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四国遍路のアルバム

H26春 その3 高越山 忌部氏の里 鴨島 

2014-06-12 | 四国遍路

 
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高越山
・・・阿波忌部氏の氏神である天日鷲命と、吉野の蔵王大権現が出会い(習合し)、高越大権現という信仰が生まれた・・・。こんなことをお伝えして、前回を終えたのでした。
もうすこし、(H21(2009)に撮った写真を使って)、高越山について書こうと思います。というのも高越山は、これから訪ねる忌部神社と深い関わりをもっているからです。


高越山鳥居


西山上
西山上(せいさんじょう)高越大権現とあります。
「高越大権現」と「吉野金峰山蔵王大権現」は「一体分身」ですから、吉野大権現は「東山上」、高越大権現は「西山上」と並称されています。「山上」は、山上ヶ岳(大峯山)の「山上」です。


覗き場
高越山の右稜線をたどると、中ほどに「肩」が見えますが、ここに「覗き場」があります。大峯山山上ケ岳の「西の覗き」に相当する修験道の行場です。


高越寺山門
山頂近くに高越寺と高越神社があります。神仏分離された今日では、高越寺は高越大権現を、高越神社は天日鷲命を、それぞれ別に祀っています。


高越寺
しかし高越山での寺-社関係は、分離された後も温存されました。
毎年8月18日に行われる「十八山」(じゅうはっちゃま)の祭礼は寺と神社で「共催」され、例えば、「寺」の僧侶が「社」の神輿を宰領する姿が見られる、と言います。
思うに、ここは「高越寺」ですが、鳥居もあるし狛犬さんもいるし玉垣もあるし、「高越神社」と呼んでもおかしくないようです。


女人堂
「十八山」の祭礼では「神仏分離」以前の姿に戻りますので、その日は「女人禁制」も復活します。
ただし、柴灯護摩が終わるまでです。それまでは女人の入山は禁じられ、山門下の女人堂で待たなければなりません。もちろん日常的には、なんの問題もありません。


護摩場
写真奥の石段を上がると、10分も登らないうちに高越神社です。その上が山頂で、弘法大師像を挟み、三角点と奥の院があります。


高越神社
神職は常駐しておりません。
縁起を記した案内板がありました。・・・神武帝の時、天冨命は天日鷲命の裔孫を率いて肥饒の地を求めて当国に来たり、今の麻植、美馬、三好等の諸郡を開拓し、楮麻の種をまき、並びに荒妙を作り、朝廷に貢進、なほ歴朝の大嘗祭に奉供するを例とした。よってその祖神をこの山に祭り、郷民崇敬して今日に至った。・・・
ここに言う「天日鷲命の裔孫」が、阿波の開拓者・忌部氏です。阿波・忌部氏は、「麻植の神」とも呼ばれる天日鷲命を氏神としています。


大師像
高越寺の開基は、蔵王権現を感得されたという役行者です。天智天皇の頃と言われています。
延暦年間には弘法大師が登り来られ、千手観音像を彫って納められたそうです。また一字一石の法華経を山頂に埋められたとも言います。この時、空海28才、と伝わるそうです。


奥の院へ
五来重さんが「四国遍路の寺」で、空海の足跡に触れ、高越寺を訪れた可能性について言及しています。
・・・切幡寺から八幡(私の今夜の泊地です)を経て鴨島町に出ます。その道を藤井寺の方に来ないで西の方に行くと、もう一つの霊場があります。・・・高越山という非常に目立つ山の上に高越寺があって・・・


奥院 蔵王大権現 高越山
五来さんは続けて、切幡寺→藤井寺→焼山寺→太龍寺→室戸という「歴史的地理的に見て是認できる」空海の足跡を紹介した後、・・・高越寺は虚空蔵菩薩を本尊とする求聞持の聖跡ですから、一度高越寺に出て、藤井寺から焼山寺に出た可能性もあるようです。・・・と記しています。


山頂の「所在地」
山頂に「所在地」が表示されていました。
   麻植郡(おえ郡)・・・木綿麻山(ゆうま山)
高越山が衣笠山、西山上、阿波富士などの異称を持つことは、これまでに記しましたが、さらに高越山は、「木綿麻山」とも呼ばれた(呼ばれる)ようです。
木綿(ゆう)や麻は弊(ぬさ)を作るためのものですから、「木綿麻山」という山名は、職能集団としての忌部氏に深くかかわった呼び名だと言えます。
*弊(ぬさ)を広辞苑で引くと・・・麻、木綿、帛または紙などでつくって、神に祈る時に供え、また祓(はらえ)にささげ持つもの、・・・とあります。


高越山と高越山名物の雄ツツジ
忌部氏は、その名の通り、「ケガレを忌む」氏族で、弊(ぬさ)づくりなどを通して、古代朝廷の祭祀を担っていました。
高越神社「縁起」を再引用すれば・・・(天日鷲命の裔孫である忌部氏は) 楮麻の種をまき、並びに荒妙を作り、朝廷に貢進、なほ歴朝の大嘗祭に奉供するを例としました・・・。
「荒妙」(あらたえ)や「大嘗祭」については後述します。


高越寺から見る善入寺島
手前の家並みが、忌部氏の里、山川町です。
忌部氏の弊造りに因んで、この山は「木綿麻山」と呼ばれ、麓を流れるこの川は「木綿麻川」と呼ばれたと言います。


学島橋
(前回お伝えしましたが)吉野川と呼ばれるについては、次のような譚があります。
・・・蔵王大権現が「吉野」から「高き山を越え」やって来られた・・・以来、この山は「高越山」と呼ばれるようになり、この川は「吉野川」と呼ばれるようになった。


学島橋から
さて、話題の中心を、高越山から忌部氏の里へと移さねばなりません。
善入寺島を渡り終え、吉野川南岸に歩を進めることとします。

 

南岸堤防
堤防に上がると、猿田彦大神が祀られていました。道祖神と同一視される道の神です。ここに人の流れがあった証でしょう。
潜水橋が架かる前は、渡し舟が通っていました。(前回にも書きましたが)一本目の潜水橋(香美橋)が架かっている所は今も、「渡し」という地名で呼ばれています。


忌部神社へ
出会った女性に忌部神社への道を尋ねると、それなら、忌部神社の前に岩戸神社へも行かれては?と話してくれました。


岩戸橋
さらに、忌部神社の後、天村雲神社を経てJR山瀬駅へ行けばいい、鴨島へ帰るにはちょうどいい時間でしょう?と、お膳立てをして下さいました。自転車を押しながら岩戸神社まで会話を楽しみました。
この橋は岩戸神社の祓川に架かっています。


忌部社境外摂社 岩戸神社
祭神は天太玉命(あめのふとだま)。忌部氏の祖神です。
「天岩戸の変」で、中臣氏の祖神、天児屋命(あめのこやね)と共に祭儀の中心となった神で、瓊瓊杵尊(ににぎ)の天降りにあたっては、五随伴神の1となります。


忌部社境外摂社岩戸神社
高越神社縁起に出てくる天冨命(あめのとみ)は、天太玉命の孫神ともされています。


岩戸神社拝殿
神社の前に「池」がありますが、「麻ざらしの池」と呼ばれているそうです。その昔、忌部氏が大御神麻を晒した池、だといいます。麻は、(前述しましたが) 弊(ぬさ)を作るための麻です。
「麻ざらしの池」は、祓川につながっています。


岩戸神社の神籠石(こうごいし)
麻笥岩(おごけ)とも呼ぶそうです。鳥居の側にあります。
かつての吉野川は山川町湯立辺で川田川と合流し、川島町城山の辺に向かって流れたそうです。今よりも南寄りを、山際に沿って流れていたことになります。
つまり、岩戸神社があるこの辺は急流の中で、渦巻く砂礫が川底の緑泥岩を削っておりました。おそらく「麻ざらしの池」から祓川につながる流れは、古い吉野川の流れの跡でしょう。


甌穴(おうけつ)
川底の緑泥岩は均質ではないので、弱い所が水流により侵食されます。甌穴は、侵食された凹みの中に礫が入って掻き回し、凹みを徐々に大きくしたものです。
岩戸神社神籠石の甌穴には霊水(延命水)が溜まり、旱魃でも涸れないることがないと言います。


忌部神社摂社建美(けび)神社
岩戸神社の境内社です。祭神は、天底立命(あめのそこたち)と建御名方命(たけみなかた)とのこと。
天底立命は、忌部氏が氏神と祀る天日鷲命に先立つ神、と考えられます。建御名方命は、大国主命の子神で、国譲りで唯一抵抗し、諏訪に遷った武神です。 (→諏訪の神々)   建御名方命がここに祀られている背景は、後述の天村雲神社をご覧ください。


山裾
不思議な?ことに気づきました。吉野川を渡るまでは、あれほど見えていた高越山が、いつの間にか見えなくなっているのです。岩戸神社からも、次に訪ねる忌部神社からも、高越山が見えません。
ただし、写真の山裾を向こう側に回り込むと・・・


山川町川田から見た高越山
高越山が、その富士山型の山体を最も美しく見せてくれます。忌部氏の根拠地からの景色です。


忌部神社へ
白い看板がある石段を上がると忌部神社ですが、すぐ上の小屋に、とても仕事熱心なワンチャンがつながれていて、避けて通らざるをえませんでした。左の坂道を上ります。



登っていると右に降りる細い道があって、玖奴師(くぬし)神社が祀られていると表示されていました。


玖奴師神社
降りてみると、忌部神社摂社 玖奴師神社の小祠がありました。祭神は「国造り」のコンビ、大国主命と少彦名命。

実はこの先に「青樹社(あおきのもり)の立石」(メンヒル?)があったのですが、見逃してしまいました。天日鷲命の神殿跡とも伝わるそうで、残念なことでした。


忌部神社
「阿波国麻殖郡 忌部神社」の存在は、「延喜式神名帳」で知られていましたが、その所在は、中世以降、不明になっていたそうです。
明治に入り一時期、当忌部神社が式内社と論定されましたが、美馬郡西端山(現つるぎ町貞光)の御神社ではないかとの異論が出、激しい論争が続いたと言います。


徳島市の忌部神社
妥協策として、明治18(1885)、徳島市二軒屋町に新しく「忌部神社」を創建し決着を図りましたが、その後も論争は続きました。
最近の研究は、(私が今回訪ねた山川町山崎の)忌部神社を式内社と論定しているそうです。


「あらたえ」
「麁服」は、(あらたえ)と読みます。高越神社の「縁起」では「荒妙」と記されていました。
HP 「三木館」 によると、・・・麁服(あらたえ)とは、阿波忌部直系氏人の御殿人(みあらかんど)が、天皇陛下が即位後、初めて行う践祚大嘗祭の時にのみ調製し調進(供納)する「大麻の織物」を云います。・・・とのことです。
三木氏は、・・・阿波忌部氏の直系としての忌部氏であって、三ツ木という地名に 因む苗字を帯びていますが、忌部姓がその本姓です。上古以来歴代の践祚大嘗祭に、御衣御殿人 (みぞみあらかんど)として,麁服を調進して朝廷と深い繋 がりを持っていました。・・・とのことです。


聖天寺
金峰山修験本宗 四国別院 源正山聖天寺です。忌部神社の400㍍ほど先にあります。開基は不詳。
本尊は聖観世音菩薩と別堂に祭られる大聖歓喜天。「山崎の聖天さん」と親しまれているそうです。


大日如来-弘法大師-不動明王
境内の自然石に三体の磨崖仏が彫られています。大日如来と、その化身たる不動明王が向かい合い、間に弘法大師が座しています。


大日如来
智拳印を結ぶ金剛界大日如来です。

聖天寺よりさらに300㍍ほど先に古墳群があります。登りかかっていたのですが、・・・下に置いてきた荷物が気になって・・・というのは口実で、矢張り疲れていたのでしょう・・・止めてしまいました。登っていれば、古墳のみならず、忌部神社の奥の院と目される遺跡も見られたのですが、残念です。


青石の階段
せめて帰りは表参道から、と思い、石段を下りました。阿波青石が使われています。
ワンチャンは食事に夢中で(うなってはいましたが)、吠えませんでした。


忌部神社摂社 天村雲神社
「あめのむらくも神社」。めずらしい名前の神社です。牟羅久毛神社と書いた石碑もありました。
祭神は天村雲命と、その妃神・伊自波夜比賣命(いしはやひめ)です。天村雲命の孫神が、阿波忌部氏の祖・天日鷲命とされています。妃神・伊自波夜比賣命は、前述の建美(けび)神社にも祀られている建御名方命の孫神・出速雄命(いずはやお)の女(むすめ)とされています。


天村雲神社
ややこしいのですが、ともかく、祖神・天太玉命-天日鷲命と、その縁につながる神々が、摂社という形で祀られています。


山瀬駅
駅舎に「徳島線(徳島-阿波池田)全線開通100周年」の横断幕がかかっていました。1914(大正3)開通のようです。
今夜は鴨島駅前の宿に泊まります。

ご覧いただき、ありがとうございました。
次回は、鴨島駅前から藤井寺-焼山寺への記録です。雨と風の遍路転がしとなります。夜半には地震が起きました。
更新予定は7月3日です。
*もしかすると更新前に、再度、高越山に登ることができるかもしれません。その時は、次回、高越山や忌部の里などの新しい写真をご覧いただこうと思います。

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1 コメント

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はじめまして (applemint22)
2015-05-04 05:57:32
はじめまして

高越寺と神社の関係をとてもわかりやすく書かれていたので、勝手ながら拙ブログで紹介させていただきました。よろしくお願いします。
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