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裏面の韓国

明治38年に著された「裏面の韓国」を読み解くことにより
現在の韓国を理解することを目的としたブログです。

8. 酒  幕(下)

2007-02-08 01:37:27 | 裏面の韓国
以上は内地旅行に慣れた人の事であるが新米赤毛布ときては、なにぶんそういうわけには参らぬ。まず椀、皿、匙、箸等の器物の何れかが必ず金属製であると副食物の中に胡椒やら、韮等を多く用い一種の臭気を帯びるため、大抵のものが到底食うべき勇気を失う。そういう連中の内地旅行には宜しくパンに缶詰類を携帯すべきである。兎に角、夕餉の膳も済みぬれば座中の韓人中には疲れたまま寝込むもあり。或いは例の高調子の口角沫を飛ばして尚語り続けるもあり、或いは骨牌(かるた)を弄し、或いは歌うもあるがしばらくすると彼等は皆思い合わせたる如くくたばってしまう。此に於いてか豆の如きカンテラの下に辛うじて其の日の日誌を録し携帯の本または新聞の類を読まんとするも灯火光微弱にして字形判然ならず、兎に角して居る中に僅かに頼みとせるカンテラの油尽きジジの音を発して消えてしまう。ママよ此の上は寝るより外は無かりけり、イザ寝に就かんといっても素より我が国の如く夜具等の備えあるわけではなし、着の身、着の儘でゴロリと転がり、其処らより荒削りしたまンまの木枕を手探りに探り出し、ここにスヤスヤと安らかき夢路に入るとでも云いたいか、何がさて、蚊や蠅はやたらにブンブン喊声を作ってどよめいて居る。それに先程飯を炊いた火気が充分温突(おんどる)に廻って身体が焦げつきそう。それも冬ならば上加減と云おうが夏ときては実に堪ったものではない。しかのみならず蚤や虱先生、何時の間に臨光されたか背中の辺に当たってゾロゾロゾロと運動を開始すると云う始末。それ迄は尚、可なりとして今度は床虫即ちビンデ(南京虫)という悪虫が徐々襲撃しかけるには到底夜の目を合わされる処の騒ぎではない。はや矢も楯も堪らなくなるので半宵(はんしょう:よなか)枕を蹴って蹶起しマッチにて火を摺り見れば気楽なる哉、韓人先生、彼等は或いは東或いは西、或いは縦或いは横交互錯雑あたかも西瓜を転がしたかの様、シドロモドロの体たらくとなって雷の如き鼾声(かんせい)を発し波路遥かに夢郷を辿って居るのである。仕よう事なしに汗水垂らして蚤狩りや南京虫の防御に苦心して居る間に明け易き夏の夜は鶏の声と共に明け離れ翌朝になって見ると、前夜薄暗き灯光の恵みに姿を隠せる穢らわしい部分が容赦なく暴露せられ、且つ昨夜迄は少しは何処やらに別嬪なりと思いし宿の嬶(かかあ)の案外醜きに驚くもおかしく、歪みし欠け土器の如きものにて洗顔をなせば怪しや鼻腔には煤煙堆き迄に附着せり、よくよく考え見ればまさしく昨夜のカンテラより貰いしものと知られたり。韓人の中には朝早く発つもあれど大抵はゆっくりと構え早くもなき朝飯の出来るを俟ち黒胡麻の如く群がる蠅を追わんともせずシッカリ腹を拵え幾ばくかの勘定を済まし悠然立ち去るのであるが、彼等の中には立ち往生に臨み、間々飯代に何文かの不足を生じ、負けよ負からぬ擦った揉んだの乱痴気を演ずること往々にして見受くる処である。処で其の勘定というのは普通並みであれば一食葉銭三十文もしくは三十五文位、我が四五銭位で都会になると四五十文位の処もあり。またズット田舎へはいると二十文や二十五文位で済む所もないではないが、まず普通平均三十五文、一日平均百文余り(我が十四五銭)に見ておけば大した間違いはあるまい。そして此の国では別に室代とか宿料とか或いは茶代(茶は素よりありもせず)とか云うようなものは一切要せぬのであるから相当の食代の勘定さえ済ませばサッサと出て行くのである。しかし特別に房や食物に贅沢を云えばそれだけ当たり前の勘定に加算して要求さるるのが例である。又、乗馬の客には別に馬房とて馬の糧秣(りょうまつ:まぐさ)まで拵えてくれる比較的上等の酒幕がある。彼等の酒幕は我が国の如く別に一定せる屋号を有せるにあらず。唯単に何書房酒幕という工合に其の家の姓を上に附して称するのみなるが、其の営業はすべて細君の支配下に属せるので其の細君の立ち働きと愛嬌次第では随分贔屓の客も付き、または人気を取り失うことになる。たとえば彼の酒幕の主婦は取り持ちが良いとか、悪いとか、飯の盛り様がどうであるとか、或いは菜の添え方が違うとか、何処も変わらぬ下馬評の妙な所に相場が定まるので、人気さえあれば客の方で自然二里や三里は辛抱しても其の宿に投ずるという勢いになるのであるから無愛想極まる此の酒幕の主婦となるのも此の国に於いては決して並大抵のことではあるまいかも知れぬ。

8. 酒  幕(中)

2007-01-25 03:14:00 | 裏面の韓国
    酒  幕(中)
元来此の国にては夕方少し遅く宿に就けば大概残り飯はない。それは此の国の風俗にて飯は一切量り切りで一人前何程、お客何人分幾干(いくばく:?)という塩梅に前もって見積もりして炊くのであるから決して残りの出よう筈はない。それも家族の食事前でもあればその方を都合して貰うと云う事もあろうが既に後の祭りとなった以上はやはり致し方がない。それから飯米の用意などもやや富裕の家でもあれば兎に角、まず大抵の家では其の日々々の収入でヤット繋いでゆくという調子であるからチト大勢な客でもあれば先ず取り敢えず米の詮議からせねばならぬと云うので頭からお断りを受けるなどは決して珍しからぬ事実である。サー左様なって見ると今度は反対の客の方から頭を下げ、是非どうかやって呉れ頼むという風に下から相談と出掛け漸くにして承諾を得るという場合が多い。これではまるで主客逆転顛倒滑稽とも馬鹿らしいとも言い様のなき次第であるが、これも事実でありとすれば致し方がない。であるから少々出来が遅いからととて滅多に苦情など云われたものではない。また実際苦情を持ち出しても出来ぬものなら到底致し方はないのだ。もしうっかり下手な苦情を持ち出し他へ転ぜねばならぬ事になり、行き先の宿からまたもや米の用意のない理由の下に謝絶される様な事であったら、それこそ閉口至極、不自由なる此の国の事とてとうとう往き処に困りまたまた頭を垂れて先の処に舞い戻って来るより他ないのである。もしそれが厭だとすれば余儀なく疲れた足を踏みしめても更に何里か前進するか退却するか二つに一つを取らねばならぬ事となるから内地に不案内の外客はまず一の旅宿に投ずることが出来たら、特別不都合のない以上は何でも運を天に任し、やれひと安心という風に呑気に済まして腰を据えるに限るのだ。こう言ったからとて著者は決して酒幕の嚊(かかあ)先生からコンミツシヨンを貰ったわけでも何でもない。贅言(ぜいげん:むだな言葉)は休題として其の間には女将も帰り今度は亭主や下人などが持ち戻りたる米を臼に入れボツボツ搗き始める模様、それ迄はまずよいとして、時によると籾からやり始める等の事もある。事ここに至っては大抵なもの迄が捨てた話にあらず。否、かく云う著者自身も千松腹を抱え眼をパチクリさせ随分と辛き思いをしたことがある。しかしこれも到底仕方がないものとすれば、そういうてもやはり仕方がないのだ。否、此の辺が所謂朝鮮の朝鮮たる所だろうなどと此処一番度胸を据え、平気に澄ましこんで見ると妙なもの、其処は石臼の事ではあり、また其の精け方と云ってもほんのいい加減に止めるのであるから、案外早く杵音も止み、此度はガラガラと箸や匙や椀の音などがして来る。ヤレ嬉しやと思う間もあせらず、朝鮮一流フウワリと出来立ちの飯を大きなサバル(丼)に盛り、其の他名物のキムチー(漬物)をはじめ二三の乾魚、獣肉等の副食物を添え、方円形もしくは長方形の腰の高い黒塗りの膳に据えたるを女将、亭主、子供、下人等の手によりて運ばれ、各自の前にズラリと陳列されるのである。今が今迄腹の虫の癇癪を抑えジット堪えに堪えて待てぬ辛抱を継続して居た事なれば此の嬉しさは実に何に譬(たと)えんようもなく、早速匙や箸に手を掛け流石一流の山盛り飯のキムチーの辛味に励まされ大牢の滋味も同様、舌鼓打ち鳴らして瞬く間に平らげ尽くすという勢い、側の韓人でさえ眼をみはって居るくらい、さて飯が済むと茶の代わりにスンニコムといって飯を炊いた後の釜のさらへ湯を呉れる。これは素より飯粒が沢山浮動して居るので慣れない中は何だか嫌な感じがして、一寸口にする勇気はないが慣れれば随分といいものである。殊に釜の底が少々焦げた時など香ばしくて一層良い。

8. 酒  幕(上)

2007-01-25 02:19:45 | 裏面の韓国
朝鮮旅行をしてまず第一番に厄介にならねばならぬのは酒幕である。酒幕は韓音をチュマクまたスルマクと云い此の国唯一の旅館とでもいうべきものにて、兼業には酒も売り都鄙(とひ:とかいといなか)到る所、其の設けあらざるはない。一口に酒幕といえば一寸風雅に聞こえて知らぬものには随分立派そうに思われるが、何の事はない。日本の田舎地方によくある百姓半分の木賃宿だ。否、日本の木賃宿ならまだまだ結構至極であるが、実地に就いて見れば二度吃驚、開いた口が塞がらぬ程であるから殆ど想像以上の想像を以てせねば解らぬのだ。とまれ此の酒幕は好個の朝鮮学研究場とでも言うべく此等の社会的状態を記するには逸すべからざる好題目と思うから一通り其の模様を写して見よう。
一日旅行して疲れたる足を引き摺り引き摺り邑内(ゆうない:むら)に入り漸く酒幕の所在を尋ね出し其処にゆくと半ば傾きかかった草屋根の家に間数は大概二間か三間でお定まりの四十前後の女将が居る。まず飯を命じ案内せらるるまま(其の実案内せらるる迄もなし)例の土房に入れば此処には早や先客の三人二人多き時は五六人もオド暗いカンテラもしくは牛油の裸行灯を点けた我が三枚敷きか四五枚敷き位の所に雑然と座を占めている。ヤット其の内に割り込めば天井は煤だらけにくすぶり、壁や敷物は塵埃だらけに真っ黒く汚れ、一種の臭気がプーンとして鼻を襲い不快の念を添う。主人の世話にてやや新しき蓆(むしろ)一枚を借り房の一隅に敷き、それに持参の毛布を伸ばし横たわるのであるが時としては後詰めの客がゾロゾロやって来るのでそれはそれは大勢の人数となり、狭苦しい房が益々狭くなり、遂には立ちも動きも出来なくなるような事がある。此等の客はおもに負商とて少しばかりの商品を背に負いて各道を股に売り廻るものや、または地方の小商人、労働者の輩が多く、やや身分ある官吏などは特別の場合を除くのほか大抵酒幕に投ずることなく其の土地々々の官吏の家に宿るのであるから此の酒幕はまさに下等社会の貞淑とでも云うべく、外国人のほか素より良い客種のあろう筈はない。底に其の不潔にして喧騒狼藉たるは実に言語に絶するのである。まず彼等風体の汚らわしい事たる白い着物の垢付きで殆ど黒衣と思われる程で房に這入るや否や例の長い煙管を出し一種嫌な臭いのある地製下等煙草をつめ、保ちをよくする積もりにや其の上に唾を吐きかけ、遠慮会釈もなく三方四方よりポンポン燻(くす)べ立てるので殆ど座に居堪らなくなって来るけれど、さりとて別に空房がないとすれば致し方がない。否でも応でも我慢をせねばならぬ。もっとも斯かる場合に斯かる難儀を見るのは大抵韓国生活に慣れない連中であるから特に主人に相談して内房即ち彼等夫婦が寝る房を空けて貰うのであるがチト此の国の事情に通じたものならば、別にそんな面倒をせずとも結句寄り合い宿の方が色々の珍しい世間話が聞かれて却って面白いという風でとんと五月蠅いとも切ないとも思わぬのである。朝鮮旅行の最も困難なる点も此処にあるがまた言われぬ妙味も此処に存するのである。さて韓人共を相手に面白半分浮き世話をやって居る間に一日の歩き詰めで大分空腹を感じ来るのでしきりと飯の催促と出かけると家人は一向平気なもので、女将は何処かへ米の買い入れに行きまだ帰らぬとの事。これには少々驚き入るが此の国の事情を知れるものなら、まさかに腹は立てられず、ひもじい腹を押さえて辛抱するのである。

7. 世界の遊惰国(下)

2007-01-25 00:31:16 | 裏面の韓国
      遊惰と服装
この国民が斯くも驚くべき恐るべき遊惰病に罹って遂に医すべからざるに至ったについては無論此の国政府の腐敗が最もまず然しらめたものではあるが、其の服制及び属制の如きもまた大いに与って力あるものである。嘗て或る人の説に

彼等の服装たる上下男女の別なく共に純白の衣服を纏い居れるにあらずや、元来白衣は最も塵埃にに染み易きものなり。しかるに衣服の汚るるを嫌うは素人情の常とする所なるが上、此の国人の如く特に外貌を衒うを好むものにありては自然労働を厭うに至る。必ずしも無理からぬ次第なり。また彼等が内外の別なく常に頭上に戴ける冠の如き甚だ脆弱破壊し易きものなるに彼等の住屋たる僅かに背を屈め腰を二にして入るを得べき構造となり其の室内の如き至って狭く且つ低くあたかも、獄裏にあるが如く窮屈千万のものなれば彼等は常に戦戦兢兢として生命の次に大切の観ある衣冠汚損の保護に力めざるべからざる事となる。平時座臥の間に於いて既にしかり、いわんや労働の場合に於いてをや、かくして彼等の精神的状態は知らず知らずのうち其の本来の活溌気概を消磨し何事にても因循姑息、偸安、怯懦、柔弱等卑屈の一方に流れ、好個生人形然たる藻抜けの殻の如き人物と化し去るものなりと

これ確かに一面より穿ち得たる消息であって吾人また経験上其の言の大いに当たれるのを感ずるものである。故に曰く韓国人の意気地のなさ加減を知らんと欲せば宜しくまず韓国の衣冠を着用し、韓国の煙管を持ち、韓国の家に住し、韓国の食物を試みざるべからずと。韓国の衣冠を着用し韓国的生活を続ければ何だか韓国人に近寄りたる気持ちがして或る程度迄彼等が機微の真消息を窺えることが出来る。

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吾人は韓国衣冠の制の美術的価値を卜(ぼく)するものにあらずといえども彼の幽霊然たる白衣黒冠なるものがあくまで生産とは反比例を呈し世より遠ざかりたる隠者、道士の類か或いは祭官喪者の服に適するを見るほか一班活動せる社会国人の服装としての価値に絶対非認を宣せんとするもの也、しかしてこれに次ぐべき家屋、食物の如きまたしかりとなす。此の国服装の改正は韓国社会改良の第一義なるやも知るべからず。敢えて江湖の識者に質す。

7. 世界の遊惰国(中)

2007-01-21 03:07:09 | 裏面の韓国
      雨天休業
彼等は雨天に於いて一切業務を執らない。それは彼等が雨天を以て神が特に人類に与えられたる休息日なりと信ずるからである。であるから雨天に於ける韓国はすべての事業ことごとく皆休止の姿であって、農夫は田園に耕さず、商人は市場におもむかず、樵漁は山沢に出ず、学童も書道に学ばず、旅人また旅宿に安臥して路上行客の影を絶つ。されば雨天の韓国は一層寂寞を極め、あたかも人なきが如くすべての社会的干繫(かんけい:つながりをもとめる)の発動を休止せらるるので、雨天は此の国に於いて全く暦日以外に置かざるべきものである。しかして寒天、雪天、炎天等また強いて業を営むを欲せざるのみならず、平日に於いても金穀の存する限り即ち腹の太き間は晏如優悠(あんじょゆうゆう)を事とし決して労を好まないが、そが漸く消え尽くされ空腹を感ずるに至りて始めて動く。彼等は絶対的に蓄積の念はないと云ってよいのである。換言すれば日々“への字形”にても食うて飲んで寝て気楽にゆきさえすれば構わぬ国民であって、今日食う米がないからとて別に頓着するような模様もなく、まして一文の儲蓄(ちょちく)がないとて夫れをクヨクヨ気にするが如き小量の国民でないのである。此の点に於いて彼等のあくまで図太くして奴腹の座り居ることは殆ど無双とでも云うべく流石感心のほかはない。然れども誤ちを止めよ、彼等は性来、度胸の太さにてもなければ気脆(きも)の座り居るのでもない。彼等は例のアララン主義にて夫れより外に致し方がないのである。現に我が邦人ならば二日三日費やすべき容積の事業も常になるべく時間を節約して、一日二日にも切り上げんとする風あるのに反し彼等は出来得べきたけ時間を延長して一日分を二日分三日分にも分かたんとするの傾きがある。これ両個性状の依って岐かるる所以であって我を積極とすれば彼は消極である。積極は繁栄を意味するが消極は終に亡滅に了わらざるを得ない。しかるにまた一方から見れば我は余り敏捷にして短気に過ぎ、彼は余り遅鈍にして悠長に失するの風がある。共に欠点たるを免れないが、我の短所とする所は単に神経的に赤熱せらるるに止まり、彼の悠長は遂に遊惰と一致して救うべかざる不治の病弊となるのである。
見よ彼等の病弊は単に遊惰を遊惰として已むべきものでなく、今や彼等の惰風は更に一歩を進めて飲酒、賭博、詐欺、窃盗、姦淫等あらゆる悪俗悪風となり盛んに社会に害毒を流しつつある。殊に彼等は賭博を好むこと甚だしく上下貴賤の別なく一般社会に行われ、窃盗の多きこともまた他国に比類無く、所謂小人閑居して不善を営むという古聖言の槍玉に懸かりたるものであろう。
賭具には種々あるが、おもに骨牌(かるた)とて獣骨を以て製したる方形のものに赤白の数の穴を穿ちたるトランプ形のものを弄ぶのである。此の国の内地を旅行すれば到る所の民家酒幕等いやしくも多人数の会合する所には必ず此の賭博を見ないことはない。其の他万人楔と称して我が富籤如きものが盛んに流行し、下劣なる此の国民唯一の娯楽となれるなどは以て此の国民の品性堕落して虚栄を喜ぶの状を見るに足るのである。或る人が此の国人の生活状態を評して彼等の一半は賭博者にして、一半は窃盗なりとの語は大いに味わうべきものであろうと思う。
今日此の国が言うべからざる悲境にに陥りて遂に興隆の見込みなからんとするのは種々の遠因がなけねばならぬが要するに一国の主成要分たる生産者の数が少数であって且つ遊惰なることに胚胎するというのほかはない。彼等は其の先天的特性とも云うべき遊惰から己自身を滅ぼし次に国家社会をも失わんとするものである。世に遊惰を以て産をものは多いがしかも遊惰を以て一国を滅ぼさんとする国民は吾人ここに韓国に於いてこれを見るのである。遊惰の二字実に何物をも滅尽すべき魔力を有せるものなることを吾人に示して余りあるのである。実に寒心すべき事ではないか。
特筆して再言す。韓国は世界無類の遊惰国なりと。嗚呼遊惰を以て国を失わんとする国民は名誉なる哉、光栄なる哉、吾人不肖にしてこの以外の頌辞(しょうじ:ほめたたえることば)を知らないのである。

7. 世界の遊惰国(上)

2007-01-20 17:05:46 | 裏面の韓国
      今日主義以下の人間
長管悠々上下共に一日の安を偸(ぬす)み、白日なお惰眠を貪るは此の国現下の状況であることはほぼ読者の推想に余りあるべしと信ずるが、吾人は筆の順序上其の梗概(こうがい:大略)を記せざるを得ないのである。もとより彼等とても個人としての上より云えば、悉く皆遊惰の輩を以て目すべきものではないのであるが、まず其の大体より云えば遺憾ながら遊惰の二字は到底免れないのみならず、此の二字には確かに重圏点を付すべき値あるものである。然るに此の国に於いて比較的多数を占める両班族即ち貴族に属すべき階級のものにあっては、全然優悠逸楽を事とし無辜の百姓輩を苦しむるほか嘗て何等一定の職務に従事するなく、此の点より云えば彼等は寧ろ遊惰と云わんより遊蕩という方適当なるべく、換言すれば遊惰と称すべき資格だに無いのである。故に此等不生産的社会はしばらく措き、此の国にて当然生産的部族に属すべき少数なる農工商や漁樵(ぎょしょう)の輩に就いてがそうである。彼等は無論下級社会の生活をなせるもののみなれば、少なくとも晨(あした:夜明け)には星を戴いて起き夕べには月を負うて帰る的の慨(がい:なげくこと)はある筈であるが、事実は大いに之に反し、朝も概して早からず、また夜は旅商の日暮らし位を除いては案外早く業をやめ夜業如きは婦人の裁縫、糸紡、洗濯等をなすのほか酒家が酒を鬻ぐ(ひさぐ:あきなう)位の事にて一般人は大抵宵の口より門戸を閉じ、寝に就くのを常とするのである。しかして彼等の所謂働きぶりを見るに悠々として少しも労するの色なく、また絶えて繁忙の模様を呈することを見ないのである、試みに途上行客の足振りを注意せよ。いずれも大跨(おおまた)の悠々寛々として如何なる場合といえども決して急ぎ足駆け足の人を見ることは出来ない。若し夫れ農夫の田園に於ける工匠の工房に於ける、如何なる繁忙期節にてもなおかつ業務を執りつつあるや否やを識別するに苦しむ程にて、吾人をしてすべてこれ神仙図中の人ならざるやを疑わしむるにても押して其の一班を知ることが出来る。されば彼等の労働成績は最も勤勉なるものの一日仕事にてなお我が日本人の半日仕事にも及ばざる可きか、しかし彼等とても素日本人以上の体格を具え且つ馬鹿に忍耐心強きものなれば為さんとして決して能わざるの理由有ることはない。ただ彼等先天的遊惰の風(ふう)与かりて之を為さしめざるのみである。以上の如くなれば彼等に対し急ぎ事を為さしめんとするも必竟失敗に帰するの外ないのである。何となれば彼等の仕事は素遊び半分にて我が日本人の如く仕事を仕事としてやってのけ、若し明日にわたるべき余業あらば、おまけにそれ迄稼ぎ越し、明日に至り多少の余裕を得んとする如き快活の気象夢にもなく、彼等はあくまで今日主義を守り今日はまず今日の仕事だに為せば可也という風にて、よし少々の仕残し或いは仕遅れ等の事ありとするも夫れには明日ありまた明後日もありという有様にて、其の間いかようの事あるも強いて取り急ぎ埒明けるを好まない。此の点に於いて彼等は確かに今日主義以下の人間である。かかる人間に対し、満足に一日分の仕事を為さしめんとするのは甚だ無理たるを免れないが強いてこれを為さしめんとするならば勢い強圧を加えて厳に之を監視するの外ないのである。

6. 族制主義(下)

2007-01-08 17:29:32 | 裏面の韓国
      国民相陥す亡国の状

彼等は同族間相喜び相慶し相憂い相悲しむを知るのみで、同族以外の人には些(すこし)の感覚も持たない。路傍に行き仆(だお)れの人があろうと、郷人にヒドイ病人があろうと・・・所詮彼等の血と涙とは、単に狭隘(きょうあい)なる同族間に注がれるのみで、苟(かりそめ)にも同族以外に及ぼす必要と場合がないのである。この点に於いて彼等は飽く迄家の人にして、社会国家の人たるに適せる資格を具えないのである。随(したが)って此の国には、孤児院、養育院、貧民学校、病院等の社会的慈善事業は、一として行われて居らぬ。
彼等の頭脳は誠に内にのみ温かく熱して居る。其の内にのみ熱して居るだけ、それだけ。外に対して冷酷にして、しかも残忍を極めるのだ。言葉を換えて言えば、彼等は同族以外には何等目的無きが故に、其の同族の腹を肥やし、生命を繋がん為には、如何に極端なる方法手段といえども敢えて辞する所でないので、あたかも越人の秦人に於けるが如く、虎視眈々互いにしのぎを削り塹を深うして若し敵に寸毫の間隙あらば、これに乗じて其の力を乗り取るという工合にて相互十分の警戒を加え、一寸の油断もあらせぬのである。斯くの如く彼等は族類の喧嘩を以て飯の菜として居る。詰まり彼等の一代は、此の飯の菜たる族類の喧嘩を生命として居るので、此を取り除けば他に何の剰(あま)す所はない。したがって社会上の波乱活動とても、全く此の現象に過ぎないので、此の意味以外に置かるべき興味ある問題とては更になく、単に此の族類の喧嘩を無期限に繰り返すのみである。此の国の戸口(ここう)が年々減少すると云う事が若し事実であるとすれば、全く此の辺に原因するのではあるまいか、斯かる分子を以て組織されたる此の国の社会が如何に不健全にして将来発達の見込みなきは云わずもがな、以て堕落せる族制がいかに社会国家、人類を惑乱し茶毒するかの一般を知るに足るべしである。
嗚呼一身の為に国家を犠牲とする国民は禍(わざわい)なるかな。そも国を亡ぼして家を立てんとするは危(あやぶ)い哉、大学の所謂、国を治めんとするもの先ず其の家を斉(ととの)うの誤釈、此の国人に於いて最も甚だしきを見る。

6. 族制主義(中)

2007-01-07 05:18:58 | 裏面の韓国
      族制の弊==公共的感念の欠乏

一家即ち一族、一族これ一家という感念は、彼等の脳裏を支配する一大神符とも云うべく、彼等は其の絶対の行者として力(つと)めたる結果、彼の族類的生活は著しき発達進歩を遂げたのである。
族制主義といえば、何処やら懐かしい床(ゆか)しいようで、親族間の不和合な人達は、一寸健羨(けんせん:むさぼる)に堪えない想いもあろうが、彼等の族制は、今や非常なる腐敗堕落の極に陥り、道徳上、風紀上其の他色々の方面に其の害毒を流布し、殆ど其の弊に堪えないかの如くである。現に其の国民の思想をあくまで消極的に―――頑迷の不逞ならしめ、社会公共的事業の進路を遮り、国家的感念の発達を塞ぎ、人心の出来得る限り狡猾、譎詐(けつさ:いつわりあざむく)、邪曲、陰険、猜忌(さいき:そねみきらう)、反目、陥擠(かんせい:罪におとしいれる)等に導く如き、最も其の害毒の顕著なるものであろう。宜也(むべなり)、此の国には始終党争紛乎(ふんこ)として絶えることなく、乙は甲に代わり、丙は乙を仆(たお)し、丁また之を窺うと云う如く、小党分立――朝令暮改-――蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)に争いて、一日も寧日なきことを、しかして其の党争たる、立派なる議論主義を標榜したる堂々たる天下の公議にあらず。単に自家の政権争奪、勢力消長の機械爪牙(しが)たるを旨とせる。区々情実的族類朋党の私争にして其の間些も公明正大の趣なく、全く暗中の鬼闘と異なるなしだ。彼等は何事にも族類を以て集まり、朋党を以て族類を作る。族類は彼等の米の飯にして、これが為には天下国家を亡ぼすも可也、君主を弑(しい)するも可也、いわんや人を殺し友を売り財産を奪う如きをやだ、其の他の事は云うも愚かである。斯くの如く眼中自己の利害族類の消長より外、何者もなき彼等に夢にも公共的趣味感念等の有ろう筈なく、彼等は殺風景なる此の国の山川を一層殺風景ならしめ、寂寞(せきばく)なる此の国の都鄙(とひ:とかいといなか)を一倍寂寞ならしめて居る。現に此の国には族類以外の意味に置かれたる二人以上の会社的組合事業を云うては皆無の姿で、其の娯楽の如き、単に同族間相会しての娯楽に限られ居る様で、少しの人の集まるものと言ったら、万人契或いは千人契と言って我が富籤(くじ)見たいなもの、其の他は射場に弓を引くとか又は詩会を催すとか、或いは骨牌(かるた)を弄する位のもので、倶楽部、演芸場公園等の如き平民的意味を含める公共的娯楽の設備とては絶無である。現にアノ広い京城の市街に於いても、何一つ此れ等機関がある訳ではなく見世物小屋の一つだに見受けないに至っては実以て情けなさの限りである。其の癖彼等は余程物見たがりの方で、少しでも物珍しい風変わりのしたものなら、其処には直ぐ群集して瞬く間に数百人の真白い人の山を築く。彼等は何処迄も観光的国民である、斯かる国民の脳髄がいかに乾燥にして殺風景であるか、骨相学者にでも見て貰いたいのである。彼等は詩会、射弓、万人契、骨牌等を以て、僅かに其の公共的娯楽の一端を示せるのみで確かに其の半面以上を杜塞(とそく)されて居る。此の杜塞されて居る、ヨリ多くの暗黒面こそ実に恐るべき悪魔の潜伏場である。道徳の腐敗――-風紀の紊乱(びんらん)―――事業の衰微―――元気の銷沈(しょうちん:きえうせること) !。

6. 族制主義(上)

2007-01-05 00:22:49 | 裏面の韓国
富者の義務==犯罪債務の連座

彼等は囊(さき)にも述べし如く、純然たる個人至上主義の信者で社会人類の生活としては、最も程度の低い家族思想のやや発達した族類主義を奉じあたかも太古木巣(もくそう)氏時代の感念に少し毛の生えたる如き割拠的生活に瞼喁(けんぐう:求めて)して居る。
ソコデ其の同族間(内戚を除く)の親密なることは予想外にて、彼等の語に同族即ち親族を称するに一家(イルガー)と云うにても分かる。彼等は即ち同族間を以て一家と心得て居るので、或る程度に於いて生命、財産、権利、義務、利害、得失等が共有的になって居るかの如くである。故に其の一族中に一人の高位高官を得るものありとすれば、其の人は其の左右部下に於いて、あらん限りの力を以て其の一族中よりドシドシ採用し、斯くて一門の栄達を謀(はか)る。ヨシンば其の抜擢を受けないでも其の余光(よこう:余得)を以て権威を振り回すことが出来るので、直接間接其の一族が受ける利益、幸福は大したものであるが、若しこれに反し一人の犯罪者を出す様な場合には、此の国の風俗として其の一族は皆それぞれ罪に問われ刑に処せられ、甚だしきは一門の破滅を招くことも珍しからぬと云う塩梅で、其の平生(へいぜい)に於いても有無相通じ緩急相応ずると云う仕掛けであるから、たとえ貧乏でも同族間に一人の富裕者があれば、それは安心なもので、それぞれ其の扶持(ふち)を受け、子供等の如き、食料の足らない時は、臨機食客(しょくかく)に行く位は何ともない事で、長きは二年三年一戸総括りで居候をすることもある。詰まり其の富裕者は其の同族の貧窮者を救うべき義務あるもの、又、貧窮者は一族中の富裕者に寄るべき権利あるものと定められて居るのであるから、居候したからとて、一向恥も頓着もないのである。負債の如きたとえ其の署名ががないにせよ、同族間は明らかに其の償却の義務あるものとして認められて居る。故に其の当人に於いて償却の出来ない場合は、其の同族中誰彼の差別なく勝手に催促に出掛ける事が出来るので決して自分の署名がないからとて拒むことは出来ない。否、事実拒むような事はないのである。ソコで金など貸し付ける時には本人は兎に角、其の同族間に、しっかりしたものがあれば大丈夫差し支えなしと見て可なりである。韓国に行って金の取引などする人はよく記憶えて居るが良かろう。
以上の如く彼等同族間の親密なることは実に驚く程で、或る意味より云えば同族間は一の大なるホームで即ち彼等の所謂一家と称するも敢えて無理からぬ次第である。然らば其の同族間には些(さ)の風波、紛争なきかと云うに、それは何程、族制主義の此の国でもまさかそういう訳にもゆかぬ。否、彼等の所謂親密なるものは。ただ単に利害の関係より打算した親密に過ぎないのであるから一度其の関係がくいちがう事になったら堪らない。やれ不人情だとか不親切だとか、そこに例のいろんな紛争、悶着が持ち上がるのである。

5. 単調なるホーム

2006-12-28 01:17:59 | 裏面の韓国
      個人主義の信念
唐の子西の句に
  山 静 如 大 古。 日 長 似 少 年。

上は王侯大夫より下は閭巷の彝氏(いし)に至るまで、彼の国人生活の単調なる状態は。殆ど此の一句に盡(つ)くされてあるかの感がある。恰(あたか)も韓人の為に特に用意して此の句を作ったのかの如くである。亦、彼等の門戸には天下泰平国家安康、或いは開門万福来、掃地黄金出、又は借問酒家何所在、牧童遥指杏花村、其の他支那流の古臭い句を貼り付けてあるなぞ、一見甚だ幽趣(ゆうしゅ)に富んで居るようで、如何にも奥床(おくゆか)しい感じがする。併し其の生活の真相に立ち入ってみれば、些(わずか)の奥床しい点をも認めぬのみならず、如何にも殺風景なことで、其の内部を蔽う処の幕を切り開けば更に取り柄はない。只単に生活の単調なる無意味に稚戯(ちぎ)を存して居る所のみである。彼等の頭には夢にも詩的趣味とか美的生活とか云う、洒落た趣は無いのであるが、之は全く貧乏、幼稚、野蛮の然らしむる処であって、其の美しき詩句は単に牆(しょう)壁門戸と共に其の内部の襤褸(ぼろ)を包み匿(かく)す唯一の武器とでも解釈すべきであろう。
彼等は支那人の如く純粋なる個人主義の信者で、公共、国家、社会等の感念は更に持たぬので、只機械的に国家の租税を負担し、道路橋梁等の工役に服する位であって、其の他に社会国家とは何等の関係を有せぬ、従って社会国家の一員としての彼等の価値は全然零(ゼロ)であると言わねばならぬ。之等の人間に対し忠君とか愛国とかを説くのは聊(いささ)か方角違いの咄しで畢竟(ひっきょう)徒労に属する外はないのだ。
そこで彼等の頭は皇帝より官爵位階を受ければ兎に角、直接政府と関係無き者は、全く国恩無き者として、社会に対する義務無き者の如く考えている。嘗て日清戦争戦役当時、皇城の変に際し、彼等が悠々長管を咬(くわ)えて見物して居たる如き以て例証となすに足りるであろう。
が併し彼等が茲に至ったに就いては、只理由無くて茲に至ったのではなく、必ずそれだけの遠因が無くてはならぬので、かくも極端なる個人主義を奉ずるの原因に就いては尤も識者の研究に値すべき処であろう。

4. 豚犬的生活 (七)

2006-12-27 00:43:37 | 裏面の韓国
      用便の方法――小便の効能
所謂雪隠(せっちん)の番人兼掃除役たる此の豚と犬に就いてはなお語るべき事も多いが、其れ等は都(すべ)て抜きとし只豚と犬の味わいが非常に旨く彼等韓国人は皆豚と犬は雪隠育ちに限ると言って居る位で話を止め本問題たる雪隠の事に移ろう。
田舎地方にては糞尿を以て農業上唯一の肥料として居るので夫れ夫れ肥料としての使用法を講じ灰や籾糠(もみぬか)の類を備えあるから、用便の都度其の灰や糠を被せ、そして段々と先の方掻き遣り夫れに藁なぞを混じ天然の肥料を拵(こしら)え田畑に持ち運ぶことにして居るで田舎の都会などでは本邦の如く年々餅米若干の報酬を以て付近の百姓共に契約されて居るところもある。少しく余談に渉るようだが、韓人は用便をした時決して手を洗わないので却って日本人などが手を洗うのを不思議に思って居るようである。手を洗うのは畢竟不潔物が手に附着して居るからであろうと屁理屈を言って居る。併しさすがの遉(さすが)の彼等も冠だけは必ず脱いで往くのである。若し周章(あわ)てて冠を着けた儘で用便をするようなことがあれば酒を買うて謝罪させるなンと云う洒落もある。内地を旅行する時折々冠や手荷物を路傍に置き捨ててあるのを見るがこれは彼等が用便をして居るのを示すので其の付近を見廻せば必ず其の主人を発見する。而(しか)も悠然と例の長管を咬(くち)に煙草を吹かせつつある主人公を・・・・。
それから小便の事であるが彼等の室内には真鍮(しんちゅう)若しくは陶器を以て造った平円形の便器を備えイザと云う時は便器を小股に挟んで置いて座しながらシャアシャアやるのだ。無論女でもーーー殊に驚くべきは如何なる高位高官と雖(いえど)も亦如何なる賓客の前でも決して遠慮なく眼前でシャアシャアやる。彼等は座を起って便所に通うことをしない国民であくまで安座的―――座敷籠もり的である。今日韓国向き陶器類の内では此の便器の売れ行きが非常で我が陶器店などでは何れも沢山並べている殊に最も驚くべきは彼等は此の小便を一の薬品同様に心得て居ることで、衣類の汚点を種々の器物の汚れを去るに特効有りとて足袋なぞを洗濯する前には必ず一度小便につける習慣である。なお小便で洗えば顔面なぞの荒れを癒すとて婦人連は頻りに化粧用に使って居る亦十歳以下の小児の小便は童便と云って或る病気に特効あるものと信じられ之を服用する習慣もある我々の眼から観れば実に奇怪と云うの外はないが彼の国では決して奇怪ではない否寧ろ通例の事で恐れ多いことであるが彼の国の皇室に於かせられても之を御飲用遊ばさるるやに洩れ承って居る況(いわん)や其の下々の豚犬同様の臣民に於いてをやだ此の他の事は余も語るの勇気がない。以上で豚犬に均しき世界一の不潔国たる事実が証明されたのであろうと信ずる。

4. 豚犬的生活 (六)

2006-12-27 00:42:40 | 裏面の韓国
      糞尿と便所――その掃除人
此の七大産物の随一とも云うべき糞尿に就いては実に鼻持ちのならぬ話なるも今少し聞いて貰わねばならぬ。韓国の首府たる京城の有様が斯くの如しとすれば其の他各地方の実況もほぼ想像せられ至る所世界唯一の糞の国たる事を説明している。此等は衛生上は云うに及ばず国家経済の上から観るも非常な損失で、便所の整理の付かないのと尻癖の悪い為に可惜(あたら:おしむべきことに)好個の財源を所嫌わず撒き散らすは実に惜しむべき次第である。ところで以上の如きは、千万の韓人皆悉くとは云えないが中流以下即ち全国民の半数以上が日々街路や山にヤリッ放す糞尿の対価を統計せば実に驚くべき多額であろう。予は其の数量や価額を統計して見る閑日月と勇気を持たなかったは甚だ遺憾であるが兎に角夥しい価額なるは間違いない。殊に風教上決して感心ならぬ話で気の毒ながら豚犬的国民たることを表白して居る。
右の如く述べ来たれば読者の内には或いは韓国には便所はないかと云う疑いも起ころうが決して無いではない大抵中流以上の家は兎に角形式だけでも便所の設けなきはなく京城の如き極々下等の家を除く外何れも設備している。其の他地方の農家などでは殆ど皆設けられて居る。茲(ここ)に其の構造をを述ぶれば例の塗立小屋の家より少し離れた空地に土を少し掘り凹め其の両側に二個の石を置き其の石の上に跨いで遣るように出来て居るが入口が馬鹿に大きく殆ど障害物も無いから、外面から醜態が見透くので堪らない。だから外国人などはどうしても這入る勇気が出ない。そうかと云って旅行でもする折には他に詮方がないから無理から辛抱して夜陰を待ち初めてコッソリ使用するのである。
が此の便所に就いては折々珍事が起こる。此の便所は一の養豚場なので豚先生ノソノソお客を待っているから便所に這入るか否や素破(すわ)御馳走御参なれと云わぬ許(ばか)りに早速尻の辺に集まってくるので、予などは最初は如何に奮発しでも此の便所の厄介になることは出来なかったが特に夜陰などは此の豚の襲撃に遭い吃驚一番便所を飛び出した事も度々だ。其の他各家に飼養してある犬が非常に此の御馳走を好むので豚と犬が絶えず便所付近に見張りを倣(な)して居りお客があればワロワロ群がり来たり何程追い払っても決して立ち去らないでムシャムシャ遣りつける煩さ気味悪さは実に話も出来ない。此の国の犬と豚とは全く糞を以て養われて居る。換言すれば豚と犬とが便所の掃除役を勤め不潔の此の国には非常なる貢献をなし、不潔を以て不潔を制する仕組みとなって居るのも面白いではないか。

4. 豚犬的生活 (五)

2006-12-27 00:41:23 | 裏面の韓国
      世界一の不潔国民――韓国の七大産物
韓国内地を旅行すれば、路傍や街路中に累々たる黄金の花が、場所も嫌わず狼藉と咲き乱れて居るで、脚の踏み場もなく、潔僻者は一見其の不潔と臭気に驚くのだ。彼等韓人の尻癖の悪いのは実に世界の名物と言うべきで、現に斯の国の中央都会の地たる京城の如き、一名を糞の帝都と綽名(あだな)されて居る程で、至る処人糞或いは牛馬糞を見ざる無しで、紛々たる臭気は鼻を襲い眼を顰(ひそ)めぬ者とてない。
ソコで京城市内を流れて居る川の如き、各戸より排泄する糞尿を混じ、其の水は一種の黄色を帯び、ドロドロとなって居るなぞ実に眼もあてられぬ光景(ありさま)であるが、彼等は頓と平気なもので、その糞川の水で洗濯など遣って居る。なんと鼻持ちならぬ話ではないか。
毎年夏期になると伝染病が流行し、其の伝染病に罹る者の多くは韓人で、非常なる大流行を極め何千人を斃(たお)すは珍しくない。是等は畢竟(ひっきょう)便所の整理が皆無で、降雨の日なぞは糞尿がドロドロとなって流れ、人馬の脚や、車の為に四方に蹴散らさるる、実に言語に絶する光景から起こるのである。併し冬の日なぞは寒気の為に凍り付けられ、余り臭気も発せず、格別の事も無いが夏日になったら堪らない。蛆や蠅が幾千万となく群がり食物や何かに附着するので、その不潔さ煩さ実に話も出来ない。恁(かか)る次第で彼等は所選ばずヤリ放すのみか、便所に在る糞尿もドシドシ河中に流し込むので、其の安母尼亞(アンモニア)質が自然と地中を伝わり、雨や雪の作用で飲料水に及ぼすから、伝染病の流行するのも無理はない。現に京城地方に於ける井戸の如きは、此の安母尼亞質の混じない純良なる飲料水と云っては殆ど皆無で、殊に驚くべきは恐れ多くも皇城の門前をも憚らずドシドシやり放すのである。彼等は決して場所などを考える能力を有せないので、街路でも、門前でも、塀外(へいそば)の凹地などでも、白昼公然と平気にやって居るが其のやりっ放した糞尿は誰とて片付くる者も掃除する者は無く、警察官なども都(すべ)て無頓着である。ソコで或る人が京城市街に於ける人糞牛馬糞等を掻き集むるに於いては見事一の高山が出来ようで、廃物利用と出掛けて、一大肥料問屋を開業したら必ず一儲け出来るに違いないと云って居った。糞の帝都に於ける糞問屋、なんと面白い考案ではないか。兎に角糞は煙管、虱、妓生(きーせん)、虎、豚、蠅等と共に韓国の七大産物とでも云うべきである。

4. 豚犬的生活 (四)

2006-12-27 00:34:47 | 裏面の韓国
      家屋の構造三――驚くべき魔伝=不倫の犯罪製造所
小さな藁葺小屋―――ソコへ頑丈な不細工な石垣を繞(めぐ)らし外面からちょっと内部を窺(うかが)い知ることの出来ぬ殆ど行通さえ自由に出来ない彼等家屋の内房裡の生活状態が如何に陰気の極であるか、又如何に世の進化に遅れて社会に無頓着であるかは大略想像が出来る所であろう。
先ず彼等が忘れずに必ず拵えて居る外囲の墻(しょう)壁は彼等が自ら社会以外に立ち、我は我たり汝は汝たり社会の事我関せず個人的主義の感念―――所謂アララン主義を代表し世間に一切顔出しもせねば社会の事には関連しまいと我から城廓を設けたかの如くである。韓人の猜疑深き陰険に富める特徴は尚種々な原因あることであろうが要するに我と城廓を堅くして門戸を厳重にし隣人と雖(いえど)も行通の出来ぬようなことになり従って相互いの事情が充分に疎通せず其の間に何か物の挟まって居るようなことになって居るのが其の発達進歩を害した有力な点であろう。試みに垣一重門一枚の内幕――即ち赤裸々たる内房裡の状態を写したなら実に奇々怪々百鬼夜行とでも言うべき有様であって其の暗黒裡中には詐欺、博奕(ばくち)、賄賂、姦淫、邪曲、陰謀等人知れぬ驚くべき幾多罪悪の分子が籠もって居るのである。彼等は外部との行通を塞ぎ所謂一家の世界であるを僥倖(ぎょうこう)として小人閑居的に出来得るだけの不善否(いな)罪悪をヤッて居るので此の点から言えば彼の内房裡は不徳破倫の犯罪製造所とも云うべき一の恐るべき伏魔窟である。
而(しか)して此の恐るべきーー驚くべき伏魔殿裡には数百年前から支那渡りの腐敗せる空気を以て充満され嘗て一度も改め清めらるる機会なく又、近き将来においても廓清を見るような事は先ず先ず思いも拠らぬことである
嗚呼韓国社会の改良を計り彼等の精神に根本的改鋳を加えん日は先ず彼等の悪徳不義を隠蔽せる唯一の門関と城壁とを壊(こぼ)ち其の割拠的根性を打破し新しき光線と清き空気を流通せしめてこの悪徳不義の製造所たる伏魔殿裡の大清潔法―――大洗濯を施すの時でなくてはならない。
果たして然らば彼等の屋制を改良し其の暗黒なる生活に一条の光明を与うるは彼等公徳の腐敗、倫理の堕落を救うべき刻下の一大急務たるや疑いなき所である。

4. 豚犬的生活 (三)

2006-12-25 00:48:43 | 裏面の韓国
      家屋の構造二――神聖なる豚小屋
が然し夫れも一概に斥(けな)し付ける訳にもいかぬ。成る程常民の住屋は右の如き極単一な誠に造作なきものであるが中流以上士人の家になると同じ豚小屋でも比較的稍々(やや)大なる豚小屋でなくてはならぬので、前者に比し幾分か体裁は整えて居る方で、家にはチト不似合いなる程の門構えをなし、其の家屋の如き大抵両部は分かたれ正面の大門を這入ると直ぐ其の処には舎廊(サラン)と云って外客に接する一棟の建物がある。それからまた二の門が横さまに設けてあり其の内に妻女や眷属が容れてある一棟がある。これすなわち内房と云って其の家の親族及び婦人小児其の他僕婢(ぼくひ)を除く外如何なる親近入懇と雖(いえど)も一切交通することの出来ない所で、或る場合に於いては公用を帯べる官吏の入来をも峻拒することの出来る云わば神聖なる所とでも云うべく、二の門は即ち其の金城の鉄壁に値すべきであろう。若しも許可無くして妄(みだ)りに此の鉄壁の関門を潜る如きものあらば其の者はたとえ撲(う)ち殺されても訴える所なき位である。故に国事犯若しくは重罪者にあらざる以上一寸した犯人の此処に逃げ込み蟄伏して出さえせねば容易に捕まる心配はないのである。然るに事情を知らぬ日本人達は時々間違わして此の内房に突き入り為に婦女子を仰天せしめ大騒動を惹起(ひきおこ)こす等が往々ある。平時内地を旅行する者の注意するべき事項であろう。さて其の家に用向きあるものはまず表門を通りて舎廊に至り童子(こども)や僕婢を以て其の旨を通ずるか或いは高声を発して其の名を呼べば主人出で来りて此処にて用談をするのである。それからまた酒食の饗応などある場合には内房より膳部だけを拵(こしら)えて運び来り童子が傍らに侍して杯盤の間に周旋するという仕掛けになって居て前の九尺二間的常民の家とは規模と云い結構と云い幾分趣を異にして居る点があるのである。然しそれかと云って士人の家なら何処でも必ず舎廊の設けがあるのかと云うに決してそう云う訳には来(まい)らぬので金のなき為め設備の出来ないのも沢山で中には金があっても政略上わざと拵えないのもある。斯くの如く内房のみあって舎廊なき家は如何にすれば宜いかと言うにこれは矢張り門外に佇立しながら用談を弁するより外に致し方はないので雨が降れば雨は降り乍ら・・・・決して常民の家の如く無暗に這入れぬは言う迄もなくこれでは主人側よりも義理にもお遊びにお出でなさいなどの口上は吐けぬ訳であるナント不自由不便利しかも窮屈の極ではないか。韓人をして今日の韓人たらしめる最大原因の一は慥(たし)かに此の屋制の不完全が然らしめたるものと云わねばならぬ。