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たのれきブログ

歴史を楽しく・・・。過去の知恵は未来のヒント

しくじり天皇(平城天皇)

2023-03-14 20:34:59 | 歴史

第51代平城(へいぜい)天皇、弟の嵯峨天皇に譲位して平城上皇。

父は桓武天皇(50代)

皇太子時代は安殿(あて)親王と称した。

皇太子時代に臣下の藤原縄主(ただぬし)に「あんたの娘さんを后にしたい」と申し入れた。縄主は娘が皇太子妃になることを期待し喜び、吉日を選んで娘を東宮御所へ送った。長女はまだ幼く、世間知らずで宮中のしきたりにも慣れていないので一人では心細かろうと、輿入れには縄主がすすめて、嫁さんの藤原薬子(くすこ)を同行させた。薬子は縄主のいとこ、いとこ婚でありました。で、この時には子供五人もうけていた。

ところが、この薬子さん、妙に色っぽかったのでしょうな。もともと病弱であった安殿親王は何でも聞いてくれる薬子さんにイカれてしまったのであります。ま、五人の子のお母ちゃん。またそこそこの熟女で、年下のおぼっちゃまを手なずけるのは簡単であっただろうと。

また、病弱の安殿親王は薬子の必要以上に手厚い看護に、親王はやられてしまった。

「薬子、寝られへん。寒い。温めて」
「こう?」
「違う! 布団の中に入って!」
「こう?」
「まだ寒い。じかに温めるんや」

「も~っ、殿下ったら。分かりましたよ。おじゃましま~す」
「このまま朝までね」
「でも、そろそろ帰らないとダンナに怒られますので……」
「いやや」
「もぅ~。じゃあ、今晩だけよ」

てなことで、妙なことなってきた。

いや、薬子もまんざらではなかった。とってもとっても楽しんでいた。彼女としても、出世が知れている飲んだくれ中年ダンナといるよりは、病弱で駄々っ子ではあるが、将来間違いなく帝になるかわいい年下の若モンといるほうがいいに決まっていた。この時から藤原薬子の心に中にある権勢欲が目覚めた。

この手の話は桓武天皇にバレそうなものではあるけれど、バレなかった。というのは薬子はなかなかの剛の人で、皇太子の御所、すなわち東宮御所のお役人に対して、身体をもって口封じをしたのね。すなわち、関係を結んで、「もし私と皇太子殿下とのことしゃべったら、あんたと私とのことバラすよっ」とハニートラップで噂が広がるのを封じた。

が、しかしやがて「安殿太子は臥所の両脇に母(薬子)と娘をはべらせ、夜ごと三つどもえの痴戯にふけっておられるそうだ」と噂に尾ひれがつき、恥ずかしくて薬子のダンナの縄主は出仕できず自邸に引きこもってしまった。

桓武天皇は縄主が出仕して来ないのを心配し、事情を聞いた。当然、縄主は事の真相を桓武天皇に話したのであろう。桓武天皇は安殿親王の住む東宮御所に怒鳴り込み、親王に薬子と関係を絶つように言い、薬子には夫のもとに帰るよう厳命した。

桓武天皇も偉そうに息子に説教をしたが、自身も親王時代に、嫁さんのお母さんと関係を持ったり、天皇になってからも臣下の奥さんを強奪して、自分の側室にしているのね。薬子は桓武天皇のその行状を指摘して、桓武天皇に抵抗した、という説もあるぐらい、薬子さんは強者であったらしい。

そこで、桓武天皇は強引に帯刀舎人(たちはきとねり/たてわきとねり、皇太子の護衛)に命じて、安殿親王が席を外しているうちに薬子をさらって強引に引き離したのである。

と、同時に薬子のダンナの縄主を東宮大夫に任じ、皇太子安殿親王のいる東宮御所を含めて、安殿親王の監視役につけたのである。と、同時に薬子が身体でもって篭絡した東宮のお役人の藤原葛野麻呂(かどのまろ)を遣唐大使に任じ唐に渡らせたのである。遣唐大使は一国の代表で名誉ある大事なお役目であるけれど、何せ当時のことであるから、命がけである。生きて日本に帰って来られるかどうか・・・。体の良い左遷であったかも。

桓武天皇が崩御するまで、安殿親王と薬子は別れていたかと言えばそういうわけでもなく、安殿親王は別邸に薬子を住まわせ、ちょくちょく通っていたらしい。

やがて、桓武天皇崩御。安殿親王は天皇なった。平城(へいぜい)天皇。

早速、平城天皇は薬子を内侍所、すなわち女官のトップ、従三位尚侍(ないしのかみ)に任命し、憚ることなく関係が復活。内侍所は天皇、皇后の身の回りのお世話をする役所ではあるけれど、内侍所には天皇のお妾さんがいることが多いのね。そのお役所の長官、尚侍(ないしのかみ)は従三位という位を授けられる。

従三位の尚侍は内侍宣という天皇から太政官への命令書を発行できる権力者でもある。下手をすれば、この内侍宣で太政官を動かせるのである。そこで、薬子は兄貴の藤原仲成(なかなり)を参議に取り立てる。そして兄妹で権力をふるうことになり、えこ贔屓の人事を行い、政治を思うがままにし、この兄妹に恨みを持つ人も多かった。

おまけに薬子のダンナ藤原縄主を太宰大弐(だざいのだいに)というお役目に任命し、都から遠く、九州筑紫の大宰府に飛ばすんですな。

ところが、もともと病弱であった平城天皇は病になり、譲位することにした。天皇の寵愛を受けてやりたい放題の仲成、薬子の兄妹とっては寝耳に水の話で、反対するけれど既に遅し、譲位は強行され、平城天皇は上皇となり、弟の神野親王が嵯峨天皇となった。

これは、もともとは平城天皇の叔父さんの早良親王が桓武天皇の皇太子であったが、無実の謀反の罪を着せられ、早良親王は抗議の意を込めて食を絶って絶命した。その結果、皇太子の座が平城天皇に転がってきた。が、平城天皇は自身の病弱は早良親王の祟りであると考え、譲位を決行した。

嵯峨天皇は兄貴の平城上皇に気を遣い、上皇の息子の高岳(たかおか)親王を皇太子にした。

そして、上皇は昔の都、平城京で療養した。する平城上皇はたちまち平癒し元気になったのね。薬子の看護の賜物であった。薬子の母方のご先祖さまは渡来系で漢方の医や薬の心得があったらしく、薬子もその血を受け継ぎ、医薬に詳しいかったことから、名前に「薬」の名をつけた、という説がある。また、平城京に移ったことで、早良親王の祟りも祓われ病気が治ったと平城上皇は考えて、再び天皇に復帰しようという心が起きはじめた。要するに政務に復帰しようとしたわけである。

私自身は平城上皇はホンマに隠居したかったんやないかと、思うのであります。でも・・・・

「陛下ぁ~、どうして譲位されたんですか。あれほど私たちが反対したのにぃ」

「天皇っちゅうもんは、なかなか大変なもんや、というものそなたがよく知っているであろう。毎日賢所に参殿してお参りせんとあかんのや。結構面倒なんや。病気がちな朕にはしんどいのよ。」

「そんなのいやよっ。身体もなおったんやから、復帰してっ。」

「わっ、わっ、わかったよ。では、こうしよう。譲位したと言っても祭事はむこうにやってもろて、こっちは政務をやる、ということで、どうや、なっ」

「そんで、こっちは平城京にいて世間の目もなかなか行き届かん。だから、そなたともいろいろ楽しめるんやないか」

てな具合で、薬子の願いに応えていたんやなかろうか。

もっとも、平城上皇にとっても嵯峨天皇のやることが気に入らないことがあった。上皇は在位中、観察使という地方の不正を正す官職を設けて参議の官職を廃止した。が、嵯峨天皇の世になり、嵯峨天皇はあっさりと参議の職を復活させたのでる。その上多くは参議と観察使の兼任としたのである。平城上皇は激怒し、参議は参議、観察使は観察使の仕事がある。参議は太政官の役職、観察使は地方監察、同時にできるわけがないやないか、ならさっさと観察使を廃止したらええやないか、と。

薬子、仲成の兄妹コンビは平城上皇の天皇復帰、復権は望むところであるので、嵯峨天皇の譲位を含めて権力奪取を目論んで、前述のように平城京から嵯峨天皇の政策批判、改善要求など、いろいろと指示が出るようになった。

この時期は後年の院政のような上皇に仕える院の近臣という制度というかお役目はなかったので、平城上皇からお呼びがかかれば、京都(平安京)から奈良(平城京)まで行かないといけない。ということで、廷臣は京都と奈良の間を行き来しないといけない、面倒なことになったのであります。いわゆる二所朝廷と言われる状態になった。

ついに嵯峨天皇は平城上皇(=薬子)の執拗な要求を受け入れ、810年9月6日、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。が、ひとまず詔勅に従うとして、同日、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使に任命する。嵯峨天皇が信任している者を造宮使として平城京に送り込み、平城上皇側を牽制することが目的と考えられる。と同時に嵯峨天皇は密使を平城京に送り、平城京にいた若干の大官を召致した。これは、平城上皇の様子を聞き出すいう狙いと平城上皇の力になりそうな群臣を平城上皇から引き離すためであった。

これに応じて、この日、藤原真夏や文室綿麻呂らが帰京する。この二人は平城上皇派と見られていた。特に文室綿麻呂は拘束された。と、いうのは文室綿麻呂は軍人であって、坂上田村麻呂と一緒に蝦夷征伐に赴いた名将でありました。戦上手を敵に回すと面倒なので、嵯峨天皇は綿麻呂を拘束した。

また、平安京の嵯峨天皇が上皇のいる平城京に遷都する詔勅が発せられたことに、「どういうこっちゃ、わけわからん」と人心は大いに動揺したという。

しばらく考えた後、嵯峨天皇は遷都を拒否する決意をした。

9月10日に嵯峨天皇は使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせた。というのは仲成、薬子は言うことを聞く手下を近くの国司に任じて兵の動員ができる状態にしていた。が、嵯峨天皇はこれらの平成上皇派の国司を片っ端から解任し、藤原仲成を逮捕、監禁の上で佐渡権守に左遷し、薬子の官位を剥奪して罪を問う詔を発した。

この嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断をする。遣唐大使の役目を終え、皇太子高岳親王に仕えていた中納言藤原葛野麻呂(かつて薬子と通じていた)らの平城上皇派の群臣は極力これを諌めたが、上皇は薬子とともに輿に乗って東に向かった。

その翌日の9月11日、嵯峨天皇は改めて人事を発令し、平城上皇派とみられる人々を左遷し、反対に坂上田村麻呂を大納言、文室綿麻呂を参議に任じた。その上で坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じる。田村麻呂は出発に当たってかつて蝦夷征討の戦友で平城上皇派とみられていた文室綿麻呂の拘束を解くことを願う。無論田村麻呂は戦友の綿麻呂の性格、人柄を熟知した上でのお願いであった。そして、綿麻呂は許されて参議に任じられ、田村麻呂とともに上皇の東国行きの阻止に向かう。

この日、9月11日の夜に仲成は射殺された。死刑の執行。銃がないこの時代は銃殺刑ならぬ射殺刑であった。これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰した数少ない事例であった。これ以降、保元の乱で源為義、平忠正が死刑執行されるまで約346年間一件も無かった。

平城上皇と薬子の一行は平城京を出て、平城京のはずれの木津あたりまで来たところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り、とても勝機がないと悟ってやむなく平城京へ戻った。平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。これが9月12日であった。

嵯峨天皇が藤原仲成を拘束し、行動を起こしてから、わずか3日でこの騒動は収束した。

いわゆる藤原薬子の変といわれる事件でありました。

この事件の結果、平城上皇は前述のとおり、出家し平城京にいたらしく、太上天皇(上皇)の称号もそのままであったらしい。ただし、皇太子の高岳親王は皇太子を降ろされてしまった。しかし、高岳親王や阿保親王は官位が与えられ、騒ぎを起こした割には、処分が緩かったようである。というより、この騒ぎには全く関与してなかったのであろう。なので、天皇候補から外すだけでエエやろう、ということかな。ということで、平城天皇の血筋からは天皇は二度と出なかった。

ついでに言うと、廃太子高岳親王は後に仏教にハマり、空海の弟子になり修行に励むが、ハマりすぎて仏教経典を求めて天竺に渡ろうとするのであります。そして、その途中マレー半島で消息を絶った。一説には虎に食べられてしまった、という話がある。

また、同じく平城天皇の皇子で阿保親王も大宰府や各地に国司を務めていた。阿保親王は子供をすべて臣籍降下させ、そのうちの一人が絶世の美男子、在原業平であります。ほかの子供も大江氏を名乗り、その子孫は戦国の毛利氏につながっている。

なぜ、阿保親王が子供を臣籍降下させたか、というと、皇族でいると何かの陰謀に巻き込まれたり、担ぎ上げられてしまう、ということを心配してのことらしい。

さて、薬子の方と言えば、薬子は藤原式家の人である。この時期までは式家、北家とこの二家が朝廷で有力であったのであるが、この事件以降、式家は振るわず、北家の一人勝ち状態になるのである。

 


ザビエルの憂鬱

2021-06-10 07:08:00 | 歴史

世界宣教を目標に掲げていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン 3 世の依頼を受け、1541 年 4 月、ザビエルらをポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣した。1 年後、ゴアに到着した一行は、インド各地で宣教を始めた。

1547 年 12 月、ザビエルはマラッカで、鹿児島出身の日本人に出会う。彼らを洗礼したザビエルは、1549 年 4 月、ゴアを出航し、日本を目指した。一行は、中国を経て、8 月に薩摩半島の坊津に上陸した。
9 月、守護大名の島津貴久に謁見し、宣教を許される。

さて、ザビエルは日本の各地で布教するが、出会った日本人がザビエルに決まって尋ねた事がある。

それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということ。そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということだった。

つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけたのね。

元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄。ザビエルもそう答えました。すると日本人が猛然と抗議するのであります。

「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」

ザビエルは困ってしまう。

そして、本国への手紙に次のように書く。

「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」と。当時の中国にも、韓国にも、インドシナにもこうしたキリスト教の急所を突くような人間はいなかった。

この他にも、「もし神様が天地万物を造ったというなら、なぜ神様は悪も一緒に造ったのか?(神様がつくった世界に悪があるのは変じゃないのか?)」などと質問され答えに窮していたらしい。

ここで日本人がザビエルさんに指摘している事はもっともで、神という存在を作ることで、説明の出来ない事を無理矢理こじつけているだけに思えてしまったのであろう。ややこしいことを、「神のご意思」、すなわち神様の印籠を出すことでごまかしていると。

「信じるものは救われる」=「信じない者は地獄行き」

といった、答えを個人の観念のみに帰結させてしまうキリスト教の欺瞞に、当時の日本人は本能的に気づき、ザビエルが答えに窮するような質問をぶつけたのではなかろうか。

日本人には共同性があり、集団の中で生きる意味を見出してきたから、いい加減な宗教の問題点をすんなり指摘したのではないかと愚考する次第である。それと、神道や仏教が深く共同体、そして個人の生活に定着していたために、その観点から素直に宣教師に質問できたのかな。

ザビエルは日本人の質問責めに、精神が病みつつあったらしい。そして、日本に来て2年で離日。

その後、ザビエルは中国で没した。

ところで、山口ではザビエルをサビエルと呼んでいる。もともとは「しゃびえる」と発音していたらしく、山口ではサビエル、その他の地域ではザビエルと聴こえてしまったのかな。

どっちでもエエことやけど。

では、また。


ざんねんな天皇(仲恭天皇)

2021-06-08 15:52:01 | 歴史

第85代仲恭(ちゅうきょう)天皇

先に記した四条天皇の先々代になる。

仲恭天皇の父は第84代順徳天皇で、順徳天皇は鎌倉幕府に対しては敵対心メラメラだったのね。

1221年、父の順徳天皇が、祖父の後鳥羽上皇と共に鎌倉幕府執権であった北条氏追討の挙兵(いわゆる承久の乱)に参加するため、承久3年(1221年)4月20日に譲位された。4歳。

天皇でいるより上皇でいた方がしきたりなどの制約、縛りがないので、順徳さんは4歳の仲恭さんに天皇を譲った。

が、そして承久の乱。

朝廷方は北条泰時率いる幕府軍に敗北。後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に、土御門上皇も自ら望んで土佐に配流された。

そして、7月9日に幕府の手によって仲恭天皇は皇位を廃されたのである。

たった4歳で4月20日に天皇になって7月9日にクビになる。

モノごごろがあるんかないのかわからんけれど、大人の都合で天皇にさせられて、わずか80日弱でクビになったのね。

かえって、モノごごろがなかったであろう幼年であった方が幸せやったかもね。もし、仲恭さんが成人していたら、鎌倉に恨みをもって、再び乱を起こしたりしたかもよ。

知らぬが仏。

朝廷側では仲恭天皇は幼児で、鎌倉4代将軍九條頼経の従兄弟であることから、その廃位は予想外であったらしい。

おそらく、鎌倉は好戦的であった順徳さんの子であることを嫌ったのでありましょう。

まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、1234年に17歳で崩御。歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である。

また、乱が発生したために即位の儀式もなかったので、「半帝」と言われたり、九條家で過ごしたために「九條廃帝」と言われていた。

ということで、明治時代まで仲恭天皇は即位式も行われなかったのと、わずか4歳で三か月も天皇やってないんやから、ということで、天皇にカウントされてなかった。

そこで、諡(おくりな)をどうしようか、ということになって、明治政府は頭をひねった。何せ4歳で隠居状態の天皇さんで、何をしたわけでもないし、エピソードもない。

さてさて、どうしようか・・・、と。

そこで苦肉の策で、第一子でも末っ子でもないので、中間子ということで、「仲」の字をあて、それに丁寧で 慎み深いという意味で恭しい(うやうやしい)という「恭」の字を合体させて、仲恭天皇として奉ったのあります。

わずか4歳で大人の都合で天皇になり、またまた大人の都合で80日足らずで隠居させられた、仲恭天皇。

何一つしくじってはいないけれど、何か残念は切ない天皇のお話でした。

 

では、また。

 


ざんねんな天皇(四条天皇)

2021-06-06 22:23:59 | 歴史

第87代四条天皇

父は後堀河天皇である。

1221年の承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇を配流し、仲恭天皇を退位させた。次代皇位継承者には、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を除外し、後鳥羽上皇の兄・守貞親王(行助入道親王)を無理やり上皇にして、その三男であり、出家していなかった茂仁王(後堀河天皇)を即位させた。

一度、仏門に入った守貞親王は天皇になれないために、その息子の茂仁王(後堀河天皇)を即位させたのであるが、後堀河天皇はこのとき10歳であったので、父親の守貞親王に太上天皇の尊号を奉り上皇(後高倉院)として、院政を行わせた。

鎌倉幕府は強引に守貞親王を後高倉院とし、上皇に仕立て上げた。その上で上皇から譲位される形で後堀河天皇を誕生させた。鎌倉幕府は形の上で、皇位継承の正当性を保とうとした。つまり、幕府が天皇の皇位継承に介入した、ということを形の上だけでも避けようとしたのであります。

天皇をといっても天皇を経験していない人をいきなり上皇にする、という禁じ手を鎌倉幕府は使ったのね。

が、その2年後、守貞親王(後高倉院)薨去。

1232年、院政を行うべく、後堀河天皇はまだ2歳の四条天皇に譲位。3日後に太上天皇となる。しかしながら、元来病弱であった後堀河上皇、院政開始後2年足らずの1234年8月に宝算23歳で崩御した。

さて、ようやく四条天皇

2歳で譲位され、4歳の時に父の後堀河上皇が崩御。さずがに4歳、幼い四条天皇に国を治める能力はなく、政治は外戚だった九条道家が主導して行うことに。

血筋を守るためには、四条天皇が成長して正妻に男子を産んでもらう必要があるが、四条天皇もまた12歳という若さで崩御。

その最期は非常に残念なものでありました。

とある日、四条天皇は床に滑り石という石をばら撒いて、女房たち転ばせて遊んでやろうと考えました。まあ、イタズラってところやね。当時四条天皇は12歳、今でいうと小学生6年生。

四条天皇は、ヤンチャな子供だったのでありましょう。

イタズラ心でワクワク、ドキドキの四条天皇。

すると、四条天皇は、なんと自分で仕掛けた滑る床で自ら転び、頭を打ってそのまま崩御。脳挫傷であったらしい。ちょっと間抜けな・・・・・、滑稽な・・・・・。そして残念な。

四条天皇の突然の死は守貞親王の血統の断絶となり、後の皇位継承について幕府と朝廷は激しく対立する大問題に発展するのである。

この朝幕間の問題は改めて。

自分の死後、大人たちがモメる事ことなんて全く知らずに逝ってしまった四条天皇。

その最期はなんとも滑稽なお粗末な最期でありました。

 

では、また。

 


大田實

2021-06-05 23:32:02 | 歴史

大田實(おおた みのる)

海軍中将。

大田少将は海軍の軍人であるが陸戦隊の専門家である。

海軍の陸戦隊は基本的には、港湾施設や飛行場などの守備や司令部の警備などを行う部隊である。

大田中将は上海事変の際に陸戦隊長として勇戦し、全滅の危機に瀕していた在留邦人を救出した勇将として知られていた。この時の勝利で、日本中が提灯行列で沸き返ったが、本人は肩を落としたまま、黙々と杯を傾けていた。

「たくさん死なせてしまったからなあ。あの一つ一つの提灯の灯が、戦死した部下たち陸戦隊員の魂のように思えてならん」と語って、深夜まで飲み続けた。

大田中将はそういう人であった。

また、二・二六事件では陸戦隊大隊長として東京へ出動している。

太平洋戦争においては、1942年(昭和17年)5月に第二連合特別陸戦隊司令官としてミッドウェー島上陸部隊の海軍指揮官となる(陸軍部隊指揮官は一木清直)が、ミッドウェー海戦における敗北により上陸作戦は中止、6月にミッドウェー上陸部隊は解隊された。

そして、昭和20年の新年早々、突然に沖縄根拠地司令官の転任の辞令が出た。米軍の沖縄侵攻が迫ってくる中での、突然の任命には訳があった。前任の司令官は航海出身で、陸上のことがさっぱり分からず、状況が段々切迫してくるのに、戦備が進まない。そこで白羽の矢が立ったのが、海軍で陸戦の第一人者と言われた大田中将だった。

昭和20年1月20日、発令の同日、大田中将は水上機で海軍沖縄根拠地司令部に着任した。沖縄根拠地司令部は、那覇の南、小禄村(現在の豊見城市)にあった。西の海岸沿いに小禄飛行場(現在の那覇空港)を見下ろす丘の上である。

着任草々、大田中将は島内各地の陣地を車で視察して回った。海軍陸戦の第一人者で、しかも剣道の達人と名を馳せていたので、みな勇猛果敢な猛将タイプと想像していたが、会ってみると意外にも小柄で優しそうな丸顔、いかにも田舎の好々爺といった相貌だった。

それでも第一線の将兵たちは、司令官に来てもらうだけで勇気づけられる。そうした機微を心得た視察であった。

大田中将は、住民の沖縄本島北部への疎開にも、心を砕いた。老幼婦女子・学童10万人の島外への疎開は、前年7月に閣議決定され、この年3月上旬までに約8万人を送り出していた。

島内北部への疎開は、島田叡(あきら)知事が積極的に推進していた。疎開は輸送力の制約で困難を極めていたが、小禄村にいた海軍設営隊は、手持ちのトラックを総動員して、退避を支援したので、他の町村よりも早く疎開を終えることができた。

本島の中部西海岸に上陸して2ヶ月、米軍は激戦を続けながらじりじりと南下を続け、6月4日には海軍司令部のある小禄地域に進出した。陸軍は本島最南端部の摩文仁(まぶに)に退いて、最後の抗戦を図ろうとしていた。大田中将は、陸軍部隊の撤退支援を完了すると、「残存部隊を率いて、小禄地区を頑守し、武人の最後を全うせんとする」との電報を陸軍宛に送った。

海軍部隊が先に玉砕するのを見ているのは耐え難いと、陸軍の牛島司令官は「最期を同じくされんこと切望に堪えず」との電報を送ったが、大田中将の決意は変わらなかった。

6月6日、米軍は小禄飛行場と周辺の海岸線を完全に制圧し、戦線は海軍司令部壕を中心とする直径4キロほどの小さな円に絞られた。その日の夕方、大田中将は午後五時三十二分、軍人として訣別電報を発した。

戦況逼迫セリ 小官ノ報告ハ本電ヲ以テ
此処ニ一先ヅ終止符ヲ打ツベキ時機ニ到達シタルモノト判断ス 
御了承アリタシ
辞世 身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも守り遂ぐべし大和島根は

その後、もうひとつ電報を打つ。これは名文であります。

一応、原文は以下の通り(後に読みやすくした現代文を記しているので、面倒な方はこの電報をスキップしてくりゃれ)

文中の□□部分は不明

発 沖縄根拠地隊司令官

宛 海軍次官

左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ

然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ

所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ

更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ

是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン

糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ

沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

沖縄県民はこのように戦い抜いた。

県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

この電報の後、抗戦は6月11日に至っても、続いていた。大田中将は可能な限りの部下を地下壕から脱出させ、後方攪乱や遊撃戦を命じた。最後の自決に巻き込まないようにとの配慮である。さらに、これらの将兵が陸軍から脱走兵と誤解されないよう、わざわざ陸軍に通知している。

 12日午後、司令部壕の上の丘も占領され、最後の時は迫った。「自力で行動できる者は最後まで生き延びて戦ってくれ」との指示が出された。

そして、6月12日に最後の打電。

発 沖根 昭和20年6月12日 1335

一、朝来、敵戦車および歩兵、当司令部壕外に蝟集(いしゅう)し、煙弾を打ち込みあり
二、我方、およそ刀をもって戦いうる者は、いずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり
三、74高地2か月余りの奮闘も、本日をもって終止符を打つものと認む

発 沖根 昭和20年6月12日 1619
これにて通信連絡を絶つ

13日午前1時、「総員、脱出せよ。壕は爆破される」との大声での命令が伝えられた。大田中将以下、幕僚たち6名が拳銃で自決する銃声が響いた。壕内で爆雷の爆発音が響き、爆風が押し寄せ、電気が消えて真っ暗になった。

そして沖縄の海軍部隊は全滅した。

さて、現在、沖縄に対して「県民ニ対シ後世特別ノ御高配」はありやなしや。

現実問題として、日米安保条約によるアメリカとの約束もある、その中での沖縄の負担はどうであろうか。その上で、日本の政策としてどうすれば、特別の配慮をすることができるのであろうや。

沖縄については、人それぞれにいろいろな考え、思いはあると思う。けれど、この地で戦った人々を、ワタクシは誇りに思い、尊敬し、心からの感謝の念を送る。

 

では、また。