極楽のぶ

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ゲルニカに月は出ているか(68) 世界経済戦争の戦略物資だった「綿花」、それは現代の「半導体戦争」に匹敵した

2024年03月04日 | 歴史
 前回は、読者諸氏の倫理感に違(たが)うような不快な後味を残してしまったに違いなく、申し訳なく思う。ただ、たったの130年そこそこでも、人類の狂気や残忍の振れ幅は大きく異なるものだと、筆者は信じたい。実は自信はない。

 王妃を殺された朝鮮国王高宗(コジョン)は、王宮を出て、ロシア公使館の助けを受け、「独立国」にちなみ、玉座をロシア公使館に遷座し王位を皇帝と改名し、『大韓帝国』を宣言した。以後、本項でも「朝鮮」から「韓国」と呼称を替える。1897年だった。

 閔妃暗殺が韓国内に起こした騒然は、「国母復讐」を掲げた「義兵闘争」を招き、鎮圧されつつあった「東学農民戦争」を引き継ぐ形で、日清戦争後も、日本陸軍と農民反日戦争が続いた。このとき、前回触れたように、臨時公使として赴任していたのは40歳頃の小村寿太郎だった。小村は、閔妃暗殺に関わった日本人(三浦公使始め大陸浪人ら)を帰国させ広島の裁判所で審議させた。
 これは1891年、ロシア皇太子ニコライが大津事件で、津田巡査に斬りつけられた事件にて、ロシアによる犯人受け渡しや、死刑求刑の要求を受けながら、裁判所は「現地の警察権と裁判権の独立」を譲らず、日本国内事件として、一般の「殺人未遂」の罪で、津田に無期懲役(網走獄内病没)を貫いた。この時の姿勢は欧米各国から評価された。しかし、閔妃事件は、韓国内での殺人事件でありながら、殺人の容疑者を政府高官も含めさっさと自国に帰国させ、警察権も裁判権も自国で済ませてしまったわけだ。国際的評価は、大津事件のそれよりも後退した。これは、当の韓国が、未だ独立国としての体を成していなかったことも原因のひとつであり、小村が責められる問題ではないのだが、ダブルスタンダードには違いなかった。
 小村は、ロシア総領事カール・ウェーバーと折衝し、高宗の王宮への帰還を勧めると共に、「韓国における日露同等の権益」を分かち持つ協定を交わした。これには、ロシアに弱腰だと、日本の右翼団体から小村に暗殺予告が来たそうである。しかし、直後にサンクトペテルブルグで行われたニコライⅡ世戴冠式に参列した山県有朋により、同様の協定が「山縣・ロバノフ協定」で結ばれ鎮静化した。この後、病で外相を辞任した陸奥の推薦により、小村は呼び戻され外務次官に着任した。韓国での経験が小村の肝の据わった政治力を養ったと言える。彼の進言で、日本資本による韓国の鉄道敷設が飛躍的に進んだのは事実だ。この辺り、話が散漫だが、小村が韓国の将来に関わっていたことの紹介としたい。

 韓国の「義兵蜂起による内戦」は1896年より続き、とりわけ利川(イチョン)における日本軍との激突は激しかったそうである。利川は青磁、白磁、陶磁器名産地として知られ現在は韓国の観光スポットとして有名だそうだが、義兵闘争の激戦地だった歴史は、広くは知られていないそうだ。
 再び、日本兵の悲惨も書いておく。討伐戦に従軍した日本軍の兵卒のことだ。韓国内戦に招集された兵士は、後備兵役といい、常備役7年を終えた27歳から32歳の家族持ちの極貧農民が多かった。半島に送られたのは、四国の連帯が中心で、『宇和島新聞』で「貧困なる従軍者の家族」の記事や「憐れむべき従軍者の家族」などの記事が載った。
 『海南新聞』では、「子を殺して従軍す」という悲劇的な記事もあった。妻に死なれ、子を任すに頼る親族もなく、困っていると、村長(おさ)が来て言う。
「決心を迷い、お咎めを受けてはよろしくない。従軍は『公』の事、子の養育は『私』の事、山より高く海より深き皇恩を知る者は、今日の国難に当り、私人の事情を放擲して義勇を公に奉ずるべし」と無情無慈悲な説得をした。地方を預かる者も、徴兵の責任も問われていた。
 『香川新報』では、とりわけ、後備兵の家族が困窮する様を報じ「後備兵は常備兵役を終え、故郷に帰り8年を経、27歳から32歳となっており、親や妻子を養う役があった。再度兵に獲られれば、家族の困窮は目に見えていた」と書く。もうひとつ、「彼らが常備兵として招集された1880年代は、富裕層の子弟や教育ある家の子弟は何らかの事由を付けて服役を免かれることができた。すなわち韓国に派兵された後備兵は、極貧の子弟に集中していた」というのである。富裕層優遇は90年代には無くなったというが、華麗なる国際対立の最下層では、血を流し、家族が泣き、子が殺され、捨てられ、貧困を恨む。憎んでもいない敵、何の利害対立もない相手と、殺し合わなければならなかったのは、ただ、家族と平和に過ごしたいと願う貧困なる民衆なのであった。歴史はこれを単に「戦争」と呼ぶのである。注)記事文面は筆者が、意訳しています。

 さて話は変わる。憶えておられるだろうか?東学農民戦争の主戦場であった、全羅道(チョルラド)や珍島(チンド)の名を。ここは、韓国の代表的な綿花栽培の農作地であった。北でも、黄海道(ファンヘド)、平安道(ピョンアンド)も綿花畑だった。綿花栽培は韓国の重要な農産物だったのだ。日本政府は1883年頃から、この綿花の品質に着目していた。
 日本産の綿糸は、繊維が太く短く、出来上がる木綿製品は厚く重かった。需要の急増していた軍服などでも重さは不利で、輸出品としても競争力で劣った。その点、韓国産の綿花は、当時高品質で評判だったインド産や米国産に匹敵したのである。
 米国産や、インド産(英国が支配)は、繊維が細く強く長い。紡織機での大量生産に適合していた。おさらいになるが、英国のインド支配は、この良質な綿花から始まった。地元の手工業者から織り上げられた木綿製品の買い付けを止めて、綿花だけを英国に送り、産業革命で生まれた紡織機で大量の完成品を生産、インドに逆輸出した。このためインドの木綿手工業は壊滅し、インドは経済的に英国に服従することになった。
 綿花は19世紀末から世界の最大の戦略物資であり、その格付けは現代の半導体に匹敵した。
 英国はこれを清国に売りつけようと再三試みた。中国産の綿花は日本産同様品質が悪く、繊維が太く短く、出来上がる木綿布は厚手で重く、「土布」と言われた。が、中華思想の清国は、頑固に英国の売り込みを拒否し続けた。こうして英国は対抗措置としてインド産のアヘンを売りつけることになる(アヘン戦争)。
 一報、アメリカ産の綿花は、米南部州の黒人奴隷を使った大農場で栽培し、英国の産業革命を取り入れた北部州の紡織機で完成品とし、世界に輸出した。まさに、戦略物資の最高級品を米英で握っていたことになる。
 この米国の初期の繁栄の背後に黒人奴隷の歴史があり、木綿で経済戦争をしていた英国が、米国の黒人奴隷を非難して「奴隷貿易禁止法」を提案する(19世紀初頭の頃)。宗教的人道的な側面もあったが、経済戦略の意味もあった。遥か後年、ザ・ビートルズが、黒人音楽に敬意を持っており、米国南部のコンサート会場で、黒人の席を分離するなら、コンサートは中止すると抗議し、ついに「公民権法」成立前でありながら、黒人分離席を撤廃させた。このコンサート限りではあったが、英国はこの事件を、「奴隷禁止法」よりも誇っていいと思う。
 さて、韓国綿花の品質の良さは、大阪の紡績資本家で作った大日本綿花栽培協会(1904年)にとってだけでなく、日本の国際競争力にとって極めて魅力だった。日本の韓国進出の強い動機は、この韓国綿花抜きには考えにくいのだ。
 だが、韓国綿は、品質は良かったものの、「繰り綿」率が低かった。繰り綿とは、収穫された綿花から種を抜き取った後の、精製前の綿糸のことで、繰り綿率が低いというのは、種を抜いた後の綿糸量が少ないということである。 そこで「綿花栽培協会」は、繰り綿率の高い米国産綿花を以て韓国綿花に入れ替える策を考えた。栽培ノウハウは韓国のままで、米国産綿花を韓国の大規模農場で育て、「繰り綿」にして日本に運び、日本で紡織機に掛けて完成品にするというものだった。綿花の収穫期は9~10月ということで、台風に悩まされる日本と違い、秋は好天の多い韓国での栽培は大成功した。まさに現代の半導体である。この木綿製品戦略は、来る1914年の第一次大戦で、米・英の木綿製品が大打撃を被ったとき、日本の木綿製品が世界のひとり勝ちとなり、日本に大好況をもたらした。長くは続かなかったが、これが大正デモクラシーの原動力となったのは事実だ。この木綿事業の先導的役割を果たしたのが、後の平民宰相と呼ばれる原敬であったことはあまり知られていないそうだ。 
 次回は、通史に戻るつもり!

つ・づ・く
参考  
NHK 映像の世紀バタフライエフェクト 「ザ・ビートルズ」
井上勝 北大名誉教授 東学農民戦争 抗日蜂起と殲滅作戦の史実を探究して   https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/231140/1/111_1.pdf
中塚明・井上勝生・朴孟洙著
『東学農民戦争と日本~もう一つの日清戦争』  http://amzn.to/164s8mm
岩上安身による中塚明氏インタビュー(奈良女子大学名誉教授)
日本軍・日本政府による朝鮮半島侵略の驚くべき史実
http://bit.ly/VWPL0t
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