恒之は自宅の入り口の引き戸をガラガラっと開けた。
恒之の家は築35年。少し古く、大きめの平屋立てだ。
すると台所から「恒之かい?。」と母多美子の声。
「ああ…。」と恒之。
するとすぐに多美子は玄関に現れ、怒鳴り声で叫んだ。
「どこほっつき歩いたのよ!。今日の午後は会議だったんでしょ!?。お父さん一人にして!。
…まさかまたあの女の所に行ったんじゃないでしょうね?。」
「だったらどうなんだよ?。」と恒之ぶっきらぼうき答えた。
「あんた!何してるんだい!アートプランが今どういう状況か分かってんの!?。寛之が今月15万円も送金してくれたのよ!あの子だってあんなに生活が苦しいのに…あんたは何やってんの!?。」
「……。」
「少しは会社の事に力を貸してよ!。お父さんだけに任せておいたら倒産しちゃうわ!。
そうなったらどうするの?。太田さんも道連れにする気なの?、あんないい息子さんや娘さんがいるのよ、大学の費用もあるのでしょうに…あんたには人の心が少しでもあるの?。
あんな尻軽女にいつまで夢中になってるの!。惚れた腫れたじゃご飯は食べられないのよ!!。」と矢継ぎ早に多美子はまくし立てた。
恒之には返す言葉は無かった。給料の多くを佐藤妙子の治療費用に使い、このところ会社の経営についても気が回っていない事も事実だった。
佐藤妙子は義理の父からの援助を堅くなに拒んだ。
また母に対しては、父の死の直後にすぐに今の義理の父と恋に落ちた事も許せなかった。
彼女はホステスをしている時の自分の貯金だけで最初の手術と入院費用をまかない、なんとかまた自立したが、二回目のガン再発は想定しておらず、貯金も底をついていた。
今の両親に頼る気のない妙子は恒之に頼らざるを得なかった。
そんな妙子の境遇を知る恒之は当たり前の様に妙子に様々な心づくしの物や治療費を与えた。
恒之は黙って部屋の鍵をかけた。
自分の部屋に籠るしかなかったのだ。
部屋の外で母がまだ怒鳴っていたが、恒之はベッドに仰向けになり、天井を見つめた。
まだドアの外で母が怒鳴る声をぼおっと聞きながら…。
恒之は思う「…ヒロにゃ悪いことをしてるな…残り少ない二十代、あいつだって青春を楽しみたいだろう…。
あいつ最近は実家に寄り付かなくなったな…。当然だな。親父や俺がこんなんじゃ…。
だけどどうしても妙子だけは俺が守らなきゃならないんだ…。
…今は出来るかどうか分からんが、会社の事も考えて行かなければな…。
俺が女の尻を追いかけてると思われても仕方無いか…。他の奴らから見ればそうだろう。妙子は汚れた女か…確かにな…。だけどやっぱり俺には妙子しか居ない…。
それに理由は無い…俺は本当に馬鹿な男だ…。たが自分が馬鹿な男だということを俺は自覚している。
…それが分かるなら…何か方法はあるはずだ。妙子を守り、アートプランを立て直す方法が…。」
恒之は瞼を閉じ、じっと考え事を初めた。
夕食の時間になり、多美子は恒之の部屋をノックしたが、恒之の「要らない…」と言う言葉を聞くと、またぶつぶつ言いながら台所に戻って行った。
食卓には多美子と、恒之の父の忠夫の二人。
忠夫の頭髪は少し乱れ真っ白、しわがれた顔で、肌は色黒、痩せた身体。
そこに度の強い眼鏡を掛けている。
忠夫は今年で62才になった。
しかしまだまだ身体は丈夫だ、しかしどこか破気がない…。
垂れた目元と言い、外見は寛之にそっくりだった。
忠夫は「…いただきます。」
と言う。
今日の夕食は漬物、豆腐、魚に味噌汁。
多美子は一口ご飯を口に入れると箸を置き、お茶を一口のんでから言った「恒之はまた今日、あの女の所に行ったようなの…」
「…そうか…」
「もう少し会社の事も考えて欲しいわ。今月は寛之の送金があったからなんとかなったけど、これからの経営が安定するかどうかも分からないでしょ?。こんな時に恒之にも困ったものだわ…。」
「ああ…」
「ちょっとあなた聞いてるの?。」
「うん…」
と言い、忠夫は株の漬物を口に入れポリポリと音をたてた。
「あなたもあなたよ!会社に行くと言ってから何してるのよ!?、太田さんに聞いたのよ!。
事務所に来たかと思うと四時ぐらいには姿が見えないって!。」
「…それは別にお前に隠してたわけじゃないよ…」
「じゃあ何してたのよ!」
「色々あるのさ…」
「色々って何よ!」
「……。」
多美子は悲しそうに言う「……やっぱり賭け事やめてないのね…。」
忠夫は言う「でもこないだ10万円も家に入れたじゃないか…。」
多美子はすかさず「その前にいくら負けてるのよ!」と突っ込む。
忠夫には返す言葉がない…。
多美子はまた言う「お願いだからもう少し会社の事を真剣に考えて…。太田さんや寛之のためばかりじゃないのよ。何よりお父さん自身の事を考えて欲しいの…。」
最近の高畑家の食事はこんな調子だった。
恒之はエアコンを強めてから思う「…確か幸男伯父さんの伊那の知り合いに、経営アドバイザーって人がいたな…。伯父さんは委託料金もさほど高くないと言っていた…。ウチは殆んど素人の印刷集団だもんな…。アートプランが本当のプロに成るために…。そして仕事もきっちりこなし、自分の時間を手に入れるために…何かアドバイスしてくれるかも知れない…。決して魔法の様にはいかないが…。俺はまだ若い…。あんな破気の無い親父にいつまでも任せておくわけにはいかないな…。お袋、親父、寛之。そして何より妙子を守るために…。幸男伯父さんに相談してみるか…。」
同じ時、食事を終えた多美子はテレビの前に横になり「まったくウチの男達ときたら…。はぁ…もうねましょ、眠って嫌な事からサヨナラしましょ!。」と忠夫に聞こえる声で言い、うたた寝を初めた。
忠夫はまだ食卓に居て、相変わらず株の漬物をポリポリと音をたて、頬張っていた。
次の日恒之は定時で仕事を終え妙子が入院する病室へ向かった。
病室に入ると妙子は眠っていた。
恒之の目にはまるで魔法をかけられたお姫様が永遠の眠りについてしまった様に見えた。
「まさかこのまま起きないんじゃ…」と一瞬思う。
同じ病室の二人の初老の女性は、談話室にでもいるらしく、姿は無かった。
寛之がレジ袋から妙子のために買って来たミネラルウオーターをガサガサと取り出すと、その音で妙子は目を覚ました。
「…あれ…つねちゃん。来てくれてたんだ。こんな時間からあたし眠っちゃったんだ…」
恒之は言う「寝る子は育つ…」
「アハ!なにそれ?あたしこれ以上育つのイヤよ…。」
思わず恒之と妙子は笑った。
恒之が言った「…手術、受けるか?」
「…うん…とっても怖いけど…」
「そうか…良かった…」
「…わたし、考えても考えても、生きていたいの…こんな人生だけど…他の人にどれだけひどい事をして来たかはあたしが一番良く知っているし…。でも、まだあたし、32才なの…生きていたいの…自分勝手なのは知ってる。
お姫様気取りだった今までの自分はこのガンと一緒に切り取っちゃうの…。新しい自分になりたいの。
そして残りの人生はつねちゃんと一緒に過ごすの…。本当に自分勝手だけど、あたしそう決めたの…。だから手術を受けて少しでも生きるの…」
と言うと妙子の目から一筋の涙が伝い、妙子の布団に薄黒い点が滲んだ。
妙子は手術が成功する確率が低い事をすでに主治医から聞いていたのだ。
彼女は既に真実に気が付いていた。
「なんだか今日は俺にとって随分嬉しい事を言ってくれるじゃないか?嬉し涙か?それとも…?。」
「嬉し涙に決まってるじゃない…」そう言ってから妙子は恒之の右手を取り、そっと自分の乳房にそれをあてがった。
恒之は随分しぼんでしまった妙子の乳房を感じ、悲しくなった。
妙子は言う「分かってるよ、つねちゃんが今感じてる事…、でもこうしているととっても気持ちいいの…。とっても落ち着くの…。本当にあたし、自分の事しか考えていないね。」
恒之はじっと妙子の温もりを右手で感じた。
そして更に妙子を守りたい気持ちが強まってしまうのだった。
(妙子は本当に悪女なのかも知れない)と思いつつも…。
その後、恒之は診察室に入ると早速主治医から妙子の病状と手術の段取りの説明を受けた。
そこで聞いたのは、妙子の病状はやはり深刻なものであると言う事、手術にはかなりのリスクを伴う事だった。
失敗は即ち彼女の死を意味していた。
しかし、そんな話のなかで、唯一希望が持てるのは妙子の精神力と体力が充分であれば手術は成功の可能性があり、かなりの延命が可能である事だった。
恒之は病院からの帰りの車の中で、ひたすらアートプランと妙子の事について考えていた。
父、高畑忠夫は作業服を着込み、家の開き戸を開け、朝の外の空気を浴びた。
まだ8時前だと言うのに7月に入った静岡市内はむせかえるような暑さと湿気に見回れていた。
忠夫は社名の入った白い軽トラックに乗り込み、車で15分のアートプランの事務所に向かう。
アートプランは静岡市内から少し離れた田園地帯にあった。
事務所の鍵シャッターを鍵で開け、もう一つの鍵で事務所のガラス扉を開けた。
事務所に入ると忠夫は社長と書かれた自分の机の立て札を見つめた。
「…社長か…」
忠夫は実はずっと大手印刷会社のサラリーマンで居たかった。
しかし、まだ若い多美子から言われた言葉、それは「男の人って夢があって、自分の世界を持たなきゃいけないと思うよ。忠夫さん、あなたにはきっとその力があると思う…。私はあなたに付いて行きたい。貴方は自立出来る人だと思うの。」
まだ若かった多美子の言葉を思い出し、忠夫は思う。「あの頃は多美子の言う事が正しいと思った…。多美子を失いたくなかったし。
自分にもその才覚があると信じていた。
しかし、現実は仕事を請け負ったとしても、人件費や消耗品の購入代でほとんど利益は出なかった…。
俺は元来人付き合いが苦手な所がある…。
営業や仕事を獲得するのは至難の業だった…。
今は多美子に全てを委ねている。
あいつは話も上手いし、人付き合いも上手い…。
…俺はもう六十過ぎか…、もう生きる事の意味が分からない…正直。
この先に何があるんだ…。恒之や寛之の成長を見守ればいいのか?。…俺は子供達から尊敬されていない…。」
そう思いながら机に座ると、今日の仕事の段取りが書かれた手帳を開いた。
商店街の広告、卒業アルバム、大手家電メーカーのチラシ。
いくつも依頼はあったが、どれも請け負い金額が安く、利益を見込めるものでは無かった。
利益は少なく、ただ労働時間が延びるだけだ。
忠夫は事務所の冷蔵庫から冷たい烏龍茶の入ったピッチャーを取りだし、麒麟ビールのロゴの入ったコップに注ぎ、一気に半分ほど飲み、溜め息をついていると、事務所の扉が開き、太田輝久が姿を見せ「お早うございます」と言った。
太田輝久は56才。頭は禿げ、恰幅も良いが、その表情は柔和だ。
「ああ、お早う。てるさん、…ウチのに喋ったな…?。」
「…パチンコの事ですか?。…それが…奥さん、追求が厳しくて…まぁ私も今の会社の状態が少々不安なんですよ…だから…。」
と言い、禿げ上がった頭皮に左手を当てた。
忠夫は言う「達夫君と栄子ちゃんの事もあるしな…。
…分かってるよ。何とかしたいんだが、今の俺には何も思い付かないんだ。」
太田輝之は事務所の椅子に腰かけると言う「それなんですが、若社長が言うのに、経営アドバイザーを雇ったらどうかとの事ですよ。
長野の御親類が紹介してくれるかも知れないと言ってました。」
「兄さんかな…?。 そうか…そろそろ本腰を入れる時期かもな…」
そう言いうと忠夫は「よし!」と言い輪転機のスイッチを入れに工房にむかった。
次回へ。
恒之の家は築35年。少し古く、大きめの平屋立てだ。
すると台所から「恒之かい?。」と母多美子の声。
「ああ…。」と恒之。
するとすぐに多美子は玄関に現れ、怒鳴り声で叫んだ。
「どこほっつき歩いたのよ!。今日の午後は会議だったんでしょ!?。お父さん一人にして!。
…まさかまたあの女の所に行ったんじゃないでしょうね?。」
「だったらどうなんだよ?。」と恒之ぶっきらぼうき答えた。
「あんた!何してるんだい!アートプランが今どういう状況か分かってんの!?。寛之が今月15万円も送金してくれたのよ!あの子だってあんなに生活が苦しいのに…あんたは何やってんの!?。」
「……。」
「少しは会社の事に力を貸してよ!。お父さんだけに任せておいたら倒産しちゃうわ!。
そうなったらどうするの?。太田さんも道連れにする気なの?、あんないい息子さんや娘さんがいるのよ、大学の費用もあるのでしょうに…あんたには人の心が少しでもあるの?。
あんな尻軽女にいつまで夢中になってるの!。惚れた腫れたじゃご飯は食べられないのよ!!。」と矢継ぎ早に多美子はまくし立てた。
恒之には返す言葉は無かった。給料の多くを佐藤妙子の治療費用に使い、このところ会社の経営についても気が回っていない事も事実だった。
佐藤妙子は義理の父からの援助を堅くなに拒んだ。
また母に対しては、父の死の直後にすぐに今の義理の父と恋に落ちた事も許せなかった。
彼女はホステスをしている時の自分の貯金だけで最初の手術と入院費用をまかない、なんとかまた自立したが、二回目のガン再発は想定しておらず、貯金も底をついていた。
今の両親に頼る気のない妙子は恒之に頼らざるを得なかった。
そんな妙子の境遇を知る恒之は当たり前の様に妙子に様々な心づくしの物や治療費を与えた。
恒之は黙って部屋の鍵をかけた。
自分の部屋に籠るしかなかったのだ。
部屋の外で母がまだ怒鳴っていたが、恒之はベッドに仰向けになり、天井を見つめた。
まだドアの外で母が怒鳴る声をぼおっと聞きながら…。
恒之は思う「…ヒロにゃ悪いことをしてるな…残り少ない二十代、あいつだって青春を楽しみたいだろう…。
あいつ最近は実家に寄り付かなくなったな…。当然だな。親父や俺がこんなんじゃ…。
だけどどうしても妙子だけは俺が守らなきゃならないんだ…。
…今は出来るかどうか分からんが、会社の事も考えて行かなければな…。
俺が女の尻を追いかけてると思われても仕方無いか…。他の奴らから見ればそうだろう。妙子は汚れた女か…確かにな…。だけどやっぱり俺には妙子しか居ない…。
それに理由は無い…俺は本当に馬鹿な男だ…。たが自分が馬鹿な男だということを俺は自覚している。
…それが分かるなら…何か方法はあるはずだ。妙子を守り、アートプランを立て直す方法が…。」
恒之は瞼を閉じ、じっと考え事を初めた。
夕食の時間になり、多美子は恒之の部屋をノックしたが、恒之の「要らない…」と言う言葉を聞くと、またぶつぶつ言いながら台所に戻って行った。
食卓には多美子と、恒之の父の忠夫の二人。
忠夫の頭髪は少し乱れ真っ白、しわがれた顔で、肌は色黒、痩せた身体。
そこに度の強い眼鏡を掛けている。
忠夫は今年で62才になった。
しかしまだまだ身体は丈夫だ、しかしどこか破気がない…。
垂れた目元と言い、外見は寛之にそっくりだった。
忠夫は「…いただきます。」
と言う。
今日の夕食は漬物、豆腐、魚に味噌汁。
多美子は一口ご飯を口に入れると箸を置き、お茶を一口のんでから言った「恒之はまた今日、あの女の所に行ったようなの…」
「…そうか…」
「もう少し会社の事も考えて欲しいわ。今月は寛之の送金があったからなんとかなったけど、これからの経営が安定するかどうかも分からないでしょ?。こんな時に恒之にも困ったものだわ…。」
「ああ…」
「ちょっとあなた聞いてるの?。」
「うん…」
と言い、忠夫は株の漬物を口に入れポリポリと音をたてた。
「あなたもあなたよ!会社に行くと言ってから何してるのよ!?、太田さんに聞いたのよ!。
事務所に来たかと思うと四時ぐらいには姿が見えないって!。」
「…それは別にお前に隠してたわけじゃないよ…」
「じゃあ何してたのよ!」
「色々あるのさ…」
「色々って何よ!」
「……。」
多美子は悲しそうに言う「……やっぱり賭け事やめてないのね…。」
忠夫は言う「でもこないだ10万円も家に入れたじゃないか…。」
多美子はすかさず「その前にいくら負けてるのよ!」と突っ込む。
忠夫には返す言葉がない…。
多美子はまた言う「お願いだからもう少し会社の事を真剣に考えて…。太田さんや寛之のためばかりじゃないのよ。何よりお父さん自身の事を考えて欲しいの…。」
最近の高畑家の食事はこんな調子だった。
恒之はエアコンを強めてから思う「…確か幸男伯父さんの伊那の知り合いに、経営アドバイザーって人がいたな…。伯父さんは委託料金もさほど高くないと言っていた…。ウチは殆んど素人の印刷集団だもんな…。アートプランが本当のプロに成るために…。そして仕事もきっちりこなし、自分の時間を手に入れるために…何かアドバイスしてくれるかも知れない…。決して魔法の様にはいかないが…。俺はまだ若い…。あんな破気の無い親父にいつまでも任せておくわけにはいかないな…。お袋、親父、寛之。そして何より妙子を守るために…。幸男伯父さんに相談してみるか…。」
同じ時、食事を終えた多美子はテレビの前に横になり「まったくウチの男達ときたら…。はぁ…もうねましょ、眠って嫌な事からサヨナラしましょ!。」と忠夫に聞こえる声で言い、うたた寝を初めた。
忠夫はまだ食卓に居て、相変わらず株の漬物をポリポリと音をたて、頬張っていた。
次の日恒之は定時で仕事を終え妙子が入院する病室へ向かった。
病室に入ると妙子は眠っていた。
恒之の目にはまるで魔法をかけられたお姫様が永遠の眠りについてしまった様に見えた。
「まさかこのまま起きないんじゃ…」と一瞬思う。
同じ病室の二人の初老の女性は、談話室にでもいるらしく、姿は無かった。
寛之がレジ袋から妙子のために買って来たミネラルウオーターをガサガサと取り出すと、その音で妙子は目を覚ました。
「…あれ…つねちゃん。来てくれてたんだ。こんな時間からあたし眠っちゃったんだ…」
恒之は言う「寝る子は育つ…」
「アハ!なにそれ?あたしこれ以上育つのイヤよ…。」
思わず恒之と妙子は笑った。
恒之が言った「…手術、受けるか?」
「…うん…とっても怖いけど…」
「そうか…良かった…」
「…わたし、考えても考えても、生きていたいの…こんな人生だけど…他の人にどれだけひどい事をして来たかはあたしが一番良く知っているし…。でも、まだあたし、32才なの…生きていたいの…自分勝手なのは知ってる。
お姫様気取りだった今までの自分はこのガンと一緒に切り取っちゃうの…。新しい自分になりたいの。
そして残りの人生はつねちゃんと一緒に過ごすの…。本当に自分勝手だけど、あたしそう決めたの…。だから手術を受けて少しでも生きるの…」
と言うと妙子の目から一筋の涙が伝い、妙子の布団に薄黒い点が滲んだ。
妙子は手術が成功する確率が低い事をすでに主治医から聞いていたのだ。
彼女は既に真実に気が付いていた。
「なんだか今日は俺にとって随分嬉しい事を言ってくれるじゃないか?嬉し涙か?それとも…?。」
「嬉し涙に決まってるじゃない…」そう言ってから妙子は恒之の右手を取り、そっと自分の乳房にそれをあてがった。
恒之は随分しぼんでしまった妙子の乳房を感じ、悲しくなった。
妙子は言う「分かってるよ、つねちゃんが今感じてる事…、でもこうしているととっても気持ちいいの…。とっても落ち着くの…。本当にあたし、自分の事しか考えていないね。」
恒之はじっと妙子の温もりを右手で感じた。
そして更に妙子を守りたい気持ちが強まってしまうのだった。
(妙子は本当に悪女なのかも知れない)と思いつつも…。
その後、恒之は診察室に入ると早速主治医から妙子の病状と手術の段取りの説明を受けた。
そこで聞いたのは、妙子の病状はやはり深刻なものであると言う事、手術にはかなりのリスクを伴う事だった。
失敗は即ち彼女の死を意味していた。
しかし、そんな話のなかで、唯一希望が持てるのは妙子の精神力と体力が充分であれば手術は成功の可能性があり、かなりの延命が可能である事だった。
恒之は病院からの帰りの車の中で、ひたすらアートプランと妙子の事について考えていた。
父、高畑忠夫は作業服を着込み、家の開き戸を開け、朝の外の空気を浴びた。
まだ8時前だと言うのに7月に入った静岡市内はむせかえるような暑さと湿気に見回れていた。
忠夫は社名の入った白い軽トラックに乗り込み、車で15分のアートプランの事務所に向かう。
アートプランは静岡市内から少し離れた田園地帯にあった。
事務所の鍵シャッターを鍵で開け、もう一つの鍵で事務所のガラス扉を開けた。
事務所に入ると忠夫は社長と書かれた自分の机の立て札を見つめた。
「…社長か…」
忠夫は実はずっと大手印刷会社のサラリーマンで居たかった。
しかし、まだ若い多美子から言われた言葉、それは「男の人って夢があって、自分の世界を持たなきゃいけないと思うよ。忠夫さん、あなたにはきっとその力があると思う…。私はあなたに付いて行きたい。貴方は自立出来る人だと思うの。」
まだ若かった多美子の言葉を思い出し、忠夫は思う。「あの頃は多美子の言う事が正しいと思った…。多美子を失いたくなかったし。
自分にもその才覚があると信じていた。
しかし、現実は仕事を請け負ったとしても、人件費や消耗品の購入代でほとんど利益は出なかった…。
俺は元来人付き合いが苦手な所がある…。
営業や仕事を獲得するのは至難の業だった…。
今は多美子に全てを委ねている。
あいつは話も上手いし、人付き合いも上手い…。
…俺はもう六十過ぎか…、もう生きる事の意味が分からない…正直。
この先に何があるんだ…。恒之や寛之の成長を見守ればいいのか?。…俺は子供達から尊敬されていない…。」
そう思いながら机に座ると、今日の仕事の段取りが書かれた手帳を開いた。
商店街の広告、卒業アルバム、大手家電メーカーのチラシ。
いくつも依頼はあったが、どれも請け負い金額が安く、利益を見込めるものでは無かった。
利益は少なく、ただ労働時間が延びるだけだ。
忠夫は事務所の冷蔵庫から冷たい烏龍茶の入ったピッチャーを取りだし、麒麟ビールのロゴの入ったコップに注ぎ、一気に半分ほど飲み、溜め息をついていると、事務所の扉が開き、太田輝久が姿を見せ「お早うございます」と言った。
太田輝久は56才。頭は禿げ、恰幅も良いが、その表情は柔和だ。
「ああ、お早う。てるさん、…ウチのに喋ったな…?。」
「…パチンコの事ですか?。…それが…奥さん、追求が厳しくて…まぁ私も今の会社の状態が少々不安なんですよ…だから…。」
と言い、禿げ上がった頭皮に左手を当てた。
忠夫は言う「達夫君と栄子ちゃんの事もあるしな…。
…分かってるよ。何とかしたいんだが、今の俺には何も思い付かないんだ。」
太田輝之は事務所の椅子に腰かけると言う「それなんですが、若社長が言うのに、経営アドバイザーを雇ったらどうかとの事ですよ。
長野の御親類が紹介してくれるかも知れないと言ってました。」
「兄さんかな…?。 そうか…そろそろ本腰を入れる時期かもな…」
そう言いうと忠夫は「よし!」と言い輪転機のスイッチを入れに工房にむかった。
次回へ。