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やや複雑な歩き方をしましたので、図で示しました。香川県埋蔵文化センター作製の図ですが、持ち帰り自由の資料に掲載されているので、使わせていただきます。
国分尼寺から南西方向に下り、根香寺奥の院の鷲峰寺(しゅうぶじ)にお参りします。道中の景色も含めてお楽しみ下さい。鷲峰寺からは、今度は北上して、国府台→白峯寺→根香寺→香西寺、へと歩きます。
また国府台への登り口で両墓制の埋め墓を見つけましたので、合わせて、佐柳島の両墓制もご覧いただきたいと思います。
国分尼寺跡
私たちが通常、「国分寺」、と呼んでいる寺は、とりわけ国分尼寺を念頭に置いているときは、「国分僧寺」、と呼ぶべき存在です。「国分寺」は、僧(男性)の国分僧寺と、尼(女性)の国分尼寺とを合わせたもの、というわけです。
国分僧寺の正式名称は、金光明四天王護国之寺で、奈良の東大寺が総国分僧寺。
国分尼寺の正式名称は、法華滅罪之寺で、奈良の法華寺が総国分尼寺。
法華寺
国分尼寺・法華滅罪之寺の跡を、浄土真宗の大慈山法華寺が継いでいます。
国分尼寺跡 法華寺
横板に「法華滅罪之寺」と墨書されています。コンパクトな感じにまとまったお寺です。
国分尼寺跡
しかし、周辺に残る広大な空き地は、かつての大寺院を彷彿させます。
礎石
境内には、尼寺の礎石と思われる石が、いくつかあります。礎石が庭石に見立てられ、いかにも尼寺らしい雰囲気を出しています。「尼寺らしい」とは、とりあえず「細やかさ」です。
礎石
讃岐国司であった菅原道真は着任早々、当寺を訪れ、漢詩「法華寺白牡丹」を詠んだと言います。(残念ながら花期を外れていますが)、「白牡丹」は今も、この寺の花です。
「牡丹」という花、元来は赤い種が多く、それで「丹」の字が入っているのだとか・・・。道真公は清廉の白牡丹を見て、斯くもありたいものよと、国司たる我が身を引き締めたようです。他にも句碑がたくさんあります。
宝珠
説明がないので、いつ、どのように使われていたのか分かりませんが、けっこう大きなものです。
82番根香寺奥の院 圓通山鷲峰寺へ
この辺の道は条里制が下敷きにあるため、斜め方向に進路を取るのは、容易ではありません。しかも私の地図に記載されていない新しい道路もあるようです。いつのまにか私は地図上の現在位置を失ってきました。
国分寺方向
テーブル状の国分台が見えています。左は蓮光寺山でしょうか。見える景色とコンパスを情報として歩いています。
道標
国分寺と一宮の名が刻まれています。79白峯寺-81根香寺-80国分寺と歩いて来た人に、82一宮寺の方向を教えているようです。
その他、金比羅、端岡、国分、福家、丸亀などを示す道標がたくさんありました。
大師堂
思わぬ所に大師堂が在りました。
写真奥に見える山を鷲ノ山と見たてて歩いています。鷲峰寺はその麓にあるはずです。
鷲峰寺山門へ
山の形状を上の写真と比較すると、私の見立ては当たっていたようです。
圓通山鷲峰寺山門
由緒看板によると、天平勝宝6(754)、鑑真和尚(わじょう)が奈良東大寺への途次、当地に立ち寄り、鷲峰寺を創建された、とのことです。
屋島寺の由来が、・・・鑑真和尚は苦難のすえ鹿児島に漂着。その翌年、天平勝宝5(753)、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて・・・と伝えていますから、和尚は、屋島寺を開創された翌年、当地を訪れた、ということになります。
本堂
由緒板によると、・・・和尚は、山容がインドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ているところから、釈迦如来を刻み、堂を建立し、鷲峰寺(しゅうぶ)と名付けた・・・とのことです。
霊鷲山は、お釈迦様が説法をされた山で、私たちにはむしろ、霊山(りょうぜん)として知られていると思います。一番霊山寺の霊山です。
大師堂
きっとギリギリのところで寺を支えておられるのでしょう、簡素ながら整理は行き届いています。
国分の両墓制墓「埋め墓」
白峯寺への遍路道
国分から一本松への急坂が始まろうとする所に、墓地があります。
H21撮影の写真
その左側の一番下に、ちょっと見慣れぬ墓がありました。前回気づいて写真に撮りましたが、それが何であるのかは、わかりませんでした。 (→墓)
今回撮った写真
墓は今も、前回と変わらず、在りました。今回は迷わず、これは両墓制の「埋め墓」(うめばか)、と判じることができました。伊吹島以来、両墓制について、多少調べていたからです。
墓参で通りかかったおばあさんから、・・・これは古い墓で、土葬した墓なんよ。前はもっとヨーケ(たくさん)あったが、だいぶ始末して、少ななってきた。拝む墓は、(指さして)あっちにあるんよ・・・、との証言?が得られました。
佐柳島 - その風景と両墓制墓
埋め墓は、国分では少なくなっていますが、塩飽諸島の粟島や志々島、そして佐柳島(さなぎ)には、かなりきちんと残っています。もちろん今では葬制は火葬に変わり、両墓制という風俗はほとんど絶えていますが。
私は弥谷寺に参った後、(多度津まで歩き)、佐柳島に渡りました。
天霧山から見た佐柳島
弥谷寺から天霧山に登っていると、北西方向に粟島、志々島、佐柳島が見えました。いずれかの島に行こうと決めたのは、この時です。
こちらから見えるということは、向こう(島)からもこの山々が見えていることになります。その景色が、もしかして島の葬制(両墓制)に何か影響してはいないか、ふとそんな「期待」を持ったのでした。イヤダニ参りからの連想です。
船上から見た弥谷山など
船上でふり返ると、これまで歩いてきた山々が見えました。いずれも信仰の山です。
佐柳島
佐柳島です。小さな島は、文字通り「小島」。
島の東側(写真に見えている側)に、二つの集落があります。南(写真左)に本浦(ほんうら)集落、北(右)に長崎集落が在ります。
島の西側(写真に見えていない側)には、集落はありません。
私は本浦で船を下り、見学しながら長崎に移動、帰りの便に乗ります。
ネコの島
佐柳島は、伊吹島もそうでしたが、ネコの島です。誰かがブログで紹介したのが広まり、今日も若い二組が(ネコを見に)来ていました。
本浦集落のネコ集団は人なつっこく、尻尾を上げて歓迎してくれました。身体をすり寄せてき、私が歩くと、連いてきます。中にはトカゲを咥えて連いてくる仔もいました。
尻尾を上げる本浦の猫グループ
ところが、後で訪ねて分かるのですが、長崎集落の猫グループは、あまり人を寄せ付けません。猫への対し方で集落間に違いがあるとは思えないのですが、この違いはどこから生じているのでしょうか。
二つの集落間の距離は、人が歩いて30分ほどで、充分ネコの行動範囲内ですが、ネコ集団間の交流は、見られないそうです。
トカゲを咥えている仔
島にはたくさんのネコがいますが、内、一匹だけですが、飼い猫がいます。長崎にいるのですが、この猫の集団に及ぼす影響は大きいと思います。
本浦の拝み墓
墓地は、防波堤と山の間の、帯状の傾斜地にあります。限られた土地に、(当然のことながら墓は増えてゆきますので)、密集しています。
参り墓の区域と埋め墓の区域に分かれており、参り墓が居住地に近い方に在ります。二つの区域を隔てるのは、一本の細い道です。
建物は島で唯一の寺、真言宗の乗蓮寺です。御本尊は阿弥陀如来。境内に閻魔堂があります。
本浦の埋め墓
乗蓮寺のご住職から話をうかがえれば、などと願ってはみたのですが、残念ながらご不在のようでした、。
5時間ほどの滞在では、たいしたことは出来ません。墓の向きを注意して見ました。
弥谷山への意識?
この写真では、墓は弥谷寺の方を向いています。向こうに弥谷山が見えています。
しかし、「弥谷寺に向けて建てた」のかどうかは、わかりません。海沿いの墓参道に面するように建てたのかもしれません。
山の方に向いている
というのも、山寄の墓は山向きに建っているからです。山裾にも墓参道が通っています。
海向きとも山向きともつかぬ墓も多くあります。狭い土地に密集しますから、墓の向きに信仰上の思いを表現することは難しかったのかもしれません。
(後に訪れますが)、比較的土地が開けた長崎の墓地では、墓はほぼ、西向きに建てられていました。西方浄土への意識が表現されています。
デコ
故人の生前の姿を「人形」にし、埋め墓の側に立てています。桐材でつくります。島では「デコ」と呼んでいるそうです。「形」を失った (肉体を失った) 故人に、「形」を与えているのかもしれません。
長崎の墓地に形の違ったデコがありましたので、そこで再びデコに触れます。
大天狗さま
大天狗神社は本浦集落の守り神です。長い石段の上に拝殿-本殿があります。
本殿横の石垣に、優しいお顔の大天狗さまがいらっしゃいました。八つ手の大団扇をもっています。
奥の院
本殿までは若者が一人連いてきましたが、奥の院に行くといったら、僕は帰ります、とのことでした。近頃の若い人は・・・なんて台詞が自然に出てくる私です。
奥の院は、ことさらに狭い土地を拓いて、南西を向いて拝むように建てていました。石鎚山に向いているのかしらん?
「絶景」
神社への登り口に「奥の院 絶景地」と看板があり、期待していたのですが、景色が見えたのはここだけでした。
土地の人が言いました。・・・絶景?見えなんだじゃろ、見えるのは登り始めの一カ所だけよ、ハハハ!・・・
私も一緒に笑ってしまいました。開けっぴろげの無責任は、時として面白くて仕方ありません。
ネコ除け
島の最大動物はネコです。犬はいるようですが、姿は見えません。かつて、イノシシが一頭、どこからか泳ぎ着き、住み着いたそうですが、一頭では子孫を残せるはずもなく、死んでしまったそうです。
八幡神社
本浦の神社です。大天狗神社は山の神、八幡神社は海の神でしょう。
若者が扁額を「やはた神社」と読みました。「やわた」だったか?
一般的には「はちまん神社」だよと話したのですが、そもそもの始まりは、「や」many 「はた」flags と訓読したようです。「はちまん」と音読するのは、神仏習合以降のことだと言います。
廃校となった小中学校
島の公共的な機関は両集落の中間点にあります。相談して、そう決めたのでしょう。
学校の隣に郵便局があります。ただし閉鎖されています。民営化してもなくならないはずの郵便局ですが、やっぱり儲からないとなくなるのですね。郵便貯金を引き出すには、数日かかるとのことです。
小中学校
島は超高齢化しています。人口も激減しています。しかし、かつては、これだけの教室が必要な子供達がいました。
井戸
伊吹島は井戸を掘っても真水が湧かないので、天水井戸を使っていました。
どのような加減によるものか、佐柳島では真水が湧いたのだそうです。海水浄化装置を、(もちろん集落と集落の中間に)、設置していた時代もあるそうです。
長崎集落
本浦と長崎では言語アクセントが微妙に違う、そう指摘する言語学者がいるそうです。だとすると、二つの集落の人たちは異なる場所から移り住んだ人たちかもしれません。集落名からすると、「本浦」が先でしょうか。
ともあれ、島の両端に居を定め、(助け合いながらも) 独立的に集落を営んできたのでしょう。共通する利益は中間点で実現する、そんな暮らしの型が、それぞれの気風に合っていたのかもしれません。
長崎集落
それは、もしかすると「塩飽水軍」の気風だったかもしれません。
佐柳島を含む塩飽諸島には「塩飽水軍」の伝統があります。その伝統故でしょう、幕末の咸臨丸乗組員の多くは塩飽諸島の人だったと言います。佐柳島からも、平田冨蔵、佐柳高次の二人が乗り組んだそうです。
「佐柳島の誇り」の碑
平田はサンフランシスコで客死しますが、佐柳は帰国後、土佐海援隊に加わっています。乗蓮寺に「佐柳島の誇り」と題した石碑が建っていました。
長崎の墓地
南方向しか開けていない本浦とは違って、長崎墓地は、南以外の三方向が開けています。面積も本浦より広いようです。
それ故でしょう、墓の向きは、ほぼ一定です。たまたま出会えた女性に「墓はどっちの方角を向いていますか?」と尋ねると、即座に「西です」との応えが返ってきました。西方阿弥陀浄土を向いているわけです。なお長崎から弥谷山は、小島に遮られて見えません。
長崎の墓地
国分で見た埋め墓は、列状をなしており、集団(共同)埋葬でした。個別の埋め墓ではなく、石積みの上の墓石もありませんでした。むろん詣り墓は個別で、墓石が立っていますが。
しかし佐柳島の埋め墓は、すべて個別で、(夫婦合葬はあります)、過半の墓に石塔が立ち、個人名(俗名)が刻まれています。同じ塩飽諸島の粟島や志々島でも、(私は行っていませんが) 集団の埋葬は見られないそうです。また、伊吹島の墓も個別でした。
庶民レベルの墓は近世になってようやく普及し始めますが、初めは、墓と言うよりは「遺体の共同捨て場」のようなものだったでしょう。国分の埋め墓は、その形態を引き継いでいると思われます。埋め墓の個別化は、近世もだいぶ過ぎて、詣り墓の影響をうけて始まったと思われます。
伊吹島の墓
伊吹島では、石を使って祭祀空間がつくられていました。粟島や志々島では、墓の上に「霊屋」(小さな家)を建てているそうです。ただし、その形や色は、両島で異なります。佐柳島では祭祀空間も霊屋もありませんが、前にご覧いただいたデコがあります。長崎の墓地では、(故人の名前が写っているので写真は掲載できませんが)、人形を彫り込んだ墓石を見ました。その発想はデコと同じです。生前の軍服や着物着た姿が陰刻され、彩色もされています。上掲の六地蔵さんに似たものもあります。「人形」は、佐柳島独特の風習だそうです。
埋め墓の形体は多様で、こんなに近い島同士でも、異なっています。若者が「ガラパゴス諸島の亀を思い出す」と話しましたが、なるほど、です。
長崎の墓地
「私は死んだら (身体を) 焼かれたくない」 60歳代の女性が話してくれました。一緒にいた、やはり60歳代の女性も、「私もいやじゃねえ」と同意しました。自分の遺体が腐敗してゆくことは、仕方ないこととして受け入れていますが、「損壊」はされたくないのです。肉親が亡くなっても、「焼いたらかわいそうじゃ」「熱いけんね」と言います。
寝棺の埋め墓 (近年のものと思われる)
私の中から「死穢」という言葉が吹っ飛んでゆきました。少なくとも佐柳島では埋め墓は、穢れた死体を埋葬する「葬地」(柳田国男さん)、ではないようです。
埋め墓は、懐かしい肉親や隣人を偲ぶ所で、故人達を忘れたくない、むしろ「この世」にいつまでも留まっていてほしい、と願う場所ではないでしょうか。だからデコをつくって立てたり、墓石に生前の姿を刻んだりして、故人の姿を「この世」に留めています。
夫婦の埋め墓
むろん人は死ねば「この世」に留まり得ず、「あの世」に逝ってしまいます。それは嫌も応もない自然のことと受容しています。
「あの世」に逝った霊魂は祭られなければなりません。霊魂を祭る清浄な「祭地」(柳田さん)として、詣り墓は必要なわけです。お詣りをして、霊魂の安寧と子孫達への加護を祈ります。
一人の埋め墓(本浦墓地)
「死穢の忌避」説に立つと、佐柳島での埋め墓と詣り墓の隣接は、土地に余裕がないから、ということになります。本来なら埋め墓は、(死穢を避けて) 離れた場所につくりたかったはず、と言うのです。
しかし私には、(墓地が狭いのは事実ですが)、二つが隣接し合うことになんの矛盾もない、と感じられました。むしろ佐柳寺では、隣接していてこそ自然だ、と。
さようなら佐柳島
両墓制の起源をめぐっては、死穢の忌避説の他、埋葬と祭儀を区別した古墳の名残説、二重葬制(改葬)の反映説など、いろいろの研究成果がありますが、いずれも、多様な両墓制の現状を包括したものとはなっていない、そんな気がしています。ガラパゴスの亀から進化論を導き出したダーウィンは、未だ現れていないと思われます。
近年、諸々の理由で両墓制は姿を消しつつあります。両墓制に関わる記憶も、消えてしまいます。調査、聞き取りが急がれます。
道標
多度津駅近くで、面白い道標を見つけました。「きしゃば」即ち「汽車場」の道標です。
高校時代の英語の授業で、・・・駅 station には 定冠詞 theが付きます。なんとなれば、駅 station は、誰にも、どこを指すか分かる名詞だからであります・・・、と教わりました。しかり、その通り、「汽車場」と言えば誰にも、多度津駅を指すと分かったのです。
なお左は、「右 はしくら道」です。
ふたたび国分から 白峯寺 奥の院 根香寺 香西寺へ
国分の両墓制埋め墓から一本松へ向かいます。小鳥の歓迎を受けながら登る、うれしい遍路道です。白峯寺からは十九丁を経て根香寺に向かいます。照葉樹林のトンネル遍路道を楽しみます。さらに別格香西寺へ・・・。
当初は、これを遍路記一回分と見積もっていました。ですが、「初夏」の遍路記を来年にまで引きずるわけにもゆかず、また実は、「秋」の遍路をすでに歩いてしまいました。と言うわけで、以下、圧縮して掲載し、今回をもって「初夏」遍路記を終わらせていただきます。
石鎚神社
一本松へ登る途中、ちょっと逸れると、石鎚神社があります。鎖場もありました。
お不動さん
石鎚神社への途中、沢沿いに小さなお不動さんが祀られていました。
景色
国分方向の眺めです。
一本松
大師御加持水を経て、一本松に着きました。「一本松」は目当てになっていたのでしょう。
白峯神社奥の院
白峯神社への途中、右に逸れて下り、奥の院にお詣りしました。
「下乗」の摩尼輪塔
火山礫凝灰岩でできています。風化が進んでいるので覆い屋が建てられていますが、覆い屋による保護は、江戸時代、すでに始まっているそうです。建立は元応3(1321)とのこと。
白峯寺
今回の遍路二度目の白峯寺です。
十九丁へ
照葉樹林の遍路道。地元の方はどなたも、これを自慢しますが、十分自慢に値します。
十九丁の打ちもどり
ここは国分寺、白峯寺、根香寺の三岐路になっています。
根香寺の牛鬼
後ろに回って、背中を写してみました。
前から
飛べるのかな?泳げるのかな?
根香寺石段
紅葉の頃は、また一段と美しいのでしょう。
瀬戸内海
曇の景色もきれいです。
五剣山
屋島の上に五剣山がちょっと見えます。
香西寺山門
かつて香西寺は湊に近く、また伊予-讃岐-阿波に通じる幹線に沿っていました。その地の利から (山の中の根香寺よりも) 栄えていたはずです。
本堂
今は地の利を失い、「札所 根香寺」に及ぶべくもありませんが・・・。
さて、ご覧いただき、ありがとうございました。「初夏」の遍路記、ようやく終わりました。
次回は、「H25 秋」の遍路記①です。勧賢堂-屋島寺-竹居観音-八栗寺、を歩きます。「勧賢」は、「御衣替え」の勧賢さんです。竹居観音は、八栗寺の奥の院とされています。
更新予定は、12月20日です。
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やや複雑な歩き方をしましたので、図で示しました。香川県埋蔵文化センター作製の図ですが、持ち帰り自由の資料に掲載されているので、使わせていただきます。
国分尼寺から南西方向に下り、根香寺奥の院の鷲峰寺(しゅうぶじ)にお参りします。道中の景色も含めてお楽しみ下さい。鷲峰寺からは、今度は北上して、国府台→白峯寺→根香寺→香西寺、へと歩きます。
また国府台への登り口で両墓制の埋め墓を見つけましたので、合わせて、佐柳島の両墓制もご覧いただきたいと思います。
国分尼寺跡
私たちが通常、「国分寺」、と呼んでいる寺は、とりわけ国分尼寺を念頭に置いているときは、「国分僧寺」、と呼ぶべき存在です。「国分寺」は、僧(男性)の国分僧寺と、尼(女性)の国分尼寺とを合わせたもの、というわけです。
国分僧寺の正式名称は、金光明四天王護国之寺で、奈良の東大寺が総国分僧寺。
国分尼寺の正式名称は、法華滅罪之寺で、奈良の法華寺が総国分尼寺。
法華寺
国分尼寺・法華滅罪之寺の跡を、浄土真宗の大慈山法華寺が継いでいます。
国分尼寺跡 法華寺
横板に「法華滅罪之寺」と墨書されています。コンパクトな感じにまとまったお寺です。
国分尼寺跡
しかし、周辺に残る広大な空き地は、かつての大寺院を彷彿させます。
礎石
境内には、尼寺の礎石と思われる石が、いくつかあります。礎石が庭石に見立てられ、いかにも尼寺らしい雰囲気を出しています。「尼寺らしい」とは、とりあえず「細やかさ」です。
礎石
讃岐国司であった菅原道真は着任早々、当寺を訪れ、漢詩「法華寺白牡丹」を詠んだと言います。(残念ながら花期を外れていますが)、「白牡丹」は今も、この寺の花です。
「牡丹」という花、元来は赤い種が多く、それで「丹」の字が入っているのだとか・・・。道真公は清廉の白牡丹を見て、斯くもありたいものよと、国司たる我が身を引き締めたようです。他にも句碑がたくさんあります。
宝珠
説明がないので、いつ、どのように使われていたのか分かりませんが、けっこう大きなものです。
82番根香寺奥の院 圓通山鷲峰寺へ
この辺の道は条里制が下敷きにあるため、斜め方向に進路を取るのは、容易ではありません。しかも私の地図に記載されていない新しい道路もあるようです。いつのまにか私は地図上の現在位置を失ってきました。
国分寺方向
テーブル状の国分台が見えています。左は蓮光寺山でしょうか。見える景色とコンパスを情報として歩いています。
道標
国分寺と一宮の名が刻まれています。79白峯寺-81根香寺-80国分寺と歩いて来た人に、82一宮寺の方向を教えているようです。
その他、金比羅、端岡、国分、福家、丸亀などを示す道標がたくさんありました。
大師堂
思わぬ所に大師堂が在りました。
写真奥に見える山を鷲ノ山と見たてて歩いています。鷲峰寺はその麓にあるはずです。
鷲峰寺山門へ
山の形状を上の写真と比較すると、私の見立ては当たっていたようです。
圓通山鷲峰寺山門
由緒看板によると、天平勝宝6(754)、鑑真和尚(わじょう)が奈良東大寺への途次、当地に立ち寄り、鷲峰寺を創建された、とのことです。
屋島寺の由来が、・・・鑑真和尚は苦難のすえ鹿児島に漂着。その翌年、天平勝宝5(753)、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて・・・と伝えていますから、和尚は、屋島寺を開創された翌年、当地を訪れた、ということになります。
本堂
由緒板によると、・・・和尚は、山容がインドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ているところから、釈迦如来を刻み、堂を建立し、鷲峰寺(しゅうぶ)と名付けた・・・とのことです。
霊鷲山は、お釈迦様が説法をされた山で、私たちにはむしろ、霊山(りょうぜん)として知られていると思います。一番霊山寺の霊山です。
大師堂
きっとギリギリのところで寺を支えておられるのでしょう、簡素ながら整理は行き届いています。
国分の両墓制墓「埋め墓」
白峯寺への遍路道
国分から一本松への急坂が始まろうとする所に、墓地があります。
H21撮影の写真
その左側の一番下に、ちょっと見慣れぬ墓がありました。前回気づいて写真に撮りましたが、それが何であるのかは、わかりませんでした。 (→墓)
今回撮った写真
墓は今も、前回と変わらず、在りました。今回は迷わず、これは両墓制の「埋め墓」(うめばか)、と判じることができました。伊吹島以来、両墓制について、多少調べていたからです。
墓参で通りかかったおばあさんから、・・・これは古い墓で、土葬した墓なんよ。前はもっとヨーケ(たくさん)あったが、だいぶ始末して、少ななってきた。拝む墓は、(指さして)あっちにあるんよ・・・、との証言?が得られました。
佐柳島 - その風景と両墓制墓
埋め墓は、国分では少なくなっていますが、塩飽諸島の粟島や志々島、そして佐柳島(さなぎ)には、かなりきちんと残っています。もちろん今では葬制は火葬に変わり、両墓制という風俗はほとんど絶えていますが。
私は弥谷寺に参った後、(多度津まで歩き)、佐柳島に渡りました。
天霧山から見た佐柳島
弥谷寺から天霧山に登っていると、北西方向に粟島、志々島、佐柳島が見えました。いずれかの島に行こうと決めたのは、この時です。
こちらから見えるということは、向こう(島)からもこの山々が見えていることになります。その景色が、もしかして島の葬制(両墓制)に何か影響してはいないか、ふとそんな「期待」を持ったのでした。イヤダニ参りからの連想です。
船上から見た弥谷山など
船上でふり返ると、これまで歩いてきた山々が見えました。いずれも信仰の山です。
佐柳島
佐柳島です。小さな島は、文字通り「小島」。
島の東側(写真に見えている側)に、二つの集落があります。南(写真左)に本浦(ほんうら)集落、北(右)に長崎集落が在ります。
島の西側(写真に見えていない側)には、集落はありません。
私は本浦で船を下り、見学しながら長崎に移動、帰りの便に乗ります。
ネコの島
佐柳島は、伊吹島もそうでしたが、ネコの島です。誰かがブログで紹介したのが広まり、今日も若い二組が(ネコを見に)来ていました。
本浦集落のネコ集団は人なつっこく、尻尾を上げて歓迎してくれました。身体をすり寄せてき、私が歩くと、連いてきます。中にはトカゲを咥えて連いてくる仔もいました。
尻尾を上げる本浦の猫グループ
ところが、後で訪ねて分かるのですが、長崎集落の猫グループは、あまり人を寄せ付けません。猫への対し方で集落間に違いがあるとは思えないのですが、この違いはどこから生じているのでしょうか。
二つの集落間の距離は、人が歩いて30分ほどで、充分ネコの行動範囲内ですが、ネコ集団間の交流は、見られないそうです。
トカゲを咥えている仔
島にはたくさんのネコがいますが、内、一匹だけですが、飼い猫がいます。長崎にいるのですが、この猫の集団に及ぼす影響は大きいと思います。
本浦の拝み墓
墓地は、防波堤と山の間の、帯状の傾斜地にあります。限られた土地に、(当然のことながら墓は増えてゆきますので)、密集しています。
参り墓の区域と埋め墓の区域に分かれており、参り墓が居住地に近い方に在ります。二つの区域を隔てるのは、一本の細い道です。
建物は島で唯一の寺、真言宗の乗蓮寺です。御本尊は阿弥陀如来。境内に閻魔堂があります。
本浦の埋め墓
乗蓮寺のご住職から話をうかがえれば、などと願ってはみたのですが、残念ながらご不在のようでした、。
5時間ほどの滞在では、たいしたことは出来ません。墓の向きを注意して見ました。
弥谷山への意識?
この写真では、墓は弥谷寺の方を向いています。向こうに弥谷山が見えています。
しかし、「弥谷寺に向けて建てた」のかどうかは、わかりません。海沿いの墓参道に面するように建てたのかもしれません。
山の方に向いている
というのも、山寄の墓は山向きに建っているからです。山裾にも墓参道が通っています。
海向きとも山向きともつかぬ墓も多くあります。狭い土地に密集しますから、墓の向きに信仰上の思いを表現することは難しかったのかもしれません。
(後に訪れますが)、比較的土地が開けた長崎の墓地では、墓はほぼ、西向きに建てられていました。西方浄土への意識が表現されています。
デコ
故人の生前の姿を「人形」にし、埋め墓の側に立てています。桐材でつくります。島では「デコ」と呼んでいるそうです。「形」を失った (肉体を失った) 故人に、「形」を与えているのかもしれません。
長崎の墓地に形の違ったデコがありましたので、そこで再びデコに触れます。
大天狗さま
大天狗神社は本浦集落の守り神です。長い石段の上に拝殿-本殿があります。
本殿横の石垣に、優しいお顔の大天狗さまがいらっしゃいました。八つ手の大団扇をもっています。
奥の院
本殿までは若者が一人連いてきましたが、奥の院に行くといったら、僕は帰ります、とのことでした。近頃の若い人は・・・なんて台詞が自然に出てくる私です。
奥の院は、ことさらに狭い土地を拓いて、南西を向いて拝むように建てていました。石鎚山に向いているのかしらん?
「絶景」
神社への登り口に「奥の院 絶景地」と看板があり、期待していたのですが、景色が見えたのはここだけでした。
土地の人が言いました。・・・絶景?見えなんだじゃろ、見えるのは登り始めの一カ所だけよ、ハハハ!・・・
私も一緒に笑ってしまいました。開けっぴろげの無責任は、時として面白くて仕方ありません。
ネコ除け
島の最大動物はネコです。犬はいるようですが、姿は見えません。かつて、イノシシが一頭、どこからか泳ぎ着き、住み着いたそうですが、一頭では子孫を残せるはずもなく、死んでしまったそうです。
八幡神社
本浦の神社です。大天狗神社は山の神、八幡神社は海の神でしょう。
若者が扁額を「やはた神社」と読みました。「やわた」だったか?
一般的には「はちまん神社」だよと話したのですが、そもそもの始まりは、「や」many 「はた」flags と訓読したようです。「はちまん」と音読するのは、神仏習合以降のことだと言います。
廃校となった小中学校
島の公共的な機関は両集落の中間点にあります。相談して、そう決めたのでしょう。
学校の隣に郵便局があります。ただし閉鎖されています。民営化してもなくならないはずの郵便局ですが、やっぱり儲からないとなくなるのですね。郵便貯金を引き出すには、数日かかるとのことです。
小中学校
島は超高齢化しています。人口も激減しています。しかし、かつては、これだけの教室が必要な子供達がいました。
井戸
伊吹島は井戸を掘っても真水が湧かないので、天水井戸を使っていました。
どのような加減によるものか、佐柳島では真水が湧いたのだそうです。海水浄化装置を、(もちろん集落と集落の中間に)、設置していた時代もあるそうです。
長崎集落
本浦と長崎では言語アクセントが微妙に違う、そう指摘する言語学者がいるそうです。だとすると、二つの集落の人たちは異なる場所から移り住んだ人たちかもしれません。集落名からすると、「本浦」が先でしょうか。
ともあれ、島の両端に居を定め、(助け合いながらも) 独立的に集落を営んできたのでしょう。共通する利益は中間点で実現する、そんな暮らしの型が、それぞれの気風に合っていたのかもしれません。
長崎集落
それは、もしかすると「塩飽水軍」の気風だったかもしれません。
佐柳島を含む塩飽諸島には「塩飽水軍」の伝統があります。その伝統故でしょう、幕末の咸臨丸乗組員の多くは塩飽諸島の人だったと言います。佐柳島からも、平田冨蔵、佐柳高次の二人が乗り組んだそうです。
「佐柳島の誇り」の碑
平田はサンフランシスコで客死しますが、佐柳は帰国後、土佐海援隊に加わっています。乗蓮寺に「佐柳島の誇り」と題した石碑が建っていました。
長崎の墓地
南方向しか開けていない本浦とは違って、長崎墓地は、南以外の三方向が開けています。面積も本浦より広いようです。
それ故でしょう、墓の向きは、ほぼ一定です。たまたま出会えた女性に「墓はどっちの方角を向いていますか?」と尋ねると、即座に「西です」との応えが返ってきました。西方阿弥陀浄土を向いているわけです。なお長崎から弥谷山は、小島に遮られて見えません。
長崎の墓地
国分で見た埋め墓は、列状をなしており、集団(共同)埋葬でした。個別の埋め墓ではなく、石積みの上の墓石もありませんでした。むろん詣り墓は個別で、墓石が立っていますが。
しかし佐柳島の埋め墓は、すべて個別で、(夫婦合葬はあります)、過半の墓に石塔が立ち、個人名(俗名)が刻まれています。同じ塩飽諸島の粟島や志々島でも、(私は行っていませんが) 集団の埋葬は見られないそうです。また、伊吹島の墓も個別でした。
庶民レベルの墓は近世になってようやく普及し始めますが、初めは、墓と言うよりは「遺体の共同捨て場」のようなものだったでしょう。国分の埋め墓は、その形態を引き継いでいると思われます。埋め墓の個別化は、近世もだいぶ過ぎて、詣り墓の影響をうけて始まったと思われます。
伊吹島の墓
伊吹島では、石を使って祭祀空間がつくられていました。粟島や志々島では、墓の上に「霊屋」(小さな家)を建てているそうです。ただし、その形や色は、両島で異なります。佐柳島では祭祀空間も霊屋もありませんが、前にご覧いただいたデコがあります。長崎の墓地では、(故人の名前が写っているので写真は掲載できませんが)、人形を彫り込んだ墓石を見ました。その発想はデコと同じです。生前の軍服や着物着た姿が陰刻され、彩色もされています。上掲の六地蔵さんに似たものもあります。「人形」は、佐柳島独特の風習だそうです。
埋め墓の形体は多様で、こんなに近い島同士でも、異なっています。若者が「ガラパゴス諸島の亀を思い出す」と話しましたが、なるほど、です。
長崎の墓地
「私は死んだら (身体を) 焼かれたくない」 60歳代の女性が話してくれました。一緒にいた、やはり60歳代の女性も、「私もいやじゃねえ」と同意しました。自分の遺体が腐敗してゆくことは、仕方ないこととして受け入れていますが、「損壊」はされたくないのです。肉親が亡くなっても、「焼いたらかわいそうじゃ」「熱いけんね」と言います。
寝棺の埋め墓 (近年のものと思われる)
私の中から「死穢」という言葉が吹っ飛んでゆきました。少なくとも佐柳島では埋め墓は、穢れた死体を埋葬する「葬地」(柳田国男さん)、ではないようです。
埋め墓は、懐かしい肉親や隣人を偲ぶ所で、故人達を忘れたくない、むしろ「この世」にいつまでも留まっていてほしい、と願う場所ではないでしょうか。だからデコをつくって立てたり、墓石に生前の姿を刻んだりして、故人の姿を「この世」に留めています。
夫婦の埋め墓
むろん人は死ねば「この世」に留まり得ず、「あの世」に逝ってしまいます。それは嫌も応もない自然のことと受容しています。
「あの世」に逝った霊魂は祭られなければなりません。霊魂を祭る清浄な「祭地」(柳田さん)として、詣り墓は必要なわけです。お詣りをして、霊魂の安寧と子孫達への加護を祈ります。
一人の埋め墓(本浦墓地)
「死穢の忌避」説に立つと、佐柳島での埋め墓と詣り墓の隣接は、土地に余裕がないから、ということになります。本来なら埋め墓は、(死穢を避けて) 離れた場所につくりたかったはず、と言うのです。
しかし私には、(墓地が狭いのは事実ですが)、二つが隣接し合うことになんの矛盾もない、と感じられました。むしろ佐柳寺では、隣接していてこそ自然だ、と。
さようなら佐柳島
両墓制の起源をめぐっては、死穢の忌避説の他、埋葬と祭儀を区別した古墳の名残説、二重葬制(改葬)の反映説など、いろいろの研究成果がありますが、いずれも、多様な両墓制の現状を包括したものとはなっていない、そんな気がしています。ガラパゴスの亀から進化論を導き出したダーウィンは、未だ現れていないと思われます。
近年、諸々の理由で両墓制は姿を消しつつあります。両墓制に関わる記憶も、消えてしまいます。調査、聞き取りが急がれます。
道標
多度津駅近くで、面白い道標を見つけました。「きしゃば」即ち「汽車場」の道標です。
高校時代の英語の授業で、・・・駅 station には 定冠詞 theが付きます。なんとなれば、駅 station は、誰にも、どこを指すか分かる名詞だからであります・・・、と教わりました。しかり、その通り、「汽車場」と言えば誰にも、多度津駅を指すと分かったのです。
なお左は、「右 はしくら道」です。
ふたたび国分から 白峯寺 奥の院 根香寺 香西寺へ
国分の両墓制埋め墓から一本松へ向かいます。小鳥の歓迎を受けながら登る、うれしい遍路道です。白峯寺からは十九丁を経て根香寺に向かいます。照葉樹林のトンネル遍路道を楽しみます。さらに別格香西寺へ・・・。
当初は、これを遍路記一回分と見積もっていました。ですが、「初夏」の遍路記を来年にまで引きずるわけにもゆかず、また実は、「秋」の遍路をすでに歩いてしまいました。と言うわけで、以下、圧縮して掲載し、今回をもって「初夏」遍路記を終わらせていただきます。
石鎚神社
一本松へ登る途中、ちょっと逸れると、石鎚神社があります。鎖場もありました。
お不動さん
石鎚神社への途中、沢沿いに小さなお不動さんが祀られていました。
景色
国分方向の眺めです。
一本松
大師御加持水を経て、一本松に着きました。「一本松」は目当てになっていたのでしょう。
白峯神社奥の院
白峯神社への途中、右に逸れて下り、奥の院にお詣りしました。
「下乗」の摩尼輪塔
火山礫凝灰岩でできています。風化が進んでいるので覆い屋が建てられていますが、覆い屋による保護は、江戸時代、すでに始まっているそうです。建立は元応3(1321)とのこと。
白峯寺
今回の遍路二度目の白峯寺です。
十九丁へ
照葉樹林の遍路道。地元の方はどなたも、これを自慢しますが、十分自慢に値します。
十九丁の打ちもどり
ここは国分寺、白峯寺、根香寺の三岐路になっています。
根香寺の牛鬼
後ろに回って、背中を写してみました。
前から
飛べるのかな?泳げるのかな?
根香寺石段
紅葉の頃は、また一段と美しいのでしょう。
瀬戸内海
曇の景色もきれいです。
五剣山
屋島の上に五剣山がちょっと見えます。
香西寺山門
かつて香西寺は湊に近く、また伊予-讃岐-阿波に通じる幹線に沿っていました。その地の利から (山の中の根香寺よりも) 栄えていたはずです。
本堂
今は地の利を失い、「札所 根香寺」に及ぶべくもありませんが・・・。
さて、ご覧いただき、ありがとうございました。「初夏」の遍路記、ようやく終わりました。
次回は、「H25 秋」の遍路記①です。勧賢堂-屋島寺-竹居観音-八栗寺、を歩きます。「勧賢」は、「御衣替え」の勧賢さんです。竹居観音は、八栗寺の奥の院とされています。
更新予定は、12月20日です。
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前回の枯雑草さんの「楽しく遍路さんの博識と周到な資料集めには感心させられます。これは、遍路記ではなく学術書のよう・・興味が尽きません。」とのコメントがありましたが、どうして、こんなに惹きつけられるのか? 天恢もずっと考えました。
突き詰めるなら、このブログは点(札所)と線(遍路道)だけを歩いているのではなく、楽しく遍路さんは歴史、風習、地域性、宗教(神仏習合)、民族学なども含めた「面」として遍路を捉えられているからでしょう。
遍路の目的は人それぞれで、どういう歩き方されてもよいのです。 ただ天恢はお大師さまの足跡をたどって「点と線」を歩き続けることに疑問が生じました。 四国における自然破壊、人口減少、老齢化、そして疲弊化する時代では、残念ながらもう高群逸枝著の『娘巡礼記』や辰濃和男著の『四国遍路』を超える道中記の出版は期待できません。
前回からの崇徳天皇にまつわる展開からみても、このブログが総合的な「面」としての遍路の捉え方に興味と面白さが尽きません。 天恢の遍路は、 尊敬する民俗学者・宮本常一さんも 『人びとが何代もかけて生きていくとき、その生き方を思いを込めて、何らかの形でこの世に残しているものであり、それをまた確かめて見て歩くことによって新しい生き方を見つけることができるのではないかということであった。 人びとの思いは他の形や畑の形、道や住居や衣服や食物、または神や仏堂などに表現され、それがそこに住む人や時代によって少しずつ差異を見せている。』 と書かれていますが、これからは「点と線」を離れて、面という視点で歩いてみたいと願っております。
さながら迷い蟻のように、ぶつかっては曲がり、行きづまっては引き返しの遍路ですが、励ましをいただき、おかげさまでなんとか続いてきました。これからも、さまよえる内はさまよってみたい・・・と願っています。
宮本さん、素敵ですね。自ら歩き、見て、書き留めた文は飾り気がなく、農村や山村やの、その時々の風景を見せてくれます。宮本さんの文は、カラー写真に優る白黒写真ではないでしょうか。よけいなものを捨象して、本質を見せてくれます。
「面として捉えている」とは、宮本さんに対してこそふさわしい誉め言葉でしょう。・・・ただし、そうありたいとは思うので、(共に?)その視点は持ち続けたいものです。
・・・高群さんや辰濃さんを超える道中記の出版は期待できません・・・
そうなんでしょうね。能力不足の問題はさておいて、社会がどんどんと「やせて」きています。だから書くべき素材も、高群さん達の時代よりも「やせて」いると思います。
そんな中でこそ力を発揮する「もの書き」さんが、何処かにいてほしいものですが。