楽しく遍路

四国遍路のアルバム

大浜八幡  石中寺 真名井神社  杣田稲荷 延喜観音  天満神社 54番延命寺

2018-07-25 | 四国遍路

 
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今治市波止浜町の南に、大浜町があります。写真は大浜漁港です。



小島、大三島を望み、しまなみ海道が見えます。
港内は穏やかですが、外は一転、潮流の厳しさがわかります。


大浜八幡鳥居
その海に向かって、大鳥居が建っています。大浜八幡神社の鳥居です。


拝殿
大浜八幡神社は、上古、大浜(王浜)神社として創まりました。
境内の説明文によると、乎致命(おち命)の九代の後裔・乎致足尼高縄(おちのすくね高縄)が、祖神である乎知命を祀ったのが興りだと言います。


拝殿
乎知命は東予地方の開拓神です。未開の地を開拓せられた乎致命を、人々は敬慕の心をもって祀ってきた、と言います。
八幡神社となるのは、貞観元(859)、大浜神社に宇佐八幡宮の諸神を勧請してからのことです。


社名碑と乎致命像
勧請の背景には、乎致命を小千国造として送り出してくださった、応神天皇への感謝があったようです。
主祭神は変わらず乎致命で、八幡諸神は相殿に祀られたのでしたが、ローカルな乎致命に比し、八幡神の御名がビッグな故か、社名は、大浜八幡宮と改まりました。


乎致命像
境内の説明文から、要点を抜き書きしておきます。
・・歴代の国司崇敬厚く、守護職河野氏をはじめ武将の崇敬深く、海上史に有名なる瀬戸の海賊衆は八幡大菩薩と斎き祀り、一国の鎮守あるいは一之宮と称える。


越智氏族発祥之地碑 昭和15建立
・・藩政時代には、今治藩主の氏神として今治藩士の祈願所として、今治町・越智郡の大氏神と崇められる。
・・東予地方開拓の神として、武神として、郷土繁栄の産土神・除災開運・家運繁栄・海上安全などの祈願所として光輝している。   


大浜八幡神社全景
・・乎致命は、日本六十余州越智氏族の祖であり、その氏神として此処大浜の地に鎮座され、人々の崇敬を集めている。・・支族は全国に広がり繁栄している。


石中寺
同じ大浜町に石中寺があります。石土宗総本山石中寺です。御本尊は、石土蔵王大権現。
石中寺が伝えるところによれば、・・文武天皇の大宝元年(701)五月十八日、石中寺道場で、南空に初めてお姿が現れ、それより1ヶ月後の六月十八日、石土山上に鎮座された、とのことです。
ただし、ここで言う「石土山」は、一般には「瓶ヶ森」として知られているお山、・・西日本最高峰「石鎚山」の東方にあるお山・・を指しています。


石中寺
けっして奇をてらっているのではありません。
鈴木正崇さんは「山岳信仰」(中公新書)で、・・石鎚信仰と言えば、一般的には「石鎚山」を主体として考えられていますが、元々は、東にそびえる瓶ヶ森を主峰ととする山々も、石鎚山と同様に信仰の対象で、石鎚連邦は、東と西の二つの中心を持つ、楕円形状の聖域であった。・・と指摘しています。


石中寺
「えひめの記憶」もまた、同主旨のことを、・・一般に石鎚山信仰といえば主峰の石鎚山を信仰対象とするものと理解されているが、なお瓶が森や笹が峰にも蔵王権現が勧請されていて、ともに信仰されていた。・・と記し、・・往古、石槌大権現は瓶ヶ森に祀られていたが、「瓶ヶ森は石鉄山より扇だけ低し」として、西之川村(西条市西之川)の庄屋高須賀氏の先祖が背負うて、石鎚山に遷したといわれる。・・との伝説を紹介しています。


薬師寺 
石中寺は神仏混淆を維持する修験の寺です。
元は天台宗寺門派でしたが、昭和29(1954)、独立し、石土宗総本山となりました。
毎年、7月1日のお山開きでは、(石鎚山での入峰と同様に)石土蔵王大権現像を石土山(瓶ヶ森)山頂まで担ぎ上げ、安置し奉ります。信徒たちはまず石中寺に集まり、西之川別院を経て、頂上を目指すそうです。


石中寺バス停 
石中寺は、かつては今治市清水中寺に在りました。そこは伊予国府の所在地と目される辺り、伊予富田駅の西方です。「石中寺」というバス停は、その名残です。
なぜ大浜に遷ったか、それはわからない、とのことですが、とまれ手狭な現状を脱すべく、新本堂・庫裏・護摩堂の建設が計画されているようです。場所は伊予桜井近く(今治市旦字)だと言います。


西念禅寺 
今治市中寺に西念寺があります。かつてここに、石中寺一万坊と呼ばれた、古刹が在りました。


県道38号
大浜町から、旧遍路道の県道38号に出てきました。
大きくスキップしてしまいましたが、途中の道については、前号をご参照ください。


薬師堂
右側に薬師堂が見えてきます。


真名井神社へ
その向かい側(左側)に、真名井神社が見えます。


真名井神社
祭神は、大西町で訪ねた真名井神社(前々号参照)と同じです。
天照大神が素戔嗚尊の十握剣(とつかの剣)から生んだ、多紀理毘売命を長女とする宗像三女神と、素戔嗚尊が天照大神の勾玉から生んだ、天忍穂耳命を長男とする五男神です。


石段
三女神五男神は、天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)で顕れたことから、まとめて、八王子と呼ばれることがあります。
真名井神社も、かつては八王子宮と呼ばれていたようです。明治3(1870)、真名井神社に改称したと言います。
さて、話柄を転じます。


本殿
重厚な真名井神社の社殿は、長州大工の普請です。その虹梁などに施された彫刻は、長州大工を代表する彫り師・門井友祐の手になるといいます。


屋根
長州大工とは、山口県の周防大島(かつては屋代島と言った)を拠点に、伊予や土佐に出稼ぎをした、宮大工や家大工たちのことを言います。江戸時代(寛政・18C末)から大正時代にかけて活躍しました。
主たる出稼ぎ先が伊予、土佐だったのは、防予諸島・芸予諸島伝いの、海の道が拓かれていたからです。 (H29春 1) 参照。


天井
むろん出稼ぎが、初めから受け入れられたわけはありません。寺社や大きな住宅の建築は、たいていは、代々の抱え大工によってなされるものだからです。
人の縄張りに食い込んでいくには、人知れぬ苦労があったに違いないのですが、とまれ、決め手は「腕」だったでしょう。



長州大工が、(今日風に言えば)、他との「差別化」を図ったものに、建物に施す彫刻があります。
なかでも門井家が伝える彫りの技は、もはや大工技を超越。芸術の域に達したと言われています。その最高峰の一人が、門井友祐です。


天井
うれしいことに私は今回、10日に満たない遍路にもかかわらず、4回も、門井友祐の作品を見る機会に恵まれます。
その1回目が真名井神社で、この先、55番南光坊が2回目。56番泰山寺の先、大須伎神社で3回目。そして丹原の西山興隆寺で4回目、となります。


唐獅子
ちょっと足を延ばせば4ヶ所で門井友祐に会える、・・このことに気づいたのは、枯雑草さんの「 長州大工の心と技 」を拝見していたときでした。
枯雑草さんは昨年、「 長州大工の心と技 」(その1-その7)をアップロード。いつもながらの美しい写真と蘊蓄のある文を掲載しておられます。未見の方、お薦めです。


杣田稲荷神社
杣田集落に入ると、稲荷神社の鳥居が見えてきます。


杣田稲荷神社
前号で記しましたが、波止浜外れの一本松に道標があり、
  是より杣田稲荷神社江 二拾三丁
  是より延喜観世音江 一里七丁  と刻まれています。
杣田稲荷神社、延喜観音は、遠くからも参拝者があったようです。


杣田越え
「えひめの記憶」に次のような記述があります。
・・「四國遍路中并摂待附萬覚帳」によると、実際は大雨のため、予定を変更して「菊間」へ上陸しているが、堀江出船時点の予定として、宮島・錦帯橋・大三島への経路が記され、最終到着地としては「伊豫國橋浜へ着、夫よりそまだ越致し五十四番札所也」と記されている。


杣田越え
・・「橋浜」は波止浜のことであり、「そまだ」は波止浜から延命寺への峠越えの道沿いにある集落「杣田(そまだ)」のことである。
前号でも記しましたが、大三島-波止浜-杣田越え-延命寺、の行程です。杣田越えの道は遍路道でしたから、真名井神社、稲荷神社、また杣田越えの後、延喜観音にも、多くの遍路がお参りしたことでしょう。


近見山登山口
近見山は独立峰ですから、そのまわりに、登り口がたくさんあります。



すこし登ってみましたが、奥の民家の所で、繁茂する草に阻まれました。蛇はすでに穴を出ている時季なので、危険です。


延喜観音全景
「延喜の観音さん」と親しまれ知られる、真言宗豊山派乗禅寺です。「延喜」は、この辺の地名ですが、元々は醍醐天皇朝の年号(10C初頭)です。


門前景色
乗禅寺のHPに、乗禅寺の興り譚が記されています。以下は、その要旨です。
・・醍醐帝の御世の初めの頃、頓魚上人という名僧が、野間郡小谷村(後に延喜村となる)に居られました。その法力仏力の効顕なることを、醍醐帝は菅原道真公から聞かされ、勅旨を出してこれを召されたところ、病は三日と経たないうちに快癒。喜ばれた醍醐帝は当地に七堂伽藍を建立して下さった、とのことです。


仁王門
・・年移り、年号が延喜と改元されると、当寺は帝の勅願寺となり、そのご縁から、小谷村は延喜村と名を変えました。延喜帝崩御の後には、裏山に御陵を建立し、現在に至っています。
なお勅願寺とは、広辞苑によると、・・勅願によって鎮護国家・玉体安穏のため建立された寺、・・です。


仁王門
・・その後、後醍醐天皇より特別の帰依を受け、再び七堂伽藍を改築造営され、ご綸旨を賜りて将軍足利尊氏教書、河野家より寺領五百石の寄進を納めるようになりました。この時の後醍醐天皇からの祈祷申込書や、足利尊氏の祈祷申込指令書も、お寺で原型のまま保存されている、とのことです。


慈照門
慈照門と呼ばれていますが、元は今治領美須賀城の城門だったそうです。明治に入り、旧今治藩の城門が旧松山藩領に移されたわけです。


慈照門由来
美須賀城(みすか城)は、今治城の別称です。「み」は「美」の呉音。「すか」は砂丘。すなわち「美しい砂丘の城」が美須賀城です。
今治城には吹揚城(ふきあげ城)の別称もありますが、これも意味は同じです。「風が砂を吹き上げて出来た砂丘の城」でしょう。
瀬戸内沿岸に、長く長く白砂青松の砂浜がつづいていた、そんな時代を思わせる、美しい城の名です。


本堂
広い外陣を思わせる造りです。門戸が開かれ、土地に親しんだ寺なのでしょう。
御本尊は如意輪観世音菩薩。33年に一度、ご開帳があるそうです。


彫刻 
こちらの彫刻も、なかなか見事です。


石塔
国の重要文化財だそうです。鎌倉時代中期-南北朝時代の作。宝筐印塔 五基 。五輪塔 四基。宝塔 二基。
乗禅寺の裏山にあります。


石塔
・・(HPより)御醍醐天皇に由来するこの乗禅寺は、周辺住民にとって信仰の対象としてだけでなく、生活・文化の拠点として発展してまいったのです。裏山の宝篋印塔等からもうかがえます。
「信仰の対象としてだけでなく、生活・文化の拠点として」が、ご住職のスタンスのようです。実際、私が参ったときも、地域の若者たちが境内に集まっており、元気な挨拶をいただくことができました。


八木忠左衛門碑
門前に八木忠左衛門の碑があります。前号、古寺地蔵尊で記した、延喜村の庄屋・八木忠左衛門です。
百姓の困窮を座視することが出来ず、藩主に年貢の軽減の直訴。 せがれ小太郎と共に斬首、さらし首に処せられました。


天満神社
延喜観音乗禅寺の隣に、菅原道真公を祀る天満神社があります。
菅原道真公は讃岐守として讃岐に赴任。伊予国を巡見しています。その折、頓魚上人のことを知り、醍醐帝のお耳に入れたのかもしれません。醍醐帝の祈願寺に隣り合っているのは、そのご縁でしょうか。


社名碑
天満神社、と刻まれています。


浦安の舞
浦安の舞奉納の写真が掲げられていました。(忘れたのですが)平成20年代の写真が、一番新しいものでした。
浦安の舞は、「皇紀二千六百年奉祝会」(昭和15)で奉奏する神楽舞として、作曲作舞された、とのことです。歌詞には、昭和8(1933)の昭和天皇の御製、「海」が使われています。
  天地(あめつち)の 神にぞ祈る朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を
その願いも空しかったわけですが。


道標
県道38号が旧国道196号に直角にぶつかる所・・延喜店(えんぎみせ)という・・に道標が立っています。
 従是 延喜観音寶前・・
 同所 醍醐天王陵 あ?・・
延喜帝崩御の後、乗禅寺の裏山に御陵を建立したと伝わることは、前述しました。


県道38号
歩いてきた38号です。波止浜5キロ、とあります。


延命寺入り口
四國霊場五十四番延命寺参道、とあります。


茂兵衛道標
たくさんのことが刻まれた茂兵衛道標です。とりわけ「 是迄打もどり大便利 」は、注目されています。
荷物をここに預け、空身で次の札所南光坊に行き、打ち戻ってくるというわけです。再び荷物を担いで、泰山寺へショートカットすれば、これは大いに便利、なわけです。


平成の道標
この道標は、大谷墓地越えの道を示しています。
私は、元に戻り、山路経由の県道今治波方港線(38号)を進みます。大谷越えの方が古い遍路道だそうです。


道標
逆打ち遍路への案内です。・・ぎゃく 遍照院江三里十二丁
「ぎ」の一部が欠けて「さゃく」になっています。 


道標
前々号の大西・安養寺でも、同様の道標を見ました。削られた「延命寺」の部分には、元は「円明寺」と刻まれていました。53番54番ともに円明寺でしたが、混乱を避けて、54番は延命寺と改名しました。


梵鐘
宝永元(1704)鋳造の梵鐘。前の戦争では、軍用供出をかろうじて免れたと言います。



梵鐘には延命寺の歴史が刻まれているそうです。その中に「圓明寺」の文字があると言います。延命寺が、かつて圓明寺だったことの証です。


是より別宮
是より別宮(べっく)迄一里、とあります。大三島の大山祗神社(三島ノ宮)の別宮(べつぐう)です。


山門
延喜観音・乗禅寺に今治城から移した門がありましたが、延命寺の、この門も、やはり今治城から移したものだそうです。


真念道標
真念法師建立の標石。


本堂
寺名の改称について延命寺のHPは、次のように記しています。
・・この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。


里程標
レプリカですが、松山藩の里程標が立っています。
石柱が立つ前は、松が一本、植えられていたので、一本松という地名で呼ばれていたようです。


浅川
もう少し下流の川沿いにある、今治北高校の校歌を調べてみたことがあります。浅川が歌われています。
  げにゆく水や 浅川の 岸の若くさ 丈のびて 校庭今や 飛花多し 春よさかりは 幾時ぞ
飛花は、今も多いでしょうが、岸の若くさは、望むべくもありません。しかし、そんな川だったのでしょう。


山路の分岐点
山路の分岐点。左は県道38号。右は今治街道で現在の県道156号・桜井山路線。


道標
えひめの記憶によると、この辺は藩政時代の今治藩と松山藩の境界にあたり、領界石や道標が建てられていたそうです。
今は、茂兵衛の道標と、延喜観音や乃万神社を案内した静道の道標が残っています。静道は幕末の今治の人。


領界石
松山藩の領界石は、北約300mの厳島神社入口石段前に移されています。


領界石
今治藩の領界石は、東700mほどの三島神社鳥居側にありました。


領界石
これは、59番国分寺手前の道路端に立つ、今治藩の領界石です。つまり国分寺は今治藩領外、天領にありました。
今治藩領が、今日の市域よりはるかに狭いことがわかります。寛永12(1635) 、松山藩から分知を受けて立藩した、3万石の小藩でした。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回更新は8月22日の予定です。長く暑い夏です。ご自愛ください。

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6 コメント

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♪もしも私が重荷になったらいいの 捨てても恨みはしない~ (天恢)
2018-07-27 12:51:28
 あの西日本大豪雨による被害の爪痕が残る被災地に、今度は情け容赦もなく猛暑、酷暑が・・・。そして、台風までが襲います。 激甚災害に指定されても、被災者の方たちにとって「どこから手をつければいいのかわからない」のが現実でしょう。 一日も早く日常を取り戻されることを祈るのみです。 

 さて、前回はコメントを休みましたが、今回の「大浜八幡~54番延命寺」と同じ今治が舞台ですから、まとめてコメントすることにします。 天恢も今治を2度ほど遍路しておりますが、市内には54番延命寺から59番国分寺まで何と6ヵ所も札所があります。 ブログを読んで、グーグルマップで辿ってみて、これまで、へんろ地図で札所という「点」と、道という「線」を余りに追い過ぎて、街全体という「面」を完全に見失っていました。 「面」から札所を見れば、54番延命寺入り口にある「 是迄打もどり大便利 」の茂兵衛道標は確かに合点です。
 こうした地図だけを頼りに歩き通すと、この素晴らしい今治の街をほとんど見残すことになりそうです。 やはり、今治のイチオシは、風待ち船、潮待ち船、塩買い船、石炭船などの出船入船でにぎわった波止浜湊です。 遍路を始めた頃、室戸岬港(津呂港)初めて見た印象は、「なんだ、こりゃー」とびっくり仰天でしたが、波止浜湾の幅と奥行きのスケールの大きさが何とも魅力的です。 もう塩田は見ることができませんが、波止浜湾から見る来島、大三島、小島、しまなみ海道の架かる馬島などの眺望は、きっと瀬戸内海を丸呑みできる絶景に違いありません。 次回の遍路で、今治再訪が実現できればと願っております。
また、札所も6ヵ所もある今治ですが、ブログで紹介された前回の龍神社、古寺地蔵尊、九王地蔵。 今回の大浜八幡、石中寺、真名井神社、杣田稲荷、延喜観音、天満神社・・・ これらの寺社が、住民にとって信仰の対象としてだけでなく、生活・文化の拠点として根付いた歴史を伺うことができます。

 さてさて、タイトルの「♪もしも私が 重荷になったらいいの 捨てても恨みはしない~」ですが、昭和32年、「お恵ちゃん」こと松山恵子さんが歌った『未練の波止場』です。 「お願い、お願い 連れて行ってよ この船で ああ 霧が泣かせる 未練の波止場~」と、続きます。 当時の私は、まだ純情な中学生で歌の意味などわからないまま歌っていました。 
 波止浜湊も昔から出船入船でさぞ賑わったことでしょうが、波止場のある港町には酒場があって、マドロスさんという船員さんたちが主役でした。 戦後から昭和30年代にかけて海や港の旅情を歌ったマドロス演歌の全盛期でした。 ひばりちゃんも、そしてたくさんの歌手たちが歌いました。 あの時代に、どうしてマドロスものが流行ったのか? 戦後日本の復興時期に国民は不安と期待をごっちゃ混ぜにして、未来を信じ、自由気ままに航海に旅立つマドロスさんに我が身を置き換えたのかもしれません。
 そして、50年前、明るい日本の未来を信じて荒海に立ち向かったマドロスさん(国民)の運命は如何に❓ となるのですが、人生いろいろで、ものが豊かになった反面、心に大事なものを失ったようにも覚えます。 今回のお別れは、後悔と反省を踏まえて、これもお恵ちゃんが歌った『だから云ったじゃないの』の歌詞で締めさせていただきます。

🎶 あんた泣いてんのネ だから云ったじゃないの
港の酒場へ 飲みにくる 男なんかの 云うことを
バカネ ほんきにほんきに するなんて まったくあんたは うぶなのね
罪なやつだよ 鴎鳥~
返信する
♫明日はいずこの町か (楽しく遍路)
2018-07-30 15:07:34
天恢さん コメントありがとうございます。
近頃では変更できない予定なんて、ほとんどないのですが、珍しくここ数日’多忙’で、返信が遅れました。

・・・自由気ままに航海に旅立つマドロスさんに我が身を置き換えたのかもしれません。
身に覚えがあります。昭和30年代、私は10代後半で、「北帰行」の旅人に我が身を置き換えていました。特に好きだったのが、次の節です。
  ♫今は黙して行かん
  なにをまた語るべき
  さらば祖国愛しき人よ
  明日はいずこの町か
  明日はいずこの町か

順当なら、この後は、♫北へ帰る人の群れは だれも無口で・・とかなんとか、なるところなのでしょうが、なぜかならず、次に私が漂泊願望を託したのは、
  ♫俺がいたんじゃ お嫁に行けぬ わかっちゃいるんだ 妹よ・・
人呼んでフーテンの寅さんでした。私が20代後半から30代にかけてです。
  〽私 生まれも育ちも 葛飾柴又です
10代の頃の、’さらば’と決別する潔さは失せ、ふるさとに帰りたいけど帰れず、帰っても長居はできず、不格好に漂泊を繰り返す、そんな寅さんを、私は愛してしまったのでした。
すこし大人になったと評すべきでしょうか?
ちょっと天恢さんの意図から逸れてしまいましたが、こんなことが思い出されました。

さて、天恢さん、ぜひ今治を再訪してみてください。
波止浜湾奥から北に大三島を見て、南に近見山が見えると知ったときの’喜び’は、格別です。昔の遍路道が、面ではなく、三次元で見えた喜びだったかもしれません。

私は、天恢さんが訪ねたという梼原、周防大島を、ぜひ訪ねたいと思っています。周防大島の宮本甞一記念館には、長州大工の展示もあるそうですね。

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こんにちは (枯雑草)
2018-07-30 17:29:18
いつも楽しく拝見しています。楽しく遍路さんの、出会う一つ一つのものやことについて解き明かしながらの歩き、感心もしまた羨ましくもあります。ありがとうございました。
この度は私のブログの「長州大工」の紹介までして戴き感謝です。お読みいただければお気付きと思いますが、私は愛媛における長州大工の最後の頂点、門井友祐の山吹御前神社に最も感動を覚えています。通常の遍路道とは外れ、旧大洲街道に面した地ですが、(谷向夫妻の「四国の古道・里山を歩く」を道しるべに)ぜひお訪ねになることをお勧めします。
返信する
こんにちは (楽しく遍路)
2018-07-31 20:43:55
枯雑草遍路地図、いっそう使いやすくなり、助かっています。
これまでの記事に追記されているのは、たまたま気づいて、知っていましたが、膨大な記事から探し出すのは無理と思っていました。目次化していただいたので、ゆっくり読ませていただきます。
山吹御前神社、「いつか行きたい所リスト」に追加しておきます。そうでしたか、山吹御前神社が愛媛県最後の仕事でしたか。私は真名井神社だと思っていました。ありがとうございます。
長く暑い夏です。ご自愛ください。
返信する
すいません (枯雑草)
2018-07-31 22:34:47
私の書きようが悪かったようです。
愛媛での門井友祐最後の仕事はおっしゃるように真名井神社の彫刻です。山吹御前神社は友祐が単独で棟梁としての仕事も担った数少ない神社建築といわれます。

広島、岡山、愛媛のこの度の水害は予期せぬ被害を齎しました。予期せぬことが起きる環境になってきたようです。
残酷な夏です。どうぞご自愛ください。
返信する
ありがとうございます (楽しく遍路)
2018-08-01 07:03:49
彼は棟梁から「彫刻家」(工匠でしょうか)へ、自分の仕事を特化させていったようです。
その意味では、山吹午前神社もまた、「最後」の仕事かもしれません。

残酷な夏です。この夏もまた、記憶しなければならない夏です。
返信する

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