田 中 忠 雄
この日頃、私は今は亡き禅匠・沢木興道大和尚のお話を思い出して繰り返すことがある。
それは ――
『小住為佳』 (しょうじゅういか)
というただ一語だ。
敗戦により大量生産されたノイローゼ患者に告ぐ。 人生をマラソンだと思いこんで、あいつに敗けてたまるかと走る。 ただもう走れるだけ走る。 一皮むけば、そんな他愛もない思想水準に君らは低迷しているのか。
思っても見給え、そんなに走って、どこへ行くつもりか。 凡夫の行き着く所、そこは必ず墓場である。 墓場に行くのに、そんなに急いで喘ぎながら走りつづけるとは何のことじゃ。
「小」はすこし、「住」はとどまる、「為佳」は佳(か)と為(な)す。
少々とどまって休息する、佳(よろ)しいある。
これは大戦前に中国の祖師たちの遺跡を巡拝したときに、山の路傍にあった茶店の看板に書いてあった文字だった。 小々とどまる、よろしいある。
なるほど、これが宗教の核心を成す言葉だと思った。 客を茶店に入れる言葉。 ちょいと立ちとどまり、一服するよろしいある。 これがそのまま一転して真の宗教の核心になる。
山の茶店に腰を落ちつけ、出されたお茶を一ぱい飲んで、あたりの山々、白い雲の静かな‘たたずまい’、さ渡る風に喜び揺れる木々の緑。 ‘やみくも’に喘ぎ走ったときは一度も見たことのない素晴しい風景である。
実相が見えるとは、このことである。
周囲が皆敵で争いの場と思っていたこの娑婆世界が実は実相世界の荘厳だったのである。 歯を食いしばって生きてきた人の半生の何と‘あわれ’なことよ。
トラブルを解決する最短距離の運河化は、娑婆世界のトラブルを前提とした凡夫の工夫であった。 それに気がつくこと、これを古人は 「廻向返照の退歩」 ともいった。 ひらたくいえば、小々住(とどま)って一服する、よろしいあるということではあるまいか。
『生長の家』 昭和62年9月号
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