これは事故を患者さんのせいにしているのではなく事故というものはいくつもの要因が不幸にも偶然に重なって起きることが多いということを言っているのです。夜の10時に手術が終わって麻酔を覚まし、私と助手を務めていたナースは夕食の弁当を手術室から10mも離れてないナース控え室で食べてました。2人のスタッフが手術室に残ってまだ朦朧としている患者さんをみており、患者さんには当然まだモニターが付けられてました。もう少し意識がはっきりしてから隣の安静室に皆で移動させるつもりでした。私が弁当を食べ終わる頃、手術室にいた2人のスタッフがナース控え室に戻ってきました。私は“あれ?今患者さんは手術室に1人だな”と気になりましたが、モニターがつけられているので、 異常があればアラームが鳴るから大丈夫かと思いました。実は普段の私ならそういう状況なら常に直接患者さんの傍に行って容態を自ら観察し確認します。ところがこの日だけは連日の出張と激務の重なりで疲労が極限状態で、少しの時間ならこのままでいいかと腰が重くなっていたのです。しばらくして患者さんを安静室に移動させようと全員で手術室に戻ったら、心肺停止状態になっていました。詳しい状況の説明は言い訳がましいので省きますが、実は血中酸素モニターが外れており、呼吸抑制が生じてもアラームが鳴らない状態になっていたのです。呼吸抑制の原因はたぶん手術終了時に点滴の残りに入れた強めの鎮痛剤レペタンの副作用でしょう。点滴は空になっており、薬の効果が強く出始めた時点で呼吸抑制が生じたと思います。すぐに気道挿管し蘇生処置を開始し、心拍はすぐに復活しましたが、自発呼吸がなかなか戻らず、結局あきらめて救急センターへ搬送することになりました。転院先の病院で数日後に自発呼吸は復活しましたが、意識レベルはあまり戻らないままでした。それでさらに治療が長引くことを考え、患者さんの故郷の四国の病院にヘリで移送転院することにしました。私は毎月治療費と補償費をもって面会に行きました。1年がたち、回復状況も頭うちになってきた頃、長期の補償額(損害賠償)について裁判所で話し合い、当院の管理責任の至らなさを全面的に認めていた私は素直に裁判官の和解案に応じました。事故から10年経った現在も毎月の高額な補償は続いており、決して忘れることができませんから、このことがその後絶対に不注意で医療事故を二度と起こさないという私の決意を持続させてくれました。
平成7年末には私が大阪で開業するという情報が広まり、平成8年1月の開院時にはまだ器材も十分そろってないのに予約がいっぱいでした。他院でのバイトも続けていたこともあり、口コミだけで毎日手術が入るほどのことは当分ないと、自分のクリニックは週3日だけの診療にしてたので予約が詰まりやすく多忙でした。夜中までの手術はざらで朝方まで手術をしていたこともあります。ナースは全員昔の知り合いで交代で手伝ってくれてたのですが、疲労でバタバタ倒れる有様です。まるで野戦病院みたいです。うちでは簡単な手術は少なく、みな大掛かりで長時間で、顔面骨切りだけでなく、豊胸、性転換手術も当時は硬麻・全麻併用でしたから、毎月の笑気ガス代金は20万円くらいかかる有様でした。おかげで借金はすぐに返済できました。院内の設備器材はすべてリースにしたいと申込んでいましたが、担保も保証人もない私なのにリース会社の部長さんは私の開業後の売り上げとカルテの一覧表を見て融資してくれました。今では信じられないことです。バイト先との約束もあり、自分のクリニックだけに専念することもできず、激務の二重生活は平成8年末まで続きました。それでも仕事中は一切気を抜かず、慎重に手術をしていました。それまでに色々と怖い体験もしている自分だから、自分の過失で事故は起こさないと確信していました。ただ全麻中に偶発的に起こりうる脳卒中や心臓発作だけが心配でしたが、幸い美容外科は元来健康な人々を相手にしているのであまり心配しなくてもいいだろうと考えていました。ところが早くも平成8年の11月に豊胸手術後の患者さんが意識障害に陥るという初めての大事故に遭遇することになるのです。その患者さんは四国のニューハーフで開業前の平成7年夏に目鼻の整形と顔面骨切り縮小を梅田のSクリニックで引き受けて以来のつきあいで、私は仕事の出張で四国に行ったとき、小綺麗になってショーハウスで人気者になって働いていた姿を見に行ったこともあります。次は豊胸をしたいと私のクリニックにまた来たのですが、手術も麻酔も無事に終わりました。実はこの日別の患者さんの手術も予定されていたのですが、四国の患者さんが予定の飛行機に乗り遅れてしまい、それで後に予定してた患者さんを繰り上げ、四国の患者さんの豊胸と目の切開は夕方からのスタートになりました。たぶんはじめの予定通りの順序で手術が行われていたら、事故が起きることはおそらくなかったと思います。
平成7年の7月と9月に4例めと5例め(私が執刀医としては1、2例め)の性転換手術を都内のクリニックの施設でさせてもらったあと、そのクリニックからもうこれ以上は受け入れられないと断られました。術後の管理が難しく不慣れで、ナース側が協力できないというわけでした。私はすでに何人も次の予約患者を抱えていましたので、本当に困ってしまいました。すると、そのクリニックの事務長が「もう、先生自身でクリニックを開業してやるしかないんじゃないですか」と言われました。確かに法的リスクもある手術ですから、他人の施設に頼らず、自分で手術場所を確立してやるべきでしょう。しかし当時、毎日全国各地で美容外科の仕事をしていても、私はそれほど高い給料も得てなく、毎日手術さえしていれば満足という状況で、開業する資金など全く用意できてなかったのです。ただ平成7年には普通の美容整形で、週3日行ってる大阪では、紹介と口コミによる私の指名客だけで毎月400万円くらいの売り上げ(料金が安かったので一般の美容外科クリニックの値段に換算すると7、800万くらいに相当する症例数)があったので、開業しさらに性転換手術の収入も加えれば宣伝広告なしでも、十分やっていけるのではないかと考えました。それで何とか500万円のお金を用意し、性転換手術で世話になった東京のクリニックから1000万を借りて大阪で物件探しを始めました。毎日仕事で私が動けないので、事務長に開業準備の一切を依頼しました。今考えると本当に多くの人に助けられて大阪開院で本格的スタートを切る日本の性転換治療が始まったのだと感慨深くなります。今でこそ大阪では性転換ニューハーフは溢れていますが当時は各店に1人いるかいないかで、北新地の老舗のVというニューハーフクラブだけが何人もいるという状況で、性転換はまだかなり珍しかったのです。Vのニューハーフはそれまでほとんどが300万円以上かけてシンガポールで手術していました。私が執刀した2例めのコはこのVのニューハーフです。それでその店の他の未性転換のコが次は私の番と予約を入れたり、またシンガポール産の手術の修正を依頼されたりして、2、3年後にはVのほとんどのニューハーフが私の患者さんになってしまいました。また他の店でも次々と性転換が増え、全然珍しくなくなり、その変化が東京や全国各地でも始まりました。ニューハーフ界のそういう革命的変動の始まりが平成8年1月の当院の開業でした。
こうしてJ&Bのニューハーフさんが次々と私を指名してSクリニックに美容整形に来るようになりました。いくら来ても私の収入が増えるわけではないので、一般の女性とは方向、内容、手技も大いに異なる美容整形をできるだけ極めたいと思いましたので、Sクリニックの事務長に相談し、手術料金をニューハーフがやりやすい金額に設定しました。一見無謀ともいえる果てしない美容整形のチャレンジ精神に応え、私もそれまでの自分の手術を大胆に進化させて行きました。おカマの口は光より速いというくらい私の噂が急速に広がり、今までの変わり映えしないか逆にわざとらしいゴンゴン整形と一味違う新しい感覚の整形を求めて次々と各地からニューハーフが集まってくるようになりました。当時ニューハーフがよく行っていたのは関西では京都のK先生、Y先生がいた頃の大阪のJSクリニック、東京では江崎先生の所でした。また東京と関西ではニューハーフの整形指向も違い、関西はより美しく派手めにという傾向が強く、整形してることも全く隠さずオープンでしたが、東京は意外に秘密主義な閉鎖的な傾向がありました。その意味で私のニューハーフ整形が大阪で始まり発展していったのは幸運でした。また京都のK先生の治療姿勢や手技も間接的に拝見する機会が多かったので、良い刺激を受けることができ、それも大変役立ったと思います。結果的に私は平成8年に大阪で開業することになりましたが、それまで関西の大半のニューハーフの整形手術や除睾術をしていたK先生の縄張りを荒らすようなことになり、嫌われてしまうのではと少し心配していたのですが、私の噂もK先生の耳に入りますから、私がK先生と似たようなスタンスで、結構まじめに良心的にやっているのを評価してくれたのか、全く摩擦は生じず、むしろ早い段階で協力的な関係を築くことができました。ですから本当に立派な先生だとずっと尊敬しています。なのに、もう10年が経つのにK先生とはいつも電話でお話しさせていただくだけで、まだ一度も実際に会ったことがありません。私の平成14年の性転換死亡事故の件でもたいそう心配してくれ、アドバイスもいただきました。いつもご挨拶に出向こうと私のロッカーにはちゃんとお酒が用意されているんですが、残念ながら忙しくて今まで実現していません。ニューハーフの整形、性転換治療で、私が大阪で順調に伸びていけたのは、良い意味で人格者のK先生が先達者として居たからだと痛感しています。
平成6年にAさんの性転換手術をしてから、私は久しぶりに冗談酒場にまた時折顔を出すようになりました。秋頃になって、以前店に在籍していたNさんが今は梅田のJ&Bという店にいるというので、当時梅田のビジネスホテルを定宿にしていた私はある日そのJ&Bに出向くことにしました。およそ1年半ぶりにNさんに会ったわけですが、Nさんは私に会うなり「ちょうどいいところにきた、先生にぜひ会わせたいコがいるのよ」とその店のAさん(今はチーママになってます)のことをすごい整形マニアだと私に紹介しました。冗談と思っていたら、確かに色々とやっており、おっぱいは良いデキでしたが、目鼻はちょっと引くくらいわざとらしさがあって、Aさんはなかなかうまくいかないのよ、どうしたらいいの?と真剣に相談してきました。それで色々と提案し、近日中に私が週2~3回勤務していた梅田のSクリニックで全顔のやり直し整形をすることにしました。きめたプランはまず経鼻挿管の全麻で下顎の手術を済ませ、経口挿管に入れ替えて目の切開、鼻の骨切り、最後に額のプロテ挿入というものでしたが、当時、額のプロテは日本の高研が作らなくなってから良い品が入手できず、仕方ないのでシリコンプレートの原板から薄切りして手作りしました。血流を良くするためプレートにたくさん小孔を開けるのですが、思いのほか良くできたので記念に小孔で自分のイニシャルを刻んだのを覚えています。ただ額のプロテは数年経つとやはり組織の血流の底下からプロテ上の皮膚筋肉が薄くなり、浮動しやすくなるので、Aさんの場合も5、6年後には抜去して、今は別の方法で額の丸みを作っています。鼻はその後も何回か修正しましたが、その時は一応全部うまく行き、すっかり顔が美しく変貌し、信頼を得ることができました。私はニューハーフ整形にありがちな、いわゆるゴンゴン顔(きつめの派手な女装顔)にはできるだけしないで、派手めだけどかわいくきれいで、すっぴんでも整って見える顔をめざします。ニューハーフの人は普段昼間は化粧しないですから、すっぴんでも自然にきれいに見えるようにしないといけないのです。普通の職業の生活をしている人をGIDと呼ぶことが多いんですが、ニューハーフの人も多くが、ドラッグクィーンのような超派手めなお化けみたいな化粧はしたがりません。きれいに女っぽく見られたいだけです。一方、一般のGIDの方は普通に地味なままで女性になりたがっている感じですね。
もちろん私も最初の頃はよく術後に修正をしました。もともと陰茎や陰嚢には個人差が大きいし、それで出来あがりもかなり変わります。また術後の腫れや出血の多寡によっても結果に大きな差が出ます。少しでも元の性器の条件や術後の治り方の違いからくる出来あがりの個人差を縮めたいという願いから難しい症例に遭遇するたびに改良を重ねました。主な改良の歴史を言うと、最初は平成8年末です。その頃まで小陰唇は陰核形成につかう亀頭部に付けた皮膚を左右に分けて作ってました。小さめの小陰唇しかできませんが、かなり良い形ができます。しかし亀頭からの血行が不十分だと壊死して全滅になります。数十例やって、成功率50%でした。これじゃあ、苦労の割に報われないとあきらめ、陰茎近位側の皮膚で作るように変えました。しかしこれは作るのは簡単なのですが、時が経つと形が不鮮明になることが多いのです。確かに術後修正で再び作り直すこともできるし、元来世界的には小陰唇は2次的に形成されるのが一般的でした。しかしタイでは変な形なんですが、最初から作ってましたから、私も何とかもっと良い形の小陰唇を一期的に作りたかったのです。何度も改良を重ね、完成度がかなり高くなり安定したのは、先ほど述べた現行の2005年夏のマイナーチェンジ版なんですから、10年間も試行錯誤してたってことですね。とにかく小陰唇は陰茎の皮膚の余裕で、デキの良さが決まりますから、粗チンの患者には「小陰唇は厳しいかも‥」と今でも最初に弁解しています。私の大阪での開業は平成8年1月なのですが、その年数人だったフィリピンの患者さんが平成9年から急増してきました。するとやはり日本人との違いが問題になります。それまででもイアン・エルヅ法では実はきれいな陰裂の形成が難しかったのですが、平均して日本人より陰茎の大きいフィリピン人が立て続けにきて、割れめが不恰好だと苦情を言われました。それで何とかきれいなワレメを作るようにしようと新しい工夫を考えていたら、偶然に小陰唇も同時に飛躍的に作りやすくなることに気づき、やった~と喜びました。この新工夫は現在までも続いています。私は昔から性転換にまじめな関心をもつ人達には手術の見学を患者さんの了解をとって受け入れており、お医者さんも時々来られますが、この私の小陰唇の作り方を見るとみんな目からウロコになり、びっくりしています。私の性転換手術が最初の大躍進を遂げたのはこの平成9年のことです。
意外に品揃えに手間取ったのがシリコンスティックを挿入する際に使うゼリーです。K-Yゼリーがいちばん良いというので探してみると、日本の薬屋さんでは売られていませんでした。個人輸入は面倒だと思っていたら、国内で通信販売してくれる、家族計画や母体保護のための財団法人みたいなところが見つかったので、しばらくそこに注文してたのですが、あるとき出入りの医材業者に聞いたら簡単に手に入ると聞いて拍子抜けしました。とても使いやすくて良い潤滑ゼリーなんですが、やっぱり今も普通の薬屋さんには置いてないんですよね。薬局にある、性行為用潤滑ゼリー製品は高いし、乾きやすいものも多く、今でも世界的にMtF-SRS後のスティック留置や性行為にはK-Yゼリーが定番商品なんですが、日本の薬屋さんではなぜか見ませんね。許認可の問題でもあるのでしょうか。とにかく性転換はあまりに特殊な手術なので、ほかの術後では使わないような色々な小物が手術の時や術後、セルフケア時それぞれ必要なのです。外来での膣洗浄をするために適当なイルリガートルや専用ノズルを探したり、その水受けのために洋式タイプのポータブルベイスン(トイレ)を用意したり、手術に使う道具もどんな剥離剪刀がいいとか、造膣の奥の剥離には日母式の胎盤鉗子の9ミリと12ミリが最適だとか、膣内を見るためのファィバー光付きの筋鈎も使いやすいものを探したり、特注したりなどと手術のやり方だけでなく、使用する道具、またアフターケアに用いる道具も医療側用と患者側用とさまざまに試行錯誤しながら、改善してきました。ほぼ現在のシステムができるまでは、初めて手術を開始して3~4年くらいかかったと思います。術式の改革は1年に1~2回は行われました。現行の手術は2004年バージョンの2005年夏マイナーチェンジ版というものですが、またいつか変わるかもしれません。ずっとスウェーデンのイアン・エルヅ法が下敷きになっているのですが、今はもう造膣皮弁に主に院嚢皮膚が使われるということくらいが共通点だけというくらい変貌しました。といっても私は彼の手術を一度も見たことありませんが。イアン・エルヅ法は造膣以外に外陰部の形成法に詳細な記載がなく、外見は術者で天と地ほどに違いがでるやり方です。あるとき韓国から来た患者さんが現地でSRSを受けて外見を治したいというので、診せてもらったら確かに酷い出来あがりでしたが、よく見ると造膣はイアン・エルヅ法でした。
それで、もし使えれば私の手作りのシリコンスティックをお分けすることくらいはしているのですが、少し膣が狭くなっていると直径31mmのより27mmの方が楽だということになります。ところが、先ほど述べたようにこのタイプは作るのに今もたいへん手間がかかるので、在庫がいつもほとんどないのです。もともと私の所では手術の用具ですから、傷んで使えなくなったときだけ新規に製作する品物です。私は仕事で毎日忙しく、スティックばかり作っているわけにはいきません。当院の患者さんからレギュラーサイズの再注文を受けてもいつも1ヶ月待ちだとか、戸籍変更や改名用に術後の診断書を頼まれても2、3ヶ月待ちだとかいうような状態なので、タイの患者さんの術後ケアの手助けまで十分手が回らないのはご理解ください。大阪のある大学のジェンダークリニックがMtF-SRSを本格的に始めるときは、今の私が手作りしているシリコンスティックと同じ素材、形状で業者に大量生産させるというので、私はそれを期待して、手術の協力を引き受けたというくらいにスティック作りに苦労しています。患者さんの累積数が増えて、再注文も多くなり、いつも1回に6~12本くらい作るのですが、すぐになくなってしまいます。
あと術後のケアで苦労したのは膣の消毒や洗浄をどのようにさせたら良いかということですね。色んなものを調べ、消毒にはドーチという外国で使われるプラスチック製の大きな浣腸器のようなものを見つけまして、今はフィリピンから輸入しています。また膣内のシャワー洗浄の道具として、大人のおもちゃのカタログで発見した直腸洗浄器(本来は膣洗浄器として売られているが、正常細菌が洗い流され過ぎて良くないと思う)を直接に製造業者に毎年発注しています。また液体石鹸で膣内を洗うとき指では奥まで洗えませんから、使いやすいスポンジブラシのようなものはないか探したり、またシリコンスティックが膣から出ないように押さえるためのサポーターショーツもガードルではかさばるので、どんなものがいいか検討し、水泳用やダンス用のハイレグショーツが装着しやすいとわかりましたが、メーカーでも品質に特徴があり、今では一番しっかりした作りをしている、ある大阪の中小メーカーの製品を定番にしています。また1週間は排便を抑制するためどういう食事商品を推奨したらいいかとか、1週間あまり導尿カテーテルを留置して使うので簡便な使用法を工夫したりなどしました。
あと術後のケアで苦労したのは膣の消毒や洗浄をどのようにさせたら良いかということですね。色んなものを調べ、消毒にはドーチという外国で使われるプラスチック製の大きな浣腸器のようなものを見つけまして、今はフィリピンから輸入しています。また膣内のシャワー洗浄の道具として、大人のおもちゃのカタログで発見した直腸洗浄器(本来は膣洗浄器として売られているが、正常細菌が洗い流され過ぎて良くないと思う)を直接に製造業者に毎年発注しています。また液体石鹸で膣内を洗うとき指では奥まで洗えませんから、使いやすいスポンジブラシのようなものはないか探したり、またシリコンスティックが膣から出ないように押さえるためのサポーターショーツもガードルではかさばるので、どんなものがいいか検討し、水泳用やダンス用のハイレグショーツが装着しやすいとわかりましたが、メーカーでも品質に特徴があり、今では一番しっかりした作りをしている、ある大阪の中小メーカーの製品を定番にしています。また1週間は排便を抑制するためどういう食事商品を推奨したらいいかとか、1週間あまり導尿カテーテルを留置して使うので簡便な使用法を工夫したりなどしました。
この直径27mmのシリコンスティックはもともと造膣手術用に作ったものです。Aさんの手術のあと、平成7年の前半までに同じ店のニューハーフ2人の性転換手術を、やはり埼玉の厚生病院で、S先生の執刀で、助手を私が務め、行いましたが、毎回造膣のための直腸・尿道間剥離の操作が難しく面倒だと感じていました。幸いに直腸裂傷のようなトラブルは一度も起こさなかったものの、いつも11cm程度の深さまでしか作れず、より深い造膣をするには現状のやり方では限界があると考え、直腸内にあらかじめ棒状のシリコンスティックを挿入しておき、これをガイドにして剥離していけば、剥離操作の間いつも直腸壁の厚みを触知でき、安全により深い剥離が可能になるのではないかと考え、そのために考案して自分が執刀し始めた4例め頃から手術の時に使い始めました。この効果は抜群で手術に慣れるに従い、造膣の深さは13→15→17cmと進み、10例めには19cmの深さまで剥離できるようになりました。実は17cmを越える剥離を行うと腹腔内に入りやすくなり、術後管理の面で良くありません。現在は最長16cmくらいまでしか私は造膣を行いませんが、これは腹膜の手前で剥離を終了するように手術を定式化したからです。しかしほとんど直腸裂傷を起こすことなく、安全にかなり深い造膣剥離ができるようになったのは、この細めのスティックのおかげです。ただ、専門的なことを言いますと、直腸裂傷がいちばん起きやすい深さは膣口から6~8cmの位置です。奥の方では乱暴な操作をしなければ、腸の破損はほとんど起こりません。術後の膣の狭搾をきたした例や術中膣内にトラブルのあった例にもこの直径27mmのシリコンスティックを使いますが、このスティックは今も使いやすい鋳型がなく、作るのに手間がかかります。先ほども言ったようにタイの患者さんは術後早期にすでに狭くなっている例が多く、時々うわさを聞いて術後処置とシリコンスティックだけを求めて私の所に来る患者さんがいるのですが、基本的にやり方が全く違いますから、責任もって術後の処置や修正をすることがやりにくいのです(タイでは、埼玉大方式と似たようなMcRoberts法のタイプが多いです。タイで私の今の術式に少し似ているのは偶然なんですが、Suporn先生です。術後の患者さんを診る機会があって、15cmくらいの造膣を私と同じように尿道皮弁を併用移植して行っている?のを確認しました。)
何とかやり終えた性転換手術でしたが、術式の改良だけでなく、術後ケアの方法も解決を要する問題が多いことに気づかされました。その中で特に大きな問題は手術で作られた人工膣が術後に塞がらないように入れておくステント(棒状をしているので患者さんはふつうスティックと呼びます)をどのようにしたらいいかということでした。たとえばタイでは10cm程度の太短いロウソクが術後の患者に渡され、1日に何回か入れておくよう指示されるのですが、硬いし耐久性もなく、あまり効果もありません。最近はアクリル製のダイアレーターという先のやや尖った硬い20cmくらいの棒を買わせて、1日に何回か挿入させ、術後の膣の拡張を促すというように変わっているようですが、タイの術後の患者さんを多数見てきた私の経験やある大学のジェンダークリニックの知り合いの先生のタイ術後患者の多くの診察所見でも、このような管理法でうまくいっている人は現実にはほとんどいなくてせっかく作られた膣も使い物になっていないことの方が多いようです。シンガポールの性転換の病院には1本3万円位で売られている直径3cmのシリコン製の専用品があって、これはほぼ1日中膣に入れて使う持続留置タイプのもので、私の術後ケアの考え方に一致するのですが、日本では入手できませんでした。Aさんの場合は以前に店のママが性転換手術の後に使用したシリコンスティックがあったので、それをしばらく使うようアドバイスしたのですが、今後の新たな性転換手術のことを考えると何とか使いやすいステントを準備しておく必要があります。まず既製品で転用できるものがないかと医療用具から一般の家庭用や業務用の道具類の樹脂製品、大人のおもちゃまで色々と調べましたが、適当な太さ、長さ、形状、材質のものがなく、結局自分で作るしかないと、素材店で良質な成形用液体シリコン樹脂を入手し、自分で鋳型を作製し、一つ一つ手作りすることにしました。満足できる製品ができるまで1年近くかかりましたが、なかなか良い製品ができ、現在も使用しています。シンガポールのものを参考にしましたが、品質も耐久性も私の手作りシリコンスティックの方が優れています。太さは直径31mm、長さは出来あがりで16~17cmありますが、患者さんの膣長に合わせ、適当に切って使います。手術直後は平均で14~15cmくらいで使われることが多いです。これとは別に少し狭くなった膣用に直径27mmのものも作りました。