平治の乱に敗れた
源義朝(みなもとのよしとも)が、再起を図るために東国に向かう途中、
愛知県知多半島 知多南部 南知多町内海に、家臣とともに 上陸しました。
義朝の乳母子でもあり、家臣 鎌田正清(正家、政清とも)も付き従っていました。
鎌田正清の舅でもある 長田忠致を訪ねるべく、
内海より、長田 邸のある野間に向かう道中の事です。
今の美浜町野間東部にあたる 内扇(うとげ)地区にある
百合草光義の家に辿り着いた時、
正月に飾る餅の 餅つきをしている真っ最中でした。
義朝は、疲労と空腹に耐えきれず、
セイロで蒸したばかりで、まだ杵でついてない 餅米(強米)を見るや、
手づかみで口へ運び、人目も気にせずほおばたそうです。
※内海 岡部区~野間 内扇地区は、距離こそ4~5キロほどですが、当時は山も険しく 移動には 難儀したようです。
それ以後、この野間 内扇地区では
正月には、餅米を蒸したものと黒豆の煮付けを、
手づかみで食べる習慣が続いたそうであります。
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