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旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

旧・鎮西村(六地蔵)

2013年06月07日 16時52分12秒 | お寺と本尊
六地蔵


今から200年前、建花寺村から吉川村に越す峠に山賊が出て、旅人を悩ませたのです。

黒田藩の武士が捕らえて打ち首にしたところ、山賊どもの往生が悪く幽霊となって迷い出た、そこで地蔵菩薩を六体刻んで供養したといわれるが、いつしか子供の病気、特に百日咳に効き目があるとつたえられ、前回祈願のため詣でる人が多く祈願成就の暁には、はったい粉やよだれかけを供えている。
(鎮西村誌より)


六地蔵て何だろう??

笠地蔵に出てくるお地蔵さんは何体だったでしょう。

地域によっては数が異なっているようですが、たいていの人の記憶では六体ではないでしょうか。

また、実際にお地蔵さんが複数祀られているところを見ると、六体という数が多いのに気がつくと思います。

この六体という数は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六界のこと)から来ています。

平安時代、命は六道を転生するという「六道輪廻」の思想が広まると、人界だけではなく、六道全てにおいて救済してくれる存在として、地蔵菩薩が六道それぞれに現れる(これを「六道能化」という)という六地蔵信仰が盛んになりました。

これらの地蔵にはそれぞれ名前がついています。

『覚禅鈔』の例を出せば、先の六道の順番で、大定智悲・大徳清浄・大光明・清浄無垢・大清浄・大堅固という名前がつけられています。

これらは、持ち物などで姿からも区別されます。

六地蔵は墓地の入り口などに多くあるのは、死者の世界と現世との境である墓地に立って悪霊などの侵入を防ぐという、地蔵の「塞の神」的な性格も窺われます。

地獄に地蔵が救済に現れるという信仰は、この六地蔵信仰の一側面であるとも言えます。
また、石幢(せきどう)に六角柱のものが圧倒的に多いのは、この六地蔵信仰の表れです。

六地蔵(本当の意味)

日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。

これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。

六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。

いずれにしても、像容のみからそれぞれの地蔵がどれに当たるかを判別することはほぼ不可能である。

日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。中尊寺金色堂には、藤原清衡基衡秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに6体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である。

六道(りくどう、ろくどう)は、仏教用語で6種類の世界のこと。仏教成立以前の古代インド思想を起源とし、原始仏教においてはさほど重大な意味を為さない。体系化が進行したのは後代と考えられる。

この世に生を受けた迷いのある生命は死後、生前の罪により、地獄道(じごくどう)、餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)、修羅道(しゅらどう)、人間道(にんげんどう)、天道(てんどう、天上道、天界道とも)の6つのいずれかに転生し、これら六道で生死を繰り返す(六道輪廻)と言われている。

たとえ天道であっても、苦しみの輪廻する世界を脱することは出来ない。

諸行無常の原則により、どの世界に生まれ変わろうとも、何時かは死に絶え、別の世界(或いは同一世界)へ転生する宿命。

上記6種の世界は、須弥山世界観等においては、しばしば空間的領域として捉えられる。 この輪廻の道から外れたものを俗に外道(魔縁)という。

六道にはそれぞれ観音がおるとし、観音の導きによりその世界から救われるという来世的な観音信仰が生まれ、それらの観音を六観音と呼ぶ。なお天台宗真言宗では人間道における解釈が異なり、不空羂索観音准胝観音がそれぞれ置かれている。七観音と呼ばれる場合はこの2観音を含めた観音のこととなる。

尚、初期仏教の時代は五趣として、修羅(阿修羅)はなく、大乗仏教になってから六道となった。これらを一括して五趣六道という。

インド・中国起源ではないが、日本では11世紀ころ、六道の各々に配当された六地蔵が各所に祀られ、大いに庶民から信仰された。

こうして見ると山賊も皆さんのお役に立つことを遣っていることがわかった、お堂へ行った時は、供養だけでは無く、ご利益をお願いすることも大切だと思う。

旧・鎮西村(明星寺の菩提樹)

2013年06月07日 04時19分56秒 | お寺と本尊
天然記念物(明星寺のボダイジュ 一本)

飯塚市大手明星寺字河内八二六 


  


飯塚市の西南部、龍主山の麓に平寿山妙覚院と号する明星寺があり、この境内にボダイジュは所在している。

明星寺は、平安時代に開かれた天台宗の寺であったが、その後衰退し、のちに浄上宗第二祖聖光上人が寺を復興した。

全盛時は一二坊を数えたというが、戦国時代(石坂の戦い)の兵火で廃絶し、今は本七・地蔵堂・観音堂等があるだけである。

なお、境内には県指定の元享二(1322)年在銘法橋琳塀卒都婆がある。

  


ボダイジュは、寺院の庭などに植えられる中国原産のシナノキ科の落葉喬木で、枝分かれしてよく茂り、小枝には星形の細毛が密生する。

明星寺のボダイジュは、海抜100mの傾斜地にあり、周囲がスギ及びヒノキ林に囲まれ、南側は道路に接したところに生育している。

隣接して生育する数本のスギに陽光を一部遮られていたが、その後、スギは伐採されて、十分に陽光が当たるようになり、多数の萌芽枝が幹の基部や樹幹から発生している。

本樹は、多数の株立ちが見られ、予備調査では六本の枝分かれを確認したが、本調査では幹は四本であり、その形状は表十一のとおりである。

樹高は、17.5mであり、これは福岡県指定の最高の樹高を示す求菩提のボダイジュの19mについで二番日に大きいことになる。

胸高周囲は幹が根元で分岐しているため、最大のもので1.13mしかないが、根元周囲は4.5mと大きい。

なお、明星寺を復興した聖光上人が立てた杖が成長してこのボダイジュになったという伝説がある。

本樹の形状は、樹高では県内二番日の高さを誇るが、株立ちした幹であるために、幹の胸高周囲は最も小さい。

旧・鎮西村(鎮西四国八十八箇所・鎮西村編)

2013年06月02日 09時44分35秒 | お寺と本尊
●  鎮西四国八十八箇所・鎮西村編

大正2年(1913年)に鎮西村・二瀬町・幸袋町・飯塚町(今の飯塚市)の4カ町村の有志が集まって、この町村のお寺やお堂などから霊場88か所を選び、これに四国88か所の寺名をつけて,「鎮西四国88カ所」を作り、鎮西上人の偉大な遺徳をしのび心身の清浄をはかろうと計画した。

このとき本村からも各から1人ずつが開創発起世話人となって相談に加わった。

こうして話がまとまって同年9月開創しはじめて団体参拝をし。

東は鯰田(飯塚市)から西は八木山・南は明星寺から北は庄司(幸袋町)までの広さを2泊3日で一巡した。

後にこの霊場に加えて欲しいという希望がつぎつぎとあったが88カ所を多くすることはできないので,奥の院として霊場に加えた。(わかり次第追加してまいります。)

私の住む村にある霊場・観世音堂「建花寺址」には、いまなお春秋2回善男善女が霊場において御詠歌をあげ,「南無大師遍照金剛」と唱えながら、うららかな田園を通り参拝をしている方がおられます。

また、私の住んでいる処の観世音堂(建花寺址)に隣接するお家では、お接待といってお茶や菓子などを巡拝される方に提供していますが、現在では知る人が少なくなりだんだんすたれている。

巡  礼
 
元来、西国「三十三箇所信仰や、四国八十八箇所信仰は幕末から明治時代になると筑豊にも普及し、大正時代にかけて帆柱四国、中間四国、六ッ岳四国、小竹四国、鎮西四国などと、筑豊の各地域はくまなくそれらの四国に分割編成された。

鎮西四国八十八箇所(開創 大正二年九月中旬)

(この内、旧・鎮西村に関するものだけをまとめてみました。・・昔の地域活性化の動きでもあったと思います。)

明星寺

地区名 札所  本尊    寺号      所在地

明星寺(3カ所)
    十一  薬師如来  阿波国藤井寺  南谷
二十一 虚空蔵菩薩 阿波国大龍寺  明星寺
二十四 虚空蔵菩薩 土佐国東寺   明星寺

● 貴船社・・横谷(拾)

● 龍王祠・・旱魃の際、雨乞いをした。雨乞いの方法には「お籠り」・「雨乞い」・「貰い水」・「神を怒らす」・「千駄焚き」などがある。

● 虚空蔵堂(明星寺址)
明星寺北屋敷にある。明星寺跡、虚空蔵堂は昔は方9問で瓦葺の堂であったという。
今は横4間,縦3問の堂である。田字に虚空蔵田と言って祭田の名が残っている。
地蔵堂は昔は方4間今は方1間半。薬師堂は今は横2問縦3間の堂、また薬師田といって祭田の名が残っている。
本尊は虚空蔵菩薩て祭日は4月13日、7月13日である。
しかし夏はほといなかった。
毎月13日の(農繁期を除く)御日には参拝にくる人たちの湯茶の接待を明星寺のんどお祭りをして婦人会が受け持っている。
土地の人はこの仏をお産の仏としてあがめ、明星ガ池の水を産前にいただくと安産すると語り伝えている。

潤野

地区名 札所  本尊      寺号      所在地

潤野3カ所
    ニ   阿弥陀如来   阿波国極楽寺  国広
    十九  地蔵菩薩    阿波国立江寺  大木戸
    八十五 観世音菩薩   讃岐国八栗寺  潤野
奥の院
    八十五 聖観世音菩薩  讃岐国八栗寺  潤野
    八十五 聖観世音菩薩  讃岐国八栗寺  潤野

● 西福寺・・昭和6年真宗木辺派、西福寺説教所建立、昭和四十年三月、真宗南本願寺本山となる。

● 観音堂・・雀堂ともいい、世尊妙意観音を祀る。
(観音堂)
一名雀堂ともいう、潤野上区にあって由緒は明らかでない。本尊は世尊妙意観音(豆観音)という。
本尊の御座裏に次の通り記されている。
修繕代寄進 昭和六年(1931)旧十二月廿九日吉日 児島隆三様方 西本清太、縁日は旧暦7月17日でこの日は合祠前は青年が上区農家よりマサメを一戸3合あて集めてたき参拝人の接待をし、千燈明をともして、相撲会を催した。
高田、二瀬、穂波の近郊からも力士、参拝人が集り非常ににぎやかであった。
今は千燈明は電燈に代わり子供相撲を行なっている。
川崎屯氏、川崎茂文氏談


● 牧神社・・牛馬安全と五穀豊穣を祈る。

● 今宮神社・・児島氏勧請し今宮大明神を祀る。

花瀬

地区名 札所  本尊      寺号     所在地

花瀬1ヵ所
    八十七 聖観世音菩薩  讃岐国長尾寺  久保
奥の院
    五十九 薬師如来    伊予国国分寺  花瀬久保

● 観音堂・・境内に「一宇一石塚」がある。これは高木神社跡発掘の際、一石に一字ずつの経文を写した石が出てきたので、この地に埋めこの碑を建てた。
(一宇一石塔)
直径さん~四センチの川原石を集め、その小石に経典を一字ずつ書写する。
例外的には、小石に数字ないし十数字を書いた場合もある。これらの小石をまとめ土中に埋め、地表には塚を築いたり、塔や碑を建てたりする。
この一宇一石塔は埋経の一種で、経典の保存よりも、供養の目的で建てられたものといえる。年代は明らかではないが、鎌倉時代末期から江戸時代のものが多い。

堂宇名 安置地     本尊      備考

観音堂 花瀬シドキ田  観世音菩薩   現存・木造瓦葺・祭事・新8月10日

● 供養堂・・もと大和宅裏にあったと言われる寺の仏像を移したもの。

(供養堂)
大和彦市屋敷内に方1間ぐらいの小宇がある、中央の仏体は面部の外は腐杤がな/はだしく旧体を留めていない。
口碑によれば、この仏像は裏の高地にあった寺の仏といわれる。その跡寺も数度の兵乱に荒れはてて、祭る僧もなく、大和氏の祖先が現位置に安置し供養を続けた。
曾祖父の代、破損がはなはだしいので飯塚宮の下の、竹林仏師に仏体を刻ませ取りかえたところ、毎夜夢をみるので不思議に思って旧仏体とあわせ祭ったら、安らかに眠れるようになったとのことである。
左の像が竹林仏師の刻んだもので右は前記寺院の石燈籠の最上都と思われる。
昔は縁日には子供だちがおおぜい集りお籠りをした。
この子供たぢに大和氏の祖先が赤飯をたいて馳走した。
仏の供養が楽しい、懐しい思い出となったことであろう。
今も年一回の祭事は続けているとのことである。
大和彦市氏,林光寅市氏談


大日寺

地区名 札所  本尊       寺号      所在地

大日寺4カ所
    四   大日如来     阿波国大日寺  大日寺
    四十四 十一面観世音菩薩 伊予国菅生寺  寺の谷
    六十九 聖観世音菩薩   讃岐国観音寺  寺の谷
    七十四 薬師如来     讃岐国早山寺  御手洗

● 大日如来堂・・『嘉穂郡誌』には「聖光上人明星寺を再興せし時、此の村より材木を取り、また末寺を建て大日寺と号す。
此れより大日寺村と改めしとぞ。
此巨樟天正年中焼失したが、其の株根より芽を生じ、今四圍許り。側に大日堂あり。
其の像は長ニ尺・大日寺の古仏なりと云う。」とある。

(大日寺如来堂)
大日寺下村にあり本尊・大日如来は高さ3尺5寸、縁日は3月27日と7月27日である。
この像は土地の人に大日寺さまとよばれて親しまれている。
古老たちは口を揃え幼時この堂で楽しく遊んだ思い出を話す。
組中で作った子供たちの境内の遊び道具も懐しい昔の夢を子に孫に再現させているのであろう。
御本尊は郡誌に「……その後聖光上人明星寺を再興せし時此村より材木を取り又末寺を建て大日寺と号す。
それより大日寺村と改めしとぞ、此巨 天正年中焼失せしが其株根より芽を生じ今四囲ばかり・……」とあって本尊はこのくすの木を切って刻んだものといわれている。
夏の縁日には、各家は馳走をつくってお籠りをし子供相撲を楽しむ。
他の地に嫁いだ者もこの日は子供をつれ帰り相撲に加え健やかな成長を祈る。
今もなおこの行事が盛大に行なわれているのは大日さま敬愛のあらわれであろう。

● 観音堂・・菩提寺址で、聖光上人(鎮西上人)得度の地という。

(観世音堂・寺の谷)・・大日寺八幡宮の両方200mぐらいにあり、老木数本、雑草に囲まれた小堂の中に古色蒼然たる小像がある。
境内には露座の小石仏がならび、昼なお暗いさびしいところである。
大日寺のとかよばれる寺名が伝わっているが、これらは同一のものが異なった名称でよばれたものか、異った寺であったものか、はっきりしない。
郡誌には「大日寺址、大日寺村上村寺の谷にあり、福寿山金剛禅寺と云ふ大寺にて寺領もありしと云ふ・…」とあり、この文から解釈すれば同一のもののようでもある。
同書に「菩提寺は大日寺上村の西北一町にあり、観音堂あり聖光上人得度の地と云ふ」と書かれている。
この所は寺の谷の位置にあたる。
口碑によれば寺の谷は墓地で、薬師様は明治のはじめ薬師前という地からうつしたものといわれる。
また大日寺の跡は寺の谷、または大日如来堂の地ともいわれる。
菩提寺の跡は赤間三郎の屋敷付近とだいたい意見が一致している。
この堂は千人詣りの札所で,お祭りは昔はで行なっていたが今は一部の信者でなされているようである。
梶原実五郎氏・梶原玄信氏


● 御手水神社・・イザナギノ命を祭る、神功皇后御手水の地という。

蓮台寺

地区名 札所  本尊       寺号      所在地

蓮台寺(5カ所)
    九   釈迦如来     阿波国法綸寺  瓦林
    二十六 薬師如来     土佐国西寺   巡出
    二十八 大日如来     土佐国大日寺  坂ノ下
    三十一 文殊菩薩     土佐国五台山寺 蓮台寺
    三十四 薬師如来     土佐国種間寺  蓮台寺

奥の院
    二十四 十一面観世音菩薩 土佐国種間寺  蓮台寺
    六十  大日如来     伊予国模峰寺  蓮台寺石坂
    六十五 十一面観世音菩薩 伊予国三角寺  蓮台寺坂ノ下
    六十六 千手観世音堂   伊予国雲辺寺  蓮台寺池尻
    七十  馬頭観世音菩薩  讃岐国本山寺  蓮台寺坂ノ下

● 釈迦堂・・池尻(拾)

● 観音堂・・池尻 此の地もし蓮台寺跡にあらぬか(拾)。境内に元禄元年(一六八八)の庚申塔がある。これは仏教関係の場所にあるものとしては珍しい例である。


堂宇名 安置地    本尊   備考

観音堂 蓮台寺池尻  〃    現存 現存蓮台寺址といわれている。

庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を三年十八回続けた記念に建立されることが多い。
塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。
庚申塔の石形や彫られる神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。 同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、猿田彦神は道祖神とも信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰とも結びつくこととなった。さらに仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。これは道祖神など他の路傍の石仏にはあまりみられない機能であり、庚申塔の特色とされている。
庚申塔は全国的な分布が確認されているが、地域によって建立数に差が見られる。特に旧相模国を中心とした地域では数多くの庚申塔が建立された。なお相模国には日本ではじめて三猿が彫られた庚申塔(茅ヶ崎市輪光寺、市重要文化財)や青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔などが残っている。

● 地蔵堂・・歯の痛む時、柳の枝で年齢の数だけ箸を作り、此れを供えて祈願すればすぐ治るといわれている。
(地蔵堂)
蓮台寺字中津谷、光妙寺納骨堂上の四本檜の下に木造瓦ぶき、方1間、高さ、1間ぐらいの堂がある。
中に高さ6寸ぐらいの古びた小さな仏像が祭ってある。
口碑によれば歯痛みの仏で歯の痛むときは柳の枝で年令の数だけ箸を作り、これを仏前に供えて治ゆを祈ればすぐなおるといわれ,昔は近隣からの詣でる者が多かった。
縁日には区民が千燈明をともし祭事を行なっている。
医術の幼稚で普及しない時代には、病気は人力のほかで病いに関係のある神仏が方々に祭られている。

● 弁天石造・・八木山との境にある。

● 光妙寺・・蓮台寺字本村にあって天照山という。本尊阿弥陀如来,本堂横4間,入4間,昔は法泉山と号したといわれ、真宗本派西本願寺末寺である。寺伝によると、開基慶円は肥後の国の剣工、同田貫の子孫で道狸と号したが、後に仏法に帰依し厚信の余り得度して慶円と改めた。
当地に来て法泉山蓮台寺の再興を志したが、浄土教に刺激されて京都にのぼった。
時に慶安2年(1649)7月11日、本願寺良如上人にえっして浄土真宗の宗義を修得し光妙寺の寺号をたまわり、本尊と蓮如上人の御影を下付され、かえって現在の地天照山麓に一字を
建立したということである。
たまたま昭和37年、境内に納骨堂建設の議が起こり墓地改葬のさい、慶円法師の火葬に付した骨壷が発見され、開基当時、300年前の面影をしのび恭しく納骨堂め階上に墓石とともに安置しねんごろに祭られた。
11世住職円了の代昭和37年(1962)中秋のことである。

堂宇名 安置地     本尊    備考

大師堂 蓮台寺川原林  弘法大師  現存・祭日・旧7月20日・相撲を催す

建花寺

地区名 札所  本尊      寺号      所在地

建花寺(5カ所)
    六   薬師如来    阿波国安楽寺  安養寺(本村)
    十   千手観世音菩薩 阿波国切幡寺  小切畑(古野)
    四十二 大日如来    伊予国仏木寺  建花寺
    四十三 千手観世音菩薩 伊予国明石寺  堂園(古野)
    四十六 薬師如来    伊予国浄瑠璃寺 建花寺
奥の院
    四十六 薬師如来    伊予国浄瑠璃寺 建花寺堂園
    五十六 地蔵菩薩    伊予国泰山寺  建花寺内浦

● 桂木神・・舞山という処にあり、桂木大樹有囲一丈五尺許、是を桂木神という、別に社なし此の木を神躰として祭る(拾)

● 観音堂・・堂園にあり、観音の立像四尺六寸五分・脇侍・四天王像長弐尺五寸あり、これこの建((マ)華(マ))寺の本尊也という。

(観世音堂・建花寺址)
建花寺堂園にある。郡誌によれば「建花寺堂園にあり、明星寺の末院なりと云う観音堂あり,本尊観世音菩薩立像高さ4尺6寸5分、行基の作と云う。
脇侍、四天王像長さ2尺5寸あり、古の本尊なり。
毎年6月17日村民等万燈を照して供養す。」とある。
この仏は,安産の守り神として信仰があつく,今もなお地区の婦人は毎月輸番で座を定めお供えをして安産を祈っている。
昔は縁日には・にわか、浪曲、桂木座、ノゾキなどの演芸や興業が催され遠近より多数お参りして非常ににぎわっていた。
新暦4月17日、8月17日の2回お籠りをし、8月9日は御通夜の習わしがあったが、これらの行事は時代の推移とともに衰え古老たちを歎かせている。
西国33カ所札所(観世音)
鎮西四国札所(弘法大師)


● 大日堂・・明星寺の末寺であったが本寺と同じに廃され現在鎮西四国四十二番霊場になっている。

(大日如来堂)
建花寺山神にあって、このところを蓮上寺という。
福岡県地理全誌に、「禅定寺址。建花寺村の西北五町にあり、明星寺末にして本寺と同時に廃すと云大日堂あり。」と書かれている。
地名蓮上寺とあるのは、後世禅定寺が蓮上寺とよばれて残ったものであろう。
本尊は大日如来で鎮西札所42番である。
二月最初の丑日の縁日にはアオキの小さなオーコ(にない棒)を作り、牛馬をつれて参りこれを仏前に供えて息災を祈った。
また家々では一升ますから盛りでる大餅を供えて馳走をし、五穀豊穣を祈願した。
4月には人間、牛馬ともに無事田植えが終るようにと、各戸から切り銭を集めてお籠りをしている。
関幾次郎氏談


● 五穀神・・四月十五日神主が田土及び御幣を神前に供え五穀豊穣を祈る。
この田土と御幣を区長宅に保管の後に各戸に分ける。八月七日早朝各戸は御幣を田に立て、土を入れて成長する稲をほめ豊穣を祈る。是を「田ほめ」という。

● 安養院(建花寺)
建花寺字荒巻にあり、報土山と号した。
本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本誓寺末寺である。
この寺はむかし。
現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって昔仏教が隆昌であつた ころの名残りといわれる。
安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀二年(七七一)行基菩薩、この地に錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。
その後・建久三年(一一九二)浄土宗第二相・鎮西国師、法相宗を浄土宗に改め安養院と改称された。
後天正九年(一五八一)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされ,焼失する。

● 六地蔵・・宮田に越す峠に山賊が出るので、黒田藩(福岡藩)の武士に頼んで首をはねてもらった。しかし、山賊どもの往生が悪く幽霊となって出るので、地蔵菩薩を六体刻んで供養した。子供の病気、特に百日咳に効き目があるとされている。

(六地蔵)
今からおよそ200年前建花寺より吉川(宮田町)に越す峠に山賊がでて旅人をなやました。
このことを建花寺民が黒田藩に届けでたので、早速武術達者な武士を差し向け捕えて首をはねた。
ところがこの山賊どもの往生が悪く幽霊となり迷いでるので地蔵菩薩を6件刻んで供養したといわれる。
これがどうまちがえられたか子供の病気、特に百日陵の地藏として効果があると伝えられ、全決祈願あため詣でる人が多くなった。
祈願成就の暁には「はったい粉」や「よだれかけ」を供えている。
村瀬幾雄氏談


● 石仏・・古野公民館の榎の下にあり、大友宗麟との戦いで死んだ笠置城の落人を祭ったとされている。

(石仏・いしぼとけ)
建花寺公民館前の,一本榎の根もとに石が1個置いて有る。この石を「いぼころり」というが,土地の人の話によれば、この石にいぼをすりつげると取れるという。
青柳貞信神官の神杜由緒記録調査には観世音堂と記きされている。
古老の話では豊後大交宗麟との戦いに、笠置の落人かこの地に来て死んだのを葬った跡と言われ道賂改修のため道すれすれとなって残っている。
8月16日には盆踊りを行ない今も供養を続けていて,「古野が3戸に減少するまでは踊りを続けよ。」と口碑が残っている。
小畑国勝氏談


八木山

地区名 札所  本尊       寺号     所在地

八木山(6カ所)
    八   千手観世音菩薩  阿波国熊谷寺 久保尾
    十四  弥勒菩薩     阿波国常楽寺 茶屋
    三十五 薬師如来     土佐国清滝寺 本村
    六十二 十一面観世音菩薩 伊予国一ノ宮 中村
    六十四 阿弥陀如来    伊予国神前時 重ヶ原
    六十五 十一面観世音菩薩 伊予国三角寺 鴻の巣

● 如水大明神・・慶長六年如水公石坂の道を開き給いし時、久しくとう村に逗留し給う、折りしも村民孫左エ門という者を隣ませられ、力役貢税を免じ給う、其の後かの農夫公の恩恵を感じ神に崇めて如水大明神と称し奉りて神祠を建てたりしが後頽廃せし故、今は老松宮の相殿に合せ祀れり、其子孫今に此の村にありて、彼夫役免除の尊翰を家に蔵む、文字朽損して定かならずとも茲に出しぬ。(以下略)

佛菩薩が仮に人身などの姿を現じて衆生を済度することを権現といい、此の権現は神号となるとともに明神という神号と並立した。明神は延喜式にある名神の社格から起こった名称であろう。
中世後期より神道が仏教より優位になって大明神号を権現号より上位とした。
秀吉は豊国大明神とされたが家康は僧天海を尊信したということで東照大権現という。

八木山

堂宇名  安置地 本尊   備考

地藏堂  八木山女郎原 地藏尊   現存・石祠
観世音堂 八木山字中村 観世音菩薩 現存・方1.5問・藁葺・木造仏体の背に土午元臓                  十五年の字がある。立中寺址
薬師堂  八木山鳥ケ坂 薬師如来
観世音堂 八木山久保尾 観世音菩薩 現存

旧・鎮西村には多くのお寺があったことが、上記の資料でよくわかると思う。
さらに、昔の人々は信仰が厚く、心の拠り所として崇拝していたことが良くわかるし、このようなことで村の団結が強くなって行ったのではと推測できる。
また、鎮西上人の残した足跡が今も村人には伝わり伝承されている事を強く感じている次第です。



旧・鎮西村(安養院・・建花寺本村)

2013年05月20日 17時11分36秒 | お寺と本尊
  


建花寺字荒巻にあり、報土山と号した。

本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本誓寺末寺である。

この寺はむかし。

現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって昔仏教が隆昌であつたころの名残りといわれる。

安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀二年(771)行基菩薩、この地に錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。

その後・建久三年(1192)浄土宗第二相・鎮西国師法相宗浄土宗に改め安養院と改称された。

後天正九年(1581)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされ、元禄二年(168九)現在の地に一小宇を再興したということである。

現本堂は前住職二十一世長崎宝誉の建立したるものである。

(鎮西村誌より抜粋)


弥陀如来・・空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。

大日如来・・密教において宇宙そのものと一体と考えられる汎神論的な如来(法身仏)の一尊。その光明が遍く照らすところから遍照、または大日という。

光仁天皇・・宝亀元年十月一日((770年) 天応元年四月三日(781年)

行基菩薩・・668年~749年81歳没となっており、行基の彫刻した阿弥陀仏を安置したのでは。


行基(ぎょうき)生没年 668~749 (天智7―天平21)



系譜・・父は高志氏。高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族で、即ち百済系渡来氏族。母は河内国大鳥郡の蜂田首の出。

略伝・・河内国大鳥郡(現堺市)に生まれ、15歳で出家、道昭を師とし(注)、法相宗に帰依する。24歳の年、受戒。初め法興寺に住し、のち薬師寺に移る。

やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけた。

37歳の時、山を出て民間布教を始めたという。

710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり私度僧になった。

717(霊亀3)年、朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。

この時の詔には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以外の物)を乞ひ、詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す」とある。

また僧尼が許可なく巫術(舞を以て神を降す)により病者の治療をすることも禁止している。
 
こうした弾圧にもかかわらず行基集団は拡大を続け、722(養老6)年には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていった。

723(養老7)年の三世一身法は自発的な開墾を奨励し、これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は急速に発展、その声望は各地に高まった。

行基の影響力を無視し得なくなった朝廷は、731(天平3)年、高齢の優婆塞・優婆夷の得度を許し、740(天平12)年頃までには行基を薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認める方針をとった。

同年の恭仁京遷都を境に、新京造営・大仏建立といった政府の事業に行基とその弟子の参加が見られるようになる。

聖武天皇は行基への傾倒を深め、紫香楽遷都直後の745(天平17)年正月には、異例の大僧正に任じている。

また平城還都後の747(天平19)年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに命じて新薬師寺を建立したという(東大寺要録など)。

749(天平21)年1月、聖武天皇に戒を授け、その翌月、菅原寺東南院に遷化し(82歳。続紀によれば80歳)、遺言により火葬に付された。

「和尚、霊異神験、類に触れて多し。時の人号(なづ)けて行基菩薩と曰ふ」(続紀没伝)。

(注) 行基は道昭から唯識・禅行を学びまた利他行を受け継いだとされる。

しかし当時の唯識学は新羅からの影響の濃い摂論宗系(無性有情の者には成仏の契機がないとする玄奘の新唯識学に対し、「一切衆生悉有仏性」の立場をとる)が有力であったとして、道昭との師弟関係を否定する説もある(吉田靖雄『行基と律令国家』)。


聖光房弁長(しょうこうぼうべんちょう)(1162応保2-1238暦仁1)



浄土宗の第2祖。鎮西流の祖。字は弁阿・聖光房という。九州西北部を中心に活躍したため、鎮西上人・筑紫上人・善導寺上人などとも尊称される。

応保2(1162)年、5月6日、筑前の国香月荘楠橋邑(現福岡県北九州市八幡西区香月町)に古川弾正左衛門則茂(入道順乗)の子として生を受け、生後まもなく母と別れ、
68年(仁安3)7歳で菩提寺妙法について出家。

75年(承安5)筑紫観世音寺で登壇受戒し、以後8年間、白岩寺の唯心・明星寺の常寂について天台の研鑚修学につとめた。

83年(寿永2)22歳のとき比叡山にのぼり、東塔南谷の観叡の室に入った。のち東塔東谷の証真(宝地房)に6年間師事して天台の奥義をきわめた。

90年(建久1)郷里の香月に帰り、翌年油山(福岡市の西南)の学頭に推挙され、また発心城主草野永平の帰依を受けるようになった。

93年(同4)異母兄弟に当たる三明房が死ぬとき気絶する様子を見て無常を感じ、ひそかに天台の法門を捨て、浄土の法門に心を引かれた。このころ明星寺三重塔(五重塔ともいう)の再建運動が起こり、弁長はその事業に専念して完成を見た。

ついで97年(同8)層塔に安置する本尊を注文するため上洛して仏師康慶に依頼した。本尊の完成する3箇月間在洛した弁長(32歳)は、当時専修念仏者として有名な法然上人を京都に訪ね、三重の念仏を聞いて得心し、弟子となった。

一旦本尊仏を抱いて帰郷した弁長は、開眼の法要をすませたのち再上洛し、1204年(元久1)までの前後8年間法然の膝下で師事、親しく面授付法を受け念仏の教えを正しく継承する人となった。自らも九州油山の学頭として名を馳せていた聖光は、「法然がいかにすばらしいとはいっても、どれほどのものであろうか」といった慢心があったようである。

しかし、いざ対面をして話を進めるうちに法然上人の知識の奥深さに舌をまくばかり。

感服した聖光は法然上人の許で修学することとなった。 その後、『選択集』を与えられ「この書を写し末代によく広めなさい」と、そしてさらに「私の思う所はすべてあなたに伝えた」との言葉を賜った。すると聖光は「私にとっての釈尊とは法然上人のことである」と、その感激の胸の内を表したという。

元久元(1204)年、故郷に帰った聖光は、法然上人が心の師と仰いだ中国浄土教の大成者善導大師をも慕い、九州の念仏道場の拠点として善導寺を建立している。

また筑後高良山(久留米市)のふもと厨寺(聖光院安養寺)で1000日の如法念仏を行った。途中で天台・真言僧の反対運動も起こったが無事満行し、一躍有名となった。

12年(建暦2)弁長は善導の逮夜と法然の77日逮夜に当る3月13日、彦山の般舟三昧道場で追恩のため別時念仏を行ない、善導来朝の霊夢を感じた。

14年(建保2)入河は京都より下って入室、のち弁長の右腕となって活躍する。

20年(承久2)檀越草野永平は山下郷の善導寺(前光明寺)を改築して大伽藍とし、ここが九州における念仏布教の基盤となる。筑後の地にあって自行化他につとめ、とくに宗祖滅後、聖道諸宗のはげしい非難攻撃と、宗祖門弟による背私自立の異議続出するなかにあって、選択本願・専修念仏の祖道を祖述し、顕彰することによって、浄土宗の正流の宗学を確立することになる。

こうして弁長の精力的な活躍が展開されてゆく28年(安貞2)10月25日、弁長は肥後往生院(熊本)で48日の別時念仏を行なった。この間『授手印』を撰述した。

これは伝宗第二重の巻物である。これは弁長が善導教学を背景として、法然から相伝した教えを、六重22件、55の法数に及ぶ宗義と行相のもとに結帰1行説をたてて、選択本願、念仏一行三昧に結帰することを示したもの。

以後浄土宗5重の中心として相伝の奥義とされてゆく。

弁長の行動範囲は、筑前・筑後・肥後に及ぶ。しかも、その教化はつねに念仏道場の建立を伴なっている。 伝説では48寺を建立したといわれるが、筑前の善導寺・吉祥寺・光明寺・本誓寺・極楽寺、筑後の善導寺・陽善寺・安養寺・天福寺・地福寺・光明寺・無量寿右常念寺、肥後の往生右五福寺・三宝右西光院など、ゆかりの現存寺院は多い。

門下も入阿をはじめ聖満・宗円・円阿・唯称・生仏・行仙・持願など多くを数えるが、中でも宗円は、33年(天福1)弁長の命によって入宋し、廬山などで善導作の『弥陀義』を探したが、ついに求めることができなかった。

このように寂するまで弁長は善導を慕い、浄土教の研鑚に励んでいる。

だからこそ法然に帰依する心が深まり、『念仏名義集』『浄土宗名目問答』『念仏三心要集』『浄土宗要集』『徹選択集』『識知浄土論』『臨終用心鈔』など、多数の著述を残す結果となった。 なかでも、『徹選択集』は聖道諸宗からの非難攻撃を意識して、聖浄兼学の必要を強調し、通別念仏という独自な考えを打ちたてて「別より通に徹せしむ」ことをあきらかにして称名念仏と諸行との関係を解明する外、二十二種選択義・浄土菩提心などの説をかまえて祖師の教議の顕彰に当たった。

36年(嘉禎2)9月8日、良忠は九州に下って上妻天福寺で弁長に対面し弟子となった。

良忠はここで『浄土宗要駿(西宗要)の講義を受けて筆受し、翌年善導寺で『徹選択集』の授与を受け、璽書を与えられた。 8月3日、良忠は『領解末代念仏授手印鈔』を作って弁長の印可を受け、後継者(の1人)となった。門弟のなかから付法に最適な良忠を選び、これにすべてを伝授し、正流の隠没を防ぎ、以後の発展を期した功績に対して、末徒等しくその高恩を感謝しなければならない。この後良忠は故郷の石見に帰って布教するが、弁長は翌38年(暦仁1)77歳で入寂した。

こうして法然上人から伝えられた念仏の教えを、さらに後世に正しく伝えるために、多くの弟子を導いた。

そして後の浄土宗第三祖となる良忠を後継者として、そのすべてを伝えた嘉禎4(1238)年1月29日、お念仏のうちに往生をむかえた。享年77歳のことだった。

法然滅後、門下は他流他派に分かれたため、弁長在世中における浄土宗二代の位置は不安定なものであったが、良忠とその門下が活躍するにつれて、弁長の二代の位置は確立された。弁長は芸術的素質を持った人で、自作の仏像や自像を残している。

郷里香月の誕生山聖光院吉祥寺本尊は腹帯阿弥陀如来と呼ばれ、安産守護のみ仏として今も信仰が篤い。また『授手印』を詠歌のようによんで念仏をするなど、善導寺楽との関係も深い。1827年(文政10)大紹正宗国師の号を賜った。
(閏二・二九寂)


浄土宗第二祖として、浄土宗の流れを伝えた聖光、主に九州の地で布教・教化にあたったことから鎮西上人とも呼ばれている。
(浄土宗大辞典・浄土宗新聞平成12年11・12月号記載より)


昔は、境内で奉納相撲もあっていたみたいです。

奉納相撲なので、娯楽とはいえないが、娯楽の少なかった昔としては、けっこう娯楽的な行事としての要素をもっていた。

建花寺 八月十五日 安養院の境内で行なうが、これについては次のような話が伝っている。

昔、庄屋の下女が疲れのためつい居眠りをしているところを人にみられて笑われたので、これを恥じて池に身を投げて死んでしまった。

しかし成仏ができず幽霊となって迷いでたので、これを可哀そうに思った村人がその霊を慰めるために安養院に祭り、相撲をするようになったということである。

最近は神社の境内で奉納相撲を遣っていたのですが、子供が少なくなり・・今は、遣っていません。

老人たちはさびしそうです、昔からの行事が継承できないということは、さびしい限りです。

旧・鎮西村(石仏(いしぼとけ)・桂郷神社・桂の木)

2013年04月25日 11時05分15秒 | お寺と本尊


建花寺公民館前の,一本榎の根もとに石が1個置いて有る。
この石を「いぼころり」というが,土地の人の話によれば、この石にいぼをすりつげると取れるという。
青柳貞信神官の神杜由緒記録調査には観世音堂と記きされている。
古老の話では豊後大交宗麟との戦いに、笠置の落人かこの地に来て死んだのを葬った跡と言われ道賂改修のため道すれすれとなって残っている。
8月16日には盆踊りを行ない今も供養を続けていて,「古野が3戸に減少するまでは踊りを続けよ。」と口碑が残っている。





下記の記事は鎮西村が飯塚市・二瀬・幸袋が合併したときに編纂された
“鎮西村誌”より抜粋して記載しております。

御夢想御伝記(原文のまま)

原夫日本は神国にして道は則ち神道なり 故に天祖国常立尊を始として天神七代地神五代の神々耳統御し給ひ人皇ハ神武天皇に始まり既に九拾六代の今に至る迄天照大神の皇御孫天行をしろし召して神より伝ふる三種の神宝を御身の護とならせ給ひ皇統万々歳天壌と共に窮りなきは蓋し是神国なる此故に日本は万国に勝りて貴き事を記すべし如笹日本は神国なれぱ神の教を神と云へる神道は却ち人道なれぱ朝暮身には離れさる道なり抑舞山桂木の由来は人皇九十六代光巌院の御宇将軍守邦親王正慶二年癸酉二月廿八日夜年頃廿三四計り女神轟髪冠装東着し枕頭に忽然と現れ是甚三左衛門汝が宅より申の方位に当る木山の谷奥ヘ三枝に生る夏木あり此木世に類なき末世には必ず秋津島の名木となる而して此木の元より出る泉を用ゆれば人盛長寿牛馬安穏五穀豊熟せむ克民に伝へ給へ吾案内にして教へくれんと宣ぺり依りて案内に従ひ登りけるに大深谷口に着ければ左右より少し流れ出づる水音鈴鳴の如くきこへしに此処より凡二丁余も登りけるに二筋に流れ出づるを桂川の内浦と宣ふ左桂の内川伝へ登りけれぱ谷迫となり誠に三枝に生る夏木ありる末世名を発せむものをと凝ひあるべからずと宣ひて消へ失せ給ふにぞ否や夢覚けり扱て不思議なる正敷夢中とは思へ共神の御告なりと其儘捨て置かれじと翌日與平兵次郎を招き夢中の次第を語り含けるに両氏誠に氏神の御告ならんと深く感じ直に申合わせ三人連れにて夢想の如く彼の山へ登りければあんの如く大谷口左の谷より流れ出づる水音鈴のなる如く聞えけるにぞ此処より凡二丁余登るに左右に流れ出づる川佳の内浦と教へある 左桂の内川り行く谷の迫りと成る処を見れば正敷三枝に生る夏木あり 誠に氏神の夢想にして御告なるやと拝し奉り有難再三拝し奉りて席宅いたし郷中の人々呼寄せ委細夢想神のまにまに物語りし其上申し合せ 翌三月三日上巳遊日なる故皆々引連れ桂木の元に参りける誠に神の御告ならんと皆々肝心仕りける 其後字を舞山桂木桂川の桂郷名発いたし月、又氏神に桂郷妙見宮と御尊号拝し奉りける誠に御夢想の有難ぎ感ずるに余りあり仰ぐべし尊むべし之に依りて氏神の報恩謝徳の瑞として敬而此一巻を末世に伝へ残す者也
坂垣四郎高房末孫.
正慶二年癸酉三月上旬
甚三左衛門
興平
兵次郎


舞山桂木の由来(原文のまま)

抑舞山と云ふ険山の深谷に桂木といふ名木あり 其辺一神埋りて二度御世に出でさせ給ふ事なしと言ひ伝ふ共由来を尋ぬるに人皇七十九代六条院の御宇安元年間一老人あり 薪を取らんとてかの険山深谷をつたひて登りけるに頂は陽春桜花真盛り時にかかわらず 四方静かにして物すごく只ましらの声と諸鳥の口帝くのみなり 忽ち不思議の音して出づるものあり老人は猪鹿の類ならんと思ひしに遂に見馴れざる尊き老人身に白衣をつけ白馬に跨り老人に告げて日く我こそは此険山の霊神なり諸人我を祭らば五穀豊醸 諸病除去子孫繁栄凝ひなし
此深奥に当りて一つの奇木あり桂木と言う是我身体なり如何なる事あるとも此神木の枝葉を切る事勿れ 神木の根元より出づる清水を浴するものは難産の忠なしゆめゆめ疑う事勿れと云ひも終らずかき消す如く忽然として失せ給ふ 老人は不思議の思ひをして我家にかへり諸人に語りしかば人々数人打連れて再ひ深山に登りて尋ね見しに果して不思議の神木ありけれぱ諸人奇異の思ひをなし 春秋二度祭典を行うに至れり之れを伝へききたる近郷の人いづれも神木を拝見せんとて 日々の参詣人数千人深谷忽ちにして市をなすに至れり遂にをごそかなる神殿まで建立ありしが其後一百余年一夜大風雨ありて神殿を破り 且つ浪人さへ隠れ住むとの噂立ちければ諸人恐れて参詣するものなきに至れり
其後鎮西国師(聖光上人)竜王山麓に明星寺開山のとき此霊地の煙減せんことを恐れ山下に一寺を建立して建花寺と云ふついに寺号を以って村名となせり 舞山は元馬出づる山と書きしが後語音誤りて舞山と云ふに至れり是れ白衣の老人馬にのりて出でられしを以てなり舞山の南方に当りて鈴川と云ふ処あり是れ白衣の老人出でられたるとき
鈴の音きこへしを以て名づけたるものなり桂木は元来月中の神木なるを以て太陽此樹の頂上に来るときは暫時休息せらるると云ひ伝ふ依って舞山の南方の谷を名づけてひよこひ谷と云ふ 今は誤りてひよこ谷と云ふ桂木の有る谷を桂谷と云ひ其流水を桂川と云ひ其流域を桂の郷と云ひ其氏神を桂郷神杜と称し其他酒名屋号等に桂の名を用ふること多し 只示茲に一の奇なるは古より建花寺に生れたる婦人にして難産にかかりしもの一人もなしと云ふ 古昔は桂木の落葉を肌につけて安産の守りにせしと云ふ今に至るも村人の桂木を尊敬するの念少しも変らず堂字を建立して七五三縄を張り一枝一葉といへとも切ることを敢へてするものなく 春秋の祭典をなして夏分は毎日村人交代にて参詣して潮井を取りて村内戸毎に配分するを例とす 舞山は土地非常に肥沃にて樹木繁茂し幾度か切払われしにもかかわらず桂木丈けは切残されて 今日に至るを見れば如何に此木の村人に尊敬せらるるを推知すべし 桂木は他木に見るべからざる一種の生育力を有する奇木なり地上一二尺の所より数多の新芽を発生し 此新芽生長するに随ひて漸次に母木に吸引せられて遂に母木にまき込まるるに至る 独り自分の新芽を引込むのみならず 近傍に有るものは異種の木と云へども往々引込むことあり 現今も周囲二尺位の楓の引込まれて地上十余間の処に接木の如ぎ観をなせり一旦引込まれたろ木は 桂木の成長するに随ひて漸次に同化して上方に釣り上るに至るものなり 殊に樹木を引込むのみにあらず往々岩石をも引込むことあり三四十年前頃神体として桂木の根元に祭りし二ケの大石をも何時ともなく引込まれて今は地上数尺の所に釣上げられて奇観を呈す                       
天保十三年寅六月初句写之

桂の木に纏わるお話です・・・・

それでは桂の木をご紹介いたします。







機会があったら一度見物に行ったらよいと思います。