楽しく遍路

四国遍路のアルバム

蒼社川から 57番石清水八幡 栄福寺 浄寂寺 伊加奈志神社 一之宮神社

2018-09-19 | 四国遍路

 
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無縁墓地
56番泰山寺から1キロほどの所。無縁墓地の坂を上がると、蒼社川の堤防です。


道標
前号でも記しましたが、昔は、ここを歩行渡りしたようです。今日では水量が多く、ちょっと無理のようですが、流れの筋に板をかけて渡った話が、えひめの記憶に採録されています。


対岸
対岸にも道標が立っています。上流の橋を渡って、あそこに行ってみます。


泰山寺へ
やってきました。・・五十六番泰山寺へ八丁・・とあります。逆打ち遍路への案内です。

栄福寺へ
河原から上がってくる人へは、・・へんろ道 五十七番栄福寺へ十丁・・と案内しています。
道標の建立は大正11(1922)ですから、札所はすでに57番栄福寺です。
上流方向を指す手印に従い、前号で記した道・・谷山川沿いの道→御旅所→八幡山南側の山裾道→栄福寺・・と歩いたのでしょう。


八幡山
では、57番札所がまだ石清水八幡宮の頃は、どんな道を歩いたのでしょう。
澄禅さんは「四国遍路日記」に、・・(泰山寺を)立て、辰巳の方へ往って 河を渡りて、南の山に上る。山頭には八幡宮在り。・・と記しています。
真念さんの「四国遍路道指南」は、・・行て惣蛇川と云う川有。 よむら、次左衛門やどかす。 いかなし村。五十七番八幡宮二丁山上。・・
「四国遍礼名所図会」は、・・よ村、いかなし村、石鳥居有り。是より弐町坂也・・と記しています。



まとめると、・・蒼社川を渡り、四村、五十嵐村を南に進み、石鳥居から二丁、坂を登る・・となるでしょうか。
ただし、四村、五十嵐村には、真南に向かう道は、おそらくなかったと思われます。澄禅さんは八幡山からの景色を、・・誠に碁盤の面の様にて田地ばかり也・・と記していて、実際、現代の2.5万地図でも碁盤は確認できるのですが、それは南北の軸から45°傾いています。四村、五十嵐村の新田開発が、蒼社川の川筋に沿って行われたためだとか、古代条里制遺構や官道の制約を受けているなど、考えられますが、わかりません。



写真は、道中、たまたま目に入った墓石です。珍しい型なので載せてみました。



まあ、そんなこんなの事情もあって、できれば澄禅さんや真念さんが歩かれた跡をたどりたいのですが、それは難しいようです。
えひめの記憶は、四村と五十嵐に今も残る道標を紹介しつつも、・・かつての遍路道を明確にすることはできない。・・としています。
写真の道は、南西に向いています。奥は八幡山の西部分。道の両側は麦畑です。


道標
とまれ、その道標を訪ねてみました。
これは四村の道標です。
風化していて、これ単独では遍路道標と判じることはできませんが、すこし先で、五十嵐の遍路道標につながっています。とすれば、これも遍路道標でしょう。また、遍路道標以外の道標が、この辺で必要だったとは思われません。


道標
五十嵐村(いかなし村)の道標です。右隣に、写真には写っていませんが、伊加奈志神社(いかなし神社)があります。
左右に延びる道は、八幡山の裾をたどる道です。右に進むと、前号で記した御旅所に出ます。左に進むと、およそ150㍍で、名所図会が記す石の鳥居があります。石清水八幡宮への登り口です。


道標
手印の下に、かすかに「へん・・」の文字が読みとれます。


伊加奈志神社
伊加奈志神社の登り口です。この神社については後述します。興味深い神社です。



山裾の道を歩いて、石清水八幡宮への登り口に着きました。


石清水八幡神社
石の鳥居です。
真念さんの「四国遍路道指南」では、五十七番八幡宮
寂本さんの「四国遍礼霊場記」では、石清水八幡宮
「四国遍礼名所図会」では、五十有七番八幡社別当栄福寺、と記されています。
写真左の社名碑は、石清水八幡「神社」となっていますので、明治以降のものでしょう。


鳥居
前記しましたが四国遍礼名所図会に、・・石鳥居有り。是より弐町坂也・・とあります。
これによると石の鳥居からは、かつては(石段ではなく)「坂」だったようです。
澄禅さんは「四国遍路日記」に、・・此の山は・・屏風を立てたる様なる山にて、小石まじりの赤山也。足の踏所も無くして中々上り兼たり。二町辛苦して山上に至る。・・と記しています。厳しい登りだったようです。


道標
  伊豫一社 五十七番 石清水八幡宮 表口
八幡神社への登り口は、いくつかありますが、ここが表口とされています。
伊豫一社については、前号で記しました。


道標
片隅にひっそり立っていました。元は別の場所にあったのでしょう。
右の道標は、手印の下、「へんろ」の文字が見えます。
左は、文字があるのは分かりますが、よみとれません。しかし優しげな手印です。


石段
石段を上がります。


石段
少々うんざりしながら上がっていると、土地の女性に出会いました。犬を散歩させながら自分も散歩しているといいます。犬の散歩ではなく、犬と散歩している方です。
とても話し好きの方で、私に話しかけながら、合間合間にワンチャンにも話しかけます。
この方は、以後、一之宮神社までつきあってくださいました。


山上へ
ようやく着きました。


景色
澄禅さんは山上からの景色を、・・此山より見れば今治三万石を目の下に見るなり。・・田地ばかり也。真中に河(蒼社川)在り。北は海(燧灘)。手向は芸州なり。・・と記しています。
・・田地ばかりの真中に蒼社川が流れている・・ことから察するに、田地は元は、蒼社川の氾濫原だったでしょう。人は営々と、これを田地に変えたと思われます。


景色
写真は、別の季節に見た景色です。麦秋。愛媛県はハダカ麦の産地です。芸州は、見えないようです。


拝殿
この神社は、初め、河野深躬が「勝岡」という所に創建し、勝岡八幡宮と称したそうです。貞観元(859)のことだといいます。後、永承の頃(11C 半)、現在地、八幡山に遷り、山城国・石清水八幡宮に倣って社殿を造営。社名も石清水神社に改めた、とのことです。
山城の石清水八幡宮が男山に木津川を配するように、当神社も、八幡山に蒼社川を配しています。


奥殿
祭神は、品陀和気命(ほんだわけ命)、 足仲彦命(たらしなかつひこ命)、 息長帯比売命(おきながたらしひめ命)です。
漢風諡号でいうと、応神天皇と、その父・仲哀天皇、母・神功皇后、です。



別の創建譚があります。
貞観元(859)、南都大安寺の行教上人は、宇佐神宮の八幡大神より、・・われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん・・とのご神託を受け、これを奉じて山城国男山に向かったと言います。・・


境内
・・途中、嵐に遭って漂流しましたが、ふと見れば光指す山があり、手を合わせれば、たちまち嵐は鎮まりました。
上人は、遠望した山が男山に似ていることから、翌年、このお山にも、八幡宮を勧請しました。それが今日、八幡山と呼ばれている、このお山です。


下り
栄福寺への下り口にも、文久2(1862)の石柱が立っています。


下り
すこし降りた所で、ふり返って撮った写真です。


下り
栄福寺へ下ります。
四国遍礼名所図会・・是より一町下り 別当栄福寺大師堂、是より佐礼迄十八丁なり・・


下り
快適な下りです。


栄福寺裏
栄福寺裏に出ました。


栄福寺
現在の57番札所、栄福寺です。
えひめの記憶に次のような記事があります。
・・五七番札所栄福寺は、札所として江戸時代中期ごろまでは八幡宮と呼ばれ、石清水八幡神社を本堂としていたほどである。・・つまり、同体であった、ということでしょう。

  元 石清水八幡 別当 浄寂寺

五十嵐集会所
五十嵐集会所を過ぎると、・・


道標
道標が立っています。
手前に進むと、59番札所・国分寺です。5.6キロと記しています。
奥に進むと、鳥越峠を経て、犬塚池→58番仙遊寺に至ります。八幡山の南側と北側を、東端で繋ぐ道です。犬塚池に至るまでに、浄寂寺、新三島神社、鳥越地蔵を経ます。


浄寂寺参道
120㍍ほど歩くと、浄寂寺参道の案内が見えてきます。


参道地蔵
右へ200㍍。さほど厳しくはありませんが、上り坂です。
なお地図上では、この道は浄寂寺で行き止まるかに見えますが、実際は境内奥から、八幡神社の石段に出ることができます。石段のかなり上部に出ます。
後述しますが、浄寂寺が元、八幡神社の別当であったことを考えれば、もっとしっかりと通じていてしかるべき道です。


浄寂寺
 臨済宗妙心寺派 法華山浄寂寺
 伊予府中四国八十八箇所四十六番札所


浄寂寺
浄寂寺のことが、四国遍礼霊場記に記されています。
・・当社(石清水八幡宮)奉事の僧院長福寺ときこゆ、今は浄寂寺といふなり。
かつて当社の別当寺は長福寺であったが、今は、浄寂寺である、ということでしょうか。
「今」とは、霊場記が刊行された年と考えていいと思いますので、元禄2(1689)を指します。この年、八幡宮の別当は、浄寂寺だったわけです。
長福寺が八幡宮の別当だったのは、えひめの記憶によると、その前の、貞享年間(1684-88)のことです。


能寂寺
  重要文化財 能寂寺文書 一巻
浄寂寺はかつて、能寂寺という寺でした。能寂寺は(後述する)伊加奈志神社の別当を務めた寺です。寛文年間(1661-1673)、浄寂寺に改められたといいます。
碑は、浄寂寺が能寂寺時代の文書を残していることを、伝えています。私が今、記していることの多くは、能寂寺文書が出典かもしれません。貴重な資料です。


浄寂寺
年代を整理すると、次のようになります。
 寛文年間(1661-73) 能寂寺(伊加奈志神社別当)が、浄寂寺に改まる
 貞享年間(1684-88) 長福寺が八幡宮別当
 元禄2 (1689)     浄寂寺が八幡宮別当
誤りを怖れず記せば、能寂寺の改組は、伊加奈志神社から八幡宮への、別当職の乗り換えを企図したものだったかもしれません。八幡宮の社勢が、伊加奈志神社に勝ってきたのではないでしょうか。


浄寂寺
ところで長福寺ですが、この寺は八幡宮別当を退いた後、大乗寺-乗泉寺などと名を変え、寛政4(1792)、栄福寺と称して八幡宮の別当となります。
栄福寺の別当は明治までつづき、神仏分離後、57番札所となりました。


入定松
 随転和尚入定松
享保17(1732)、後に享保の大飢饉と呼ばれることになる大飢饉が発生しました。その時、浄寂寺の住職であったのが、随転和尚です。
民の飢餓を見かねた随転和尚は願心をたて、食を断って土中に入ったといいます。七日七夜、かすかな読経の声と鈴の音を聞き続けた村人たちは、随転和尚を偲び、「入定松」を植えたとのことです。


入定松
享保17(1732)、西日本一帯、とりわけ瀬戸内海沿岸地帯は、大凶作に見舞われました。前年からの悪天候、長梅雨、冷夏、大発生したイナゴやウンカによる食害などが、原因と考えられています。なお今治平野では、蒼社川の氾濫が追い打ちをかけています。


入定松
餓死者は、通説では、西南諸藩で1万2000人余、と推計されています。諸藩が幕府に報告した数が、基になっているようです。
が、こういう場合、権力は少な目に報告するだろうというカングリは、庶民の知恵でもあると私は思っています。情報隠しは今も昔も。
「徳川実紀」が記す餓死者数は96万9900人だそうですので、カングリ必ずしもカングリにあらず、ではないでしょうか。


五人主堂
やはり凶作の話です。
寛文7(1667)の頃、この地方は凶作続きで、にもかかわらず年貢の取り立ては厳しく、村人は苦しんでいたと云います。凶作の主因は渇水だったと言われています。
これを救おうと決心したのが、庄屋の近藤八右衛門さんでした。八右衛門さんは直訴すべく江戸に上り、藩主に年貢の減免を訴えたといいます。



直訴は成功しましたが、八右衛門さんは不幸に見舞われます。
2年後、八右衛門さんと家族4人が、国元役人によって惨殺されました。役人は面目を失い、八右衛門さんを怨みに思ったと伝わります。
村人はこれを悲しみ、五人の遺体を浄寂寺に葬り、五人主堂を建てて祀っていると言います。


清水小学校
犬と散歩の女性が、五人主殉難之地の碑が清水小学校にある、と教えてくださいました。
校名の「清水」は、むろん、石清水八幡神社に因んでいます。かつてこの辺は清水村と呼ばれ、清水小学校は、清水村立清水小学校でした。今は今治市立です。
校歌を調べてみると、やはり1番に「八幡の山」「蒼社のせせらぎ」が出てきます。2番は「広い麦田」。3番は「お作礼の山」。4番は「石鎚」です。


麦田
2番に出てくる「広い麦田」です。愛媛県はハダカ麦の産地として、全国でもトップレベルです。


五人主殉難之地
五人主殉難之地の碑が、校門を入ったすぐの所にあります。昭和47(1972)の建立です。


三嶋新宮神社参道
浄寂寺参道入り口に戻りました。
すぐ先に、三嶋新宮神社の参道入り口があります。祭神は、伊邪那美命、速玉之男命とのことです。
ここは失礼して通過させていただきました。


石清水八幡神社へ南参道
さらに120㍍余歩くと、石清水八幡神社への南参道があります。車で上る道です。


鳥越地蔵 
南参道入り口から50㍍余で鳥越峠です。地蔵さんが境を護っています。
この道がへんろ道であった時代もありました。


鳥越地蔵
目と腹、進学などにご利益があるそうです。悲話を伝えるお地蔵さんです。


下り
八幡山の南側に降りてゆきます。見えるのは玉川町です。


降り口
下に現在のへんろ道が見えます。右方向が栄福寺、左方向が犬塚池→仙遊寺です。


犬塚池へ 


  伊 加 奈 志 神 社

伊加奈志神社 社頭
伊加奈志神社は延喜式内社に比定され、伊予国総社の論社ともされています。古来、総社明神と呼ばれ、側を流れる蒼社川(そうじゃ川)は、かつては総社川(そうじゃ川)と書き表された、とも伝わります。
地域名の五十嵐(いかなし)は、社名の伊加奈志(いかなし)に由来するようです。社名が何に由来するかは、後述します。


石段
長い石段を上ると、拝殿、奥殿があります。標高65㍍ほどの所です。


拝殿
祭神は、別天神(ことあまつかみ)の五柱と、五十日足彦命(いかたらしひこ命)、伊迦賀色許男命(いかがしこお命)の七柱とされています。
五柱とは、造化の三神とされる天之御中主命(あめのみなかぬし)、高御産巣日命(たかみむすび命)、神皇産巣日命(かみむすび命)に、宇麻志阿斯訶備比古遲命(うましあしかびひこじ命)、天之常立命(あめのとこたち命)を加えた五柱です。天地創造にかかわる、別格の神々です。総社たるにふさわしい神々、とも言えましょうか。



おそらく、この神社の当初からの祭神は、伊迦賀色許男命でしょう。社名の「いかなし」は、神名の「いかがし・・」が転じたものではないでしょうか。


奥殿
伊迦賀色許男命は、遡れば饒速日命(にぎはやひのみこと)の六世に、下れば(高縄神社のところで記した)小千命、さらには小千躬尺(別名・小千高縄)にもつながろうという、高縄半島に縁深き神です。

  一 之 宮 神 社

一之宮神社
犬と散歩の女性が、「一之宮神社」を教えてくださいました。今回の遍路で出会う三つ目の一宮神社です。
最初の一宮は大浜八幡神社でした。境内の説明文に、・・大三島の大山祇神社が、伊予一宮としてすでに名高いにもかかわらず、土地の人たちはあたかも競うように、大浜八幡神社を、・・一国の鎮守あるいは一之宮と称えていた・・ことが記されています。(前々号参照)


一之宮神社の虚空蔵堂
二つ目が、別宮大山祇神社です。(こちらは前号参照)。
55番札所南光坊のご詠歌・・このところ三島に夢のさめぬれば別宮とても同じ垂迹・・にもあるように、別宮大山祇神社も、 ’別宮とても’ 伊予国一宮、と考えられなくもありません。
そして三つ目が当社、徳重の一之宮神社です。伊予国府の至近に一之宮神社が在るのは、自然なことです。伊加奈志神社が総社。当社が一之宮、というわけです。


一之宮神社の楠
一宮を名乗る神社が、あちこちにあるのは、面白いことです。
私はこの後、62番宝寿寺ででも、一宮神社に出会います。今回、四社目の一宮神社となりますが、それはまた後ほど。


尾根道
拝殿の脇から尾根筋をたどる道が伸びています。この道を行くと、石清水八幡神社の奥殿脇に出ます。


塞の神
石清水八幡神社から一之宮へ向かう途中、見かけました。
現在の行政区画とわずかにずれていますが、五十嵐と四村の境を護る、塞の神(さえの神)でしょう。


八幡山 作礼山
手前が八幡山。東部分です。左奥に作礼山が見えます。


お別れ
犬と散歩の女性と、お別れです。ありがとうございました。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回は、(ようやく)犬塚池から仙遊寺へ登ってゆきます。更新予定は、10月17日です。

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2 コメント

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♫丸々坊主の 禿山は ・・ (楽しく遍路)
2018-09-25 16:20:53
毎日のように、台風、地震、断水、停電、猛暑、大雨、土砂災害などの言葉が聞こえてくる、大変な夏でした。ようやく落ち着いたのでしょうか。
「最悪の日常化の始まり」が正鵠を射ていると思われてならないのは、残念なことです。

四国遍路の一巡で、何本の川を渡るのでしょうか。
橋のありがたさをまざまざと感じたのは、太龍寺に登る前の、那珂川に架かる水井橋でのことでした。
その高さに目がくらみそうになりながら、ここを下って、また上るよりは余程いいと、勇気を出して渡ったのでした。昔は、下に渡しがあって、15文で渡ったようです。
橋がない時代の累積高度差は、今日の何倍あるのでしょうか。

寺社の参拝者獲得競争は、けっこう激しいものがあったようです。
  お伊勢参らば お多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる
  伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕さんには月まいり
  一生一度は こんぴら参り
  金毘羅参れば 由加山参れ、金毘羅 由加山 両参り
まるでスペイン ポルトガル 8日間、みたいに、セットになっているのは面白いですね。

62番札所宝寿寺の近くに、一之宮神社があります。江戸時代は一宮大明神でした。
土佐の四万十川河口にも一宮神社があることは、前に記したことがあります。
他にも探せばあるのだと思います。
83番一宮寺で「全国一宮神社鎮座地」という大きな石板を見かけましたが、かなり絞り込んでいるにもかかわらず、例えば越中国に至っては、六社の一宮が並んでいました。
お山の大将ならまだしも、お山の杉の子でなければいいのですが。
♫丸々坊主の 禿山は いつでもみんなの・・・
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♪お山の大将 俺ひとり あとから来るもの つき落とせ~ (天恢)
2018-09-23 21:54:52
 すっかり秋めいてまいりましたが、心配された二百十日、二百二十日も「当たり」で関空が水没したり、北海道では震度7の地震まで発生。 こうなると「天災は忘れたころにやってくる」は死語になりそうで、忘れぬうちに続発という最悪の日常化の始まりです。

 さて、今回も舞台は今治・石清水八幡を中心に「蒼社川から ~ 一之宮神社」を楽しく読ませていただきました。 とくに前号でも紹介された蒼社川の歩行渡りが気になりました。 普段は水量が少ない水無川でも大雨が降れば歩いて渡ることはできなくなったはずです。 その時は迂回したり、にわか渡し舟が仕立てられたのでしょうか? 昔のお遍路さんにとって川を渡るということは、山を上るのと同じくらい大変な難行苦行を強いられたようです。 いただいた遍路本に 『四国には川が多い、橋が少しは架かっているが、ほとんど渡し舟だ。 渡し舟には乗るには銭がいる。 川幅によってだが、二文、三文の船賃から 四万十川なら子どもでも、十文を支払わねばならん・・・』とありました。
 施しを受けながら四国を巡礼するにしても、物乞いだから渡しは無料とは参らぬようで、どんな人でも遍路するにはソコソコの路銭が必要だったに違いありません。 江戸の昔の文銭は重くてかさばっただろう? 盗人や追はぎの用心まで余計な心配もあったでしょう。 現在はキャッシュカード一枚あればなんとかなる時代ですが、先人のご苦労を思うと、遍路における「修行」とは何か? とつくづく考えさせられます。

 さてさて、タイトルの「♪お山の大将 俺ひとり あとから来るもの つき落とせ・・・」ですが、西條八十作詞・本居長世作曲.の童謡「お山の大将」ですが、こんなガキ大将の歌を口ずさんで遊んだ方たちも少なくなりました。
 で、何でタイトルが「お山の大将~」なのか? は、ブログにあった伊予の「一国一社八幡宮」、「一国一之宮」についての記述です。 『大三島の大山祇神社が伊予一宮として、すでに名高いにもかかわらず、この土地の人たちは、あたかも競うように大浜八幡神社、二つ目が、別宮大山祇神社、そして三つ目が徳重の一之宮神社、それに伊加奈志神社まで加わって、一宮を名乗る神社が、結構あちこちにあるのは、面白いことです』 と、文中にありました。 これに能寂寺、浄寂寺、長福寺、栄福寺による八幡宮別当の変遷を絡めると、八幡宮の間で社勢を巡ってかなりの抗争があったのでしょうか? 神仏への信仰よりも、所詮人のなせる業、この地にも様々な権謀術数渦巻く歴史があったのかもしれません。
 江戸の頃まで、一国と言えば、その地方の「全世界」でしたから、当事者たちにとっては真剣な戦いだったでしょうが、お山のてっぺんを取りあうガキ大将の遊びにも通じるものがあります。 石清水八幡神社の山上から城下を眺めれば、なるほど「お山の大将」にとって天下でも取ったような気分になったのかもしれません。 『🎵お山の大将 俺ひとり あとから来るもの つき落とせ ころげて 落ちて またのぼるあかい夕日の 丘の上』 と、歌詞はつづきますが、これに似たような「お山の大将」が日本だけでなく、全世界で、これからも現れ、消えていくことでしょう。
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