第51代平城(へいぜい)天皇、弟の嵯峨天皇に譲位して平城上皇。
父は桓武天皇(50代)
皇太子時代は安殿(あて)親王と称した。
皇太子時代に臣下の藤原縄主(ただぬし)に「あんたの娘さんを后にしたい」と申し入れた。縄主は娘が皇太子妃になることを期待し喜び、吉日を選んで娘を東宮御所へ送った。長女はまだ幼く、世間知らずで宮中のしきたりにも慣れていないので一人では心細かろうと、輿入れには縄主がすすめて、嫁さんの藤原薬子(くすこ)を同行させた。薬子は縄主のいとこ、いとこ婚でありました。で、この時には子供五人もうけていた。
ところが、この薬子さん、妙に色っぽかったのでしょうな。もともと病弱であった安殿親王は何でも聞いてくれる薬子さんにイカれてしまったのであります。ま、五人の子のお母ちゃん。またそこそこの熟女で、年下のおぼっちゃまを手なずけるのは簡単であっただろうと。
また、病弱の安殿親王は薬子の必要以上に手厚い看護に、親王はやられてしまった。
「薬子、寝られへん。寒い。温めて」
「こう?」
「違う! 布団の中に入って!」
「こう?」
「まだ寒い。じかに温めるんや」
「も~っ、殿下ったら。分かりましたよ。おじゃましま~す」
「このまま朝までね」
「でも、そろそろ帰らないとダンナに怒られますので……」
「いやや」
「もぅ~。じゃあ、今晩だけよ」
てなことで、妙なことなってきた。
いや、薬子もまんざらではなかった。とってもとっても楽しんでいた。彼女としても、出世が知れている飲んだくれ中年ダンナといるよりは、病弱で駄々っ子ではあるが、将来間違いなく帝になるかわいい年下の若モンといるほうがいいに決まっていた。この時から藤原薬子の心に中にある権勢欲が目覚めた。
この手の話は桓武天皇にバレそうなものではあるけれど、バレなかった。というのは薬子はなかなかの剛の人で、皇太子の御所、すなわち東宮御所のお役人に対して、身体をもって口封じをしたのね。すなわち、関係を結んで、「もし私と皇太子殿下とのことしゃべったら、あんたと私とのことバラすよっ」とハニートラップで噂が広がるのを封じた。
が、しかしやがて「安殿太子は臥所の両脇に母(薬子)と娘をはべらせ、夜ごと三つどもえの痴戯にふけっておられるそうだ」と噂に尾ひれがつき、恥ずかしくて薬子のダンナの縄主は出仕できず自邸に引きこもってしまった。
桓武天皇は縄主が出仕して来ないのを心配し、事情を聞いた。当然、縄主は事の真相を桓武天皇に話したのであろう。桓武天皇は安殿親王の住む東宮御所に怒鳴り込み、親王に薬子と関係を絶つように言い、薬子には夫のもとに帰るよう厳命した。
桓武天皇も偉そうに息子に説教をしたが、自身も親王時代に、嫁さんのお母さんと関係を持ったり、天皇になってからも臣下の奥さんを強奪して、自分の側室にしているのね。薬子は桓武天皇のその行状を指摘して、桓武天皇に抵抗した、という説もあるぐらい、薬子さんは強者であったらしい。
そこで、桓武天皇は強引に帯刀舎人(たちはきとねり/たてわきとねり、皇太子の護衛)に命じて、安殿親王が席を外しているうちに薬子をさらって強引に引き離したのである。
と、同時に薬子のダンナの縄主を東宮大夫に任じ、皇太子安殿親王のいる東宮御所を含めて、安殿親王の監視役につけたのである。と、同時に薬子が身体でもって篭絡した東宮のお役人の藤原葛野麻呂(かどのまろ)を遣唐大使に任じ唐に渡らせたのである。遣唐大使は一国の代表で名誉ある大事なお役目であるけれど、何せ当時のことであるから、命がけである。生きて日本に帰って来られるかどうか・・・。体の良い左遷であったかも。
桓武天皇が崩御するまで、安殿親王と薬子は別れていたかと言えばそういうわけでもなく、安殿親王は別邸に薬子を住まわせ、ちょくちょく通っていたらしい。
やがて、桓武天皇崩御。安殿親王は天皇なった。平城(へいぜい)天皇。
早速、平城天皇は薬子を内侍所、すなわち女官のトップ、従三位尚侍(ないしのかみ)に任命し、憚ることなく関係が復活。内侍所は天皇、皇后の身の回りのお世話をする役所ではあるけれど、内侍所には天皇のお妾さんがいることが多いのね。そのお役所の長官、尚侍(ないしのかみ)は従三位という位を授けられる。
従三位の尚侍は内侍宣という天皇から太政官への命令書を発行できる権力者でもある。下手をすれば、この内侍宣で太政官を動かせるのである。そこで、薬子は兄貴の藤原仲成(なかなり)を参議に取り立てる。そして兄妹で権力をふるうことになり、えこ贔屓の人事を行い、政治を思うがままにし、この兄妹に恨みを持つ人も多かった。
おまけに薬子のダンナ藤原縄主を太宰大弐(だざいのだいに)というお役目に任命し、都から遠く、九州筑紫の大宰府に飛ばすんですな。
ところが、もともと病弱であった平城天皇は病になり、譲位することにした。天皇の寵愛を受けてやりたい放題の仲成、薬子の兄妹とっては寝耳に水の話で、反対するけれど既に遅し、譲位は強行され、平城天皇は上皇となり、弟の神野親王が嵯峨天皇となった。
これは、もともとは平城天皇の叔父さんの早良親王が桓武天皇の皇太子であったが、無実の謀反の罪を着せられ、早良親王は抗議の意を込めて食を絶って絶命した。その結果、皇太子の座が平城天皇に転がってきた。が、平城天皇は自身の病弱は早良親王の祟りであると考え、譲位を決行した。
嵯峨天皇は兄貴の平城上皇に気を遣い、上皇の息子の高岳(たかおか)親王を皇太子にした。
そして、上皇は昔の都、平城京で療養した。する平城上皇はたちまち平癒し元気になったのね。薬子の看護の賜物であった。薬子の母方のご先祖さまは渡来系で漢方の医や薬の心得があったらしく、薬子もその血を受け継ぎ、医薬に詳しいかったことから、名前に「薬」の名をつけた、という説がある。また、平城京に移ったことで、早良親王の祟りも祓われ病気が治ったと平城上皇は考えて、再び天皇に復帰しようという心が起きはじめた。要するに政務に復帰しようとしたわけである。
私自身は平城上皇はホンマに隠居したかったんやないかと、思うのであります。でも・・・・
「陛下ぁ~、どうして譲位されたんですか。あれほど私たちが反対したのにぃ」
「天皇っちゅうもんは、なかなか大変なもんや、というものそなたがよく知っているであろう。毎日賢所に参殿してお参りせんとあかんのや。結構面倒なんや。病気がちな朕にはしんどいのよ。」
「そんなのいやよっ。身体もなおったんやから、復帰してっ。」
「わっ、わっ、わかったよ。では、こうしよう。譲位したと言っても祭事はむこうにやってもろて、こっちは政務をやる、ということで、どうや、なっ」
「そんで、こっちは平城京にいて世間の目もなかなか行き届かん。だから、そなたともいろいろ楽しめるんやないか」
てな具合で、薬子の願いに応えていたんやなかろうか。
もっとも、平城上皇にとっても嵯峨天皇のやることが気に入らないことがあった。上皇は在位中、観察使という地方の不正を正す官職を設けて参議の官職を廃止した。が、嵯峨天皇の世になり、嵯峨天皇はあっさりと参議の職を復活させたのでる。その上多くは参議と観察使の兼任としたのである。平城上皇は激怒し、参議は参議、観察使は観察使の仕事がある。参議は太政官の役職、観察使は地方監察、同時にできるわけがないやないか、ならさっさと観察使を廃止したらええやないか、と。
薬子、仲成の兄妹コンビは平城上皇の天皇復帰、復権は望むところであるので、嵯峨天皇の譲位を含めて権力奪取を目論んで、前述のように平城京から嵯峨天皇の政策批判、改善要求など、いろいろと指示が出るようになった。
この時期は後年の院政のような上皇に仕える院の近臣という制度というかお役目はなかったので、平城上皇からお呼びがかかれば、京都(平安京)から奈良(平城京)まで行かないといけない。ということで、廷臣は京都と奈良の間を行き来しないといけない、面倒なことになったのであります。いわゆる二所朝廷と言われる状態になった。
ついに嵯峨天皇は平城上皇(=薬子)の執拗な要求を受け入れ、810年9月6日、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。が、ひとまず詔勅に従うとして、同日、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使に任命する。嵯峨天皇が信任している者を造宮使として平城京に送り込み、平城上皇側を牽制することが目的と考えられる。と同時に嵯峨天皇は密使を平城京に送り、平城京にいた若干の大官を召致した。これは、平城上皇の様子を聞き出すいう狙いと平城上皇の力になりそうな群臣を平城上皇から引き離すためであった。
これに応じて、この日、藤原真夏や文室綿麻呂らが帰京する。この二人は平城上皇派と見られていた。特に文室綿麻呂は拘束された。と、いうのは文室綿麻呂は軍人であって、坂上田村麻呂と一緒に蝦夷征伐に赴いた名将でありました。戦上手を敵に回すと面倒なので、嵯峨天皇は綿麻呂を拘束した。
また、平安京の嵯峨天皇が上皇のいる平城京に遷都する詔勅が発せられたことに、「どういうこっちゃ、わけわからん」と人心は大いに動揺したという。
しばらく考えた後、嵯峨天皇は遷都を拒否する決意をした。
9月10日に嵯峨天皇は使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせた。というのは仲成、薬子は言うことを聞く手下を近くの国司に任じて兵の動員ができる状態にしていた。が、嵯峨天皇はこれらの平成上皇派の国司を片っ端から解任し、藤原仲成を逮捕、監禁の上で佐渡権守に左遷し、薬子の官位を剥奪して罪を問う詔を発した。
この嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断をする。遣唐大使の役目を終え、皇太子高岳親王に仕えていた中納言藤原葛野麻呂(かつて薬子と通じていた)らの平城上皇派の群臣は極力これを諌めたが、上皇は薬子とともに輿に乗って東に向かった。
その翌日の9月11日、嵯峨天皇は改めて人事を発令し、平城上皇派とみられる人々を左遷し、反対に坂上田村麻呂を大納言、文室綿麻呂を参議に任じた。その上で坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じる。田村麻呂は出発に当たってかつて蝦夷征討の戦友で平城上皇派とみられていた文室綿麻呂の拘束を解くことを願う。無論田村麻呂は戦友の綿麻呂の性格、人柄を熟知した上でのお願いであった。そして、綿麻呂は許されて参議に任じられ、田村麻呂とともに上皇の東国行きの阻止に向かう。
この日、9月11日の夜に仲成は射殺された。死刑の執行。銃がないこの時代は銃殺刑ならぬ射殺刑であった。これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰した数少ない事例であった。これ以降、保元の乱で源為義、平忠正が死刑執行されるまで約346年間一件も無かった。
平城上皇と薬子の一行は平城京を出て、平城京のはずれの木津あたりまで来たところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り、とても勝機がないと悟ってやむなく平城京へ戻った。平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。これが9月12日であった。
嵯峨天皇が藤原仲成を拘束し、行動を起こしてから、わずか3日でこの騒動は収束した。
いわゆる藤原薬子の変といわれる事件でありました。
この事件の結果、平城上皇は前述のとおり、出家し平城京にいたらしく、太上天皇(上皇)の称号もそのままであったらしい。ただし、皇太子の高岳親王は皇太子を降ろされてしまった。しかし、高岳親王や阿保親王は官位が与えられ、騒ぎを起こした割には、処分が緩かったようである。というより、この騒ぎには全く関与してなかったのであろう。なので、天皇候補から外すだけでエエやろう、ということかな。ということで、平城天皇の血筋からは天皇は二度と出なかった。
ついでに言うと、廃太子高岳親王は後に仏教にハマり、空海の弟子になり修行に励むが、ハマりすぎて仏教経典を求めて天竺に渡ろうとするのであります。そして、その途中マレー半島で消息を絶った。一説には虎に食べられてしまった、という話がある。
また、同じく平城天皇の皇子で阿保親王も大宰府や各地に国司を務めていた。阿保親王は子供をすべて臣籍降下させ、そのうちの一人が絶世の美男子、在原業平であります。ほかの子供も大江氏を名乗り、その子孫は戦国の毛利氏につながっている。
なぜ、阿保親王が子供を臣籍降下させたか、というと、皇族でいると何かの陰謀に巻き込まれたり、担ぎ上げられてしまう、ということを心配してのことらしい。
さて、薬子の方と言えば、薬子は藤原式家の人である。この時期までは式家、北家とこの二家が朝廷で有力であったのであるが、この事件以降、式家は振るわず、北家の一人勝ち状態になるのである。