本日お休み。
がっ!どんよりとしたお天気だというのに、わたしは必死になってる。
HDDを空けるという使命を全うしなければっ!
なんだか楽しいことが続いていて幸せすぎるなぁ。
渋谷で巨大ポスターの写真撮ったり、CMを録画するために色んな番組録画したり
で、明日の松本君TBS生出演ラッシュ。
ただでさえCMのためにHDDの残量との戦いだったのに、明日のためにものすごく頑張らないといけない。
でもね、これはとても幸せな雑用だからな、がんばろ。
今日は友人との約束もキャンセル。
とにかく溜まってる編集をしてしまわないと気が気じゃないからな。
あぁ、明日が楽しみだー!
松本君はやっぱり黒髪がいい。
黒髪のオールバックであんなにキレイな男子ってありえない。
より上品な男前ぶりにどきどき。
明日はどんな髪型かな。
さっきまでM子とLINEでやりとりしてたんだけど、はかどらないから放置。
だって、今日はアリーナの申し込みもしてしまわないといけないしな。
休日が松本君ごとで忙しいなんて、なんてステキ。
幸せだぁ。
さ、あともう少しだから頑張って終わらせてしまおう。
昨日は結局仕事だった。
今日は楽しいことだけ書こうと思ったのに、番長の逮捕に激しく落ち込む。
悲しいなぁ。哀しい。
あんまり切なくて、今日はお日様にあたって過ごしてる。
猫と花と土に慰められながら、デッキで遊んでる。
新しい花を植えて、本を読んで、猫と遊ぼう。
大人になると、見たくないものが増える。
感じたくない、察したくない、気づきたくないこと。
若いころにはサクッと批判したり、鼻で笑っていられたことが、今はもうできないんだ。
年を取るって、痛みや喪失の共感の接点が増えていくからなんだろうな。
誰かの、一番輝いていた姿はずっと目に、記憶に焼き付いていて、その残像が鮮明なら鮮明なほど、
その光が創り出した影は濃く深いことが、痛みを伴って想像できるから。
ただ、わたしは番長のファンとして思う。
捕まっちゃって良かったよって。
まだやり直せる。
心から祈ってます。
もう一度、生きる目的と幸せを取り戻してほしい。
東京ドームの巨人戦。
清原の名前がアナウンスされると、その瞬間に歓声でドームが地鳴りのように揺れるのが楽しみだった。
わたしはその歓声の大きさに鳥肌を立てながら、メガホンを振り上げて応援してたんだ。
もうね、TV見ていて泣いちゃったよ。
ほんと番長バカなんだから!
やばい!しやがれあぶ刑事の松本君がすてきすぎた。
ああいうの@即興芝居をすると、二宮君と松本君は即座に組み立てを考えてることがよく解る。
お笑いじゃないけれど、セリフのフリとオチが成立していて、見ていてすごく楽しかった。
全く違うアプローチ、それぞれの個性がすごく出てるんだ。
二宮君は策士らしく、松本君は自分のスタイル。
すてき。
この数年で一番すてきだった。
きっと、生き生きと演じている松本君を見ていたいんだろうな。
あ!あと二宮君、日本アカデミー賞主演男優賞おめでとうございます!ぱちぱち!
すごいね、やったね!
続けてきた努力が実を結んだこと、心よりお祝い申し上げます。
きっと松本君も、すごく誇らしく思ってるだろうな。
龍平君が『船を編む』で獲った時、同級生集めてパーティーしたくらいだからね。
すごく喜んでるだろうな。
で、すごく悔しがってるだろうな。
身近に刺激を与えてくれる仲間がいることは、すっごく恵まれた素敵なことだと思う。
二宮君、すごく忙しくて大変だっただろうから、ほんと良かった!
あっと言う間に2月になってた。
お正月休みはCちゃんと温泉に行って、翌日から旦那さんとバリへお父さんに会いに行ってきた。
お酒飲んで、寝て、ご飯食べて、移動して、ビール飲んで、寝て、ご飯食べて、終わった。
幸せな時間、ありがとう。
何だか、新年早々世の中は騒がしい。
世界はとても物騒に騒がしく、日本はとても平和に騒がしい。
日本が世界から切り離されているのなら、平和でボケられるは幸せなことだけれど、現実に日本は世界の中にいる。
なんだかなぁ。
たかが50万×2が何だっていうんだろう。
クソだな。
芸能人の不倫が何だっていうんだろう。
当事者以外にはどーでもいいことでしょ。
TV局に向かって不愉快だと叫び、人に制裁を加えることに迷いが無い人達。
そういう短絡的な傲慢が、わたしはすごく嫌いなんだ。
去年読んだ本(『十七八より』乗代雄介著)の中に、理不尽な罪を着せられた世阿弥の心中を考察する長い件があって、他人と分かり合えない根本、他人との差異が生まれる過程についての面白い表現があった。
人間は心を隠す術を持っている。
ではその術を持って尚、どうして他者との差異が生まれるのかという疑問。
それは、人は自分で選択し今の自分を創り上げたという認識が勘違いなのだと。
人の心の中には物見の塔があって、それは自分の望む形に作っている。
人はそこから人を見ている、つまり自分も人に見られることを自覚して自分の塔を創るという。
ひっきりなしに修繕や増築を繰り返し、飾りつけ尤もらしい塔を作り続ける。
そしてその塔の足元には膨大な瓦礫が存在する。
踏みにじり、軽視し、歯牙にもかけなかったもの。
隠し通そうとそっと取り外したもの、いつかつけようとしていたのに、すっかり忘れてしまったもの。等々。
これらの塔の足元にうずたかく積まれた瓦礫が実は人間の差異を作っている。
大雑把で申し訳ないけれど、こんな内容だった。
自覚があろうが無かろうが、人間は自分の基準にそって無数の取捨選択をする。
けれど、手に隠し持っているのに、そんなものの存在は知らないと嘘をつくことができる。
逆に、とっくに捨ててしまったものを、自分の宝物です!と、嘘をつくこともできる。
確かに、人に見せたい自分と本当の自分には乖離があり、もっと暗い気持ちにさせるのは、
そうでありたいと望む自分と、そうではないと知っている自分との乖離だ。
わたしは若い時には背伸びも派手な飾りつけも絶対に必要だと思っている。
そこから、経験を重ねて、自分を受け入れる術を学び、自分と向き合えるようになり、
ボロボロと落としてきたものも、また拾い集められるようになれるんじゃないかと。
そうやって後悔や反省や自己嫌悪を経て、自分の意志で理想に少し近づくのだと思っていた。
でも、この本を読んで少し考えさせられた。
いつのまにかわたしから取れてしまったパーツ。
握りしめていたはずなのに、手から滑り落ちてしまった欠片。
つまり、無自覚にわたしが捨ててしまったものについて。
そして、気付いたことがある。
物見の塔は心の中にあるということだ。
見せたい自分を創るための、内面のパーツ達だとすれば、
外見のみを飾るためには物見の塔は必要ないのだ。
つまりは、そこに思索はなく、葛藤もない。
他者と区別するべく自分自身を持たないとは、一体どんなものなのかよく解らないけれど、
理からすると、自身は何も身に着けず、他者にそれを求めるんだろうなぁと。
あらすじは感想文じゃないように、ネットにある文字列は、自分自身の言葉じゃない。
白か黒か善か悪かという問に、即答できることはこの世界には二つしかない。
白黒や善悪のみ答えるならばそこには思索は必要なく、自分の感情を語るだけならそこに知性は必要ない。
思考停止以上の悪があるなら、それが何か教えて欲しい。
何かについて話をしていて、え?そこ?っていう噛み合わなさを感じることは多いけれど、
笑って済ませられることと、本当は笑って済ませちゃいけないことがあるはずなんだ。
大切なことほど笑ってすませて、どうでもいいことに厳しすぎる人を見ると、
あぁ、この人嫌いだなぁと思う。で、なるべく近寄らないようにするんだ。
明日は休み。
明日はもっと楽しいことを書こう。