極楽のぶ

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ゲルニカに月は出ているか(70) 小村寿太郎と日露戦争までの険しき道

2024年03月24日 | 歴史
 1900年末、北清事変後の講和会議(清国と列強11か国)は清と各国の個別対応が複雑でたいへんな時間を要した。 我らが小村は、年が明けた3月、英仏独の公使と共に、清国財産調査を行い、各国への賠償額算定に寄与した。更に、小村は米国公使と協力し、清国の外交施策を助言した。これら小村の活躍は「日本外交に小村あり」と世界に言わせしめた。前回、Rat Ministerと「好意的に」呼ばれたと書いたが、無論原意は「蔑称」だが、小村の場合はrespectが込められていたのは確かだろう。
 ただ、日本にとって、無視できない残る問題は、ロシアの「満洲占領」であった。去る1896年に李鴻章が結んでしまった「露清密約」により、ロシア駐屯軍が居座っていた。
 「よい機会」と考えた小村は、1901年3月、李鴻章にこの密約破棄を迫った。その際、英独と共同して迫ったあたりが「小村の技」であった。一報、ロシアは4月、「露清交渉」の打ち切りを決めた。これに対し小村は講和会議席上で、ロシア外相ラムズドルフに「満洲駐屯」の不当性を訴え、各国にロシアの横暴を印象付けた。
 やがて、9月に「北京議定書」が調印され、義和団の一件は落着したのだが、賠償金総額は過酷で、清の財政状況に鑑みて、列強各国は徐々に清国から手を引いてゆく。実際「コスパ」が悪過ぎた。
 小村(46歳)は、満州のロシア軍を退けられなかったが、在清国自国民の保護や新たな大陸駐屯軍の足掛かりを作り、北京議定書調印で果たした役割は多大で、桂太郎首相(53歳)から、外務大臣への招聘を6月に受けた。当時、桂内閣は3か月程の短命内閣との下馬評から、入閣は損だと言う周囲もあったが、小村にとっては「3か月もあれば日英同盟ができる」と、躊躇なく入閣を決めたのだった。昔、大男に負けじと竹刀を打ち込んだ少年時代を思い出させる。
 小村が清国から帰国する2か月前の7月、英国が、日本の林公使に、「恒久的日英同盟」の締結を打診してきた。「名誉ある孤立」の英国にとって、初めての同盟国である。相応の計算があったに違いないが、日本人小村の活躍が、十分な動機となったことは間違いないだろう。
 ところが、同時に、日露協商条約を結びたいと模索していたのが伊藤博文(60歳)だった。桂首相の同意が得られず、伊藤は単身対ロシア交渉の旅に出た。伊藤の訪ロの目的を知らされていない小村は、9月に外相に就任した。この辺り、小村に伊藤の動きを知らせなかった桂や山県は、ある意味ずるい。もし、伊藤の首尾が良かったなら、二兎を得ようとしたのだった。
 しかし、大英帝国は甘くはない。11月、英国が示してきた「日英同盟」の具体案には、"double dealing"(二又外交)への警告が突き付けられていた。小村はこれによって初めて伊藤の不在の意味を知った。顔色が変わっただろう。
 12月、小村は、「日英同盟は、韓国における日本の利権を護るための保険であり、その意味で折り合えないロシアとの協商は、到底見込みの無いものである」と講じ、桂の葉山別邸で、山県、井上、西郷従道、松方正義、そして桂の五元老の同席の上、対露方針の統一を確認した。更に、これを「元老会議全会一致」として、林に伝え、"double dealing"の解消を約束したのである。無論、伊藤、大山巌は蚊帳の外に置かれた形となった。
 その頃、サンクトペテルブルグに居た伊藤は、ロシア側の非妥協的な態度にほとほと呆れ、日露協商を諦めた。伊藤がなぜ、この後、徐々に対露・対韓政策において、他の元老と離反してゆくのか、あとでゆっくり推理してみよう。

 ついに1902年1月末、日英同盟は成立した。これには、その意味もわからない国民はただただ大喜びで各地で祝祭の催しが行われ、小村は桂と共に英雄になった。男爵も授かったが、彼にとっては喜んでいる場合でも安心できる事態でもなかった。韓国支配と満州問題において、いよいよ、ロシアとの対立激化の険しい道が待っていたからだ。
 一報、ロシアは、「北京議定書」の調印を受け、満洲占領における、一定の変更の設定を迫られていた。そこで、1901年10月、駐清ロシア公使レサールが「3年間で完全に全満洲からの撤兵」を約束してみせたが、小村はこれを信じず、清国が今後ロシアと交渉する際は必ず日本と相談するよう公使を通じて厳命した。清の対露交渉官はこれに感謝した。なぜなら、小村が、清露の交渉監視役に、英米両国の協力を頼んだからだった。
 これに対し、ラムズドルフ露外相は、清露の交渉の正当性は、独仏両国が保証していると主張し、まさに、外交巧者同士の碁盤上の闘いであった。しかし、「日英同盟」が成立すると、ロシアも軟化を始め、1902年4月「満洲還付条約」が締結された。これにより満洲のロシア軍は半年ずつ3回に分けて撤兵するという具体的な計画が描かれた。小村の勝ちのように思われた。
 この年、ロシア公使に赴任した栗野慎一郎は、ハーバード大学ロースクール卒業で小村の後輩だ。小村は、栗野に、日露協商の再開を訓電した。日英同盟は締結し終えており、double dealingには当たらない、むしろ、ロシアと有利に交渉できるカードを持った。これが小村のやり方だった。
 協商の内容では、清国と韓国における日露の勢力範囲を定める秘密条約を目指した。が、一筋縄ではゆかぬロシアである。のらりくらりと逃げられた。小村の予想通り、ロシアは「満洲還付条約」で定めた1903年4月の二次撤兵期限を守らないどころか、逆に軍を増派して来た。
 同年4月、京都の山縣の豪華別邸において、伊藤、山縣、桂、小村の4人により、対露政策が決定された。そこでは「対等の満韓交換」を最低限の交渉条件とした。これは小村の意見であったが、6月、情勢を憂慮された明治天皇の「御前会議」でも再確認された。出席者は、内閣から桂、小村、山本権兵衛、寺内正毅、元老からは伊藤、山縣、井上、松方、大山巌であった。これだけの維新後の元勲を会同させて、小村が主方針を提案したのだ。一人舞台であった。しかして、ロシアは、以後、満州からの撤兵の約束を一切守らなくなった。危機を感じた小村は、8月、栗野に、日露協商交渉を再開させ、続いて本会議を東京に移して駐日公使ローゼンとの直接対決となった。
 ローゼンは、満州問題は露清二国間の問題であり、日本の介入は拒否、また、韓国問題では、日露対等の権益を要求した。
 満韓両面で「痛み分け」としたい小村とは合意点を見いだせなかった。しかも、ローゼンは、北緯39度を境に、以北を「中立地帯」すなわち、両国不介入地帯とする案を初めて出してきた。なんと、現在にも通ずる「北緯38度線」は、この時生まれていたのだ。
 小村もこれには驚いた。10月、再度の提案として、日本は韓国に、軍事上の助言と指導は行うが、軍事施設は設けないこと、中立地帯は韓国と満洲との国境に設ける等の妥協案を示した。
 余談だが、直前まで蔵相を務めていたセルゲイ・ウィッテは、以前、話し合ったことのある小村を信頼できるとし、彼の意見に賛意を示したので、対日強硬派により失脚していた。彼の不在は、ロシアから柔軟な発想を失わせていた。
 12月のロシア側の最終回答は、「北緯39度以北の中立化、日本の韓国での権限は、民政上に限る」など、到底受け入れられないものだった。
 12月、小村らは交渉が妥結不能であると確認、伊藤も「開戦止む無し」に傾いた。ここに至って小村は、「海軍の準備が整い次第、正式な交渉断絶を経て対露開戦を決意すべし」、との意見書を提出した。これが1月12日の元老会議・御前会議で確認された。
 対露宣戦布告は2月10日、ついに日露開戦となった。
 ロシアが満州から撤兵しないこと、韓国への39度以北への侵略を予感させること、韓国は将来、日本が植民地化する計画であること、などが、ロシアとの戦いの原因だったが、日清戦での勝利の自信が大いに背を押したとも言えるだろう。
 小村は日英米での連携を十分に構築しており、対露戦には勝算が有った。 この流れで見ると、バルチック艦隊の到着目標は、100%「旅順港」しかないと思うのだが、触れずにおこう。
 今回フィーチャーした小村寿太郎は、昔、ポーツマス条約絡みで一瞬習った。が、その実態は、日清戦争では敵国情報intelligentsを伝えることで、本国の政策に寄与し、日露戦争では、日英同盟締結、韓国併合、清露交渉介入など、ほとんどの政策が小村そのものであったことに驚いた。小村は、藩閥外で青年期から米国の合理主義を学び、国際派の逸材であったが、人付き合いが苦手で、徒党も組まず、皇室や国民のためというよりは、目の前にあるミッションを確実にコンプリートする実務の人として生きた。人々の暮らしや民族の文化伝統への興味は薄く、本人に権威や地位や名声や金銭への欲が無く、家庭生活は最後まで、極貧のままであった。
 一国の外務大臣をパーフェクトに勤め上げた見事さが超一流だった。しかし、この後も、小村の出番はまだまだ終わらない。世界に小村あり、なのだ。

つ・づ・く
参考  ウィキペディア
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