GRASS FEELS(グラスフィールズ)

グラスフィールズ
長野県を中心に活動するオリジナルロックバンド。

夏の蛙 第6章

2007-11-17 | Weblog
恒之は自宅の入り口の引き戸をガラガラっと開けた。

恒之の家は築35年。少し古く、大きめの平屋立てだ。


すると台所から「恒之かい?。」と母多美子の声。

「ああ…。」と恒之。
するとすぐに多美子は玄関に現れ、怒鳴り声で叫んだ。

「どこほっつき歩いたのよ!。今日の午後は会議だったんでしょ!?。お父さん一人にして!。

…まさかまたあの女の所に行ったんじゃないでしょうね?。」


「だったらどうなんだよ?。」と恒之ぶっきらぼうき答えた。


「あんた!何してるんだい!アートプランが今どういう状況か分かってんの!?。寛之が今月15万円も送金してくれたのよ!あの子だってあんなに生活が苦しいのに…あんたは何やってんの!?。」


「……。」


「少しは会社の事に力を貸してよ!。お父さんだけに任せておいたら倒産しちゃうわ!。
そうなったらどうするの?。太田さんも道連れにする気なの?、あんないい息子さんや娘さんがいるのよ、大学の費用もあるのでしょうに…あんたには人の心が少しでもあるの?。
あんな尻軽女にいつまで夢中になってるの!。惚れた腫れたじゃご飯は食べられないのよ!!。」と矢継ぎ早に多美子はまくし立てた。


恒之には返す言葉は無かった。給料の多くを佐藤妙子の治療費用に使い、このところ会社の経営についても気が回っていない事も事実だった。


佐藤妙子は義理の父からの援助を堅くなに拒んだ。

また母に対しては、父の死の直後にすぐに今の義理の父と恋に落ちた事も許せなかった。

彼女はホステスをしている時の自分の貯金だけで最初の手術と入院費用をまかない、なんとかまた自立したが、二回目のガン再発は想定しておらず、貯金も底をついていた。

今の両親に頼る気のない妙子は恒之に頼らざるを得なかった。

そんな妙子の境遇を知る恒之は当たり前の様に妙子に様々な心づくしの物や治療費を与えた。


恒之は黙って部屋の鍵をかけた。

自分の部屋に籠るしかなかったのだ。

部屋の外で母がまだ怒鳴っていたが、恒之はベッドに仰向けになり、天井を見つめた。

まだドアの外で母が怒鳴る声をぼおっと聞きながら…。

恒之は思う「…ヒロにゃ悪いことをしてるな…残り少ない二十代、あいつだって青春を楽しみたいだろう…。
あいつ最近は実家に寄り付かなくなったな…。当然だな。親父や俺がこんなんじゃ…。


だけどどうしても妙子だけは俺が守らなきゃならないんだ…。


…今は出来るかどうか分からんが、会社の事も考えて行かなければな…。

俺が女の尻を追いかけてると思われても仕方無いか…。他の奴らから見ればそうだろう。妙子は汚れた女か…確かにな…。だけどやっぱり俺には妙子しか居ない…。

それに理由は無い…俺は本当に馬鹿な男だ…。たが自分が馬鹿な男だということを俺は自覚している。

…それが分かるなら…何か方法はあるはずだ。妙子を守り、アートプランを立て直す方法が…。」

恒之は瞼を閉じ、じっと考え事を初めた。


夕食の時間になり、多美子は恒之の部屋をノックしたが、恒之の「要らない…」と言う言葉を聞くと、またぶつぶつ言いながら台所に戻って行った。


食卓には多美子と、恒之の父の忠夫の二人。
忠夫の頭髪は少し乱れ真っ白、しわがれた顔で、肌は色黒、痩せた身体。
そこに度の強い眼鏡を掛けている。


忠夫は今年で62才になった。

しかしまだまだ身体は丈夫だ、しかしどこか破気がない…。

垂れた目元と言い、外見は寛之にそっくりだった。

忠夫は「…いただきます。」
と言う。

今日の夕食は漬物、豆腐、魚に味噌汁。

多美子は一口ご飯を口に入れると箸を置き、お茶を一口のんでから言った「恒之はまた今日、あの女の所に行ったようなの…」

「…そうか…」

「もう少し会社の事も考えて欲しいわ。今月は寛之の送金があったからなんとかなったけど、これからの経営が安定するかどうかも分からないでしょ?。こんな時に恒之にも困ったものだわ…。」


「ああ…」


「ちょっとあなた聞いてるの?。」


「うん…」


と言い、忠夫は株の漬物を口に入れポリポリと音をたてた。


「あなたもあなたよ!会社に行くと言ってから何してるのよ!?、太田さんに聞いたのよ!。
事務所に来たかと思うと四時ぐらいには姿が見えないって!。」


「…それは別にお前に隠してたわけじゃないよ…」

「じゃあ何してたのよ!」

「色々あるのさ…」

「色々って何よ!」

「……。」

多美子は悲しそうに言う「……やっぱり賭け事やめてないのね…。」

忠夫は言う「でもこないだ10万円も家に入れたじゃないか…。」
多美子はすかさず「その前にいくら負けてるのよ!」と突っ込む。

忠夫には返す言葉がない…。

多美子はまた言う「お願いだからもう少し会社の事を真剣に考えて…。太田さんや寛之のためばかりじゃないのよ。何よりお父さん自身の事を考えて欲しいの…。」

最近の高畑家の食事はこんな調子だった。




恒之はエアコンを強めてから思う「…確か幸男伯父さんの伊那の知り合いに、経営アドバイザーって人がいたな…。伯父さんは委託料金もさほど高くないと言っていた…。ウチは殆んど素人の印刷集団だもんな…。アートプランが本当のプロに成るために…。そして仕事もきっちりこなし、自分の時間を手に入れるために…何かアドバイスしてくれるかも知れない…。決して魔法の様にはいかないが…。俺はまだ若い…。あんな破気の無い親父にいつまでも任せておくわけにはいかないな…。お袋、親父、寛之。そして何より妙子を守るために…。幸男伯父さんに相談してみるか…。」



同じ時、食事を終えた多美子はテレビの前に横になり「まったくウチの男達ときたら…。はぁ…もうねましょ、眠って嫌な事からサヨナラしましょ!。」と忠夫に聞こえる声で言い、うたた寝を初めた。


忠夫はまだ食卓に居て、相変わらず株の漬物をポリポリと音をたて、頬張っていた。




次の日恒之は定時で仕事を終え妙子が入院する病室へ向かった。


病室に入ると妙子は眠っていた。

恒之の目にはまるで魔法をかけられたお姫様が永遠の眠りについてしまった様に見えた。

「まさかこのまま起きないんじゃ…」と一瞬思う。


同じ病室の二人の初老の女性は、談話室にでもいるらしく、姿は無かった。


寛之がレジ袋から妙子のために買って来たミネラルウオーターをガサガサと取り出すと、その音で妙子は目を覚ました。

「…あれ…つねちゃん。来てくれてたんだ。こんな時間からあたし眠っちゃったんだ…」

恒之は言う「寝る子は育つ…」

「アハ!なにそれ?あたしこれ以上育つのイヤよ…。」


思わず恒之と妙子は笑った。


恒之が言った「…手術、受けるか?」

「…うん…とっても怖いけど…」

「そうか…良かった…」

「…わたし、考えても考えても、生きていたいの…こんな人生だけど…他の人にどれだけひどい事をして来たかはあたしが一番良く知っているし…。でも、まだあたし、32才なの…生きていたいの…自分勝手なのは知ってる。

お姫様気取りだった今までの自分はこのガンと一緒に切り取っちゃうの…。新しい自分になりたいの。

そして残りの人生はつねちゃんと一緒に過ごすの…。本当に自分勝手だけど、あたしそう決めたの…。だから手術を受けて少しでも生きるの…」

と言うと妙子の目から一筋の涙が伝い、妙子の布団に薄黒い点が滲んだ。

妙子は手術が成功する確率が低い事をすでに主治医から聞いていたのだ。

彼女は既に真実に気が付いていた。


「なんだか今日は俺にとって随分嬉しい事を言ってくれるじゃないか?嬉し涙か?それとも…?。」


「嬉し涙に決まってるじゃない…」そう言ってから妙子は恒之の右手を取り、そっと自分の乳房にそれをあてがった。


恒之は随分しぼんでしまった妙子の乳房を感じ、悲しくなった。

妙子は言う「分かってるよ、つねちゃんが今感じてる事…、でもこうしているととっても気持ちいいの…。とっても落ち着くの…。本当にあたし、自分の事しか考えていないね。」

恒之はじっと妙子の温もりを右手で感じた。
そして更に妙子を守りたい気持ちが強まってしまうのだった。

(妙子は本当に悪女なのかも知れない)と思いつつも…。





その後、恒之は診察室に入ると早速主治医から妙子の病状と手術の段取りの説明を受けた。

そこで聞いたのは、妙子の病状はやはり深刻なものであると言う事、手術にはかなりのリスクを伴う事だった。
失敗は即ち彼女の死を意味していた。

しかし、そんな話のなかで、唯一希望が持てるのは妙子の精神力と体力が充分であれば手術は成功の可能性があり、かなりの延命が可能である事だった。



恒之は病院からの帰りの車の中で、ひたすらアートプランと妙子の事について考えていた。





父、高畑忠夫は作業服を着込み、家の開き戸を開け、朝の外の空気を浴びた。

まだ8時前だと言うのに7月に入った静岡市内はむせかえるような暑さと湿気に見回れていた。


忠夫は社名の入った白い軽トラックに乗り込み、車で15分のアートプランの事務所に向かう。

アートプランは静岡市内から少し離れた田園地帯にあった。

事務所の鍵シャッターを鍵で開け、もう一つの鍵で事務所のガラス扉を開けた。


事務所に入ると忠夫は社長と書かれた自分の机の立て札を見つめた。

「…社長か…」


忠夫は実はずっと大手印刷会社のサラリーマンで居たかった。

しかし、まだ若い多美子から言われた言葉、それは「男の人って夢があって、自分の世界を持たなきゃいけないと思うよ。忠夫さん、あなたにはきっとその力があると思う…。私はあなたに付いて行きたい。貴方は自立出来る人だと思うの。」


まだ若かった多美子の言葉を思い出し、忠夫は思う。「あの頃は多美子の言う事が正しいと思った…。多美子を失いたくなかったし。

自分にもその才覚があると信じていた。
しかし、現実は仕事を請け負ったとしても、人件費や消耗品の購入代でほとんど利益は出なかった…。

俺は元来人付き合いが苦手な所がある…。

営業や仕事を獲得するのは至難の業だった…。
今は多美子に全てを委ねている。

あいつは話も上手いし、人付き合いも上手い…。

…俺はもう六十過ぎか…、もう生きる事の意味が分からない…正直。

この先に何があるんだ…。恒之や寛之の成長を見守ればいいのか?。…俺は子供達から尊敬されていない…。」

そう思いながら机に座ると、今日の仕事の段取りが書かれた手帳を開いた。

商店街の広告、卒業アルバム、大手家電メーカーのチラシ。

いくつも依頼はあったが、どれも請け負い金額が安く、利益を見込めるものでは無かった。

利益は少なく、ただ労働時間が延びるだけだ。


忠夫は事務所の冷蔵庫から冷たい烏龍茶の入ったピッチャーを取りだし、麒麟ビールのロゴの入ったコップに注ぎ、一気に半分ほど飲み、溜め息をついていると、事務所の扉が開き、太田輝久が姿を見せ「お早うございます」と言った。

太田輝久は56才。頭は禿げ、恰幅も良いが、その表情は柔和だ。


「ああ、お早う。てるさん、…ウチのに喋ったな…?。」

「…パチンコの事ですか?。…それが…奥さん、追求が厳しくて…まぁ私も今の会社の状態が少々不安なんですよ…だから…。」

と言い、禿げ上がった頭皮に左手を当てた。
忠夫は言う「達夫君と栄子ちゃんの事もあるしな…。

…分かってるよ。何とかしたいんだが、今の俺には何も思い付かないんだ。」


太田輝之は事務所の椅子に腰かけると言う「それなんですが、若社長が言うのに、経営アドバイザーを雇ったらどうかとの事ですよ。
長野の御親類が紹介してくれるかも知れないと言ってました。」


「兄さんかな…?。 そうか…そろそろ本腰を入れる時期かもな…」

そう言いうと忠夫は「よし!」と言い輪転機のスイッチを入れに工房にむかった。

次回へ。

夏の蛙 第五章

2007-11-08 | Weblog
本格的な梅雨が到来した。

宮上設備の従業員はこの雨で現場に出る事が少なくなった。

寛之は今、会社に詰めて、外注組の緊急呼び出しに備えている。

と、言っても事務所の椅子に座り、コーヒーを飲みながら水道事業の専門書を読むぐらいだ。
この時期、公共組が仮説管を張り終えた現場は下水道の工事が終了するまでは、あまりやる事もなかった。

しかも雨のこの季節に土を相手にした工事は土砂崩落の危険があり、一年の中でも宮上設備公共組にとっては良い骨休めにもなる時期だった。

外注組は突発的な民間の工事に行くが、あまり大きな穴を掘るのは雨水によって危険なため、やはり外注組もそれほど忙しく仕事をしないのだ。

事務所には、慶子、寛之の二人。

社長は役所へ新しい仕事を取るため入札へ行っている。

唐沢は朝、少し出勤が遅れる旨の連絡があった。


外注組の田中達は下水管が詰まった家へ行き、修理をしている。

慶子は「高畑さん、もう一杯コーヒー飲む?。」と言い、コーヒーの入ったポットを持ちながら寛之が座っているテーブルに近づいた。

「あ、いただくよ。ありがとう。」と寛之。

慶子は寛之のカップにコーヒーを注いでから言う「今は少しだけ休めるね。」

そして寛之の正面の椅子に腰掛けた。


「私もコーヒーいただこ、10時になるし…。」
と言い自分のマグカップにコーヒーを入れ、フウフウと息でコーヒーを吹き、ゆっくりとすする。

寛之は慶子の目を見れない。

「こないだの土日は食事はどうしたの?」と慶子は聞いた。

「…静岡の友達が来て、奢ってくれたんだ。社長の家でメシをいただきっぱなしじゃさすがに気が退けるからね…。」

「そう。好い友達なんだ」と言い。慶子はまた続ける。

「梅雨って、ほとんどの人は嫌いでしょうけど、私は結構好きなの。この時期は社員のみんなも少しのんびり出来るし、あたし、雨の音ってなんだか好きなの。

雨の音を聞くと、不思議と心が落ち着くの。」

寛之は言いました「しめっぽくない?。ウチ、谷あいにあるから、すぐにカビがはえるんだ」


慶子は「ウチは高台にあるせいかな?。あんまりカビもないかな?。風通しがいいからかも?」と言う。


「俺のアパートはひどいよ…。前に小さなキノコが台所の角の床に生えてた事があるんだ」


「えー!うっそー!」

「食べれりゃいいのに…。多分毒キノコだな…」


慶子は思わず「うふふ!」と笑う。

寛之は少し間を空けて言った。「…慶子さん、最近調子どう?」

「どうって?」

「あ、いや別に…なんか変な質問だったかな?」そう言ったあと、百合香との空しい最後の交わりが寛之の脳裏に一瞬浮かんだ。

行為の後、百合香と寛之の間に言葉は無く、これから友人として結びついて行く事にも、お互い疑問を持った…。

次の日の昼、夕食の食材を残し、百合香は言葉少なく静岡に帰って行った。


このところ寛之は慶子に好きな人がいるのか気になって仕方がない…。

それを確認したくて「最近調子はどう?」と言う遠回しな聞き方しか寛之には出来ない…。

そんな質問で慶子の好きな人が分かるはずもないし、慶子も寛之の質問の真の意味を分かるはずもない。

しかし慶子は意外にさらっと答えた「いいって事もないけど悪くもないよ。でもこの先の事が漠然としていて少し不安かな?。高畑さんこそどうなの?」


「俺は相変わらずだよ、いつまでこんな貧乏生活が続くのかな?。
せめて週に一度は飲み会に行ったり、半年にいっぺんぐらい国内旅行にでも行きたいね、小さな夢だろうけど」

「…わたしね、旅行も飲み会も結構して来たけよ、でもね…」


と慶子が言いかけた時、唐沢が事務所の扉をギイっと開け、「遅れてわりぃない。婆さんが饅頭揚げるの手伝っとったもんで。天ぷら饅頭食わんかね?。むらった高遠饅頭が沢山余ったもんで。」と言い、長方形の箱をテーブルに箱を置き、それを開けました。

そこには薄い皮の饅頭を油であげた「天ぷら饅頭」がぎっしり詰まってる。

伊那地方では高遠饅頭と言う多目の餡を薄い皮で包んだ饅頭が有名だが、それにころもを付け、さっと揚げると、更に風味や食感が増すのだった。

慶子は「美味しいそう!いただきます!」とと言ってさっそく一つ手に取り、頬張る。

「すごい、揚げたてなんですね!?美味しい~ふかふか!」
と微笑む。

寛之も一口食べ「旨いっすよ!」と言う。

唐沢は「沢山揚げちまったもんで、社長の家のしゅうにもあげとくんな。」と慶子に言った。

しばらく寛之と慶子は天ぷら饅頭に舌鼓を打ち、和やかな時間を過ごしていた。


そこへ社長がドアを開け、少し不安な表情で戻ってきた。

唐沢は「あ、おかえりな。社長も喰わんかね?」と言った。

寛之は「どうしたんですか?入札のほうは?」と社長に聞く。


「…取るには取った。でも場所が良くない…。」

寛之聞く「何処です?」。

「高田町だ…」


「…た、高田町…。」寛之は不安げにつぶやく。


高田町は夜の繁華街で、人通りが多く、風俗店もあり、酔っぱらいやヤクザ者が行き交う町だ。

しかも通りはさほど大きくなく、そんなところに重機やトラックを入れ、工事を行うと苦情も多く、施工も困難で、市内のどこの水道業者も取りたくない現場だった。

しかも今回の高田町の工事の請け負い金額も大した額ではなかった。

社長は気丈に言う「…取った以上はしかたがねぇ。
他の現場と同じようにキッチリやらにゃあ…。必ず誰かが高田町の古くなった水道管を取り替えにゃあならんのえ。」


寛之は言う「そうですね。他の現場と同じようにキッチリやりましょう」と。


慶子は少し不安気な表情を浮かべた。


そしてまた寛之は言いう「社長、高田町で大きな水道の工事があったのはどのくらい前なんですか?。」

「…五十年以上前になるかな?…。もちろん小規模な宅内の工事は最近でもあるが、それでもあの辺りはトラブルが絶えない…。」


しばらく四人は沈黙しする。

そして唐沢が言う「…大丈夫え。おらいも子供のころあの辺を通ったけぇど、近所の衆もみんな工事に協力しとったに」と。


しかしそれは五十年以上前の事、今の高田町は個人の利益を求める輩が増え、更に外国人や他県からの流れ者も増え、きな臭い事件が起きている。


社長は言う「ここを乗り切るんだ。みんなで団結して乗り越えよう!」と。

寛之はじめ一同は頷いた。



宮上設備のガラス窓をまた大粒の梅雨の雨が強く叩きつけ、コンコンと軽い音を立てていた。

不思議な静けさが宮上設備を包んでいた。








寛之の兄、高畑恒之は静岡市内の総合病院の待合室でじっと拳を握りしめていた。

短く刈り込んだ頭髪。がっちりした体型。
薄手のジャケットを着こんだ恒之は高校時代の彼女、佐藤妙子の検査結果を待っていた。

しばらくすると看護婦が「佐藤さんの身内の方ですね?。先生がお呼びです」と言い、恒之を診察室に導いた。

少し痩せ、眼鏡を掛けた白髪の医者は恒之に言った「検査の結果今回は少々厄介なようです…。」

恒之は聞く「…どう言う事ですか?。」

「佐藤さんの病状は更に深刻なものになってしまいました。転移もあり、最近は抗がん剤の効果もなくなってきました…。」

佐藤妙子は胃ガンに冒されていた。

一時期は手術後回復し、再び夜の店でホステスをしていたが、一年年前から再発し、また入院していた。

恒之は医者に聞く「…まだ望みはあるのでしょう?。」

「ないわけではありませんが…。もう一回の摘出手術と放射線治療に彼女の体力がもつか分からないのです。

…今回は覚悟が必要です。」

「…出来るだけの事はしてあげたいのです。摘出手術の事は本人に相談します。彼女自身に決めさせます。望みはあるのですね?」と恒之。

「本人の意思と、体力ですね…」

医者はそう言ってから佐藤妙子の胃のレントゲン写真を恒之に見せ「前回の手術で佐藤さんの胃はほとんどありません…。その下、十二指腸に転移が見られます。この摘出が厄介なのです」と言う。

恒之は言葉を無くした。

そして医者から更に詳しく妙子の病状の説明を受け、診察室を後にした。

恒之は三階にある妙子の病室に向かう。

妙子の病室は三人部屋で、彼女以外はいずれも六十を過ぎた女性達だ。

妙子は恒之と同じ32歳。

恒之が姿を見せると妙子は読んでいたファッション雑誌を閉じて以外に明るい表情で「こんちは」と言う。

恒之は「おっ、以外に元気そうだな」と笑う。

「今度は何?」と妙子。

「今日は映画雑誌さ!」


妙子は無類の映画好きだった。

「ありがとー!。」

恒之「それ読んで看護婦に内緒で夜更かしするなよ。」と微笑みながら言う。


そしてまた続けた「…さっきお先生に会ってきたよ。検査の結果を聞いたんだ」


妙子は言う「…どうなの?。あたし、どうしてもお医者さまから直接聞くのが怖くて…。ごめんね」


「……どうやらまた手術をした方が良い見たいだ。」


「…そうなんだ…。」

妙子は少し乱れた茶色い髪を手櫛で整えながら少し震えた声で言った。

この頃、妙子の手や腕は随分痩せこけてしまっていた。

「ここを乗り切るんだよ、妙子。」と恒之。

「…そうね…。」

しばらく二人に言葉はなかった。


しかし妙子はか細い声でゆっくり恒之に語りかけた。


「…バチが当たっているのかしら…あたし自身の…。みんなから後ろ指を指される事ばかりして来たからなのかな?。

沢山の男の人を傷つけて来たからなのかも知れない…。
けど、そんな積もりはなかったの…。」と言い涙ぐみんだ。


妙子の父は妙子が小学校六年生の時にやはり胃ガンで亡くなり、母子家庭となった。

その後母親は再婚し、妙子は静岡のマンションで新しい父との三人暮らしとなったが、どうしても新しい父親を受け入れる事ができず。高校を卒業すると直ぐにその美貌を生かし、モデル事務所に所属し独り暮らしを初めた。

しかし、モデル事務所の営業部長と不倫関係に陥り、事務所を解雇されたのだった。


その後、生活を維持するためキャバクラ嬢に転職し、客としてやって来た高校時代の彼氏であった恒之と偶然再会したのだった。


恒之は高校3年の時に友人の説得により妙子とは一旦別れていた。

当時から妙子の異性問題は有名だったからだ。

しかし、ずっと妙子の事を忘れられなかった恒之は妙子の所属するキャバクラに足しげく通った。


そしてまた妙子は言った「…つねちゃんには悪い事ばっかりして来たね…。
本当に自分が嫌になるの…。

あたし、これからつねちゃんに何をしてあげられるんだろ…。

…もう自信がないの…。

治療代もほとんどつねちゃんに面倒見てもらってるし…。

あたし、あなたには何もしてあげられない…。

わたしは静かに終わりになればいいのかな…。」

恒之は「何言ってるんだ…バカ!。」と言う。

妙子は「…ごめんなさい…」と言い、顔を付せ、目にいっぱいの涙を溜めた。
すぐにそれは頬を伝う。

恒之は言う「必ず治る!俺がついてるんだから。バカな事を言うな。」

「…あたし、こんな風になる積もりじゃなかったの…。

ウチはお父さんも早くに居なくなってお金もなかったでしょ?。

私、お姫様になりたかったの…綺麗な服着て、沢山の男の人に囲まれてチヤホヤされたかった…。

バカみたいでしょ…。
そんなのに憧れていたの…。それでツネちゃんや他の人が、とても傷ついてるなんて分からなかった…いいえ、分からない振りしてただけかも…」


「もう何も言うな…今はしっかりと治療して、それ以外の事は考えるな。お前が今どういう気持ちなのかは俺はわかっているから。」


しばらく二人は手術への段取りを話し合い、恒之は家路に着いた。
静岡市内は例年に増して、湿気が多く蒸し暑かった。

季節は七月に入った。
次回へ。