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性転換手術‐美容外科医のBlog

日本で唯一、開業医として永く本格的なMTFSRSに携わってきた医師が、GID(性同一性障害)治療について語ります。

初めての性転換手術(5)

2006-05-12 | Weblog
さ~ていよいよ性転換手術です。S先生が学会誌からMtF-SRS(男性→女性の性別再適合手術)の術式の文献をいくつか拾い出し、どれがいいか検討し、結局その中で1993年に発表されたスウェーデンのカロリンスク大学のDr.イアン エルヅの術式を採用することにしました。陰嚢皮膚と、切り開いた陰茎皮膚を組み合わせ、造膣内に挿入移植し膣壁を内張りするという造膣の手法が、タイなどで広く行われている陰茎皮膚を主に用いる陰茎皮弁反転法より、一般に陰茎の短い東洋人には向いているということ、また亀頭の一部を神経・血管付島状皮弁移植でクリトリスにする、当時としては画期的な陰核形成法が気に入ったからです。この陰核形成法は陰茎皮弁反転法のような他の造膣方法でも後に採用され、今では世界中で行われています。ただ陰茎白膜を伴った神経血管束が長く太く置き場に困るため、具体的な移植法はドクターにより色々なやり方があるようです。私も初めの頃と今とでは全く違っています。表の外陰部の形成法については文献にあまり詳しく書かれていませんでしたが、あとのことは実際にやってみれば何とかできるだろうと判断し、手術の実施に踏み切りました。時間がどれだけかかるかわからないので麻酔は全麻と硬膜外麻酔を併用することにし、執刀医はS先生、麻酔管理と助手は私が担当しました。1994年=平成6年の初夏の頃であったと思いますが、詳しいことはもうほとんど覚えていません。造膣の剥離のとき、直腸裂傷を避けるため何度も肛門側から指を入れて確認しながら操作を進め、何とか11㎝強の深さを確保し、この中に陰嚢陰茎皮弁を押し込み、戻らないようコンドームで包んだガーゼをパックし、新しい尿道口と亀頭で作ったクリトリスを表面に出して予定位置に縫着し、最後に大・小陰唇を形成しましたが、膣前庭部分が厚めになり、股を閉じたとき陰裂の間に少しはみ出る感じになりました。ただ初めてとしては何とかうまくできたように思われました。問題があれば経過を見て、また修正していけばいいと考え、その責任は私が負うことになり、実際に術後1年半の間に2~3回の追加の修正手術を大阪で行い、より自然に見えるように改善していきました。Aさんは1週間近くで無事退院し、術後のケアは私が大阪で行っていきましたが、性転換手術では術後の管理が手術の出来あがりに非常に重要であることがわかり、解決を要する問題がまだたくさん残ってることに気づかされました。

初めての性転換手術(4)

2006-05-12 | Weblog
中途半端でしたが警察病院では、形成外科の基本技術をたっぶりと学び(何せ当時は3年いれば大学の10年以上に値するといわれたくらい、物凄く先代の清一先生の頃は手術が多かったのです‐手術の適応基準が無茶苦茶でしたから)あと何を見ても怖じ気づかない度胸と根性が身につき、またやたら数ばかりこなす麻酔の研修もさせてもらい、全身麻酔がいかに怖いものであるかという貴重な体験も短い間に割とさせていただき、おかげで常に麻酔は慎重にやるという良いくせがつきました。基本的に全麻は安全なものですが、麻酔の本当の怖さは麻酔中は何が起こるかわからないというものです。研修中、私の担当ではありませんでしたが、筋弛緩で心停止を起こしたケースも見ましたし、自分のケースでは挿管チューブに血が噴出するという異常な事態も経験しました。プリングル病(多発性硬化症)の稀な合併症で、世界でも数例報告という気管血管腫をもった患者さんで(もちろん後でわかった)皮膚腫瘍に炭酸ガスレーザー照射をするために全身麻酔をかけようと気管内挿管したら、血管腫を刺激して大出血したのです。その時はもう何が何だかわからないくらいびっくりです。有り得ないようなことが起こるから怖い、これが麻酔の私の教訓で、おかげでこれまで一度も麻酔の事故は起こさないでこれました。こうした警察病院の経験は美容外科に行っても大いに役に立ちました。美容外科の経験は自信をもって大阪へ出向くことにつながり、そこでニューハーフと遭遇し、初めて除睾術を行うも、やむなき事情から一転失業して各地行脚の激務のバイト生活に入り、そこで必然的に大多数の硬膜外麻酔を経験することになって、ついに性転換手術をも要請されるに至り、それもこれまでの経験と人脈を何とかすればできるかもしれないという段階になったわけです。あと私には元々ニューハーフに対して特別な情というか慣れがありました。私はある大学を中退して医学部へ進むために大阪で浪人生をしてたのですが、その時バイトでゲームセンターで夜中働いてました。30年以上前の当時のゲームセンターは今と違い、カジノっぽい感じで、夜中の客層はホントに質が悪い怪しいやらで、よくオカマなんかも出入りしてたんです。当時はニューハーフなんて言いません。みんなブサイクというよりゴツくて怖かったんですが、しかし毎晩のように見るので慣れてしまってむしろ親愛の情さえわいていたのか私には何か理解できる人達ではありました。

初めての性転換手術(3)

2006-05-12 | Weblog
しかし医者になる以上は少しは病気の事も知っておかないとな~と思い、それに将来、顔を手術するとき頭(脳)のこともわかってると都合がいいだろうと考え、脳外を選んだというわけなんですが、ホントは研修医試験のとき外科(消化器系)の勉強がまだ手についてなかったというのが本音です。将来、形成外科に進むかどうかもまだ半信半疑でした。それより何とか卒業して国試に受かることの方が先決で、ゆったり将来のことを夢見る余裕などありませんでした。今でも長い苦行の卒試の辛さを夢に見ます。あまり学校にも行かず、勉強もしなかったせいか、ずっと自分が病気を治す側(医者)ではなく、治される側(患者)の視点で医療を見てきたように思います。例えば小児科の実習ではある種の脳性麻痺と気管支嚢胞の患者を2人受けもったことがありますが、まず大学病院のカルテの検査の多さ、特にX線画像系の写真の量と重さに驚かされ、ちっちゃい子供によくこれだけ放射線被曝させるなと呆れたものです。これだけ検査されたらトラウマになるわ、どうせ検査じゃ治らんのにとか、どうせ手術せにゃ治らんのにとか、最初から研究系の医師になるには全く不向きなタチで、病気の治療に医者的な関心をもてませんでした。ですから形成外科へと流れていく素質がもともとあったわけなんですが、実際に形成外科それも日本一?と言われた警察病院の形成外科に入局してみると、患者の側からしか物が見えない欠点?がまた出てしまって‥ええっ?形成外科ってこんなもんなの?なんか違くない?こんなんでいいの?と、現実の厳しさに色んな意味で打ちひしがれ、もういいや、しょうがないから美容外科でもやるかと“転落”していったわけです。『形成外科』に対する患者さんの期待は大きいのです。大きすぎるくらいです。治療される側の視点で見るとそれが痛いほどよくわかります。しかし治療する側としては限界があるという現実の中でしか治療はできません。医者から見れば《確かに》良くなってても患者からみれば、それなりにというか、それほどにはというか、この治癒感覚の落差を強引に無視するだけの心の強さがないと形成外科医はやっていけません。もちろん治るものは見事に治ります。しかし治し難いものはそれなりです。とくに先天奇形はどれも難しい。お世話になった警察病院の悪口じゃありません。限界のあることにも苦痛を感じていたら医者なんかやれないのです。医師失格の思いで、私は形成外科を去ったのです。

初めての性転換手術(2)

2006-05-11 | Weblog
この埼玉のある厚生病院はS先生の大学の同級生で、週1で大塚美容形成にもアルバイトにきていたT先生が以前勤務していた病院で、その当時一度私は父の難治性の腹壁ヘルニアの治療をT先生に依頼し、その手術の際に私も助手として参加したことがあり、よく知っていました。ところで余談ですが、T先生は後にピアストラブルの治療で全国的に有名になり、ピアス用具の会社と医院を経営し、さらに後にレーザー脱毛でも大成功され、メスからすっかり遠ざかり実業家医師に変身してしまいましたが、もとは実は癌研病院出身のバリバリの腹部外科医だったのです。一方、私は最初の研修のスタートこそ外科でしたが、翌年警察病院の形成外科に移り、そこも3年半という中途半端なところで離脱し、その後一見小綺麗な美容外科の世界に流れていったわけなんですが、それがやがてMtFの性転換手術や骨切り主体の女性化顔面手術(FFS)、FtMの乳腺切除手術などやたら血を浴びる手術ばかりやるようになってしまうとは人生わからないものです。しかし、こうなったのもよく考えると運命であったようにも感じます。だいたい医者になったときから変。もともと病気に興味がなく、大学に残る気もなく卒後はとりあえず早く手に職をつけようと、都内の病院の脳外科に入局しましたが、別に脳外が好きだったわけではなく、研修医試験を受ける6年生の秋に外科全体がまだ勉強できてなくて何とか脳外科までは終えていたのと、脳外の手術は椅子に座ってちんたらやってられるのが楽そうでいいというわけなんだからダメですよね。ところが入った病院が暇すぎて、さすがにこれじゃいかんと救急車がよく出入りしている近くの警察病院に憧れ、形成に転科することになったのですが、病気に興味の薄かった私は形成外科には関心はありました。大学の耳鼻科のポリクリの時、OKK(上顎癌)の術後の患者さんが外来にきてまして、これが半分顔がないんです。びっくりしますよ。で、先生がチョチョと消毒してハイおわり。ええっ?これでホントにおわり?あと何もないの?これが医療てもんなの?この人、顔半分ないままですかぁ?これが私の正直な感想でした。《命には関係なくても人間である以上大事なもんがあるだろう。外見の顔とか形とかも大事だろ?医療てのはそんなのはどうでもいいのか?》と思っていたら形成外科というのがあるらしい。ほう、さすが医療だ、分野が広い!というのが私の最初の形成外科への関心でありました。

初めての性転換手術(1)

2006-05-10 | Weblog
私が警察病院にいた当時、とりわけ優れた若手の3人の先生がいました。私が直接に色んなことを教わったのはこの先生達ですが、いちばんよく教えてくれたのは後に岩手医大の教授になられた小林先生とその上司だった副医長の関口先生です。私はこの関口先生にあまり評価されなくて、警察病院を辞めて、美容の世界に入っていくのですが、もう一人よく面倒見てもらったのが先ほど述べた当時医局長のS先生で、若いうちに余りに手術をやりすぎて疲れたのかあきたのか、私が警察病院をやめたあと大塚美容形成外科に移ってきたんですが、キャリアがすごいですから、そこですぐに医局長、今は院長になりましたが、私と年は少ししか違わないのに、今までの仕事のやり過ぎの反動でしょうか、現在はゴルフにはまってあまり働かない怠け者になったようです(笑)。あと繊細な手術で、いつも敬服していたのはやはりS先生の1年くらいあとに警察病院をやめて渋谷で美容外科を開業し若くしてご病気で亡くなられたK先生で、本当に丁寧な手術をされていましたが、後年は骨切りなどの荒っぽい手術もやるようになると結構大胆に変身していましたね。警察病院は日本の形成外科のパイオニアで大昔は各地の大学教授や大病院の部長を送り出していたのですが、私がいた頃はもう各地の大学に形成外科ができあがり、関連病院もほとんどなくなり、長く居ても行き先がない状態でした。それで次々と優秀な先生たちがやめて美容外科に流れ始めたのかと思います。先代の清一先生から喜太郎先生になってさらに美容外科に傾斜してましたから、クリニカ市ヶ谷でこきつかわれるなら開業しようとか、他の美容外科に移ろうと考えるようになったのかはわかりません。警察病院のあとも一緒に働くことになったS先生は私にとって頼もしい存在であり、わからないことがあると的確にアドバイスをくれる大先輩で、何より手術が当時は大好きな人でしたから性転換の話をもっていけば、面白そうだと必ず乗り気になってくれると思いました。S先生は警察病院時代に女子の先天性無膣症の形成手術を1例、経験してましたし、また週1で、埼玉のある厚生病院の形成外科外来の非常勤医をしていましたから、この施設を使うことができれば性転換手術もやれるのではないかと考えたのです。このあたりの話は私の平成14年の性転換医療事故の大阪府警の事故調査の時にすべて調査確認済みで、問題無しになっていることであり、今更何も隠す必要のないことです。

性転換手術の依頼

2006-05-10 | Weblog
あちこちと仕事で飛び回る生活をしていて、1年くらいたった頃ニューハーフのAさんが完全に性転換手術をしたいと相談してきました。当時はまだほかのニューハーフさんの手術はしてなくて、私は毎日多忙で疲れて夜にショーパブに遊びに出かけるようなことも全くなく、以前通っていた店ではAさんが私の消息を誰にも話さなかったこともあって私は行方不明者扱いでした。Aさんは私に言えば何とか手術してくれると思ったのでしょうが、除睾術と違って、入院も要する大手術ですし、もちろん経験もなく、まともな手術書もありませんから、見よう見まねでもできるわけがありません。無理だと断りました。じつは性転換手術はわずかながらごく一部の国内の大学の形成外科関係者らの手によって、実験的になされていましたし、平成6年当時といえば、それまでの手術代の高いシンガポールのドクターリーのところから、費用の安いタイ・バンコクのヤンヒー病院にようやくちらほらと性転換を希望する患者さんが移り始めた頃で、また京都のK先生も簡易式の性転換手術を手がけてました。実はAさんの店のママも大阪のある医大の形成外科の関係先で、少し前に性転換手術を受けてました。堂々とやったらいけないだけで、日本の先生なら他の難しい手術もできるのだから、頼みこめば何とかしてくれると思われたのでしょうが、そう簡単にはいきません。もちろん美容形成の医師として、手術に対する関心もありますから、やれるものなら何とかしてやりたいし、Aさんが性転換手術を受けたいという気持ちは話を聞いてよく理解もできました。それで、結局何とかできるように考えてみるから少し時間をくれないかと返事しました。たしかに手術をするだけの基本技術はありますから、あとはある程度詳細な手術方法についての文献と手術・入院の可能な施設、あとできれば手術部位に関していくらか取り扱った経験のある医者がそろえば、初めてでも実際何とか手術はできるのではないかと考えたのです。それでまず警察病院時代の上司で、その後私がいた大塚美容形成外科で医局長をしていたS先生に相談しました。私は警察病院出身となのるほど長くはいませんでしたが、私がいた頃の警察病院にいた先生達はたしかに色々な凄まじい手術をいつもやっていましたから、怖いもの知らずというか、面白そうなことなら何でも興味をもって挑戦する気合いと実力がありました。ですから相談すれば何とか協力してくれるのではないかと考えたのです。

激務のバイト生活へ

2006-05-05 | Weblog
結局1年と少しでクリニックは閉鎖になり、数カ月間給与も支払われなかった私は顔面骨切りの機械一式を持ち出し、経過観察中の患者さんのために連絡先を書いた紙を入口のドアに貼り、出てゆきました。1年とはいえそれまでに手術をしてきた患者さんには責任があるので大阪で2日くらいのバイト先を見つけようと阪大形成の医局長に相談し、梅田の第3ビルの皮膚科と美容形成をやっていたSクリニックに世話になることになりました。彼とは東京警察病院時代に2年間いっしょに働いて知っていました。あとは名古屋の中古外車販売会社の社長がオーナーだったAクリニックと当時急激に大きくなっていたコムロ美容外科でも働き口を見つけました。小室先生は私が大塚美容形成外科にいた始めの頃、包茎手術班のバイトをしていて少し顔見知りでした。Aクリニックは大塚美容形成外科に時折、見学にきてた亀井先生(現共立宇都宮院長)の紹介でした。Aクリニックの新設された渋谷分院で1年間、週3パートの雇われ院長をやったあとは、倒産した医療クレジット会社の幹部が事務長におさまっていた関係で、共立美容外科の大阪、福岡、高松分院などで働きました。また大塚時代の同僚の韓国人の先生で、新宿で開業し韓国人を専門に手術をしていたYクリニックでも仕事を週1引き受けました。とにかく毎日あちこちで休みなく働いていて、いつも朝、目を覚ますと自分がどこにいるのかわからない生活でした。このバイトの嵐の経験の中で、のちに性転換手術をやっていく私に役に立ったのが、硬膜外麻酔の経験です。コムロと共立は硬膜外麻酔を頻繁に行っていて、大塚時代には経験していなかった私はこの頃からすべての仕事場で、豊胸手術と脂肪吸引に硬膜外麻酔を行うようになり、おかげで著しく上達しました。MtFSRSやFtMの乳腺切除手術はすべて硬膜外麻酔で行われます。この時の経験が実に役に立っています。小室先生が「あの先生は僕が教えたんだよ~」なんてことを飲み屋で、吹聴してるみたいな噂を聞いたことがありますが、確かに硬膜外麻酔の経験はコムロで、たくさん積みました。感謝してます。でもほとんど教わってませんよ。コムロで硬麻のやり方を見て、ほかのクリニックで安全度の高い症例で練習し覚えて、コムロでやり始めたのです。手術については何にも教わってませんが(笑)ただ大塚と全く違い、当時のコムロは豊胸は巨乳傾向で、脂肪吸引も大量吸引でしたので、やはり参考にはなりましたね。

初めての除睾術

2006-05-05 | Weblog
Aさんはその店で中学生で、業界デビューしていたのですが、しばらくほかの店に移っていて、平成4年の秋にまた戻ってきてました。私は東京から知り合いの美容外科の先生が訪ねてきて、久しぶりに接待で出向いた時に初めて会い、あまりの可愛らしさに驚きました。たまたま私の席に来て、整形の話になり、私のクリニックでモニターとして顔の輪郭の手術をするということになりました。手術は片方の腫れが少し長引きましたが、結果は良好でした。しかし術前写真を取り忘れていて、結局宣伝用モニターにはなりませんでした。これが私が初めてニューハーフの整形手術をした体験です。これを機会に親しくなり、平成5年の春には何とか除睾手術をしてほしいと依頼されました。確かにその当時、関西ニューハーフ界の頼みの綱だった京都のK先生は一時的に除睾術の受け入れに慎重になっていて、みんな困っていたようでした。それで私がたのまれたのですが、手術自体はそれほど難しくないとはいえ、どんなことが問題になるのか色々と調べました。手術書だけでなくブルーボーイ事件の裁判記録や60年代にさかんに性転換手術をやっていたペンシルベニア大学のハリーベンジャミンの性転換症の文献なども読んで勉強し、これは正当な医療であると確信し引き受けました。私は1年間、美容外科の雇われ院長としてやってきましたが、母体の会社が本業のクレジット信用保証で、あるスポーツジムの破産を受け多額の債務を負い、経営が急に厳しくなり、まだ十分利益をあげていなかった美容クリニックは近く閉鎖される予定になっていたため、早く約束した手術をやらなければなりませんでした。ところが、ナース全員に違法なことには関わりたくないと反対され、誰も手伝ってくれない事態になりました。私自身も手術は初めてで、何分かかるか勝手がわからなかったので、その手術は静脈麻酔併用の局所麻酔で対応することにしてたのですが、点滴、モニター、側管注から全部一人でやるはめになり、介助もなく、汗だくで必死の思いで手術をなんとかやり遂げました。今なら15分くらいの手術ですが、その時は40分以上かかっていたと思います。介助を拒否したナース達ですが、この中の2~3人はその後私が完全性転換手術をやるようになってからは患者さん達の真剣な手術に対する気持ちを理解して手伝ってくれるようになり、今も私のクリニックで働いてくれています。今はカウンセリングから何から、超ベテランになっています。

ニューハーフとの出会い

2006-05-05 | Weblog
東京ではそのような店に行ったことはなかったし、仕事でもいわゆるオカマの患者さんは受け持ったことがなく、周囲からもあの人らはうるさいから関わらない方がいいと言われてました。カルーセルさんがモロッコの、生涯に5千人くらいの手術をしたのに1編の論文も残さなかったというDr.Burowの所で、性転換手術を受けたのは私がまだ十代の頃で、すごい人がいるなぁと(今は顔見知りになりましたが‥)思っていました。昭和45年頃に東京では赤坂にプチシャトー(のちに西麻布へ移転)大阪ではエルドマンなどの豪華なショークラブができはじめたと思いますが、しだいにそういう店が増え、大衆化し、ショーハウス全盛時代になり、私が大阪に行った頃はそんなニューハーフ大人気ブームもやや峠を越えた頃だと思いますが、まだまだ店内は賑やかでお客さんも多く活気があり、またニューハーフがどんな人達なのかよくわからないせいもあって、何か神秘的な気配さえ感じ、面白くて、ただ単純に客として月に一度くらいクリニックのスタッフらと遊びに行ってました。自分の仕事に結びつくとかあまり考えてませんでした。実際にニューハーフの人たちが、私の所に美容外科の手術をたくさん受けにくるようになったのは、それから2年あまりもたってからのことです。ただその店で大人気だったAさんというニューハーフとの出会いが私の美容外科医としての運命を変えはじめました。それまで性転換など自分には関係ない分野だと思ってました。別のある店で、まだ若くてかわいいニューハーフ(この子の完全性転換手術を4年後にすることになるのですが‥)に「先生、キンタマ取ってよ」と言われても、「いゃーやったことないし、できないな~」と、今から14年前の私は苦笑するだけでした。当時、京都の有名なK先生も何かの事情があって、除睾手術を今してくれないとか、またニューハーフ界で有名だった徳島のB先生もいなくなり頼めなくなったとか色々と話を聞く中で、日本ではK先生やB先生が勇気をもって親切にニューハーフ達の性転換手術に関わっていたのだなとわかり、本当に偉いなと感じました。私は美容外科にまともな医者はほとんどいないと思っていたので、K先生やB先生のお金儲けではなく、しっかりと医療として性転換に携わっている姿勢に尊敬の念をもちました。日本では昭和45年のブルーボーイ除睾手術事件で、医師が優性保護法違反で処罰されてから性転換手術はタブーになっていたのです。

大阪へ(2)

2006-05-05 | Weblog
当時私が勤務していた東京の美容外科医院では大阪に分院を出そうかという話があり、本院から逃げ出して分院でどんな手術でも一人でやろうと考えていた私は当然分院開設に積極賛成で、分院長候補にも名乗り出ていたのですが、院長は本院の有床化大規模移転計画のこともあり、意外に慎重で、分院計画は先延ばしになりました。また本院では、顎の骨切り関係の手術は少し前から美容歯科部門に移っていて、以前ほど外科の私は関われなくなっていて、そのため私は大阪にできる分院に移って、そこで自分で骨切り手術も一人でこなしていこうと考えていたのですが、この計画も大阪分院の骨切り患者は本院の美容歯科部門の担当ということに決まり、たとえ分院ができ、私が院長になっても、あまり自分の考えで仕事ができるものではないなとわかり、これまで以上に美容外科を幅広くやっていくには、どこか働きやすい所で雇われ院長にでもなって一人でやるしかないと考えはじめていました。ちょうどそこに大阪で美容外科をやらないかという話がきたのです。雇われですから色々と制約はあるのはわかっていましたが、バイト先の関係筋の経営であり、仕事のしやすさについてはわかっていたので、いずれ自分が本格的に開業するときの良い経験にもなると考え、すぐに引き受けました。その頃の私はもっと自由に美容外科の手術ができるならどこにでも行こうと考えていて、給与や待遇はどうでも良かったのです。こうして、たまたま大阪で仕事をすることになったのですが、これが後に自分の運命を大きく変えることになるとは思いもよりませんでした。医師免許停止が解け、現場復帰した常勤先の院長のちょっとした嫌がらせを受けながら、大阪に向かったのは平成4年の4月の事でした。はじめのひと月くらいはまだ住む所もきまらず、クリニックに寝泊まりしていたのですが、そのうち勤務先の近くに住所もきまり、一人暮らしになれ、時折は夜のミナミの繁華街を物珍しく出歩くようになりました。大阪は食い道楽と言いますから、よく美味しい食べ物屋さんを探してました。そんなある時、ミナミの周防町筋のビルの2階にあるブタの看板のお店が目にとまり、不思議と気になって入りました。冗談酒場(パブ)と書いてるだけで、何の店だかわかりません。何だかわからないが面白い所なのだろうと中に入ったら、そこは私が初めて見たニューハーフショーパブでした。この店との出会いが、後に私の運命を大きく変えることになったのです。