極楽のぶ

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ゲルニカに月は出ているか(61)  「旅順虐殺事件」 日本人記者達の視点と記事

2023年12月17日 | 歴史
 陸奥は、米国との不平等条約改正の悲願を直前に、外国人記者らが書くであろう「旅順のMassacre(大虐殺)」の影響を恐れ、その火消しのため、各国在外公使官を通じて惜しみなく金を使った。が、効果は部分的だった。ところでふと、心配になって書きますが、陸奥、陸奥と書いてますが、この外務大臣は、幕末動乱期は、陸奥陽之助と名乗る紀州から出てきた浪人で、坂本龍馬の海援隊に上がり込み、そのお陰で歴史に躍り出た男です。陸奥宗光(むつむねみつ)、人の運命はわかりませんね。運です。
 陸奥の買収で効果があったのは、暴露の口火をきった英『タイムズ』コーウェンの記事に、反論を掲載した英『セントラル・ニュース』だ。真っ向勝負で「正当な戦闘以外での殺傷は無かった」と書いた。また、オーストリア紙の『ノイエ・フライエ・フレッセ』の記事も、日本の「復讐劇的闘い」に同情的だった。更に、ベルギー公使、アルベール・ドゥ・アネタンは、本国への報告で「事件はニューヨーク・ワールドの一記者が、多分に誇張したものだ」とクリールマン記者を冷笑している。更に、フランスの観戦武官ラブリー子爵は「殺された者は、軍服を脱いだ中国兵であり、婦女子は殺されていない。旅順の住民は占領前に避難した」と述べている。どこへ避難できたというのだろう?
 陸奥の買収工作に乗った者達の証言は、概ね言葉少なで、描写が少ないのが特徴だ。そればかりか、米『ワシントンポスト』のドゥーハン・スティーブンスは、先ず、6,000ドル、後、毎回1,500ドルを要求してきた。無論、あの『ヘラルド・トリビューン』のガーヴィルは、クリールマンの記事を「全否定」してみせた。ガーヴィルは戦場を見ていない筈なのだが。
 対して、カナダのヴィリアースは、自作絵を幻灯機を使ってクリールマン支持の立場で論争に加わった。彼は命も狙われたという。

 さて、次は、我が国の新聞である。
『自由新聞』は、外国人特派員の記事を示し、非難するにおいて「外国特派員、皆恐れて従軍を離脱せり」と書いた。つまり、彼らは実際を見ていない筈だ!という主張である。
 一方、『時事新報』で、福沢は、自論を展開する。
「日清の戦争は、文野(文明と野蛮のこと)の戦争である。幾千の敵新兵は、皆、無辜の民にして、これを皆殺しにするは哀れむべきことなれども『世界の文明』の進歩のためには、その『妨害物』を排除せんとするに、多少の『殺風景』を演ずるは到底免れざるを得ない」(『』は筆者の付記)。
 福沢ともなれば、少なからず事件の実情を知っていたはずであり、これは凄い開き直りである。クリールマンが書いた「これを文明国の行為と言わず」に相当腹が立ったのだろう。他にも、当時の知識人で戦争賛美者だったのは、内村鑑三の「この戦争は『義戦』である」との言や、後に足尾鉱毒事件で被害者側に立った田中正造がいた。このふたりは、後の日露戦争では反戦運動に回っている。つまり日清戦争時代における国民的「戦争熱」は民間に流行性感冒のように侵透し、義勇兵運動を誘発、財界は進んで寄付を行い、一気に「国民統合」が形勢されたのである。
 翌年の日清講話が行われると、福沢チルドレンの慶應義塾生たちは、「戦勝祝賀」と称し、カンテラ行列で都内を練り歩いた。
 しかし、福沢もさすがに同年末には、教養人として思うところがあったか、抑制的に「敵の残忍の所業、ほとんど許し難きにおいても、ならぬ堪忍を堪忍して踏み留まり、如何なる事情あるも、復讐を以て殺伐をたくましゅうするべからず」と書いている。今さらではあると思うが・・・。
 国民は戦場が如何なる場所か知る由もない。勝ったのだから「分取った戦利品」に疑問を持つ者はいなかった。これらの「分取り品」は商店で売られ「分取り」の名で人気となった。『東京朝日新聞』には、金銀、穀物、精米、玄米、大小麦、豆、塩などの分取り品の値段と発売記事が躍った。また、時事・読売では、清国人の生首の形をした石鹸が広告に載り、タバコや歯磨き粉の丸缶の絵柄には、銃剣を携え清国人を追う日本兵や、銃剣で刺さんとする図などが好まれたそうだ。言葉も無い。それを「野蛮」と呼ぶのではないかと、福沢翁に聞いてみたくもなるではないか。
 「分取り」品の一部は、靖国神社の優秀館に展示され、国民が殺到したそうだ。『国民新聞』。
 『国民新聞』から従軍画家として参加した、黒田清輝は、気に入った美術品を、分取った兵士に頼んで譲り受けた。昔習った授業の黒田の絵が色褪せてくる。 

 現場を見た日本人の記録も書いておこう。
①11月22日『大阪毎日新聞』相島記者
「敵兵の屍、その数を知らず。屍糞で山と為す。街路に倒れる者、家中で銃剣に差されし者、裏にて死する者、表にて斬られる者、実に惨憺たる光景を見ゆ」
②11月25日、中野六蔵兵士、第4中隊 長門丸で来航
「白便の老爺は嬰児と倒れ、白髪の老婆は嫁か娘と手を繋ぎて横たわり、その惨状実に名状する能わず。海岸に出れば我軍艦・水雷亭数隻が停泊セリ。波打ち際には四肢が漂うを散見し、死屍累々として生臭きを覚ゆ」
③旅順に来た最後の記者 水田秀夫『中央新聞』
「11月25日、街路に約4~500軒の人家、坂の両側に並び建つ。道は狭隘にして家屋矮小なれど、富裕繁華と見ゆる。されど家々門戸破壊され、屋内はボロと支那靴と陶器の破片で充満す。我が人夫らが数人、家の隅々を漁るを見る。すさまじき情景なり。野には大小の犬共が主人を失いて腹を空かし群れている。
嗚呼、震災の惨なるも、数百年後にポンペイの繁華の旧都を見出すべく、大洪水の恐ろしきも、なお後世にノアの子孫を繁殖すべし。されど戦い敗れ、死にたる旅順に一家の財物無し。名古屋の震災、岡山の洪水も、到底例えようも無し(当時、有ったんだ)。
 シェイクスピア言う、目はこれを見るに忍びず、口はこれを言うに忍びず、心はこれを思うに忍びず、とは、かかる光景を言うにあらんか(当時の記者の文化的素養に驚き)。
海岸では、形を為さぬ人体、内臓の飛び出た腹、バラバラの手足の浮遊するを見る、地上の死体はそろそろと片付けられつつあるが、海底の死体、まだまだ放置のまま」。
 水田記者は翌日も歩く。
「小ドック有り、水雷亭の修繕に供すべし。周囲水面に支那人の死骸、肉を失った片足の骨、えぐられた腹から出た臓腑が長く伸びるを見る。首を斬られ皮のみ体に繋がる者、波撃ち際に漂う。
陸上の死骸、徐々に人夫らにより、野原に埋められるも、池中の死骸、いつ処理に及ぶべきものならんか」。
 水田は3日目も街を巡る。ここで重要な見聞が登場する。
「散々に荒らされた家の一画で、焚火を囲み手柄話に興ずる兵士の数人あり、斧で家屋の門を壊し、焚火の木切れにせんとす。傍らに首斬られしロバの死体あり。沿道には、土積み上げた小山有り、泥焼きの如き支那人の手足とわかり、驚く。薄暗き家屋の奥、朧げに痩せ衰えた支那人の動めく在り、幽霊かと思えば、彼、胸に貼りたる白い布を指し『順民』なるを證さんとす。彼らは『皆殺し』に遭わざりて、『死体の運搬』に駆り出されし者たちという。家々にも『この家、家人以外立ち入りを禁ズ』と書いた貼り紙あり」。
注)上記原文のかなりは文語調のため筆者が現代文に改めてます。
 白布は、大山司令官が、さすがにマズイと考えたわけではなく、山地連隊長のアイデアだ。死体の放置を避けるべく、労働力として捕虜を36人だけ殺さなかったのである。彼らは、白い布を腕に巻くか胸に貼らされ、「この者、殺すことならず」との文字と軍の印章が押されていた。そして、「生存者達」には、「大掃除」と呼ばれた「死骸の引きずり運搬、丘上の穴掘り、石棺の石組み、3人で一杯の棺に6~8人も放り込んで埋める」という重労働が課された。 それにしても玄関に貼られていた「家人以外の立ち入りを禁ズ」の文字は、あまりに空虚だ。家人などとっくにこの世にいないからだ。 屋内もすっかり略奪済だ。ブラックジョークでしかない。
 『戦争』という「極度の非日常」が最大の犯罪を堂々と行わせ、近代日本人が経験した、初めての海外侵略は無間地獄の連続だった。虐殺事件は当然の副産物でしかなかった。ある軍夫は、自分の刀が人間の脳天を斬り裂くときの手応え、脳の柔らかさ、空を舞う血しぶき、立ち上る湯気の様子を、魚釣りの話のように友に話したという。「底知れぬ虚無」がそこに現出していたのだった。

 参考にさせて頂いている井上晴樹氏は「ロボットの物語」の構想中に中国の古書店で「旅順虐殺事件」の本に出会った。驚愕し、これをほとんど知られていない日本に伝えねばならぬと思ったそうである。
 旅順の悲劇から100年経った1994年、犠牲者の骨発掘が大々的に行われ、『万忠墓』として石碑が建てられたという。さりとて当時、抗日運動や対日感情の悪化には繋がらなかったそうである。筆者は何も知らず、その2年前の1992年、夫婦でまだ古き香りのする北京を訪れた。歴史を知らないことは「盲目」に等しいと今ならわかる。来年2024年は日清戦争から130年だ。『時代の風』はいつも予測不能である。

つ・づ・く
参考
井上晴樹著 「旅順虐殺事件」
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