断想さまざま

研究者(哲学)の日々の断想

「無明」の美学的考察

2024-03-24 18:44:28 | 批評
 昨年末くらいから岡潔のことばかり書いてきたので、ここらで一区切りということにしたい。今回は一連の記事の総まとめとして、彼の思想を美学や芸術学の難問へ応用してみた。原稿用紙にして20枚近くあるので、ブログ記事というよりはちょっとした小論である。

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 岡潔の思想において、「情緒」と「無明」はセットになっている概念である。すでに述べたように、彼のいう「情緒」とは、普通の意味での情緒(心の情感的内容)ではない。情感的内容には、怒りや攻撃性といったネガティヴな感情(無明)も含まれている。岡のいう「情緒」とは、こうした一般的な意味での情緒から、無明の濁りを取り去ったあとに残るものである。

人の情緒には無明による濁りがある。私はこの濁りは情緒の中には入れていない。私は、かように内容を規定された、「情緒」という言葉を使うことにしているのである。(岡潔集第二巻、50頁)

 だが人の心に「無明の濁り」があるとしたら、そこには「濁りの度合い」もあるはずだ。あたかも曇りの多いガラスと少ないガラスがあるように、無明が多い人と少ない人がいる。その意味で情緒と無明は、相互排除的なものではない。情緒の純粋性の、いわば負の相関物が無明なのである。したがって無明がどれだけ深くても、その奥には情緒がひそんでいるだろうし、逆に純一無垢な情緒などというのは、よほどのことがなければ到達できない理念的極点であろう。じっさい岡潔も以下のように述べている。

すべて文化と呼ばれるものには、ある程度無明が働いている。それは人類の進化の現状ではある程度肯定しなければならないものらしい。仏教の人たちがすすめているような、生死に無関係な所に文化を開くというほどには人は進歩していない。(岡潔集第二巻、140頁)

 仏教で「生死に無関係な所」といえば悟りの境地であろう。悟りにおいては、一切の無明が祓い清められている。だがそんな純一無垢な境地に、人間的文化を形成することなどできない。無明は文化にとって、いわば必要悪である。とはいえ濁りを少なくすること自体は可能だから、それを基準に文化や芸術を評価することもできる。たとえば池大雅のような画家は、生前からその超俗ぶりが評価されていた。
 とはいえ無明の少なさが、そのまま芸術的価値となるわけではない。大雅にしても、その評価の根本にあったのは、絵描きとしての天才的な技量である。また無明から自由であることが、ありとあらゆる芸術の評価基準になるわけではない。たとえばピカソは、岡潔によれば無明を描いた大家であり、「『あやしくも人をひきつける美』を、豊かな天分によってよく追い求めている」(同24-25頁)。これに対して白隠の書画は「何かカラッとして非常に気持のよいものを持っている」、つまり無明からもっとも遠い地点で描かれているが、「美ということを感じさせない」(同139頁)。岡はピカソへの嫌悪感を隠さないが、しかしピカソと白隠のどちらがすぐれた画家かは、衆目の一致するところであろう。(なおピカソについては、『春風夏雨』に収められた「無明」というエッセイに詳しく書かれている。小林秀雄との対談「人間の建設」でも、ピカソの無明をめぐる話が出てくる。)無明と芸術の関係は、一筋縄では行かないのである。
 ベートーヴェンは無明から自由だっただろうか。彼が無明とは無縁の場所で創作したとは、たぶん誰も思わないだろう。が、だからといって彼の音楽が、俗臭にまみれているわけではない。むしろ無明をくぐりぬけたところに開ける境地こそ、ベートーヴェンの真骨頂である。
 現実の中で生きる人間は、程度の差はあれども無明にまみれている。仮に「無明のないこと」が芸術家の前提条件だったら、芸術はこの世から滅びるほかないだろう。ところが創られた作品の方は、多かれ少なかれ俗臭を拭い去られている。のみならず人格破綻者のような人物から、世にも崇高な作品が生み出されたりもする。考えてみればこれは、不思議な現象ではないだろうか。

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 芸術家は人格破綻者である「にもかかわらず」すぐれた作品を創るのではない。人格破綻者「だから」それをなしうるのである。芸術家の非凡な着想、常識にとらわれぬ思考と感性、汲めども尽きせぬエネルギーなどは、その人格が「壊れている」がゆえのものである。普通の人間は、社会の制度や常識で凝り固められていて、自由な活動性やエネルギーが枯渇している。だが芸術家は、生の根源的エネルギーと一体化しており、そこから無限の創造力を汲みとっている。
 以上はロマン派以降おびただしく生産され、社会に流布されてきた、ステレオタイプの芸術家像である。のみならず一個の芸術家像が、このステレオタイプに合うように変形されることさえ稀ではない。たとえば映画『アマデウス』に見られるモーツァルト像は、そのようなデフォルメの産物である。
 もちろんエキセントリックな芸術家は枚挙にいとまがないが、かといってエキセントリックであることが、そのまま芸術家の必要条件というわけではない。穏健な人間が、奇想天外な作品を生み出したりもする。芸術家と作品の関係は、もっと別の側面から考えてみる必要がある。
 よく言われるように作品は、いったん制作されれば生身の作者から離れ、鑑賞者の自由な解釈にゆだねられる。だが作者からの離反は、そもそも制作のプロセスでも起こっている。たとえば小説の「作者」と「語り手」の関係である。小説において、作者と語り手は別の存在である。私小説のようなジャンルでさえ、語り手がそのまま作者というわけではない。だがこの違いは、単なる形式的区別にとどまらず、主体の抽象度ないし普遍性の違いでもある。
 作者は生身の人間である。だが語り手はそれとは違って、ある種の抽象的存在である。別の言い方をすると、小説を書いている作者は、語り手という独特の抽象性のうちに身を置いている。作家はいわば「仮構的な主体」として創作するのである。書かれた作品が、多かれ少なかれ生まの人間臭から自由なのはそのためである。人格破綻者の手から崇高な作品が生み出されるという現象も、この観点から説明できるだろう。作家は制作にあたって、生身の自分は括弧に入れ、別のレベルにある抽象的主体として作品を創るのである。

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 しかし以上の説明は、作者と作品の関係の一端を示したものに過ぎない。主体の抽象性であれば、芸術以外のジャンルにも認められるからである。たとえば科学論文の「語り手」は極度に抽象的な存在であろう。そこでは作者(論文執筆者)の人間臭は、きれいに拭い去られている。だが学術論文がそのまま芸術になるわけではない。そこには「個性」という、芸術を芸術たらしめる契機が欠けている。
 岡潔によれば無明とは、「生きんとする盲目的な意志」であった。だがそうした意志ならば、人間よりも動物や植物が、いっそう多く持っているだろう。にもかかわらず岩を割って生長する松の木の生命力は、無明の力ではない。(岡潔によればそれは「真我の力」である。)本当の意味での無明、たとえば貪欲や嫉妬などは、人間のエゴに由来する。無明は人間的エゴの醜悪さなのである。
 無明はすぐれて人間的な現象である。だが逆の観点から見るならば、無明には動物や植物にはない人間的個性があらわれている。この個性がそのまま藝術となるわけではないが、しかしこの個性を通らないところに、藝術は存在しえない。
 無明には「以前」と「以後」があるのである。自然物は「無明以前」である。単に無明に触れたくなければ、野を流れる小川や鉱物の結晶を眺めていればよい。いっぽう芸術は「無明以後」である。もちろん無明がそのまま芸術になるわけではない。無明によって人間的個性の刻印を押され、しかもその濁りが醇化されてゆく過程で、芸術はあらわれる。だが無明の「以前」と「以後」を考えることは、自然美と芸術美を、思いもかけないやり方で結びつけてくれるだろう。
 自然美も芸術美も、ともに「美」という語をつけられており、また私たちも、そこに何らかの類似を感じていながら、いざその共通点を抽出しようとすると、途方に暮れてしまう。芸術美の本質は「形式」にある。ところが自然美は形式とは無関係に存在している。むろん全く無関係というわけではない。一輪の花の構造を観察すれば、そこには「構造上の美しさ」が認められるだろう。だがたとえば、山や湖、川、草原などの美しさは、「形式の美しさ」とは異質の何かである。芸術から抽き出された「美」の基準からは、自然美を説明することはできないのである。
 自然と芸術を同じ「美」という概念で包括するためには、形式とは別の基準が必要である。ところで芸術には「形式」と「内容」がある。だとしたら芸術のもう一つの側面である「内容」から、自然美を説明できるだろうか。
 なるほど風景画は、現実の風景と「同じ内容」(山なら山、湖なら湖)を持っている。だがここで問題となっているのは、山や湖という対象そのものではなく、対象に含まれる「美」という契機である。芸術(ここでは風景画)において、それは構図や色彩の配置、筆のタッチなどだが、それらは内容ではなく、形式の問題である。むろん現実の風景に、構図や形態の見事さがある場合もあるが、それはあくまでも偶然的なものである。形式の代わりに内容に「美」を求めようとしても、自然美はうまく定義できないように見える。

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 ここで内容という概念をもっと広くとり、情感的なものにまで拡張してみよう。たとえば音楽における「内容」は情感的なものである。同じことは絵画にも当てはまる。多くの絵画には主観的な「気分」が漂っている。そしてそれは、形式とは明らかに別の層にある。
 たとえば風景画に、何らかの「情感的なもの」を感じたとしよう。似たものは、モデルとされた現実の風景にも感じられないだろうか。だとしたらこの「情感的なもの」こそ、自然美と芸術美に共通のものではあるまいか。
 だがよくよく考えてみると、そこには大きな矛盾がある。風景画は人間の作ったものである。音楽の情感が作者(作曲家)に由来するように、絵画の情感も作者(画家)由来である。だが現実の風景は「作者」をもたない。美しい風景に仮に情感性を認めたとしても、それは自然のもつ性質ではなく、風景に触発された人間の感情に過ぎないと考えられる。
 ここまでの考察では、自然美と芸術美の共通項は、「形式」にも「内容」に求めることができなかった。だがここに、もう一つ別の道がある。自然そのものに「情感的なもの」がふくまれていると考えることである。
仏教における自性とは、世界の普遍的な層である。自性は「清浄」だから、もともと無明による濁りは持たない。だが、そのものとしてはニュートラルで「清浄」な自性も、自然界においてすでに固有の色合いをもっている。この固有性は、鉱物から植物、植物から動物へいたるにつれて、いっそう強くなってゆく。固有性の上昇は、中心化の進行と軌を一にしている。鉱物より植物、植物より動物の方が、中心化の度合いは高い。人間的自我はこの延長上にある。
 植物や動物は、無機的世界に遍在する有機的な結節点のようなものだが、人間はそれに飽き足らず、おのれが世界の中心たらんとする。無明とは実にこの「世界の中心たらんとする意志」である。それが「濁り」であるのは、人間のエゴが、いわば世界という身体に巣食う「ガン」のようなものだからである。正常な細胞は全体としての生命の維持に奉仕するが、ガンは身体の中で独立の中心たらんとして、他の細胞を食い荒らしてゆく。人間は世界を新たに構造化しようとするが、そんなものは自然全体から見れば偽りの中心性に過ぎない。
 無明を捨てるというのは、この偽りの中心性を離れることなのである。またそうすることによって人間は、自性という世界の普遍的層へ還ることができる。これが「悟り」の意味するところであろう。
 世界の普遍的層へ還るというのは、人間が無明「以前」へ戻ることである。だが植物や鉱物の状態へ戻るわけではなく、個性化と中心化のプロセスを経た上で弁証法的に回帰するのである。自性というニュートラルなものが、個性化のプロセスによって、無明に濁らされる。だがこの濁りが醇化されたとき、自性は個性的な色合いを手にしている。かくのごとく個性化され、固有の中心をもつに至った自性こそ「諸仏」なのであろう。「山川草木悉有仏性」というが、潜勢的なものとしての仏性が、実際に仏となるには、いったんは人間という道を通らねばならないのである。
 自性はもともと「清浄」でニュートラルなものだが、具体的な自然物において、さまざまな個性を手に入れると述べた。だが自然界の事物や生物は、自性そのものではない。それは自性の現象的な表層である。だが自性は人間にとって認識不可能なものではなく、自然の個性的色合いとして現れている。この個性的な現れを、岡潔は「情緒」と呼んだのである。
 岡潔によれば法界は「一即全」である。そこには主観と客観の区別はない。同じことは自性にも当てはまるだろう。そして情緒が、自性の個性的色合いである以上、情緒にも主観と客観の区別は存在しない。冬枯れの野の大根畑に、岡潔が「情緒」を感じたというのは、主観(岡潔)が客観(大根畑)に触発されて感じた「気分」ではない。彼は文字通り、大根畑に情緒が「ある」のを感じたのである。
 自然美の本質とは、実にこの「情緒」なのである。私たちが山や森、湖などに感じる「美しさ」は、それらの客観の形式美でもなければ、客観に触発された主観の気分でもない。美は「情緒」として、客観の内にある。同じことは芸術作品にも当てはまるだろう。なるほど芸術では形式の美が主導的だが、そこにあるのは単なる形式ではなく、情感性に浸透された形式である。またそのような浸透が可能なのは、「情緒」としての情感性が、主観性と客観性を超越したものだからであろう。
 自然美も芸術美も「情緒」という共通項を持っている。だからこそ同じ「美」として、一括りに論じうるのである。だが二つは全く同じものではない。「悟り」が「人間」という迂路を通ってはじめて得られたように、「情緒」もいったんは無明の闇をくぐり抜けることで、人間的個性を手に入れる。人間的個性が刻印された「情緒」、それが芸術の美である。自然美は無明以前の「情緒」だが、芸術美は無明以後の「情緒」なのである。
 それゆえ多くの無明を経験し、なおかつそれから自由になっているものこそ、本当の意味で「高い芸術」と呼ぶべきであろう。個性的でありながら普遍的でもあるという、芸術に特有の現象は、無明の経験と醇化という、この弁証法的プロセスによるのだろう。