 よく言われるように作品は、いったん制作されれば生身の作者から離れ、鑑賞者の自由な解釈にゆだねられる。だが作者からの離反は、そもそも制作のプロセスでも起こっている。たとえば小説の「作者」と「語り手」の関係である。小説において、作者と語り手は別の存在である。私小説のようなジャンルでさえ、語り手がそのまま作者というわけではない。だがこの違いは、単なる形式的区別にとどまらず、主体の抽象度ないし普遍性の違いでもある。
 作者は生身の人間である。だが語り手はそれとは違って、ある種の抽象的存在である。別の言い方をすると、小説を書いている作者は、語り手という独特の抽象性のうちに身を置いている。作家はいわば「仮構的な主体」として創作するのである。書かれた作品が、多かれ少なかれ生まの人間臭から自由なのはそのためである。人格破綻者の手から崇高な作品が生み出されるという現象も、この観点から説明できるだろう。作家は制作にあたって、生身の自分は括弧に入れ、別のレベルにある抽象的主体として作品を創るのである。

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 しかし以上の説明は、作者と作品の関係の一端を示したものに過ぎない。主体の抽象性であれば、芸術以外のジャンルにも認められるからである。たとえば科学論文の「語り手」は極度に抽象的な存在であろう。そこでは作者(論文執筆者)の人間臭は、きれいに拭い去られている。だが学術論文がそのまま芸術になるわけではない。そこには「個性」という、芸術を芸術たらしめる契機が欠けている。
 岡潔によれば無明とは、「生きんとする盲目的な意志」であった。だがそうした意志ならば、人間よりも動物や植物が、いっそう多く持っているだろう。にもかかわらず岩を割って生長する松の木の生命力は、無明の力ではない。(岡潔によればそれは「真我の力」である。)本当の意味での無明、たとえば貪欲や嫉妬などは、人間のエゴに由来する。無明は人間的エゴの醜悪さなのである。
 無明はすぐれて人間的な現象である。だが逆の観点から見るならば、無明には動物や植物にはない人間的個性があらわれている。この個性がそのまま藝術となるわけではないが、しかしこの個性を通らないところに、藝術は存在しえない。
 無明には「以前」と「以後」があるのである。自然物は「無明以前」である。単に無明に触れたくなければ、野を流れる小川や鉱物の結晶を眺めていればよい。いっぽう芸術は「無明以後」である。もちろん無明がそのまま芸術になるわけではない。無明によって人間的個性の刻印を押され、しかもその濁りが醇化されてゆく過程で、芸術はあらわれる。だが無明の「以前」と「以後」を考えることは、自然美と芸術美を、思いもかけないやり方で結びつけてくれるだろう。
 自然美も芸術美も、ともに「美」という語をつけられており、また私たちも、そこに何らかの類似を感じていながら、いざその共通点を抽出しようとすると、途方に暮れてしまう。芸術美の本質は「形式」にある。ところが自然美は形式とは無関係に存在している。むろん全く無関係というわけではない。一輪の花の構造を観察すれば、そこには「構造上の美しさ」が認められるだろう。だがたとえば、山や湖、川、草原などの美しさは、「形式の美しさ」とは異質の何かである。芸術から抽き出された「美」の基準からは、自然美を説明することはできないのである。
 自然と芸術を同じ「美」という概念で包括するためには、形式とは別の基準が必要である。ところで芸術には「形式」と「内容」がある。だとしたら芸術のもう一つの側面である「内容」から、自然美を説明できるだろうか。
 なるほど風景画は、現実の風景と「同じ内容」(山なら山、湖なら湖)を持っている。だがここで問題となっているのは、山や湖という対象そのものではなく、対象に含まれる「美」という契機である。芸術(ここでは風景画)において、それは構図や色彩の配置、筆のタッチなどだが、それらは内容ではなく、形式の問題である。むろん現実の風景に、構図や形態の見事さがある場合もあるが、それはあくまでも偶然的なものである。形式の代わりに内容に「美」を求めようとしても、自然美はうまく定義できないように見える。

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 ここで内容という概念をもっと広くとり、情感的なものにまで拡張してみよう。たとえば音楽における「内容」は情感的なものである。同じことは絵画にも当てはまる。多くの絵画には主観的な「気分」が漂っている。そしてそれは、形式とは明らかに別の層にある。
 たとえば風景画に、何らかの「情感的なもの」を感じたとしよう。似たものは、モデルとされた現実の風景にも感じられないだろうか。だとしたらこの「情感的なもの」こそ、自然美と芸術美に共通のものではあるまいか。
 だがよくよく考えてみると、そこには大きな矛盾がある。風景画は人間の作ったものである。音楽の情感が作者(作曲家)に由来するように、絵画の情感も作者(画家)由来である。だが現実の風景は「作者」をもたない。美しい風景に仮に情感性を認めたとしても、それは自然のもつ性質ではなく、風景に触発された人間の感情に過ぎないと考えられる。
 ここまでの考察では、自然美と芸術美の共通項は、「形式」にも「内容」に求めることができなかった。だがここに、もう一つ別の道がある。自然そのものに「情感的なもの」がふくまれていると考えることである。
仏教における自性とは、世界の普遍的な層である。自性は「清浄」だから、もともと無明による濁りは持たない。だが、そのものとしてはニュートラルで「清浄」な自性も、自然界においてすでに固有の色合いをもっている。この固有性は、鉱物から植物、植物から動物へいたるにつれて、いっそう強くなってゆく。固有性の上昇は、中心化の進行と軌を一にしている。鉱物より植物、植物より動物の方が、中心化の度合いは高い。人間的自我はこの延長上にある。
 植物や動物は、無機的世界に遍在する有機的な結節点のようなものだが、人間はそれに飽き足らず、おのれが世界の中心たらんとする。無明とは実にこの「世界の中心たらんとする意志」である。それが「濁り」であるのは、人間のエゴが、いわば世界という身体に巣食う「ガン」のようなものだからである。正常な細胞は全体としての生命の維持に奉仕するが、ガンは身体の中で独立の中心たらんとして、他の細胞を食い荒らしてゆく。人間は世界を新たに構造化しようとするが、そんなものは自然全体から見れば偽りの中心性に過ぎない。
 無明を捨てるというのは、この偽りの中心性を離れることなのである。またそうすることによって人間は、自性という世界の普遍的層へ還ることができる。これが「悟り」の意味するところであろう。
 世界の普遍的層へ還るというのは、人間が無明「以前」へ戻ることである。だが植物や鉱物の状態へ戻るわけではなく、個性化と中心化のプロセスを経た上で弁証法的に回帰するのである。自性というニュートラルなものが、個性化のプロセスによって、無明に濁らされる。だがこの濁りが醇化されたとき、自性は個性的な色合いを手にしている。かくのごとく個性化され、固有の中心をもつに至った自性こそ「諸仏」なのであろう。「山川草木悉有仏性」というが、潜勢的なものとしての仏性が、実際に仏となるには、いったんは人間という道を通らねばならないのである。
 自性はもともと「清浄」でニュートラルなものだが、具体的な自然物において、さまざまな個性を手に入れると述べた。だが自然界の事物や生物は、自性そのものではない。それは自性の現象的な表層である。だが自性は人間にとって認識不可能なものではなく、自然の個性的色合いとして現れている。この個性的な現れを、岡潔は「情緒」と呼んだのである。
 岡潔によれば法界は「一即全」である。そこには主観と客観の区別はない。同じことは自性にも当てはまるだろう。そして情緒が、自性の個性的色合いである以上、情緒にも主観と客観の区別は存在しない。冬枯れの野の大根畑に、岡潔が「情緒」を感じたというのは、主観(岡潔)が客観(大根畑)に触発されて感じた「気分」ではない。彼は文字通り、大根畑に情緒が「ある」のを感じたのである。
 自然美の本質とは、実にこの「情緒」なのである。私たちが山や森、湖などに感じる「美しさ」は、それらの客観の形式美でもなければ、客観に触発された主観の気分でもない。美は「情緒」として、客観の内にある。同じことは芸術作品にも当てはまるだろう。なるほど芸術では形式の美が主導的だが、そこにあるのは単なる形式ではなく、情感性に浸透された形式である。またそのような浸透が可能なのは、「情緒」としての情感性が、主観性と客観性を超越したものだからであろう。
 自然美も芸術美も「情緒」という共通項を持っている。だからこそ同じ「美」として、一括りに論じうるのである。だが二つは全く同じものではない。「悟り」が「人間」という迂路を通ってはじめて得られたように、「情緒」もいったんは無明の闇をくぐり抜けることで、人間的個性を手に入れる。人間的個性が刻印された「情緒」、それが芸術の美である。自然美は無明以前の「情緒」だが、芸術美は無明以後の「情緒」なのである。
 それゆえ多くの無明を経験し、なおかつそれから自由になっているものこそ、本当の意味で「高い芸術」と呼ぶべきであろう。個性的でありながら普遍的でもあるという、芸術に特有の現象は、無明の経験と醇化という、この弁証法的プロセスによるのだろう。



無明と視覚機能

2024-02-23 21:30:54 | 批評
 「情緒」は、岡潔の思想を理解するために必須のキー概念だが、「無明」もそれと同じくらい重要な概念である。彼の思想の根本には、「無明を抑えることで、人間本来の能力が開発される」という考えがある。
 そもそも江戸時代以前には、「俗気が抜ける」ことが、さまざまな芸道において重要視されていた。明治以降もしばらくこの価値観は存続していたが、徐々に西洋的な価値観に駆逐され、今や無明(生きんとする盲目的な意志)こそ人間の根源的エネルギーだと思われている。
 なるほど単なる理性や分別心は、人間の心を駆動するエネルギーたりえないかもしれない。だが前回の記事でも見たように、岡潔が知性の根源的力と見なしているのは、分別智ではなくて無差別智である。無差別智は無明をとり除くことで、その本来の力を現す。
 無明を抑えることで開発されるのは、数学や芸術など特殊な分野の才能だけではない。感覚たとえば視覚なども、無明を取れば機能が向上して「庭の木々の彩りや輝きが平素とは全く違って」見えるようになるという(岡潔集第2巻、76頁)。

 まず色々な色が見える。これは感覚である。この感覚の内容がすでに人によってだいぶ違うらしい。画家は一般に常人よりすぐれた色彩感覚を持っているらしい。また眼根の無明をとれば、無明がだんだん薄くなっていくにつれて、色彩はだんだん鮮やかになっていくのである。(同76頁)

 とはいえ、これが本当に「感覚機能の向上」によるものかどうか、疑わしく思う人もあるだろう。樹木の輝きが違って見えるなどというのは、単なる思い込みに過ぎないのではあるまいか。「それってあなたの感想ですよね?」と言われたら、岡潔はどう答えるのだろうか。
 これについては、松村洋のエッセイに興味深いエピソードが残っている。(松村は毎日新聞の記者で、奈良に転勤になって大学回りをしているうちに岡潔と知り合い、やがて昵懇になって『春宵十話』の連載を企画担当した。岡ははじめ「忙しいから」といって断ったらしいが、何度も口説いて「口述ならば」という条件で引き受けさせたという。このエッセイの中で松村は、初対面の岡潔に「邪気というものがまるで感じられないことに強い印象を受けた」と書いている。じっさい写真でみる晩年の岡は、まるで仙人のような風貌である。)

 知り合ったころの岡さんをめぐる思い出を二、三拾ってみたい。鋭い人という印象を、裏書きしてくれたのは、当時女子大理学部で岡さんの同僚であった植物学者の小清水卓二博士(現在同大学名誉教授)である。小清水さんの研究室にはいりこんで雑談しているうち、たまたま岡さんの話が出ると「直観というのか、ひらめきのすごい人ですねえ」と歎声をもらされた。大学構内に二本のイチョウだかケヤキだかの大樹があって、どちらも同じ種類の樹だとみんな思いこんでいたのだが、岡さんがある日「この二本は種類が違う。輝き方が違うからと」と小清水さんにいわれたので、調べてみると果たして違っていたという。(松村洋「岡さんとの出会い」より)



岡潔の思想(いくつかの補助概念)その2

2024-02-16 19:05:28 | 批評
 岡潔は「無明本能を抑えよ」という。無明とは仏教用語だが、彼はこの語をもっと広い意味で使っていて、自己本位の欲望や攻撃性、競争心、怒りや憎しみなどの感情を指している。それはまた「生きんとする盲目的な意志」などとも呼ばれる。ただし彼は、公共心や社会道徳の促進のために、こんなことを言っているのではない。

 これは、自己中心、自分の肉体中心に知・情・意し行為しようとする本能で、これを無明といい、その本流の分流が諸本能となるのです。
 それで、無差別智は真我に働く。無明がうすければうすいほどよく働く。こういってもなかなかうなづいてもらえないかもしれない。この、おれが、おれがという感情があるとクリエーション、創造がよく働くと思う人が多いようだが、あれは創造じゃない。工夫考案なんで、側頭葉でできる。そこまでなんです。
 生み出すという働きは前頭葉でです。これは無差別智の働きです。(岡潔集第5巻、187頁)

 「無明本能を抑えよ」は、彼の教育論でも頻出するフレーズだが、これは徳育だけでなく、知育にも関わる。しかし上の引用で彼自身も言っているように、自己中心的な意欲こそ人間の原動力だと考えている人は多い。そしてそれは、世間一般の風潮にとどまらず、思想や哲学の世界でもそうである。ショーペンハウアーからニーチェ、そしてフロイトに至る非合理主義の系譜は、心の深層にある無意識的な情動を、心的活動の原動力と見ている。
 しかしだからと言って彼は、カント以前の理性中心主義に立ち戻れと主張しているわけではない。理性による意識的な思考はたかが知れており、それでできるのはせいぜいのところ「工夫考案」にすぎない。
 岡潔は人間の「智」を、無差別智、分別智、世間智に分類している。意識的な理性とは分別智である。無差別智を働かすには大自然に遍満する智(平等性智)の流れに身を委ねる必要がある。そのためには無明を抑制しなければならない。平等性智が働くのは真我つまり法界レベルでの「私」だからである。彼はしばしば「真智無差別智、妄智分別智、邪智世間智」という嵯峨天皇の書を引いているが、分別智も世間智も「自己本位のセンス」で働く智であって、妄智・邪智に過ぎない。分別智について彼はこう述べている。

 普通の人が経験することによって知っている知力は、理性というような型の知力です。この知力の特徴は、まず意識してでなければ働かない。つまり働かそうと思い、その努力を続けている間だけしか働かない。
 第二の特徴は、少しずつ順々にしかわかっていかない。この二つです。(岡潔集第5巻、143頁)

 これに対して無差別智は神速に無意識裡に働く。「働かそうとも思わず、働かしているとも意識しないのに働くのです。結果が出るんです。また、その結果の出かたは、一時にパッとわかるんです。」(同143頁)無差別智が働く典型的なケースは数学や芸術である。そして彼は、これこそが真の意味でのクリエーションだというのである。
 三つの智のうち世間智については、彼は「はじめから捨てよ」という。競争心で勉強したのでは、得るところなどないというのである。では分別智はどうしたらいいのだろうか。意識的な理性を、はじめから「捨てる」ことをやってしまえば、そもそも学問や教育など成り立たないようにみえる。岡潔は以下のような「解決案」を述べている。

 この解決法は容易ではないとお思いになるでしょう。しかし実際は簡単である。大脳前頭葉を主人公と思うのをやめて、道具と思えばよいのである。
 頭を使えるだけ使って、考えて考えて考えて、私たちでいえば毛が抜けてしまうくらい考えて、最後にそれをみな捨ててしまえば、豁然としてわかるというのである。
 私もこのやり方で数学の研究をしてきたのである。(岡潔集第4巻、160頁)



家山梅園へ行ってきました。今年は暖冬で開花が早いらしく、すでに満開状態。平日の午どきということもあって、私以外に誰もいないという贅沢な観梅でした。





秋風の吹くとも青し栗のいが

2024-02-07 20:39:55 | 批評
 今回は少し趣向を変えて、岡潔と俳句について書いてみたい。

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  秋風の吹くとも青し栗のいが

 という句があって、芭蕉は「この句、吹くとも青しにて句にしたり」といっている。こういい回してみて、初めて原像が表現できたという意味である。芭蕉は「上句と下句との差は一字、二字にてあるものを、聞きえぬは無念のことなり」といっている。実際上の句をふつうに「吹けども青し」とすると駄句である。それを一字、二字変えて「吹くとも青し」とすると実によい句になる。秋風を吹かば吹けと、凜然とした栗のいがが目に浮かぶでしょう。(岡潔集第2巻、225-226頁)

 全くその通りである。「吹けども青し」としてしまえば散文的で、単に対象を描写しただけになってしまう。それを「吹くとも」にするだけで、俄然すべての語が躍動してくる。「栗のいが」だけではない。それは「秋風」についても言えることで、「とも」という語の乾いた響きが、秋風のもつ透明な感触と見事に照応している。
 さてそう思って、角川文庫の『芭蕉全句集』を開いてみたら、なんと「吹けども青し」となっている。岩波文庫も同じである。ネットでも調べたけれど、「吹くとも青し」は出てこない。「秋風の吹けども青し栗のいが」が正しいのである。
 岡潔は非常に記憶力の良い人で、例えば歴史の教科書などは、試験前に丸暗記していたという。まず教科書を1ページ読む。それから本を閉じて、今読んだページを復唱する。最後にもう一度教科書を開き、正しく暗記できていたかを確認する。このやり方で全部暗記していたというのである。 
 そんな人だから、自分が本を書くときにもいちいち原典を確認しなかったのであろう。それでこんな大チョンボをやらかしてしまったのだろう。専門の研究者がやれば大恥ものだが、原典云々の話はいったん脇に置き、「吹けども」と「吹くとも」 のどちらが優れているかといえば、間違いなく後者である。その意味で岡は、はからずも句の「ありうべき姿」を示してみせたわけである。
 さて小学館の「新編日本古典文学全集」の「松尾芭蕉集1」でこの句を見てみると、かなり詳しい解説がついているが、評釈者は「句の作意がわかりにくい」と指摘している。「句意」が分からないのではない。「作意」が分からないのである。句そのものの内容(字義どおりの意味)は一目瞭然だけれど、どのような芸術的効果を狙ったかが判然としないというのである。
 評釈者は、江戸期から大正時代にいたるいくつかの解釈を紹介した上で、「諸説あるが〔……〕見たままを詠んだだけで、特に深い意味がある句ではあるまい」と締めくくっている。要するに散文的な「駄句」という評価である。
 芭蕉はともかく、もっと古い時代の作品、たとえば源氏物語などは、多くの写本があって、紫式部の書いた原典はもはやどこにも残存しない。藤原定家の「青表紙本」はオリジナルに近いと言われているけれど、それとて紫式部とは二百年の歳月を隔てている。その間、写本を繰り返す過程で、かなりの異同が生じているはずだが、写本の作者は、無意識の間違いとは別に、意識的な書き換えも行なっている。原典尊重主義の現代人からしたら考えられないことだが、しかし仮に、意図的な書き換えがオリジナルより優れているとしたらどうだろうか。たとえば将来、紫式部のオリジナルが発掘されたとして、比べてみたら写本のほうが優れていた、などということも、ないわけではないだろう。
 原典主義というのは、万古不易の普遍的方法ではなく、歴史的に形成された一つの立場に過ぎない。だが私たちは、一個の方法論を自明のものとして受け入れてしまうと、なかなかその外部的視点に立てなくなる。そうした現象は、実は現代にも無数にあるはずだが、しかしいつの時代でも私たちは、時代の空気にどっぷりつかっているから、それとは別の風光があるとは夢にも思わない。たとえば「モナリザ」の顔にひげをつけてみせる画家(デュシャン)はいるけれど、モナリザを「より良い作品」に描き換えようとする人はいないだろう。デュシャンは権威への立ち位置を変えただけで、実は原典主義の平面からは一歩も外に出ていない。ただ人々とは反対の方向へ歩いてみせただけである。

岡潔の思想(いくつかの補助概念)その1

2024-01-27 16:57:40 | 批評
 一月も残すところわずかとなった。外はもう梅の花盛りで、一日家に閉じこもって過ごすと、ものすごく損をした気分になる。ちょっと前までは道端の水仙に目を楽しませていたが、今は「梅また梅」の日々で、相変わらず美しく咲いている水仙に対しては浮気でもしているような、ちょっと申し訳ない気持ちである。

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 岡潔の自我論ということで、何回かに分けてブログ記事を書いてきた。自我には三つの側面(主宰者、不変のもの、および自己本位のセンス)があり、はじめの二つの結びついたものが真我、あとの一つが小我である。
 こうした見取り図は、彼の著作を読む上でかなり役に立つと思う。私がここまで長々と、なるべく自分の見解は挟まずに、この概念を説明してきたのは、これから岡潔を読もうと思っている人にとって、一助になってほしいと思ったからである。
 以前にも書いたことだが、彼の著作はもっと現代の人たちに読まれるべきである。ここには現代の偏った価値観を修正する力がある。価値観とはふつう、行動や思考の基準として、意図的に選択されるものと考えられている。だが本当のところは、それは一時代の社会に遍満する空気のようなものであって、人々に半ばオートマチックに働きかけ、一定の方向へ向かうよう強要している。そうした無意識の価値判断に対して、岡潔の本は「ちょっと待て」と呼びかける力を持っている。むろん当の価値意識が健全なものならば、そのまま放っておいてもよいのだが、現代の価値観はかなり歪んだ不健全なものである。今の日本は、彼の言葉を借りるならば「火炎の燃え盛っている世相」である。現代日本に充満する息苦しさや閉塞感の原因は(少なくともその一端は)、この歪んだ価値観によるものである。
 さて「岡潔論」の今後の予定だが、ここまで紹介してきた思考の見取り図に依拠しつつ、教育や芸術、数学などについて論じていきたいと思っている。だがそうするとかなり長丁場になってしまうので(読んでいる皆さんだけでなく、書いている私もそろそろ息切れがしてきています)、区切りのよいところでいったん中断し、しばらく経ってからまた戻ってきたいと思う。だがその前に、これまで書いてきたことの延長上で、いくつかの補助的な概念を説明しておきたい。それは今後予定している教育論や数学論にも有効なものである。

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 岡潔は人間の「関心」を三つに区分している。第一は社会への関心、第二は自然界への関心、そして第三は法界への関心である。一番目の「社会への関心」とは、自他の区別、つまり自己本位のセンスというレベルで働く関心である。

 自他の別のある世界が社会である。人は社会の「もの」や「こと」には「関心」が持ちやすいのである。
 十代の女性が百貨店に行く。そうすると靴が目につく。これが関心である。いったん靴に関心を持ち始めると靴のことが実によくわかってくる。そしてどれを買おうかというのでいろいろ選び始める。時間などいくらかかろうといっさいとんちゃくしない。最後にこの靴と決めるまでやめない。その間靴に対する関心はずっと持ち続けられているのである。(岡潔集第二巻、62-63頁)

 あるいはこんな例も挙げられている。駅のプラットフォームで電車を待つ乗客の「関心」である。「電車がもう来るとなると、いっせいに身がまえ心がまえる。電車がはいってきて徐行すると、どのドアにしようかとうかがう。目の色が変わっている。止まると、降りる人を少しやりすごして、両側から中へもぐり込む。そして自分の席を占める。」(同63頁)岡はこの関心を「無明の力」によるものだと説明している。それは対象を「わがものにしよう」と思うことによる関心なのである。
 二番目は、自然界の物や出来事への関心である。これは、科学者の関心のようなものを考えてみれば分かりやすいだろう。社会的関心は、「持たないでおこうと思っていても、またしても持ってしまう」類いのものである。物質的所有や生理的充足への欲求は、人間においては非常に強いからである。これに対して自然への関心は、ある程度の努力が必要である。少なくとも日常生活で、否応なしに抱いてしまうような関心とは異なる。
 とはいえ自然界に対しては「それでも、まだしも関心が持ちやすい」。だが「ここを超えるとなかなか関心が持てなくなる」(同65頁)。自然界を超えたものへの関心、これが「法界への関心」である。
 「法界」はいうまでもなく仏教用語だが、法身や真如などとほぼ同義であって、目に見える世界の根底にある存在の普遍的な層、森羅万象の基底たる常住不変の実体である。だがこれを、物質的世界の「下」にある基体のようなものと考えてはいけない。それは物質界に内在しつつ、しかもそれを超越したものとして、いわば物質世界を包みこむものである。

 社会は一番狭く、自然界はそれより広く、法界は一番広い。人の心は狭いところに閉じこめられてしまっている。だから広いところの「もの」に関心を集めることはなかなかできないのである。(中略)
 法界は一即一切、一切一即の世界だから、その一法に関心を持ち続けておれば、心は全法界に広がっていることになる。
 心を全法界に広げているのでなければ、注意が全体にゆきわたるということはない。(岡潔集第二巻、69頁)

 こうした「法界への関心」を「真我」や「主宰者」という概念で説明するならば、以下のようになるだろう。

真我とは法界における一つの法であって、主宰者という働きの一面と、不変のものという本質の一面とを持っている。真我(主体である法)が関心を一つの法(客体である法)に集めているとき、主宰者の位置は対象のところにある。(同65頁)

 したがって「法に精神を統一するためには、当然自分も法になっていなければならない」。主体の法と客体の法の関係は、私が「ここ」にあり、物が「あそこ」にあって、両者が対立的に向かい合っている関係ではない。以前に使った梅のたとえを用いると、「ここ」にいる私が「あそこ」にある梅を眺めるのではなく、「あそこ」において梅を知る(内在的なリアリティーにおいて知る)のである。
 主宰者の「位置」は客体のところにある。それゆえ私(主宰者としての私)は「『自他の別』を超え、『時空のわく』を超える」こととなるだろう。ところでこれこそが、彼のいう数学的思考の原理にほかならない。

数学の本質は、主体である法が客体である法に関心を集め続けてやめないということである。このことは当然「算数」の初めからそうなのである。(同68頁)

 「法界への関心」ということで、彼が第一に念頭に置いていたのは、数学的思考における「関心」であった。だがそれは数学に限ったことではない。絵画や音楽などの芸術活動においても、対象はいわば「内在的に知る」というかたちで体験されているし、宗教たとえば禅の見性などは、典型的な「法界の体験」であろう。実際彼は、数学の本質は禅と同じだと述べていて、学生を禅寺へ連れて行ったり、道元の『正法眼蔵』を読ませたりしていたのである。