イキヅライヤ

哲学を少々たしなんでます。生きるって何だ、とか。

ジャーニーといえばハッチポッチですが

2009-10-17 21:49:44 | 漫画
 ストレンジジャーニー買いそびれた!(挨拶)

 まあ、ね、ゲームってのは、あくまでも趣味だからね、あってもなくても、ね、本来はいいものですから……ね。

 ……気を取り直して最近買った漫画の話。


『乙嫁物語』① 森薫
 とにかく描き込みがスゲー! 特に民族衣装のデザインに対するこだわりっぷりは狂気じみている。少しくらい手を抜いても誰も怒らないのに!
 舞台は19世紀、カスピ海周辺の地方都市。12歳の少年・カルルクの元に、8歳年上の花嫁・アミルが嫁いでくる。
 この嫁さんがまー可愛いの。
 家族の団欒風景も微笑ましくて良いね。

『ベントラーベントラー』① 野村亮馬
 近未来、外星人がわりとたくさん滞在している東京。
 「ベントラーベントラー」とは、首都圏民営警察外星生物警備課に伝わる隠語で「外星人関係のトラブルに在地球外星人の助力を仰げ」という意味。
 ユルーいノリの異文化コミュニケーション録って感じ。
 宇宙人関係の奇妙な事件を解決する人たちが主人公だけど、事件はいつも「解決」するというよりは何となく「終わる」。外星課の役割も事件解決そのものよりも外星人と地球人との橋渡しみたいなもの。そもそも地球人の手に負える事件などおきない。
 それが妙にリアルでよい。外星人くらいの異文化とコミュニケーションとるのなら、これくらいユルいくらいの方がいいのかもね。

『シュメール星人』② ツナミノユウ
 こちらも宇宙人もの。こっちの宇宙人はずっとテンパったままだけど。
 異文化コミュニケーションというよりは、シュメールさんの清清しいまでの不運振りが目に付きますね。
 個人的に婦警(大)が可愛いと思います。

『Dの魔王』① 柳広司/霜月かよ子
 昭和13年。陸軍内部に極秘裏に設立されたスパイ養成機関=「D機関」。そこには「魔王」と呼ばれる男がいた……。
 昭和10年代の諜報戦。各国のスパイとスパイの騙しあいの世界。
 敵国のスパイどころか、仲間や国家ですら信用ならない状況で、一挙手一投足が戦争の引き金となりうる。
 そんなおそろしくへヴィーなスパイの戦いを描いたサスペンスで、駆け引きがアツい。
 シャーロック・ホームズ的な、完全無欠のスパイであるところの「魔王」結城中佐が、既に一線を退いて後進の指導とバックアップに徹しているというのも緊張感があって良い。

正確にはパワードスーツなんですけどね、アレ

2009-10-07 00:21:31 | その他
 十数年くらいずっと勘違いしてたんですけど、

「ヌージャル・デガー」
 
 じゃなくて、

「ヌージャデル・ガー」

 だったんですね。
 知ったとき、何か、新鮮な驚きがありました。

 まあ何のことかわからない人も居ると思うっていうか、ほとんどわかんないと思うんですけど、
 『マクロス』に出てくる敵メカの名前をずっと間違えて覚えてましたって、
 そういう話な。

 文字情報だけだとなかなか気付かないってこともあるもんですって、
 そういう話。

 まーそんなことで感動できてしまうほど今の僕は退屈なんだって、
 そういう話でもある。

宗教の話したい奴この指とーまれ!!

2009-10-03 22:55:49 | 哲学
 ちょっと思ったんだけど、
 いや、これは全く僕の勝手に考える仮説で、
 根拠も何も無いんだけど。

 「無神論」という思想がここ最近(数世紀まえくらいから)流行りだしたのは、
 何も科学技術の発達によって、
 神の存在の根拠が危うくなったからではなく、
 (科学は神の存在を証明できないのと同時に、神の不在を証明することもできないので)
 単に人間の、神に対する要求のレベルが上がってしまったからではないだろうか。

 例えばまだ人間が純朴に神を信じていた時代においては、
 普通の人間が神に祈ることといったら、
 異常気象が起こらず、
 疫病なども流行らず、
 戦争に巻き込まれず、
 理不尽に死ぬことなく、
 とりあえず明日、明後日、次の収穫の時期くらいまで無事に生きていられますように。
 とか、それくらいだったろう。
 深刻に、生き死にに関わることくらいだったのではないか。

 その頃、人間にとって世界は「ままならない」のが当たり前であり、
 その日その日を生きるだけで、(現在から比べると)奇跡的なことだった。
 そして、そんなままならない世界でなんとか人間を生かしてくれる、
 ありがたい存在が神だった。

 ところが段々と人間は知恵をつけ、世界の「ままならない」部分が減っていくわけだ。
 異常気象が起きても収穫量がさほど落ちなくなり、
 疫病も対策が立つようになり、
 まあ戦争の理不尽さは変わらないどころか酷くなったものだけど、
 人間の生活はある程度、自分の思い通りに進めることができるようになるわけだ。
 人間の欲望は、結構叶えられるようになる。
 わりと努力しだいで、人間色々できるのだ。ということになる。

 しかし一方で、それでも、やっぱり世界は「ままならない」というのも事実なのだ。
 確かに人間の努力によって「ままならない」領域は減るが、
 それは世界全体から見ればほんの少しのことに過ぎない。
 相変わらず人間は、死ぬときには死ぬし、努力してもどうにもならないことだらけだ。
 
 純朴なる「経験的無神論者」たちは言うだろう、
「もしも神が存在するならば、そして神が善なるものであるならば、この理不尽な世界を放っておくはずがない」
「これだけ努力した自分に、神が報いないわけがない」
「しかし、相変わらず世界は理不尽だし、自分に報いはない」
「よって神は存在しない」

 しかし世界は元来ままならないのである。
 理不尽なのである。
 その事実が人間の目の前に厳然と提示されていた時代においては、
 神の役割はその理不尽を解消したり、分かりやすい報いを与えることではない。
 理不尽な世界で生きることを、それでも愛する為に、神は居た。
 報いのない不幸な人生を、それでも愛する為に、神は存在したのだ。
 
 現代においては、ままならない世界、という事実は、巧みに隠蔽されている。
 努力しだいで何にでもなれる、力強い存在に、人間はなった、
 と、思い込まされている。
 しかし、実際そういう人間はかなり少数であり、
 その少数の人間だって日々「ままならなさ」と戦っているのだ。
 
 今、「ただ生きている」ことを幸福だと思う人間はそういないだろう。
 多くの人間は、
 夢を叶えることができ、
 五体満足で、
 人より多くの金を持ち借金もなく、
 庭付き一戸建てに住み、
 優しい配偶者に元気な子供を得、
 家庭に不和もなく、
 穏やかだが退屈でない、
 そんな人生を幸福に思うであろう。
 それはそれでいい。
 その幸福観を否定するつもりは毛頭無い。
 
 しかし、その幸福が叶えられないとき、
 世界の「ままならなさ」のために、
 不幸のうちに留まり続けなければならない運命だと悟ってしまったとき、
 それを神の(不在の)せいにしてしまうのは、どうも筋違いなんじゃないかと思ってしまう。

 どうにもままならない世界で、神に祈ることで心の平安を得るのは、ある意味人間の努力である。
 誰もが、ままならないことを前提に生きていた。ままならないのが人生だった。
 人間は神に祈ることで、「ままならなさ」そのものを愛そうとしたのである。

 世界の「ままならなさ」に腹を立てる人は、人生を愛する努力を怠ってる。
 そう思う。
 いや、むしろ、
 「ままならなさ」を憎み、「ままなる」ことしか肯定しようとしない人達は、
 積極的に不幸のうちに留まろうという努力を続けている、
 とも言えるのではないか。

 別に神を信じなさいとかそういうことを言うつもりはないんだけど、
 巷でよく聞く素朴な「無神論」を聞いてると、なんだかなーって思っちゃうんだよな。

 まーあれだ、
 秋だからさ、
 センチメンタルになるんだ。
 秋だから。
 だから余計なこと考えちゃうんだ。
 まあ今年は秋なのになんだか蒸し暑いんであれだけれども。