極楽のぶ

~全盲に甘んじ安寧を生きる

歴史文書を守れ!クアトロ・ラガッツィ (8)

2018年06月04日 | 歴史
 今回恥ずかしながら、はじめて知ったのは、そもそも天正少年使節が、なぜ、なんのために、誰が送ったのか? ということだった。
 同時に驚いたのは、日本史で見る限り迫害と殉教によってキリスト教伝来の事実が、「たいしたことではない、日本にそぐわなかった」程度の認識でしか扱われていないこと、、なんですよ!! そう思ってきたでしょう? 「視点」というのは恐ろしい! 自分の座標軸からしか見えないので、外から見た自分が見えていない、そのことに気づかない。
 つまり少年使節の覇権は、「日本史ではない」んである。世界史なんである。これはびっくりだ、

 そもそもバチカンの古文書館にこそ、彼らの来訪が正しく載っており、その登場や扱いは尋常ではない。ポルトガル総督、スペイン王室図書館(正式名称は極楽のぶの記憶から消えているが)、そしてバチカンの古文書館にもしっかり残っている。 なかでもスペイン王、フェリペ二世に謁見したときに記録された少年たちの素性(どこの国の誰の血縁・親類縁者であるか)がもっとも正しい!として、さすがは「世界帝国スペイン」の情報網の面目躍如である。

 もっと、みなさんの食指を動かして差し上げよう、ローマ好きなら誰でも知っている、バチカンの「システィーナ礼拝堂」、あのドアの出口の天上には、少年使節たちがローマ滞在中に行われた教皇交替の儀式が描かれている。
 そして、ですよ、その絵はもちろん、新教皇シスト5世が描かせたわけだけど、ローマをバチカンからポポロ広場をぐるっとまわって、フォロ・ロマーノからコロセオまで埋め尽くす大行列(教会の頂点を極める枢機卿、各国の国王、大使が集う中で)、なんと少年使節は、教皇のすぐ後ろにトップの高官として従っているんである。
 文献はすべての文書が、東方の王3人と記すが、絵は、4人の使節がちゃんと描かれている。どちらが嘘なのかはわからないが、この3人と4人の人数の違いには、ミステリアスな、ほとんど日本人の知らない、謎の権力押収の意味!があるから面白い!

 システィーナ礼拝堂の出口の天井にそんな絵があったのかまったく憶えていないが、室内での長らくの見上げ姿勢で首が痛くなったから、まさか礼拝堂を出るときにさらに見上げる意欲は残っていなかったに違いない、残念。
 知っていたら、あの礼拝堂も日本人として、別格な気持ちで出入りできたのに、と思う。
 眼がしっかり見える方は、もう一度行かれたらよろしいです。あの礼拝堂が、別なものに感じると思います。それだけではありません。

 さらに、びっくらこきまくりなのは、ですよ、ローマといえば広場、そして広場と言えば、オベリスク、オベリスクは広場の真ん中に立つ、なんとも言えぬ(モノリス?)ただの一本の石の塔だが、あれはローマが古代エジプトを征服した(=世界征服した分捕り品)証だという。
 しかし、東方の少年使節を迎えたシスト5世は、ローマの街じゅうに広場と噴水とオベリスクを建て、バチカン広場のど真ん中にもでかいオベリスクを建てたひとだそうだ。
 それは少年使節を迎えたことで、ローマと教会の力が、世界の果て(ローマの世界地図には、ベーリング海峡のすぐ下に、ポツンとある小島が日本ということになっている)までも及んだ印、として建てられたのだそうだ。えええ?つまり、あのダビンチが作ったバチカン広場の真ん中のでかいオベリスクは、少年使節来訪の記念碑ともいえるわけだ! こ、これはずしんとびっくり!!

 このシスト5世が創ったローマの風景は、そのまま私たちが「古代ローマの姿」だと思っている外観だ。つまりシスト5世は、少年使節の到来を喜び、自らの(カトリック)の力を示すため荒廃したローマの外観を塗り替えたのだと言える。

 若桑先生の読み込みはもっとするどく、シスト5世のこのローマ外観の大変革は、就任当時の人気の無さを反映したものだと書いている、なぜ人気が無かったのか、なぜローマ外観を美しく(永遠に残るような石を使って)リコンストラクションを施したのか、本書を読むと、よくわかるから、ぜひ読もう!

 教皇交替は私たちの次代にも幾度か?あったし、コンクラーベ(枢機卿による選挙)という儀式の話はニュースで何度か読んだが、まったくひとごとであり、興味もわかず、バチカンのどこかの窓が開き、何色かの煙が上がるとか? 確かに頭に残らない記事だった。
 が、1585年、少年使節を巻き込んだコンクラーベを読んでいると、いやまったく面白いから不思議である。他人事ではない、故グレゴリオ13世と約束したイエズス会支援の約束を、新教皇はどうなさるのか? はらはらと見守っている少年使節のこころがわかるからだ。

 面白いことがある
 投票権のある枢機卿らは、一室にひとりずつ監禁されて互いに談合ができないようになっている、と正式ルールを示す文書もあれば、同時にあちこちの(フランス王室、スペイン王室、イタリアの小国家ら)利権争いが裏で画策し、監禁状態のはずの枢機卿らが、暮夜秘かに密談し合い、スペイン王派とフランス王派、さらに第三の派などに別れ、策略と謀略との外部指示が交錯する様子さえも「記録に残されている」からすごい。若桑先生の本は史実なのである。
 
 こうした中で、日本からきた少年使節がどうしてそんなに「圧倒的な価値」を持ったのか? 興味ありませんか?
 彼らは帰国する前に(早く帰りたいのに)、教皇の指示で北イタリアの各(いまではすばらしい観光地ばかり)小国家を訪問している。どこでも大歓迎だ。ビートルズみたいなもんかもしれない。

 また行った先々で、その端麗、たたずまい、高貴さ、知性の優秀さ、そして4人の友情と支え合いの姿が話題沸騰で記録に残っているんである。

 まったくスーパースターである、どうしてそうなったのか? フィクションではない。

 どうですか? ますますそそられましたか?
記録に残っていても、ちゃんと読み解く人がいないと確かに意味はない、だが、残すことこそ人類の必定だ、と思い知らされるではありませんか!! 

つ・づ・く
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