風に乗れ -Winddriven Current-

ワイヤーフォックステリアのナイトさんとORIXを応援する日々
“Challenge Together @KOBE”

1.17 追悼 ~2008

2008-01-17 | 風景画-神戸・播磨
兵庫県南部地震・阪神淡路大震災発生から13年が経過しました。
最終的な犠牲者発表は、死者 6,434名(行方不明者 3名)となっています。


今、記事を書いている時間(午前0時過ぎ)では、私は高校受験を控え、まだ勉強中だったように思います。
それから数時間後のことでしたね。

あのときの細かい体験話は、ちょうど1年前の記事に書いております。
1995.1.17を思い返す(2007.1.17)

私のような垂水区民は、幸い被害はほんとに小さかったものですけどね。
それでも、今、思い返せば、圧倒的に大変だったと思えるものです。

毎年、この日は、必ずあのときの一連の様子を思い出し、
犠牲になった方、その遺族はじめ、寝る場所もなく辛い思いをされた方が数多くいたことに対し、
哀悼の意を捧げます。


避難所の学校では、
私の担任が、一連の犠牲者発表のテレビに釘付けになり、
「あぁ、あの子のお姉ちゃんや・・・」と声を震わせていたこと、その後も延々と発表が続いていたことを思い出します。

開店してるスーパーの情報でさえも、テレビで住民に発表してましたよね。
コープデイズをNHKのアナウンサーはディズ、と言ってたりしてたのに、一人で違うやん、てテレビの前でつぶやいたのを覚えてます。
数々の避難勧告発表の中、東灘のLPガスタンクのガス漏れでの「避難警告」は怖かったですよね。

1年たって、まともに報道するのは、サンテレビとNHKだけになってましたよね。


出来事そのものは、どんどん遠い過去になっていきますが、
この日になれば、ふと思い出し、実際にあった出来事だということを、忘れないよう、
あの次の日に神戸新聞が発行された記事を今でも大切に保管しております。
神戸新聞の記者は、おそらく自分の家庭を犠牲にしてでも、この記事を書くために、相当な苦労があったことでしょう。

実際、神戸新聞本社であった新聞会館は、当時全壊していました。

そんな中での記事です。














同じように、当時の警察、消防・救急隊、病院、復旧工事のガス会社、電力会社、鉄道、建設いろいろ携わった人たちは、
使命感もあったでしょうが、自己とその家族を犠牲にされた方も多いなか、
むちゃくちゃ働いたことと思います。
その努力が、今の神戸の街の明かりとなっていることはほんとに感謝しなければいけません。

多くのボランティアの方がたも、救ってくれました。

中学の卒業間近の時期、いろんな不安が付きまとった頃でしたが、
お陰さまで、私は今も元気に暮らしています。

帰省するたびに、街が変わっていくことにとまどいも感じますが、
それだけ街は元気です。

今、夜に明かりが灯っていること、とても幸せなものです。


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