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旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

旧・鎮西村(お祭り)

2013年06月07日 19時38分30秒 | 地域のお祭り
○ 万年願のまつり(潤野上区)


潤野上区に伝わる万年願の祭りは、敬神の念が里人の生活に融合したものである。

輸番の当番では、潤野鉱入口の堀店の裏に祭壇を作り四すみに竹を立てしめなわを張り竹にそれぞれわら籠を結び中にお供えを入れる。

また万年願の軸を掛けて馳走の用意をする。昔は酒は手づくり、さかなは川魚と定められ一斗入りの新穀の俵を床に供えた。

神官は代表を従え、座元、宝満宮、二叉川祭壇の順にお祓いをしてお祈りをする。

この式が終り座元の家に引き上げ、各戸から出て待っている戸主たちと酒杯をかわし馳走を食べる。

タベは青年主催で万年願の踊りを踊る。昔は老若男女が参加し「十五夜の月は、まんまるにござれ……」と歌って祓いの順にまわった。

二宮医院の近くに草地があるがこの所で踊るのは次の伝説によるのである。

「二叉川のふちに住む大蛇が人々をなやますので、宝満宮の山伏に退治てもらいこの地にうずめた。その供養であると」

 


大村与一郎氏談


* 万年願・・感謝の思いを万年後も伝えるために奉納する「万年願」の祭り

山口県豊田町の亀ノ尾山八幡宮に奉納された江戸時代に流行した疫病退散のための鶏頭踊が万願祭の始まり。

万願祭(まんがんさい)[春-行事] 別名⇒願解踊(がんげおどり)、願解祭(がんげさい)、鶏頭踊(けいとうおどり)、万年願(まんねんがん)万年願という無病息災を祈る祭事で奉納される。

江戸時代の宝暦年間(1950年)、若宮に疫病がはやり、多くの人が犠牲になりました。

当時の宮永村では、疫病をなくすため、万年願といって、神に願をかけました。

その願いがかなったので、そのお礼に踊りを神前で奉納したのが始まりといわれています。

病気平癒のために万年願をかけ、それがかなえられたお礼として、神前で 踊り奉納したのが始まりといわれています。

○ 水祖神杜(明星寺・八木山)


龍王山頂にあって雨乞いの神としてあがめられている。

昔から干ばつの際は神前で雨乞いの行事をした。

神酒を供えかがり火をたき雨が降るまでお籠りを続ける。

明星寺民が4組に分かれ一昼夜交代でこれにあたった。

川辺拓氏談


またこの行事は八木山地区も行なっている。

○ 五穀神の祭事(建花寺荒巻)


建花寺地区に今も続いている。4月15日、神官が田土および御幣を神前に供え五穀豊穣を祈願し区民は参列する。供えた土および御幣を区長宅に保管しさらにこれを各戸に分ける。

   

  


8月7日早朝各戸では御幣を田に立て土を入れて成長する稲をほめ豊じょうを祈る。

これ田ほめの式という。素朴な行事の中に土に感謝し神に祈る気持があふれている。

関幾次郎氏談


浄地を牛馬のつなぎ場、勝手な物置場としてけがせし為なり。」と言ったので一同は驚いて浄化の祈とうを願いこの神を祭る。

* 「田ほめ」田ほめはたわわに実った稲穂を見て田を誉める行事

田んぼにお酒をふって稲の実入りを誉めてまわる「田ほめ」行事の時に田のあぜにゴザを
敷いてのっぺい汁を食べます。他に塩さば、ちくわ、かまぼこ、てんぷらなども食べていました

田ほめの節句として、当日酒を持って田に出て、田にこれを供え、自分も飲み田をまわって「よか田ができた」とほめ、二百十日の厄日を前にして稲の豊穣を祈る。

農業者心得に、「作物田畑をかわいがり常に見回ることを怠らぬ」という個条があり、「うちの田はいい田だ。立派な稲を育ててくれる」と「田褒め」をしながら見て回ることが良い米を作る在り方だと教えられている。これは人の心が農作物にも通じるということであり、「一切は鏡である」という真理の表れでもある。

中干しを終えて稲の姿勢が整って清々しい。この時期にある祇園祭の日には、田んぼには入らずに畦をまわって“田褒め”をしてきたというが、この言い伝えもよく理解できる。
○ 石坂神杜(八木山)


郡誌に「石坂通路の左右に大岩あり、大己貴命を祭る。古来この大岩の神体なることを知る人なかりしに、明和四年(1767)国中に蝗災(いなごのわざわい)あり、里民皆憂い歎きし折節、里人に夢想ありて、大岩の左右にある小石を取り田の水口に置かば蝗災消失すべしとありしより、聞伝え国中の庶人争って此所に来り小石を反に一つ宛とて持帰取り田一り田の水口のに入る。後郡中蝗退散して秋実常に異なることなかりしと云ふ。」とあり、またこの神は牛馬病気の神で昔は沢山の草鞋が供えてあった。いま石の石像を奉納して神徳を称えている。

○ 大行事さま(花瀬)


道を隔てて納骨堂と対称の位置に祭ってあった。その跡は広さが二畝あまりで、老木が数本残っている。昭和7年(1932)9月建物を宝満官にうつした際、一石に一字ずつ経文を写した石が数多くでた。

この小石は納骨堂横に埋め上に「於花瀬二九○番地高木神杜跡発掘」と刻んだ小碑をたてた。高木神社を「大行事さま」とよんだ訳はわからない。」

この神は作神で毎年6月20日ごろ、灌概用水賂掃除の後に神前で祭事を行ないお籠りをする。

本杜は彦山高住神杜で、年に一回代表が交代で参拝している。