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旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

旧・鎮西村(神社と祭神・八幡宮・・大日寺)

2013年05月24日 12時00分16秒 | 神社と祭神
八幡宮(大日寺)


  

一.鎮座地 鎮西村大字大日寺字宮

二.祭 神 

応神天皇

神功皇后

仲哀天皇

武内宿弥

日本武命

天照大神

玉依姫命

三.祭 日 九月九日

四.社 殿
 
(イ) 神殿 横二間一尺、入一間四尺
  
(ロ) 渡殿 横二間、入一間
  
(ハ) 拝殿 横三間三尺、入二間一尺

五.境 内 一、三四〇坪

六.由 緒 境内杜伊弊諾神杜の欄に詳記する。
      神饌所兼杜務所は明治四四年(一九一一)三月十七日建設。
      大正八年(一九一九)九月十八日神饌幣帛供進神杜に指定された。

     (創 立 白鳳元年(六七三年)となっており歴史ある神社であることがわかる。)

七.境内神杜
(イ)伊弊諾神杜 祭神 伊弊諾命 建物 木造、 横二間、入二間半
「此杜もと妙見杜と称し、古来より鎮座ありて産神なりしが宗像氏の臣石松但馬此村に住し八幡宮を妙見杜の本社に立て、後世遂に産神とせり。

昔は神幸ありしと見て頓宮の趾本杜の東方六町許にあり松の元と云ふ、叉妙見田、三月田・二月田など之字残れり、神領は秀吉公没収せらる。」と郡誌にある。

里人もこのように語り伝えている。

   

(口)若八幡宮 祭神 仁徳天皇 由緒 不詳 
建物 横五尺、入五尺 と青柳氏蔵神杜明細帳にあるがこの杜と思われる建物は若八幡と名づけ応神天皇を祭ってある。



(ハ)老松神杜 祭神 菅原神、由緒 不詳、建物 横五尺、入五尺、昭和二十四年(一九四九)改築



(ニ)須賀神杜 祭神 素蓋為命、由緒 不詳、建物横五尺、入五尺、須佐神社と同一か?

(ホ)五穀神杜 祭神 保食神、由緒 不詳、建物横五尺、入五尺、昭和三二年(一九五七)七月吉日、赤間百兵衛氏古稀祝賀記念のため現在の石祠を寄進された。



(へ)稲荷神杜 祭神 倉稲魂神、横5尺、入5尺、とあるが現在は石祠。



(ト)疫神杜 祭神 大巳貴命、昭和八年(一九三三)、ノケオより八幡宮にうつす、(ノケオは八幡宮裏二〇〇mの高地)石祠



(チ)貴船神杜 祭龗神 高龗神、闇龗神、昭和八年(一九三三)、井戸用からうつす。石祠



(リ)大山神杜 祭神 大山祇命、昭和八年(一九三三)、大日寺内尾からうつす。石祠

大日寺地区はむかしから区民が分担し小杜の管理維持にあたっている。
担当杜は当初の信仰別によったものと思われる。現在も多少の異動はあるが、
子孫によって受けつがれている。

古文書の一部を揚げれば 明治十六年二月■改訂(一八八三) 保長 岸田仁造在勤

字ノケ尾
疫神杜 梶原伴蔵、域丸次六、城丸末吉、城丸信吉
 
〔註〕八幡宮についてのすべての資料は赤間百兵衛氏からうけたものである。


大宰府神杜と大日寺村

嘉穂郡内には太宰府神杜の杜領と観世音寺の寺領とが相当に伸びてきていたようである。

郡、宝満の連山を境にして相隣接する地理的な関係からもその領地が郡内におよんだことは然考えられることであるが,特に地理的に近接する筑穂町、桂川町、碓井町から穂波町に拡っていてその一部は私たちの村にものびている。

太宰府天満官の杜務を支配した満盛院関係文書の中に,、大日寺と太宰府との関係を示す次のような記録が残っている。

太宰府天満宮宮師満盛院領之事
一、穂波郡内大日寺村之事  三十町

(県史1の下)

この記録は文永六年(一五二六)のものである。大日寺村を含む八カ所の寺領を記しているが、早良郡の戸栗、重富の二カ所に次ぐ大領である。

その他の五カ所はほとんど十町以下であることからみても大日寺村が室町時代においては太宰府天満宮領の内でも重要なものであったことがうかがわれる。

そのような関係から文永六年から七年後の天文二年(一五三三)には、九州に勢力を伸ばしてきた中国地方の大内氏と満盛院との間に大日寺領段ーのことで争いが起つている。

(県史一の下)

これらの記録から中世においては村内の一部が太宰府神杜の支配下にあったことが明らかである。

あるいは大日寺だけでなくて八木山にも太宰府天満宮の勢力がおよんでいたのではないかと思われる。

老松宮と天満宮とは太宰府神領の地に勧請される神杜であるが、大日寺が八幡宮境内に天満宮を祭っているように村内において八木山は老松宮を主祭し、さらに天満宮をあわせ祭っているのは因縁浅からぬ両者の関係を示しているようである。



天満宮, 老松杜勧請のことは筑穂町や桂川町一帯に明らかな事実であり、ともかくも中世における村の支配関係を知る一資料である。

この様な事象が起こっているとは、旧・鎮西村が重要な役割を果たしていたことの導ではないかと思うと、皆さんもロマンを感じるのでは。

旧・鎮西村〔神社と祭神・天照神杜・・蓮台寺〕

2013年05月24日 04時35分05秒 | 神社と祭神
天照神杜


 

     


1、鎮座地 鎮西村'大字蓮台寺字宮前

2、祭 神 
天照皇大神

瓊瓊杵命

猿田彦命

3、祭 日 9月9日

4、社 殿

(イ)神殿 横1間4尺、入1間3尺

(ロ)渡殿 横2間、入1間

(ハ)拝殿 横2間4尺、入2間3尺

5、境 内 360坪

6、由 緒 八額山(八面山とも云う)にある、八額山の峯八顆に分かれる。
      ゆえに八面神杜とも言う。由緒不詳,明治5年(1872)11月3日、
      村杜に被定される。

7.境内神杜
(イ)貴船神社 祭神 高龗神・闇龗神・
        建物 横1間、入5尺、
        由緒 不詳杜中に諾神が合祀してある。

(口)山の神 巡手より境内にうつす。天神さまを合祠詳細不詳、建物 横1間、入5尺

この神社に関しては、村人が残した記述が残っているので、紹介します。

何れが元祖か天照皇大神

筑前風土記やその他の古文書によれば、池尻地区に天照皇大神が祭られ、本村地区には八面神社が祭られています。

八面神社の由来は、峰八面を有する八額山の麓に位置するところからその名がつけられたと記されています。

処が今日の現状を見ると主客が入れ変わっています。

池尻の天照皇大神宮が天照神社となり、本村の八面神社が天照皇大神宮と姿を変えているのです。

天照神社の祭神は申すまでもなく天照皇大神を中心に手力雄命と万幡姫命の三柱が祭られています。

天照皇大神宮と姿を変えた旧八面神社の祭神は瓊々杵尊が中心で、天照大神と猿田彦神の三柱が祭られています。

瓊々杵尊を主神として祭る八面神社が何故に天照皇大神宮となったのかその理由は分かりません。

昭和三年の十一月に奉納された八面神社の鳥居に、初めて天照皇大神宮の名前が登場するのです。

それ以前のものは八面宮の名が刻まれています。

昭和三年は昭和天皇が即位された御大典の年に当たり、その年の六月には池尻のわが家の水田で鎮西村の田植祭典が実施されました。

そして秋には稲の刈取り行事が行われ、新米の一部が県当局を通じ皇室へ献上されました。

皇居では十一月に大嘗祭が盛大に実施されました。

蓮台寺ではその大嘗祭を記念して八面神杜に大鳥居が奉納されました。

その鳥居には天照皇大神宮の名が刻まれていました。

この鳥居が池尻の天照神杜でなく、八面神社に奉納されたのは何故だろうか、不思議に思われてなりません。

私はその謎を解き明かしたいと思い、古文書の調査に取りかかりました。

そして新しい発見をしたのでした。

新しい発見とは天照神杜誕生のいきさつであります。

その資料によれば、蓮台寺の氏神は八面神社の方が古くからありました。

処が今から六百三十年の昔、正平十七年(南北朝時代)筑紫の探題北条氏経が菊池肥後守に攻められ、大日寺山で敗れました。

その時の兵火で、十二月二日、八面神社は跡片もなく焼失したのでした。

その翌年の一月、八面神社の御神体が、近くの池尻山の大木の梢に引懸り、神鏡の如くあかあかと照り輝いたといいます。そこへ一人の翁が現われ、水浴して身を清め、その木の下に平伏して、天降り給え、天降り給え、と祈り続けたるに、御神体はひらひらと舞い降りて翁の袖に止りしといふ。

村人ひとしくこの事実に感泣し、大木の下に仮殿を建立したといふ。

これ即ち天照神社の誕生なり。

八面神社の跡地はその後百三十年も廃墟となっていたが、明応元年(五百年前)に再建されたといふ。

池尻の天照神社は八面神社再建後もそのまま祭られ、以来六百三十年の歳月を数えています。その後寛保三年四月(二百四十九年前)に改築され、寛政三年十月(二百一年前)に幣殿が増築されました。

(村人の言い伝え・・・)


● 鳥居の写真を4枚掲載しているが、手前にあるのが天照皇大神・一段高いところにあるのが八面宮とある。(それと、もう一つの話・・・)

天照宮が、鞍手郡宮田町磯光にあり、祭神が天照国照彦火明櫛玉饒速日尊で、記紀に拠っていない。この宮は、元は笠置(木)山の頂上にあった。

「笠置山を挟んで反対側にもうちと同じ天照神社がありましたよ。」驚いて、車を飛ばした。

飯塚市伊川の近く、蓮台寺の地に確かに天照大神社があった。

(このときには分らなかったが、直近にもう一つの天照神社があるそうだ。)

この宮の宮司が、飯塚市伊岐須の高宮八幡宮の宮司ということで、少し引き返してお聞きした。祭神が、天照大神、瓊々杵命、手力男命であった。

「この並び方からすると、天照大神はニギハヤヒでしょうか。」・・・「可能性はありますね。」

青柳宮司の奥方はあっさりと答えられた。

このときに、三柱目の手力男命との関連で終に、天照大神は元々男神であって、天岩屋戸説話で天宇受売命がストリップを行なったという伝承の本意が見えたのである。

男神だからこそ岩屋戸を細めに開けてしまったのであろう。

古事記の「此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」の詔は、天照国照彦火明櫛玉饒速日命がこの笠置山の頂上で発せられたもののようである。

瓊々杵命は天孫降臨の別働隊であって、確かに、竺紫の日向の高千穂の串振岳に天降ったのだろうが、この詔は饒速日命が笠置山に天降ったときのものと考えざるを得ない。

記紀は天孫降臨の主人公の詔を別働隊の弟の瓊々杵命のものに接木したようだ。

この話を元に結んでいくと・・・私たちが住んでいる筑豊平野・飯塚・宮若の地に大きなロマンを感じています。

旧・鎮西村(神社と祭神・宝満宮・・潤野)

2013年05月23日 11時24分10秒 | 神社と祭神
神杜と祭神

古来わが国民は「日本国は神国なり。」の信念を持ち、神杜は国家神道として尊崇(そんすう)された。

太平洋戦争終了後は、国家神道は神社神道にかわり、神社は一宗教として位置づけられ、わが国の歴史における一大変化で、転換期の概略を記して前書きとする。

義務教育においては、教科書から国家神道的色彩をもつものが一掃された。

行事においても四大節の、教育に関する勅語の奉読、祭興に代表児童の参拝、教師の指揮による学童の一斉拝礼学校設置区域に鎮座する産神の宮日の休業など,一切が廃止された。

その維持管理については、物心ともに、国家、町村の庇護が禁止され、関係者の自主的な意志によることとなった。現在は前の氏子が信者に変わっている。

此の現象のがマンネリズム的な一時現象として衰退をたどるか、自然発生的に昔のようになるかは、時勢の推移と信者の自主性によって左右されよう。

具体的には、祭典行事は、信者にかわった旧氏子たちが、従来どおり実施しているようであり、また維持費も負担している。

清掃維持は数人割りあて制、区域、全員など種々な方法によってなされている。


潤野宝満宮




1、鎮座地 鎮西村大字潤野字宮山

2、祭 神 

玉依姫命(神武天皇の母親)
     
天照皇大神

磐余彦命

葺不合命(神武天皇の父親)

火火出見命(神武天皇の祖父)

豊玉姫命(天孫・邇々芸命の娘)

3、察 日  9月9日

4、杜 殿 (イ)神殿、横2間1尺8寸 入1間4尺5寸
     
(ロ)渡殿、横6尺6寸, 入1丈2尺

      (ハ)拝殿、横2間1尺9寸2分 入2間1尺9寸2分

5、境 内 2,052坪

6、由 緒 福岡県地理全誌に「文明(1477)九年の棟札に奉再興満明神上檀一字御意趣者神徳益新国家安全特当所繁昌万快民楽善願成就而巳本願主筑紫民野田大膳亮藤原朝臣経久当所地頭武藤筑紫備中守藤原経勢文明九丁酉年(1477)二月十五日大宮司貞次諸神官貞吉等、神輿の飾に用ひし銅製流金の鳳の胴部(銘に勝屋次郎左衛門願主九月九日とあり社家にて長享年中と云へり、長享は後土御門院の年号なり、勝屋氏は今鞍手郡下村に子孫あり)ありしが文化元年(1804)甲子に焼失す、(鳳は腹のみあり)、探題行踊と云事あり,(真丸踊共云ふ)毎年八月新穀を供へ村民群参して是を行ふ、西京の輸踊とも云ものに同じ………」とある。

また太宰管内志に「筑前国穂波郡宝満明神者、振古乏名杜也、文明年中筑紫氏再造之、其時所揚之棟札今尚有之、然年所久文字漫減将失其真、予蒙君命巡邑之日、祀官請改書乏以為副遂不得辞書以与乏、其間唯一二不可解者如臼書後之者勿疑之、元蔵庚午仲秋十四日貝原好古判」とあってこの宝満杜と言うのは穂波郡潤野村にある。またこの杜の神輿の鳳形の銘に「宝満大菩薩云々脇屋次郎左衛門願主」とあり、「文化元年十一月(1804)朔日炎上して悉く滅せり。」と書いてある。現在の杜殿は昭和4年(1929)春吉日しゅん工式を行なったものである。

7.境内神杜

(イ)若八幡宮 祭神 品陀別命、息長足姫命、大鶴鵜命、由緒不詳例祭8月、
建物横1間3尺入1間3尺と(潤野青柳神官蔵神杜明細帳)にあるが
現在は建物はない。

(口)天満宮 祭神 菅原神 由緒不詳 例祭8月 
建物 横5尺入1間(神殿左側の建物か)

(ハ)厳島神杜 祭神 市杵嶋姫命 由緒不詳 例祭11月11目.・石祠

(ニ)飯祖神杜 祭神 稚産霊神、埴夜須神 由緒 不詳 例祭8月 石祠

(ホ)甲子神杜 祭神 大国主命 由緒不詳 石祠

(へ)祇園杜 祭神 素蓋鳴命 潤野下区より境内にうつした。








     

旧・鎮西村(神社と祭神・桂郷神社・・建花寺)

2013年05月20日 21時59分50秒 | 神社と祭神
桂郷神杜




1.鎮座地 鎮西村大字建花寺字堂園

2.祭 神 伊邪郡岐命,天照大神,品陀別命

3.祭 日 9月17日

4.杜殿 (ィ)神殿 横2間2尺 入1間

    (ロ)渡殿 横1間3尺 入1間2尺

    (ハ)拝殿 横3間2尺 、入1間

5.境 内 600坪

6,由 緒 不詳 明治5年(1872)11月3日 村社に被定、大正9年(1920)5月27日供進神杜に被定せられる。

7.境内神杜



(イ) 稲荷神杜 祭神 倉稲魂神、由緒 不詳, 例祭3月10日、
建物 方2尺, 高さ1間の石祠, 明治38年(1905)l1月の刻字

(口) 天満宮 祭神菅原神,由緒 不詳, 例祭2月24日、
建物 横1間・入1間3尺、木造瓦葺

(ハ)琴比羅神杜 祭神 葦原醜男神、由緒、不詳、例祭8月9日、
建物 横2尺5寸、入1尺8寸,石祠天保11年の刻字がある。

(二) 杵築神杜 祭神 大国主神,由緒不詳、例祭11月29日、
建物 方2尺 高さ1間、石祠

(ホ) 直日神杜 祭神 神直日神,大直日神,由緒 不詳、例祭2月10日、
方2尺,高さ1間、石祠、側面に明治38年(1905)l1月の刻字がある。

(ト) 祇園社  祭神 素盞嗚命、建物、方1.5間、木造瓦葺


桂 郷 神 社 に 纏 わ る 話


下記の記事は鎮西村が飯塚市・二瀬・幸袋が合併したときに編纂された“鎮西村誌”より抜粋して記載しております。


御夢想御伝記(原文のまま)


原夫日本は神国にして道は則ち神道なり 

故に天祖国常立尊を始として天神七代地神五代の神々耳統御し給ひ人皇は神武天皇に始まり既に九拾六代の今に至る迄天照大神の皇御孫天行をしろし召して神より伝ふる三種の神宝を御身の護とならせ給ひ皇統万々歳天壌と共に窮りなきは蓋し是神国なる此故に日本は万国に勝りて貴き事を記すべし

如笹日本は神国なれぱ神の教を神と云へる神道は却ち人道なれぱ朝暮身には離れさる道なり

抑舞山桂木の由来は人皇九十六代光巌院の御宇将軍守邦親王正慶二年癸酉二月廿八日夜年頃廿三四計り

女神轟髪冠装東着し枕頭に忽然と現れ是甚三左衛門汝が宅より申の方位に当る木山の谷奥ヘ三枝に生る夏木あり此木世に類なき末世には必ず秋津島の名木となる而して

此木の元より出る泉を用ゆれば人盛長寿牛馬安穏五穀豊熟せむ克民に伝へ給へ吾案内にして教へくれんと宣ぺり依りて

案内に従ひ登りけるに大深谷口に着ければ左右より少し流れ出づる水音鈴鳴の如くきこへしに此処より凡二丁余も登りけるに二筋に流れ出づるを桂川の内浦と宣ふ左桂の内川伝へ登りけれぱ谷迫となり誠に三枝に生る夏木ありる

末世名を発せむものをと凝ひあるべからずと宣ひて消へ失せ給ふにぞ否や夢覚けり扱て不思議なる正敷夢中とは思へ共神の御告なりと其儘捨て置かれじと

翌日與平兵次郎を招き夢中の次第を語り含けるに両氏誠に氏神の御告ならんと深く感じ直に申合わせ三人連れにて夢想の如く彼の山へ登りければ

あんの如く大谷口左の谷より流れ出づる水音鈴のなる如く聞えけるにぞ此処より凡二丁余登るに左右に流れ出づる川佳の内浦と教へある 

左桂の内川り行く谷の迫りと成る処を見れば正敷三枝に生る夏木あり 

誠に氏神の夢想にして御告なるやと拝し奉り有難再三拝し奉りて席宅いたし
郷中の人々呼寄せ委細夢想神のまにまに物語りし其上申し合せ 
翌三月三日上巳遊日なる故皆々引連れ桂木の元に参りける誠に神の御告ならんと皆々肝心仕りける 

其後字を舞山桂木桂川の桂郷名発いたし月

又氏神に桂郷妙見宮と御尊号拝し奉りける誠に御夢想の有難ぎ感ずるに余りあり仰ぐべし尊むべし

之に依りて氏神の報恩謝徳の瑞として敬而此一巻を末世に伝へ残す者也

坂垣四郎高房末孫
正慶二年癸酉三月上旬
甚三左衛門
興平
兵次郎


舞山桂木の由来(原文のまま)


抑舞山と云ふ険山の深谷に桂木といふ名木あり 

其辺一神埋りて二度御世に出でさせ給ふ事なしと言ひ伝ふ共由来を尋ぬるに人皇七十九代六条院の御宇安元年間一老人あり 

薪を取らんとてかの険山深谷をつたひて登りけるに頂は陽春桜花真盛り時にかかわらず 

四方静かにして物すごく只ましらの声と諸鳥の口帝くのみなり 

忽ち不思議の音して出づるものあり老人は猪鹿の類ならんと思ひしに遂に見馴れざる尊き老人身に白衣をつけ白馬に跨り老人に告げて日く我こそは此険山の霊神なり諸人我を祭らば五穀豊醸 諸病除去子孫繁栄凝ひなし

此深奥に当りて一つの奇木あり桂木と言う是我身体なり如何なる事あるとも此神木の枝葉を切る事勿れ 

神木の根元より出づる清水を浴するものは難産の忠なしゆめゆめ疑う事勿れと云ひも終らずかき消す如く忽然として失せ給ふ 老人は不思議の思ひをして我家にかへり諸人に語りしかば人々数人打連れて再ひ深山に登りて尋ね見しに果して不思議の神木ありけれぱ諸人奇異の思ひをなし 

春秋二度祭典を行うに至れり之れを伝へききたる近郷の人いづれも神木を拝見せんとて 日々の参詣人数千人深谷忽ちにして市をなすに至れり遂におごそかなる神殿まで建立ありしが其後一百余年一夜大風雨ありて神殿を破り 

且つ浪人さへ隠れ住むとの噂立ちければ諸人恐れて参詣するものなきに至れり

其後鎮西国師(聖光上人)竜王山麓に明星寺開山のとき此霊地の煙減せんことを恐れ山下に一寺を建立して建花寺と云ふついに寺号を以って村名となせり


観世音堂(建花寺址)


舞山は元馬出づる山と書きしが後語音誤りて舞山と云ふに至れり是れ白衣の老人馬にのりて出でられしを以てなり舞山の南方に当りて鈴川と云ふ処あり是れ白衣の老人出でられたるとき

鈴の音きこへしを以て名づけたるものなり桂木は元来月中の神木なるを以て太陽此樹の頂上に来るときは暫時休息せらるると云ひ伝ふ依って舞山の南方の谷を名づけてひよこひ谷と云ふ 

今は誤りてひよこ谷と云ふ桂木の有る谷を桂谷と云ひ其流水を桂川と云ひ其流域を桂の郷と云ひ其氏神を桂郷神杜と称し其他酒名屋号等に桂の名を用ふること多し 

只示茲に一の奇なるは古より建花寺に生れたる婦人にして難産にかかりしもの一人もなしと云ふ 

古昔は桂木の落葉を肌につけて安産の守りにせしと云ふ今に至るも村人の桂木を尊敬するの念少しも変らず堂字を建立して七五三縄を張り一枝一葉といへとも切ることを敢へてするものなく 

春秋の祭典をなして夏分は毎日村人交代にて参詣して潮井を取りて村内戸毎に配分するを例とす 舞山は土地非常に肥沃にて樹木繁茂し幾度か切払われしにもかかわらず桂木丈けは切残されて 今日に至るを見れば如何に此木の村人に尊敬せらるるを推知すべし 

桂木は他木に見るべからざる一種の生育力を有する奇木なり地上一二尺の所より数多の新芽を発生し 

此新芽生長するに随ひて漸次に母木に吸引せられて遂に母木にまき込まるるに至る 

独り自分の新芽を引込むのみならず 

近傍に有るものは異種の木と云へども往々引込むことあり 

現今も周囲二尺位の楓の引込まれて地上十余間の処に接木の如ぎ観をなせり一旦引込まれたろ木は 

桂木の成長するに随ひて漸次に同化して上方に釣り上るに至るものなり 

殊に樹木を引込むのみにあらず往々岩石をも引込むことあり三四十年前頃神体として桂木の根元に祭りし二ケの大石をも何時ともなく引込まれて今は地上数尺の所に釣上げられて奇観を呈す 
              
天保十三年寅六月初句写之



<獅子舞い/strong>



獅子舞いは厳かな神事であるが、娯楽施設のなかった昔は一つの娯楽行事でもあった。
獅子舞いを奉納するのは夏の祇園祭りが多いが、八木山のように祇園祭りと「おくんち」と2回、潤野のように「おくんち」だけ舞わすところもある。

また神前や堂塔だけしか舞わないところもあるが、内のすべての家で舞うところもある。

獅子舞いの編成は、世話をする人(獅子頭というところもある)と獅子を舞わす役として雄獅子に2名・雌獅子に2名・交替の者4名の8名の獅子かたがいる。

衣しょうは腕ぬき(甲かけ)・白衣・赤だすき・はかま・白足袋・わらじ・白の鉢巻で腕ぬき・はかまは胴と同じ図柄のものを着る。

囃子かたは大太鼓(潤野では子供の役で老練巧者な介添えがつく)・小太鼓(竹を細長くむちのように削ったものをばちとして用いる)・かね・苗で、笛は2・3名が吹き、他は交替者がいる。

その他清道の旗やちょうちん・御幣・面・矛などをささげる人など多くの人数が必要である。

獅子舞の稽古はその月のはじめから行ない、祭の前日に仕上げをして奉納する。

獅子舞いは大太鼓・小太鼓・かね・笛の囃子(音楽)にあわせて行なう。

獅子舞いの移動のとぎには道巾で奏する「道ばやし」や・神殿を一巡するときの「堂めぐり」があり、舞は序(はじめのきり)・破(なかのきり)・急(のり)の3段階で舞う。

序ではゆるやかな音楽で雌雄の獅子は同じ舞い方をし、破では急調となり2つの獅子はそれぞれ別の舞いをし、急では高潮に達し2つの獅子は最初の位置を入れかわって勇ましく舞い終る。

なお、明星寺(南谷)では祇園・おこもり・彼岸まつり・おくんちと年4回も舞わしている。

そしてここだけが獅子を舞わす前に杖を使う行事をする。

はじめ天地四方のよろずの神がみに向って獅子を舞わす4人が楽にあわせて「エーイ・エーイッ」と天に向い杖をつかうと、中の2人が残り「エイッ・エイッ・ヤッ」「エイッ・エイッ・ヤッ」と掛声を勇ましくかけ、杖を立てたり組み合わせたりして意気をあげて場払いをして獅子舞をするのである。

最近では肝心の獅子かたである獅子を舞わす青年が県外へ就職するなどでだんだん滅り、この獅子舞いを続げて行くのに困り今年はとうとう取り止めたところもある。
今なお舞わしているのは次のである。



大日寺・花瀬・潤野・明星寺(南谷)・八木山(本村・東部・久保尾)・蓮台寺(池尻)・建花寺(本村)。