断想さまざま

研究者(哲学)の日々の断想

カント論について

2023-07-08 18:56:50 | 研究
 カント論の準備を去年から続けていて、メモや抜き書きの類いもかなりの量になってきた。 構想もだいぶ固まってきたので何度か書き出そうとしたが、そのつど心のひるみを感じた。 何しろ二百年以上前から、無数の研究家が無数の論文を出している。しかも僕はカントの専門家ではない。何の実績もないアマチュアプレイヤーが、単身でメジャーリーグに挑戦するようなものである。
 そんな折も折、東京芸大の紀要の論文募集があった。募集があったのは五月の終わり、執筆が正式に認められるのは六月半ばである。締め切りは九月初旬なので、あまり時間的余裕はない。どうしようか迷ったけれど、万が一書けなかったら謝ればいいくらいの気持ちで申し込んだ。
 正式な依頼は6月20日頃に来たが、論文自体はすでに六月の頭から書き始めていた。そしてこの週末、予想以上に早く脱稿の目処が立った。カントの専門家が読んだらどう思うか分からないが、自分としてはまあまあ充実した内容になったと思っている。
  書き物は何でもそうだけれど、ともかく書き始めてみないと分からないという側面がある。だがこの「分からない」というのも様々な度合いがあって、目的地の見当がまるでつかないという場合もあれば、ほぼ道が決まっていて、あとはそこを淡々と歩いていくだけということもある。 たとえば以前に「自我」についての論文を書いた時は、小舟で大海に乗り出したような気分だった。今回はそれよりもずっと楽で、目的地の島がたえず向こうに見えているという状態であった。 それでも島までは、波の荒い海を渡っていかなければならない。途中で何度も意気阻喪したり、途方に暮れたりした。にもかかわらず何とか書き通せたのは、 提出の期日がはっきり定まっていたからだと思う。それがなければ今頃、相も変わらずメモや抜き書きの山の中を行ったり来たりしていたことであろう。
 この論文で、カントについてやろうと思っていたことを全てやり尽くせたわけではない。枚数制限(原稿用紙60枚) もあって、書き残したことはまだまだある。だがこの一年間、カントと本格的に付き合ってみて痛感したのは、哲学をやる以上、カントは避けて通れないという当たり前の事実である。資料集めの段階で、廣松渉の修士論文であるカント論を読んだ。仮に僕自身が二十代半ばでカントに取り組んだとしても、大したものを書けたはずがないのだが、 それでも若いうちにカントをしっかりくぐっておけば、ずいぶん違っていたと思う。
  廣松渉の修士論文はもともと出版を目的に出されたものではない。没後10年以上も経ってから、複数の編者(牧野英二、野家啓一、松井賢太郎)によって書籍化されたものである。その巻末の対談にこんなエピソードが載っていた。廣松渉は夏休みになると、毎年のルーティンとして三批判書を通読していたそうである。 また廣松と同世代の坂部恵は「カント哲学というのは、ピアニストにとってのバッハのインベンションみたいなものだ」と語っていたという。