goo blog サービス終了のお知らせ 

極楽のぶ

~全盲を生きる 本多伸芳

ゲルニカに月は出ているか(94) 原子爆弾に物理学者が気付くまで

2025年05月28日 | 歴史
 前回93話、長岡半太郎が渡欧した時代、「原子」の実態立証派の「もたつき」を尻目に、原子が垂らしてくれる果汁の方(放射線)に惹きつけられる学者が多く現れる。
 長岡が留学していた1895年、ドイツのヴュルツブルグ大学で、ウィルヘルム・レントゲンが、謎の「物質透過性」を持つ放射線を発見し、「エックス線」と名付けた。長岡は早速、このニュースを日本に伝えている。
 また半年後の1896年、フランスのアンリ・ベクレルが「ウラン鉱」が発する放射線を発見し、ベクレル線と名付けた。正式にはウラニウムという。これが自発的に放射線を発生することは当時、とても奇妙に思われた。
 ウラン(U)は、天王星=ウラーヌスから名を取られ、自然界に存在する原子番号最大(92)の物質とされていた。同じ92のウランでも、質量数には238を中心に、0.7%程度の不安定な234や235のウラン(同位元素)が有ることがわかっていた。 
 このウランが半世紀後に、先進国中の物理学者を惹きつける悪魔の物質となろうとは、この時期誰も予想していない。
 以後、様々な物質が放つ放射線の種類が次々と見つけられていった。パリ・ソルヴォンヌ大学卒のマリー・キュリーは、1898年にチェコのウラン鉱山で、ウランより大きな放射線を発する物質を発見し(彼女は、それが有ると信じて探していた)、彼女の故郷ポーランドにちなみ、これをポロニウムと名付けた。さらに、トリウム、次いで、ラテン語で「放射」を意味するラジウムも発見した。語尾の「ウム」は物質の意である。放射能を指すラジオアクティヴィティradioactivityという語も生まれた。マリーの夫、ピエール・キュリーは、放射線量計測器エレクトロメータを発明し、妻の研究に貢献した。キュリー夫妻と呼ばれる所以である。

 放射線学が、ぐっと原子物理学に寄っていくのは、ニュージーランドの科学者アーネスト・ラザフォードがケンブリッジ大学で発表した次のことによってである。
1898年、ラザフォードは、放射線にα線、β線があることを発表し、1900年、ベクレルがβ線の正体を「電子」であると見抜き、ラザフォードは1907年、α線をヘリウム(原子番号2)イオンであると示した。
 以上から、α崩壊した元素は、原子番号が2減るので、周期律表における2つ左の元素になり、β崩壊した元素は電子ひとつを失い、周期律表で1つ右の元素になることを意味した。つまり、物質は放射線を放つことで、物質名も性格も変化し、原子番号(陽子の数)を替えて、周期律表の座席交換をするのである。
 また、ラザフォードは、1914年には、03年に発見していたγ線の正体を「電磁波」つまり波長と振動数の有る光の1種であることを発見した。波長の長い順に、紫外線、エックス線、γ線であるとした。後者ほど波長が短いのだが、そのため振動数(エネルギー)は後者ほど高いわけだ。

 当時、研究者の多くが、エックス線やその他放射線による人体影響を知らず、皮膚の潰瘍や皮膚癌、脱毛、倦怠感、脱力、意欲喪失などの症状を日記に付記しただけだったが、やがて、いつしか発熱、白血病、敗血症で体調を害し、生命を失う学者も多かった。

 こうして1920年代は、放射線の研究を通じ、原子構造が研究されたが、原子は、原子番号の数だけの+に荷電した「陽子」と-に荷電した「電子の雲の輪」だけで構成されていると信じられていた。しかしこれだけでは説明が付かないのが質量数(重さ)だった。それは陽子の数のおよそ倍の数になることがわかっていた。
 ラザフォードは、このため原子核内に、荷電に影響しない未知の粒子の存在を予想していたところ、1932年、英国人ジェームズ・チャドウィックが、ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所でその「中性子」を発見し、ラザフォードの予想を証明してみせた。
 中性子は、当時の物理学者の多くがその存在を信じ、誰が先に同定できるかが競われていた。荷電に影響されずに直進するため、中性子を自由に扱えれば、荷電に進路を邪魔されるα線、β線、また透過に大エネルギーを必要とする電磁波のエックス線やγ線にはできない、原子核へのアプローチが飛躍的に可能になると期待されていたからだ。
 こうして、物質(原子核)が自然崩壊により放った放射線を観察する時代が終わり、「中性子」を人工的に操作し、能動的に原子核に変更を加え、周期律表の座席移動を強いる実験が始まった。

 中性子発見後、数か月、ドイツのヴェルナー・ハイゼンベルクが原子核の「陽子-中性子モデル」を量子力学の視点で(筆者も意味わかりませんm(X_X)m)提案した。ハイゼンベルクは、後にナチス・ドイツの原爆開発計画のトップを任される人物だ。


 ローマでは、1934年までにエンリコ・フェルミが、11個の重い元素に中性子を照射し、放射性元素を生成してみせた。彼はこの時、大理石の机よりも木製の机の上の方が実験がうまくいったことに気がついた。そして、木の陽子が「中性子の速度を遅らせること」こそが「中性子と核の相互作用を高める」のではないかと考えた。この発見は、後に、ドイツと連合国の間で、中性子速度の減速材としての「重水」の争奪戦を招き、まさにノルウェーのノルスク重水工場での、007映画顔負けの攻防戦が起きる(1943年)。
 ローマのフェルミは、その後、まずパラフィンワックスを中性子減速に使い、成果を100倍高めることに成功した。このフェルミは、政治的な人物ではなかったが、妻がユダヤ人であったため、ムッソリーニがナチスと手を結ぶと、アメリカに亡命し、結果的にマンハッタン計画の重要な頭脳のひとりとなる。

 さて、原爆が近づいてくる。
1934年、ベルリンでは、オーストリアのユダヤ人女性科学者リーゼ・マイトナーとドイツ人オットー・ハーン、そして助手のフリッツ・シュトラスマンが協力してフェルミの方法を使い、ウランに中性子を照射して超ウラン原子(自然界に存在しない)の生成を試みることを始めた。
 その動機は、去る1929年にカリフォルニア大学バークレー校で、アーネスト・ロレンスが、電磁石を使った、最速の加速器「サイクロトロン」を発明、中性子を使って「クーロン積力(荷電粒子間の離反力)」に関係なく陽子に中性子をぶつけることができ、これを原子番号1の水素から徐々に重い原子に広げ、最も重いウラン(番号92-質量238)に照射したところ、自然にはない超ウラン原子が生じたと伝わっていたからだ(1934年)。
 ところで、リーゼ・マイトナーの甥に、同じくオーストリアのオットー・フリッシュという優秀な物理学者がいたが、33年のナチス政権誕生に危機感を感じ、ロンドンに移住していた。同様に、ドイツ・オーストリアの物理学者の4分の1はユダヤ系であったので、ヒトラー政権誕生の33年から34年にかけて、次々と米国・英国に大移動していた。
 しかし、フリッシュは、デンマーク、コペンハーゲン大学のニールス・ボーアに声をかけられ、ロンドン大学からコペンハーゲン大学に呼び戻された。そして、1938年オーストリアがナチスに併合されると、彼らのオーストリア国籍は抹消され、ユダヤであることの危険が再び迫った。ベルリン大学のマイトナーは出国禁止の上、拘束されそうになるが、ボーアの機転でオランダに出国し、コペンハーゲンで、甥のフリッシュと合流し、デンマークのユダヤ人保護の民間団体(有名だ)に助けられ、無事、中立国スウェーデンの村に脱出した。 やがて、フリッシュの両親はオーストリアで拘束されダッハウ収容所に送られたと伝え聞かされた。
 さて、ベルリン大学のオットー・ハーン達の実験は続けられた。当時から、誰もが、番号がせいぜいひとつ増えるだけの原子が生まれるだけだろうと思っていた。ハーンら自身もそうだった。

 ところが、である。1938年12月、ストラシュマンが生じさせた原子は、なんと4つ番号の低い(軽い)ラジウムだったのだ!悩んだハーンはスウェーデンに潜むマイトナーに相談した。
 1938年、スウェーデンの村のクリスマスイブの朝、フリッシュが起きるとマイトナーは居間で朝食を食べていた。19日にはハーンからの訂正があり、生じたのはラジウムではなく、バリウムだった、というのである。
 バリウムの原子番号(陽子)は56、中性子は82個で、質量数は足して138だ。すなわち、原子番号(陽子)92のウランが、56のバリウムに縮小したわけだ。原子核の中は、陽子が詰まっているが、すべて+に荷電しており、散り散りに離反しようとする力が大きい。これを「積力(せきりょく)」と呼ぶ。一方、シャボン玉のように、核を包んで安定させようとする力を、便宜的に「表面張力」としよう。両者が拮抗して原子核は安定しているが、原子番号が大きいほど、積力は大きく不安定となる。その限界が100なのだ。ウランはギリギリ92で限界に近い。
 中性子の照射によって、陽子が増えるどころか、表面張力に積力が勝ってしまったわけだ。そして、このウランの原子の中央にくびれができ、千切れると、「核分裂」が起きる。 放出されるエネルギーは原子1個当たり、2億電子ボルトであるという。例えば1kgのウランには、10^24(乗)個の原子核がある。これを換算すると、1kgのTNT爆弾の2万倍の爆破エネルギーを放つ計算になるという。 
 マイトナーは、1905年のアインシュタインの特殊相対性理論を思い出していた。そうだ!
 E=MC^2(square) ・・Eはエネルギー、Mは質量、Cは光の速度だ。「質量保存の法則(アインシュタイン)」で、減じた原子番号の質量分のエネルギーが核外に放散されるのだ。
 アインシュタインは、原爆製造に直接関わったように誤解されているが、それは大きな間違いだ。唯一、原爆の恐ろしさを数値で表せたのが、たまたまこの式だったに過ぎず、彼の式が原爆を開発させたわけでも招来させたわけでもまったくなかった。
 
 フリッシュは、1939年1月3日、急いでコペンハーゲンのボーアの研究室に戻り、このことを報告。ボーアは直ちにこれを理解し、フリッシュとマイトナーが発表するまで、口を閉ざすことを約束した。
 名前は、「細胞分裂」のfissionにちなみ、これを推薦した。『ヌクレアー フィッション nuclear fission』である。

つ・づ・く
参考
・原子爆弾 1938~1950年
ジム・バゴット 著  青柳信子訳 作品社


コメント    この記事についてブログを書く
« ゲルニカに月は出ているか(... | トップ | ゲルニカに月は出ているか(... »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。