ちょっと思ったんだけど、
いや、これは全く僕の勝手に考える仮説で、
根拠も何も無いんだけど。
「無神論」という思想がここ最近(数世紀まえくらいから)流行りだしたのは、
何も科学技術の発達によって、
神の存在の根拠が危うくなったからではなく、
(科学は神の存在を証明できないのと同時に、神の不在を証明することもできないので)
単に人間の、神に対する要求のレベルが上がってしまったからではないだろうか。
例えばまだ人間が純朴に神を信じていた時代においては、
普通の人間が神に祈ることといったら、
異常気象が起こらず、
疫病なども流行らず、
戦争に巻き込まれず、
理不尽に死ぬことなく、
とりあえず明日、明後日、次の収穫の時期くらいまで無事に生きていられますように。
とか、それくらいだったろう。
深刻に、生き死にに関わることくらいだったのではないか。
その頃、人間にとって世界は「ままならない」のが当たり前であり、
その日その日を生きるだけで、(現在から比べると)奇跡的なことだった。
そして、そんなままならない世界でなんとか人間を生かしてくれる、
ありがたい存在が神だった。
ところが段々と人間は知恵をつけ、世界の「ままならない」部分が減っていくわけだ。
異常気象が起きても収穫量がさほど落ちなくなり、
疫病も対策が立つようになり、
まあ戦争の理不尽さは変わらないどころか酷くなったものだけど、
人間の生活はある程度、自分の思い通りに進めることができるようになるわけだ。
人間の欲望は、結構叶えられるようになる。
わりと努力しだいで、人間色々できるのだ。ということになる。
しかし一方で、それでも、やっぱり世界は「ままならない」というのも事実なのだ。
確かに人間の努力によって「ままならない」領域は減るが、
それは世界全体から見ればほんの少しのことに過ぎない。
相変わらず人間は、死ぬときには死ぬし、努力してもどうにもならないことだらけだ。
純朴なる「経験的無神論者」たちは言うだろう、
「もしも神が存在するならば、そして神が善なるものであるならば、この理不尽な世界を放っておくはずがない」
「これだけ努力した自分に、神が報いないわけがない」
「しかし、相変わらず世界は理不尽だし、自分に報いはない」
「よって神は存在しない」
しかし世界は元来ままならないのである。
理不尽なのである。
その事実が人間の目の前に厳然と提示されていた時代においては、
神の役割はその理不尽を解消したり、分かりやすい報いを与えることではない。
理不尽な世界で生きることを、それでも愛する為に、神は居た。
報いのない不幸な人生を、それでも愛する為に、神は存在したのだ。
現代においては、ままならない世界、という事実は、巧みに隠蔽されている。
努力しだいで何にでもなれる、力強い存在に、人間はなった、
と、思い込まされている。
しかし、実際そういう人間はかなり少数であり、
その少数の人間だって日々「ままならなさ」と戦っているのだ。
今、「ただ生きている」ことを幸福だと思う人間はそういないだろう。
多くの人間は、
夢を叶えることができ、
五体満足で、
人より多くの金を持ち借金もなく、
庭付き一戸建てに住み、
優しい配偶者に元気な子供を得、
家庭に不和もなく、
穏やかだが退屈でない、
そんな人生を幸福に思うであろう。
それはそれでいい。
その幸福観を否定するつもりは毛頭無い。
しかし、その幸福が叶えられないとき、
世界の「ままならなさ」のために、
不幸のうちに留まり続けなければならない運命だと悟ってしまったとき、
それを神の(不在の)せいにしてしまうのは、どうも筋違いなんじゃないかと思ってしまう。
どうにもままならない世界で、神に祈ることで心の平安を得るのは、ある意味人間の努力である。
誰もが、ままならないことを前提に生きていた。ままならないのが人生だった。
人間は神に祈ることで、「ままならなさ」そのものを愛そうとしたのである。
世界の「ままならなさ」に腹を立てる人は、人生を愛する努力を怠ってる。
そう思う。
いや、むしろ、
「ままならなさ」を憎み、「ままなる」ことしか肯定しようとしない人達は、
積極的に不幸のうちに留まろうという努力を続けている、
とも言えるのではないか。
別に神を信じなさいとかそういうことを言うつもりはないんだけど、
巷でよく聞く素朴な「無神論」を聞いてると、なんだかなーって思っちゃうんだよな。
まーあれだ、
秋だからさ、
センチメンタルになるんだ。
秋だから。
だから余計なこと考えちゃうんだ。
まあ今年は秋なのになんだか蒸し暑いんであれだけれども。
いや、これは全く僕の勝手に考える仮説で、
根拠も何も無いんだけど。
「無神論」という思想がここ最近(数世紀まえくらいから)流行りだしたのは、
何も科学技術の発達によって、
神の存在の根拠が危うくなったからではなく、
(科学は神の存在を証明できないのと同時に、神の不在を証明することもできないので)
単に人間の、神に対する要求のレベルが上がってしまったからではないだろうか。
例えばまだ人間が純朴に神を信じていた時代においては、
普通の人間が神に祈ることといったら、
異常気象が起こらず、
疫病なども流行らず、
戦争に巻き込まれず、
理不尽に死ぬことなく、
とりあえず明日、明後日、次の収穫の時期くらいまで無事に生きていられますように。
とか、それくらいだったろう。
深刻に、生き死にに関わることくらいだったのではないか。
その頃、人間にとって世界は「ままならない」のが当たり前であり、
その日その日を生きるだけで、(現在から比べると)奇跡的なことだった。
そして、そんなままならない世界でなんとか人間を生かしてくれる、
ありがたい存在が神だった。
ところが段々と人間は知恵をつけ、世界の「ままならない」部分が減っていくわけだ。
異常気象が起きても収穫量がさほど落ちなくなり、
疫病も対策が立つようになり、
まあ戦争の理不尽さは変わらないどころか酷くなったものだけど、
人間の生活はある程度、自分の思い通りに進めることができるようになるわけだ。
人間の欲望は、結構叶えられるようになる。
わりと努力しだいで、人間色々できるのだ。ということになる。
しかし一方で、それでも、やっぱり世界は「ままならない」というのも事実なのだ。
確かに人間の努力によって「ままならない」領域は減るが、
それは世界全体から見ればほんの少しのことに過ぎない。
相変わらず人間は、死ぬときには死ぬし、努力してもどうにもならないことだらけだ。
純朴なる「経験的無神論者」たちは言うだろう、
「もしも神が存在するならば、そして神が善なるものであるならば、この理不尽な世界を放っておくはずがない」
「これだけ努力した自分に、神が報いないわけがない」
「しかし、相変わらず世界は理不尽だし、自分に報いはない」
「よって神は存在しない」
しかし世界は元来ままならないのである。
理不尽なのである。
その事実が人間の目の前に厳然と提示されていた時代においては、
神の役割はその理不尽を解消したり、分かりやすい報いを与えることではない。
理不尽な世界で生きることを、それでも愛する為に、神は居た。
報いのない不幸な人生を、それでも愛する為に、神は存在したのだ。
現代においては、ままならない世界、という事実は、巧みに隠蔽されている。
努力しだいで何にでもなれる、力強い存在に、人間はなった、
と、思い込まされている。
しかし、実際そういう人間はかなり少数であり、
その少数の人間だって日々「ままならなさ」と戦っているのだ。
今、「ただ生きている」ことを幸福だと思う人間はそういないだろう。
多くの人間は、
夢を叶えることができ、
五体満足で、
人より多くの金を持ち借金もなく、
庭付き一戸建てに住み、
優しい配偶者に元気な子供を得、
家庭に不和もなく、
穏やかだが退屈でない、
そんな人生を幸福に思うであろう。
それはそれでいい。
その幸福観を否定するつもりは毛頭無い。
しかし、その幸福が叶えられないとき、
世界の「ままならなさ」のために、
不幸のうちに留まり続けなければならない運命だと悟ってしまったとき、
それを神の(不在の)せいにしてしまうのは、どうも筋違いなんじゃないかと思ってしまう。
どうにもままならない世界で、神に祈ることで心の平安を得るのは、ある意味人間の努力である。
誰もが、ままならないことを前提に生きていた。ままならないのが人生だった。
人間は神に祈ることで、「ままならなさ」そのものを愛そうとしたのである。
世界の「ままならなさ」に腹を立てる人は、人生を愛する努力を怠ってる。
そう思う。
いや、むしろ、
「ままならなさ」を憎み、「ままなる」ことしか肯定しようとしない人達は、
積極的に不幸のうちに留まろうという努力を続けている、
とも言えるのではないか。
別に神を信じなさいとかそういうことを言うつもりはないんだけど、
巷でよく聞く素朴な「無神論」を聞いてると、なんだかなーって思っちゃうんだよな。
まーあれだ、
秋だからさ、
センチメンタルになるんだ。
秋だから。
だから余計なこと考えちゃうんだ。
まあ今年は秋なのになんだか蒸し暑いんであれだけれども。