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たのれきブログ

歴史を楽しく・・・。過去の知恵は未来のヒント

平和は戦争のもと?(ミュンヘン会談)

2021-06-04 11:30:11 | 歴史

ミュンヘン会談は1938年9月


チェコスロバキアのズデーテンランド地方の問題解決のために開かれた会議。

ヒトラーは1933年に政権を握ったあと、1936年に再軍備宣言を行い、ベルサイユ条約で非武装とされたライン川沿岸地域に軍隊を進出させた。ラインラント進駐である。

これはベルサイユ条約違反。 

ナチスドイツはラインラント進駐に対してフランスが反撃してきたら勝つ見込みは全くなかった。ヒトラーはドキドキ、ビクビクしながら反応をみた。

イギリス、フランスは手を出さず、ラインラント進駐を容認した。ヒトラーは賭けに勝った。

フランスもイギリスもやる気がなかったのね。

フランスは総選挙を控えていて、ラインラントごときで戦争になると政権支持がなくなるとみていたようであり、イギリスはあまり関心がなかったのと、当時のボールドウィン内閣はドイツに対して宥和的であった。

何せ、つい20年ほど前に戦争が終わったばかりで、さすがに戦争は嫌やからね。

それをある程度見越してのヒトラーの賭けであった。

イギリスのチャーチルと外務大臣のイーデンは、「一度、お調子モンのヒトラーにガツンと一発食らわさんと、何するかわからんぞ」と首相のボールドウィンに警告していたけど、却下された。

チャーチルとイーデンは冷静に軍事力を分析して、ドイツに勝てると踏んだのね。

実際その通りで、ドイツ軍首脳も「負けるからやめなはれ」と忠告していて、ヒトラーもそれを認めていて、フランスが出てきたら、撤退して、戦争にしない、と軍に伝えていた。

でも、ヒトラーのカンなのか情報分析の結果なのかはわからないけれど、イギリス、フランスは出てこないと妙な確信があったらしい。といっても、ラインラントに進駐してから48時間は滅茶苦茶緊張していたらしい。

そして、この冒険は成功した。

これからはイギリス、フランスは手を出さない、好き勝手できると踏んだ。

その上でヒトラーはオーストラリア併合し、次にチェコスロバキアに狙いを定めた。

ヒトラーは1938年にチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求した。ズデーテン地方はドイツ系の人が多く住んでいた。民族自決の観点からすれば、ズデーテン地方はドイツであるべきである、なので、ズデーテン地方はドイツであるべきだ、とヒトラーはいうのである。

それと同時にドイツはチェコスロバキアに対し攻撃準備をしたが、軍部はフランスやイギリスの介入による欧州戦争の発生を恐れていたのね。対チェコスロバキア勝利は考えられるが、欧州戦争には勝てないという見通しを持っていた。

が、ヒトラーは突っ走るのである。それはイギリス、フランスは出てこない、という確信があったからである。

このような状況で、やっぱりこの状況はまずいよね、ということで、フランス首相エドゥアール・ダラディエは、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンにヒトラーを含む首脳会談の開催を提案し、話し合いで決着をつけようとした。

戦争も辞さなかったヒトラーは会談に応じるかは不明瞭だったが、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相が仲介に入ることでこの会談を快諾してイギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーがミュンヘンに集まり会談を行うことで解決することが決まる。

ミュンヘン会談である。1938年9月。

当事国チェコスロバキアの政府首脳はこの会談に出席させてもらえず、かろうじて、駐英、駐仏のチェコスロバキアの大使がチェンバレンやダラディエにねじ込んでミュンヘンまで同行した。

この両大使は会談に同席を懇願したが参加することはできず、隣室で会議の結果を聞かされるほかなかった。その際、両大使は「すべては英国人が決める」とダラディエに言われたとか。

ここでヒトラーは「このズデーテン地方の割譲を最後の領土要求とする」と言い、チェンバレンとダラディエはズデーテン地方がドイツのものとなりヒトラーの領土拡張が治るのであれば安いものだとしてこのヒトラーの要求を全て容認することでまとまった。これによってイギリスやフランスはドイツは二度と領土拡張を行わないと踏んだ。ヒトラーの要求を丸吞みしたわけである。

チェコスロバキアは見捨てられた。

隣室で待っていた駐英駐仏のチェコスロバキア大使、マサリクとマストニーにはチェンバレンによって会談の結果が伝えられ、協定書の写しが手渡された。この時、マサリクは落胆のあまり涙を流したが、チェンバレンは大きく二度三度あくびをしたという。

しかし、ひどい話やねえ。当事国の代表は呼ばれず、他の国で勝手に相談してその国の運命を決めてしまうなんて、えげつない話である。おまけにあくびまでされた日には・・・・、チェコスロバキアにとっては泣くに泣けない話であった。

チャーチルは直後の議会演説で「すべては終わった。見捨てられ打ちのめされたチェコは沈黙と悲しみと包まれて闇の中に退場する。われらの護りは恥ずべき無関心と無能にあったこと、われらは戦わずして敗北したこと、その敗北が後にまで尾をひくことを知れ。これは終わりではない。やがてわれらに回ってくる大きなツケのはじまりにすぎぬ。」と非難することに。

ツケ・・・・、第二次世界大戦、イギリス市民にとってはロンドン大空襲でんな。また、チャーチルはイギリスは無能な恥かき野郎だと。

この当時戦争屋といわれ、あまりよく思われていなかったチャーチルが一発やらかしてくれれば、もしかしたらこれから先に起こってしまうホロコーストも無かったのではないか。

チェンバレン、ダラディエ、ムッソリーニは、戦争を回避した英雄として本国ではもてはやされ、熱狂的なお迎えを受けたのである。

ロンドンの飛行場に降り立ったチェンバレンは、空港を埋め尽くす歓迎の群衆に、英独共同宣言の文書を振りかざしてみせた。同日夜の首相官邸のバルコニーでの演説では、「我々の歴史の中で、名誉ある平和が戻ってきたのはこれで二回目である。これは我々の時代のための平和であると信ずる」と語った。

このミュンヘン会談が1938年9月、即時にズデーテン地方はドイツに併合された。

この後、ドイツはミュンヘン会談がなかったがごとく、拡張、侵略を開始。この半年後にはチェコスロバキアは解体され、地図の上からチェコスロバキアは消滅した。

そして、ミュンヘン会談から1年後、1939年にドイツはポーランドに侵攻する。さすがにチェンバレンはようやく目が覚めて、これを見過ごすことができずに、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまるのである。反対に言えばヒトラーは当てがはずれたことになる。ヒトラーは外務大臣リッペントロップに「お前が大丈夫というからポーランドに行ったんや、イギリスが宣戦布告ってどういうことや」と叱責した。

チェンバレンはしばらく首相を務めていたが、ドイツによるベルギー侵攻が1940年5月に始まり、戦争指導は任に堪えないとして、後任にチャーチルを推薦して首相を辞任するのである。

このドイツのベルギー侵攻作戦は電撃戦の開始で、あっという間にパリまで占領してしまう。その時の戦車部隊、自動車部隊は、皮肉なことであるけれど、ミュンヘン会談で割譲したズデーテン地方の鉄鉱石で作られた戦車、自動車がほとんどであった。

さて、チェンバレンはドイツをどう見てたのかしら。

ミュンヘン会談前にチェンバレンが前首相スタンリー・ボールドウィンから「あなたは、どんな侮辱を受けても戦争を回避しなければならない」という助言を受けていた。ボールドウィンはイギリスの戦争準備が不十分であることを指摘し、戦局が悪化すれば大衆の感情が悪化し、「貴方と私たちを街灯の電柱で絞首刑にするだろう」と告げている。

元首相のロイド・ジョージはチェンバレンはこの助言の影響を強く受けたものと見ている。また外相ハリファックス伯爵はイギリス世論で平和主義が広がり、何よりも戦争回避が優先されたために強硬策がとれなかったと回想している。

一連のチェンバレンによる宥和政策は、チャーチルが指摘したように「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与えた」と同時に「英仏が実力行使に出るという危惧を拭えていなかったヒトラーに賭けに勝ったという自信を与え、侵攻を容認したという誤ったメッセージを送った」として、現在では歴史研究家や軍事研究家から強く非難されている。

特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型」とされ、近代における外交的判断の失敗の代表例として扱われている。

 

我々は結果を知っているから、チェンバレンは間抜けや、とか外交の失敗例と、簡単に言えるけれど、このような時にチャーチルみたいなことを言えるかどうか・・・。

チャーチルは戦争屋と言われていて、人気がなかったのね。で、第一次世界大戦が終わって20年ぐらいしか経っていないこの時期である。親、兄弟で戦死、戦傷している人も多く、従軍した人も多く生き残っているのである。戦争はアカン、悲惨や、ということは国民は身を持って知っている。

それでも内外の情勢を見ながら冷静に判断していかないといけないのが外交。厳しいものやね。

平和を求め、戦争を避けた結果、より大きい戦争を引き起こすこともある。また、戦争をチラつかせて、平和が実現したり、戦争の結果、平和が達成されることもある。

考えてみると、戦争がある期間、ない期間、すなわち平時と戦時は交互に入れ替わる。そういう観点からすると、平和の原因は戦争、戦争の原因は平和ということになるね。

そういうことも含めて、ミュンヘン会談の例は頭のどこかに置いておかないとアカンなあ、と思う次第であります。

 

では、また。

 


宮中風紀紊乱事件(猪熊事件)

2021-05-31 21:28:01 | 歴史

宮中風紀紊乱事件、猪熊事件は1609年に起きた事件である。

征夷大将軍は二代目徳川秀忠、家康は大御所となっていた。

さて、この事件の主役は、猪熊教利(いのくま のりとし)。

この教利は「天下無双の美男子」と言われ、業平もひれ伏すぐらいのイケメン、美男子やった。

公家の四辻家に生まれ、高倉家に養子に出され、大人の事情で山科家を継ぎ、これまた大人の事情で山科家を出され、山科家の分家として猪熊家を創設し、初代当主となる。本人と無関係に各家を転々とさせられるなど決して恵まれた境遇とは言えなかった。

教利は天皇近臣である内々衆の1人として後陽成天皇に仕えていた。女官がいる内侍所で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に出席し、芸道にも通じていた。このあたりは業平っぽい。

で、業平さんと同様、やらかすのである。

ただ、業平と違うのは、教利は女癖が悪く「公家衆乱行随一」と称されていたという。どうやら、手当たり次第に女性に手を出してたのね。

天下無双の美男子が女官の役所である内侍所に演奏したり、和歌を詠みに行くなどして出入りするから、やらかす可能性は十分にあった。慶長12年(1607年)2月突如勅勘(天皇の激怒)を蒙って教利は大坂へ出奔した。原因は内侍所で女官長橋局と知り合い、密通がばれたからである。長橋局は宮中から追い出されてしまった。

女官というと御所で天皇や皇后の身の回りの世話や秘書みたいに思われているけれど、この時代の女官は側室である。教利は天皇の愛妾に手を出した。

教利はほとぼりが冷めたころに京都に戻った。が素行は収まらず、ひそかにあっちこっちの女性にちょっかいを出して、ブイブイ言わしていたのね。

左近衛権少将花山院忠長は、ある時後陽成天皇の寵愛深い広橋局(武家伝奏・大納言広橋兼勝の娘)に懸想した。そこで宮中深くまで出入りを許されていた歯科医の兼康備後(妹の命婦讃岐も宮中に仕えていた)に仲介を頼んで文通を始め、それをきっかけとして二人で逢瀬を重ねていた。

その話を漏れ聞いた教利は、俄然興味を持つ。というのは、猪熊教利は天皇から怒られ逃げ出す前のお役目は右近衛権少将で同僚であった。そのかつての同僚、花山院少将忠長が天皇の一番の寵姫との逢瀬は「この道(男女の関係)ならば誰にも劣らぬ」と思っていたプライドに火がついてしまった。

メラメラとライバル心を燃やす教利。

そして、花山院少将忠長に「この道」で遅れをとったことを悔やみ、花山院少将や大炊御門中将頼国や飛鳥井少将雅賢らかつての同僚、遊び仲間だった公家衆に、他の女官たちを必ずや誘惑してみせると啖呵を切るのであります。

そして、例の歯科医である兼安備後に連絡を取り、猪熊教利はイケメンを武器に自分の名で10代後半から20歳にかけての四人の女官に手紙を書いて呼び出すのね。女官たちは歌舞伎踊りに紛れて宮中を抜け出し、兼安備後の宿所で猪熊少将らと密会。そして、乱交パーティーを繰り広げた。そして、メンバーは様々な場所で乱交を重ねることとなった。

一回きりならともかく、何度も何度もやっていれば、噂は広がるし、発覚しないわけがない。

乱交公家野郎の一員である飛鳥井家に恨みを含む女性がいた。当時、賀茂氏の流れである松下家(上北面で従五位下に上る地下家)が家業としている蹴鞠で飛鳥井家をしのぎ、蹴鞠の許状などを松下家でも発行していた。この時代は武家の時代になり、荘園という私有地からの収入も少なくなっていて、和歌、書など、各公家が家業としている技術を教えて収入の足しにしていた。

飛鳥井家では松下家の蹴鞠を容認できず幕府に訴えた。裁可は慶長13年(1608年)に下り、飛鳥井家が全面的に勝った。松下家は地下家(下級公家)で、蹴鞠は主たる収入源であった。これにより松下家の収入源は絶たれたのも同然であった。その恨みを抱いて、宮中に出仕していた松下家の娘さんが密通していた女官たちの密談を立ち聞きし、憎っくき飛鳥井家の公家を陥れるために天皇に逐一言上した、「花山物語」は記している。

どういう経緯であれ、この乱行は後陽成天皇の耳に達する。機を見るに敏な猪熊教利は、露顕したことを知るや、一路九州へ逃れた。朝鮮国へ渡る心づもりだったともいう。

「ホンマかいな」ということで、事件を聞いた大御所・徳川家康の命を受け、京都所司代の板倉勝重およびその三男重昌が調査に当たることとなった。警察権、すなわち捜査権を持っている京都所司代が調査に乗り出した。

当然ながら後陽成天皇は怒り狂い、乱交に関わった全員を死罪に処せと命じたが、従来の公家の法には死罪は無かった。

調査が進むにつれ、思いのほか大人数が関わっていることが判明し、すべてを死罪とすれば大混乱を生ずることが懸念された。また国母、すなわち後陽成天皇の生母である新上東門院(勧修寺晴子)からも寛大な処置を願う歎願が所司代に伝えられた。そこで駿府の家康と京の勝重は、綿密に連絡を重ねながら公家衆への処分案を練っていった。

そして、日向に潜伏していた猪熊教利が捕らえられ、京都へ護送されてきた。

そこで、所司代は家康と相談し新上東門院からの歎願を考慮して、以下のように判決した。

公家衆は

死刑 

左近衛権少将 猪熊教利、歯医者 兼安備後

流罪

左近衛権中将 大炊御門頼国、左近衛権少将 花山院忠長、左近衛権少将 飛鳥井雅賢、左近衛権少将 難波宗勝、右近衛権少将 中御門宗信

女官たちは全員流罪

典侍 広橋局、権典侍 中院局、中内侍 水無瀬、菅内侍 唐橋局、命婦 讃岐(兼安備後の妹)

恩免

参議 烏丸光広、右近衛少将 徳大寺実久

兼安備後は妹の同僚である女官としてたのね。

この判決は後陽成天皇の意を汲んで全員死刑にしてしまうと大混乱が起きるのではないか、と幕府が懸念したこともあった。この判決を朝廷は承認したけど、収まらなかったのは後陽成天皇であった。猪熊教利に側室を寝取られ、側室たちも臣下の役人と乱交パーティーで遊び呆けていたなんて、天皇にしてみれば「やってられへん」状態になるのであります。

後陽成天皇は譲位をほのめかすが、幕府は許さなかった。この譲位を巡る確執は,元関白近衛信尹の日記に「ただ、泣きに泣き申候」とあるように,結果的に家康に屈伏せしめられた。複数の側室に臣下と乱交浮気され、譲位もままならず、おまけに猪熊事件の処分も手ぬるく、「泣くしかあらしまへん」と近衛さんに心情を吐露した。この一件により天皇は周囲と意志の隔たりができ、側近の公家衆や生母、皇后とも逢うことが少なくなって孤独の中で暮らすようになり、この事件の2年後に退位するに至った。

天皇の即位と譲位や、あるいは古代以来天皇の役割であった改元や一部の官位叙任権までが幕府主導になっていくのであるます。その行きつく先が公家衆法度、それを発展させた禁中並公家諸法度の制定になるのである。

徳川の世になり、朝廷はあまりやることがなくなった。政治は武家がやってくれる。仕事が減った。やることって、決められた儀式、神事ぐらいで、あとは和歌を詠んだり、歌舞音曲とか・・・・。

要するにヒマになったのね。そういう状況でエロ公家が生み出される素地はあったのかも。

記録によると乱交の当日はくじ引きでお相手を決めたり、男女の数が合わない時は口にするのも憚られるようなことをしていたらしい。ホンマにお楽しみタイムだったのね。

猪熊教利は業平の再来と言われていたが、それはイケメンであったり、長身でスラッとして、所作も麗しかったかもしれないけれど、どこか業平とは違う。

多分、猪熊教利は漁色家なんやね。多分、というより、確実に。だから、相手に惚れたはれた、というより身体目当て、もしくはそれまでのプロセスが目当てなんやね、勝手に想像してしまう。

一方、業平はどうだったのか。わからん・・・・。けど、教利とは違う、何か品のようなものを感じてしまうのであります。業平は色の道になにか芯のあるような、主義みたいなものを感じてしまうのであります。

今の世なら、猪熊教利は文春砲やフライデーに情事を暴かれたり、女性からのタレコミで叩かれる人であったような気がするけれど、業平はそういうことがないような人かな、とやたらに業平を持ちあげて想像してしまう、業平贔屓のワタクシでございまする。

 

ところで、動画で大河ドラマ葵三代の一場面、猪熊事件が発覚して、関白九条忠栄(ただひで)が、京都所司代からの糾問状を奏上し、その後、京都所司代屋敷で武家伝奏(武家と朝廷の連絡、調整役)広橋兼勝と勧修寺光豊が所司代から怒られる場面を見つけた。

九条関白が所司代からの糾問状を読み上げた時に、「濡れ衣じゃあああ」と叫んだのは事件の当事者、参議烏丸光広、九条関白の後ろでよろけ崩れたのは、武家伝奏・広橋兼勝。娘はこの事件の当事者広橋局。

で、所司代屋敷で板倉勝重に広橋兼勝は黙らっしゃい!!と一喝される。

広橋役の石橋雅史さん、うまいねえ。また、一喝する所司代役の鈴木瑞穂さんも迫力あっていいねえ。余談やけど。

史実と違うのは、家康が厳罰を求めたのではなく、厳罰を求めたのは後陽成天皇であります。糾問状を聞いて退出する天皇はなんか悲しそう。

不良公家を糾弾する武家

興味がございましたらご覧くださいませ。

 

では、また。


在原業平

2021-05-28 09:32:40 | 歴史

5月28日

在原業平の命日。

業平忌。歳時記に夏の季語として存在する。

 

平安の色男。容姿端麗、絶世の美男子、和歌の名手。

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

なんて有名は和歌であるし、隅田川の言問橋の由来の

名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

といった和歌もある。

百人一首には

ちはやぶる神代もきかず龍田川唐紅に水くくるとは

といった和歌がある。

さて、このちはやぶるの和歌には前書きがある。

二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる

ちはやぶる神代もきかず龍田川唐紅に水くくるとは

この二条の后の春宮のみやすところ、というのは藤原高子(ふじわらのたかいこ)という人で、清和天皇のお后さんで、なななんと昔の恋人やったのね。

藤原高子は後の関白藤原基経の妹であって、権力を万全にしたいと基経はなんとかして次の天皇のお后に妹の高子を送りこむ算段をした。ところがこの縁談にはかなり無理があって、後の清和天皇は9歳、高子は16歳だった。もっとも清和天皇が元服するのを待っての輿入れということであった。

昔の感覚はわからんけど、確かに16の時に9歳の男の子を紹介され、アンタの許婚と言われたらねえ・・。どうなんやろ。で、あと7~8年待ってから結婚ね、と親や身内から言われたら如何に。

今で言うと16でキャピキャピしている高校生の女の子に小学3年の男の子なんてどうなのかしら。

25の時に18の男、それも将来の天皇やでえ、と紹介されたらアリかもわからんけど、16の時に縛りをかけられたら・・・・、ということで高子さんは猛烈に兄貴の基経嫌いになった。

業平は近衛府の武官として宮中の警護をしていた。高子の異母兄・藤原国経と同僚だった業平は、その縁で高子と知り合う。16歳の高子さんは男前のダンディ業平さんに、業平さんは絶世の美女高子さんに惹かれてしまうのである。

で、恋愛関係になる。16歳の高子にとっておそらく初恋であろう年上の男前の業平は夢中になるのに十分であった。

業平は高子より17歳年上で、ダンナより猛烈に大人の男だった。あたりまえやけど。

業平は高子の住んでいる屋敷のわずかな隙間から屋敷に入って高子と密会していた。高子の兄貴の基経は何とかして二人の仲を引き裂こうとする。何せ、次の天皇と婚約状態の妹を業平には渡せない。基経、国経の兄弟にとっては高子の入内は自分たちが朝廷で権力を握るための、いわば生命線である。

そこで、高子を屋敷に押し込めて軟禁状態にする。そして基経は弟の国経らとともに厳戒態勢を敷いた。が、業平はその警備を突破して、高子をかっさらって駆け落ちするのである。厳戒態勢の屋敷から高子が脱出できたのはどうやら屋敷の女性陣の助けがあったらしい。夜ごと「業平さまぁぁぁ~」と業平と離されて嘆いている高子。その激しい恋心に、屋敷にいたいとこの藤原明子(あきらけいこ)は何とか恋を成就せてやりたいと思った。そこに業平が高子を迎えに、否、強奪に。明子はおそらく高子を侍女に化けさせたり、女性しか知らない場所を通って高子を逃がしたのであろう。

業平は高子と共に西に走る。京を出て、山城乙訓から摂津の三島方面、今でいうと、京都の長岡京市から大阪の島本町、高槻市方面に向かった。

しかし、お姫様って屋敷と御所の近辺しか知らないので、京を出ると知らないことばかり。暢気なもので、「業平さま、あれはなあ~に?」「これって、な~に?」なんて、聞きながら逃げているのね。

そんな感じで逃げているので、芥川(今の大阪府高槻市芥川)で捕まってしまい、高子は屋敷に連れもどされた。

あえなく駆け落ちは終わってしまい、高子は清和天皇の皇后になった。

「ちはやぶる」の和歌は二条の后として呼ばれていた高子がのちに陽成天皇となる皇太子と住んでいた屋敷に招かれて、屋敷にあった屏風の絵を見て詠んだものである。

高子さん、以前のことはお構いなしで、自分の屋敷に何回も業平を招いていたのね。

おまけに高子さん、朝廷の人事に介入して業平さんを引き立てて出世させていく。この時代は皇后や皇太后であっても朝廷に口出しすることは滅多になかった。

前に記したように高子は兄貴の基経が大嫌い。ことごとく基経に盾突いていたといわれる。勝手な想像ではあるが、自分の欲望のために妹を天皇に差し出し、恋人と引き離すような兄貴が嫌いだったのではないか。とにかく激しい性格のお姫様だった。

いずれにしても高子の引きで、業平は左兵衛権佐・左兵衛佐・右馬頭と武官の役職で出世し、従五位上右近衛権中将になる。そして、ついに蔵人頭に就任し右近衛権中将と兼任する。

この蔵人頭と近衛の中将の兼任になると、頭中将(とうのちゅうじょう)と呼ばれ、この次は参議を約束されたものである。参議は今でいうと内閣に入閣するようなものである。出世コースである。

ところで、業平さんって奥さんがいた。正妻さんは紀有常という人の娘さん。で、この奥さんと仲が良かったというと、ちょっと微妙であった。どうやら奥さんの料理が口に合わなかったらしい。

で、業平はちょっと拗ねて、昼間はずっと屋敷にいて奥さんと暮らし、夜は出かけて帰って来なかった。昼間にダンナが居座るなんて面倒やねえ。亭主元気で留守がいい。たぶん、業平、夜は浮気しまくってたのね。

ある時、天皇のお使いで、伊勢神宮、熱田神宮にお参りに行くことになる。その際に伊勢の斎宮とやらかす。伊勢の斎宮は神に仕える女性で、天皇家の皇女が務め、神事を行う。斎宮は若い時に任命され伊勢に行くことが多い。

この時の斎宮も若く業平と出会う。イチコロであった。そして斎宮さんと業平さん、密通し子を作る。

神事を司る長官は悩んで斎宮の子を自分の子として引き取る。そして、この長官はこの事件をもみ消そうとしたけど、ばれてしまい、お仕置きされる。が、業平は構いなし。業平は出世していくのであります。

しかし、参議を目前にした業平、その直前に病を得て死んでしまう。天下のチャラ男、56歳。残念。

業平は平城天皇の孫にあたる。普通に考えれば、天皇になれる可能性もあったが、じいさんの平城天皇がしくじり、またお父さんの阿保親王も謀反を疑われることもあり、朝廷に叛意がないことを示すために、さっさと息子を臣籍降下させ在原姓を得た。在原姓ではあるが天皇の孫で血筋毛並みは良く、スタイル抜群、イケメン、和歌の名手。モテないわけはない。

業平は天皇家のお姫さんや藤原の高位にある娘さん、要するに手を出してはいけない人と関係を持つことが多く、並のプレイボーイではなかった。チャレンジャーでもあった。反体制の貴公子といったところか。

そのような業平であったが、本音はともかく藤原基経の四十歳の祝いで和歌をプレゼントしたり、孫娘は基経の子の時平に嫁いでいて、藤原家とつながりがあった。周囲ともそこそこうまくやっていける人でもあった。

ある時は天皇の前で源定省(みなもとのさだみ/のちの宇多天皇)と相撲を取ったりして、周囲を和ませている。なんか茶目っ気がある人でもあった。男は愛嬌。

 

紀貫之は古今集の仮名序で業平を「その心あまりて言葉足らず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」と評している。「情は溢れているが、何か言葉が表現できていない。萎む花のように色は少ないけれどもほのかに薫る香りの様だ」と評している。的を射た評だと思う。業平の和歌の特徴は、言葉の省略が多く、というよりあまりにも深い心情を詠むために解釈が難しい歌が多い。が、ひとたび馴染むとしっくり馴染んでくる。

辞世といわれているのは

つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日けふとは思はざりしを

「いつか最後に通る道とは以前から聞いていたけれど、まさか昨日今日その道を通ろうとは思いもしなかったのに」といった意味かな。ワタクシにはよくわかる和歌であります。

在原業平。その行為は今の世では叩かれまくる人だと思うけれど、イケメンとしてもてはやされたであろう人でありました。

 

華やぎの声を集めて業平忌

 

お粗末な一句でございます。

 

では、また。


クォ・ヴァディス

2021-05-12 18:49:37 | 歴史

クォ・ヴァディスはポーランドの作家ヘンリク・シェンキェビッチの1895年に発表された歴史小説。1951年には映画化されている。シェンキェビッチは当時、国がなかった、というより滅ばされていたポーランドの人たちに向けて書いたと言っている。新約聖書のおまけのような「ペテロ行伝」といく記述からヒントを得て、クォ・ヴァディスを書いた。

クォ・ヴァディスとはラテン語で「どこに行くの?」という意味らしい。

イエス・キリストの一番弟子はペテロであります。

このペテロはなかなかのエエ加減な奴で、お調子モンであった。

新訳聖書によると、もともとの出会いは、イエス様が人々に教えを説きながら放浪していた。その時に湖で漁をしていたペテロと弟のアンデレに声をかけた。

「湖の向こう側の岸に行きたいので乗せてよ」と。

ペテロは「ええけどねえ」と面倒なこっちゃ、と思いながら船を対岸につけた。

すると、イエス様は「船を岸に出して網を投げてみ」と。「ど素人が何をほざくか、プンプン!!」と思いながらも、ペテロは網を湖に投げたら、網いっぱいに魚が獲れた。

イエス様は「もう一回やってみなはれ」と。またまた大漁。

ペテロは「先生、一生ついて行きます。弟子にしてください」と。いぶかしい、わけのわからん怪しいヤツやなあ、と思っていたのがコロッと見事な手のひら返しであります。

そこから、ペテロはイエス様について行くことになる。

ある時、イエス様が山に入ってお祈りをすることにした。弟子たちには「私は3日ほど山奥に入って祈るので、あなたたちは麓でいいので、この場所で祈りなさい」と。するとペテロを筆頭に「はい。お師匠さま。きちんとお祈りします」と。言い残してイエス様は山に。すると、「3日も祈ってられるか、サボろうぜ、うひひひひ」と3日の間、ペテロたちは飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。山から下りてきたイエス様、お説教をくらうのでありました。

まあ、ペテロという人はこんな人であります。

そして、イエス様がいよいよ捕まる、という時、その直前の最後の晩餐。イエス様はペテロに「お前さんは明日の朝、鶏がなく前に三度、『私を知らない』というであろう。」と告げる。

「な、な、なんと言うことを。私はそんなこと言いませよ。一生、先生のお弟子ですよ」と答えた。

が・・・・・。

ペテロはイエス様と別れたあと、こっそりとイエス様の様子をうかがっていた。すると、「お前さん、たしかイエスと一緒にいたよね。捕まえて一緒に十字架にかけるよ。」と声をかけられた。ペテロは「いえいえ、私はあんな人、知りません」と、その場から逃げ出した。すると、命からがら逃げたところに、同じく「イエスの仲間や」と騒がれ「あんな人知りまへん」と、またまた逃亡。そして、もう一度「イエスの弟子だね」「いやいや、知れせんよ、あんな奴」とペテロが3回イエスを知らない、と言って逃げおおせ、一息ついたときに、朝の鶏が鳴いたのであります。

ペテロは思い出したんやね。イエス様の言葉「お前は明日の朝、鶏がなく前に三度、『私を知らない』というであろう。」ペテロは、ハッと思い出し、激しく泣いた。

ここからペテロは大変身するのであります。

その前にイエス様の十字架と復活。

聖書を読むと、十字架の時や復活の時に出てくるのは女性なのね。イエス様のお母上のマリアさん、奥さんとも言われたもう一人のマリアさん。その他、イエス様にゆかりのある女性たちが登場する。不思議に男性は出てこない。男ってホンマにヘタレや。

話は戻って、ペテロはイエス様の教えを伝えて、パレスチナの地に教会をつくり、また、その後仲間に入ったパウロとともに布教活動に。

キリスト教はイエス様が作ったわけではない。イエス様はユダヤ教徒で、その異端者であった。イエス様の教えを整理して体系化して教義として確立させたのはパウロである。ある神学者はキリスト教はパウロ教である、という人もいるようだ。

パウロの功績はパレスチナ以外に出て、異教徒の地や他の民族に布教したことなのね。

このスーパー営業マンのパウロにより、キリスト教は爆発的に信者が増えた。当然ローマ帝国に¥もキリスト教が伝道された。

ペテロも本拠地のパレスチナの教会をイエス様の弟に任せて、各地に布教して、ローマ帝国に。同じくパウロもローマに赴く。

ローマで大火災が発生。暴君ネロの時代である。

ネロはキリスト教徒の放火であるとして、キリスト教徒の弾圧を始めるのであります。

ローマで拘束されたキリスト教徒は競技場で、火あぶり、磔、車裂き、猛獣、などのいろんな処刑を暴君ネロは楽しんでいた。

パウロはその競技場に姿を現し、私を殺せ、その代わりに処刑を中止せよ、と訴えたが斬首刑に処された。

ペテロはローマに残り、キリスト教徒を最後まで助けるつもりでいたが、ローマの信者から熱心にローマ脱出を懇願され、ついに折れてローマを脱出した。

ローマ郊外まで脱出してひと息ついたペテロ。

すると、ボワーと白い影のようなものがペテロの前に現れた。ペテロはその影にイエス様を見た。

ペテロはそのイエス様に「クォヴァディス、ドミネ?(主よ、どちらにいかれるのですか?)」と問いかける。

イエス様は「お前がローマから逃げるのであれば、私がお前になり代わり、十字架にかかろう」と言って、白い影のイエス様はローマの方に向かい、スーッと消えていったのであります。

ペテロにとって、イエス様の最後のお説教であった。

ペテロは敢然とローマに戻り、結果的に十字架にかかるのであるが、イエス様と同じ十字架では怖れ多い、ということで、逆さ十字架にかかるのであります。

ペテロはローマで埋葬された。後年、そのお墓の上に教会が建てられた。

サンピエトロ大聖堂であります。

ペテロという人は、イエス様に怒られては成長していった人で、あとからキリスト教徒になったパウロにまでもお説教されていた、お調子モンやった。聖人君子という言葉があるけれど、死ぬ間際でようやく聖人君子になった。

ペテロは初代ローマ教皇として祭り上げられてしまったけれど、おそらく「私はそんなに偉くないよ」と思っているに違いない。

生きていく上で、いろいろと苦しく辛く、見たくもない場面にも遭遇することがあると思うけど、クォヴァディスの場面を思い出してみたら、案外道が開けるかもね。

あっ、それとシェンキェビッチの原作は、ローマの軍人さんとキリスト教徒の若いおネイちゃんとの色恋話もあって結構楽しめるし、映画では暴君ネロのアホっぷりとか間抜けぶりもあり、おネイちゃん役の名女優デボラ・カーは美しかった。

最後にワタクシはキリスト教徒ではなく、ただただ物語として聖書を楽しむ、ペテロ以上にエエ加減な平凡な仏教徒でございます。

では、また。

 


アイヒマン

2021-05-09 19:16:59 | 歴史

アドルフ▪アイヒマン

ナチスの親衛隊中佐。

ユダヤ人問題の最終的解決、いわゆるホロコーストのユダヤ人移送局の長官を務めた。

要するに、アウシュビッツなどの収容所に如何にして、何人を送り込めるかを綿密に計画する責任者であった。

ナチスドイツの敗戦の際、一度は米軍に捕まるが、脱走。アルゼンチンに逃れた。

アイヒマンは結婚していたが、1952年に逃亡先のアルゼンチンに奥さんを呼び寄せて暮らしていた。

奥さんは、ドイツ敗戦勅語にダンナのアイヒマンをナチス戦犯から外してもらうように、「1945年3月に離婚して、銃殺されました」と米軍の尋問に証言したが、認められなかった。

イスラエルは諜報特務庁、通称モサドを設立し、その一部門にナチスのホロコーストに関わった人達の捜索部隊を作った。

そのモサドにアイヒマンは捕まってしまった。

アイヒマンの息子がアルゼンチン在住のドイツ人の女性と仲良くなった。この息子がそのガールフレンドに自分の父親が別名を持っていてその名前がアイヒマンだと、言っていた。モサドはその女性からその話を聞きつけたのだ。

決め手はアイヒマンが奥さんの誕生日にプレゼントしようと花屋に花を注文していたのである。モサドはアイヒマンの奥さんの誕生日を把握していて、その誕生日が一致していたのであります。

そして、仕事帰りに花を受け取りに花屋に立ち寄った時に拘束され、そのままイスラエルに連行された。これが1960年、15年の潜伏だった。

ただ、この連行には問題がある。

まず、イスラエルがアイヒマンを捕まえるのは適正か?つまり、ホロコーストはイスラエル建国の前であって、イスラエル国民でないアイヒマンを裁く権利があるのか。

また、アルゼンチンから強引にアイヒマンを強制連行したのはアルゼンチンの主権侵害ではないか?

この二点を以てイスラエルには裁判を開く権利はないのではないか、と弁護人は主張するのであります。

ともあれ、裁判は開かれた。

イスラエルの人々は、何百万と収容所送りにした、移送責任者はどんな極悪人か、と興味津々であった。が、予想に反して普通のどこにでもいるような人であった。

アイヒマンは自分は命令に従っただけで、ユダヤ人を憎んだわけでもない。ただただ職務を忠実にこなしただけである、と。

ここでもうひとつのポイントがある。アイヒマンは命令に従って仕事をした、その命令者や上官は罪に問われないのか、という問題がある。もっとも、アイヒマンの場合は、上官のヒムラーは敗戦時に自害していて、罪に問える人はいない。

結果はアイヒマンは死刑を宣告され、刑を執行された。

このアイヒマン裁判は、政治哲学者ハンナ▪アーレントが「エルサレムのアイヒマン」という著書で詳しく分析している。

この話は、また別の機会に。

では、また。