ミュンヘン会談は1938年9月
チェコスロバキアのズデーテンランド地方の問題解決のために開かれた会議。
ヒトラーは1933年に政権を握ったあと、1936年に再軍備宣言を行い、ベルサイユ条約で非武装とされたライン川沿岸地域に軍隊を進出させた。ラインラント進駐である。
これはベルサイユ条約違反。
ナチスドイツはラインラント進駐に対してフランスが反撃してきたら勝つ見込みは全くなかった。ヒトラーはドキドキ、ビクビクしながら反応をみた。
イギリス、フランスは手を出さず、ラインラント進駐を容認した。ヒトラーは賭けに勝った。
フランスもイギリスもやる気がなかったのね。
フランスは総選挙を控えていて、ラインラントごときで戦争になると政権支持がなくなるとみていたようであり、イギリスはあまり関心がなかったのと、当時のボールドウィン内閣はドイツに対して宥和的であった。
何せ、つい20年ほど前に戦争が終わったばかりで、さすがに戦争は嫌やからね。
それをある程度見越してのヒトラーの賭けであった。
イギリスのチャーチルと外務大臣のイーデンは、「一度、お調子モンのヒトラーにガツンと一発食らわさんと、何するかわからんぞ」と首相のボールドウィンに警告していたけど、却下された。
チャーチルとイーデンは冷静に軍事力を分析して、ドイツに勝てると踏んだのね。
実際その通りで、ドイツ軍首脳も「負けるからやめなはれ」と忠告していて、ヒトラーもそれを認めていて、フランスが出てきたら、撤退して、戦争にしない、と軍に伝えていた。
でも、ヒトラーのカンなのか情報分析の結果なのかはわからないけれど、イギリス、フランスは出てこないと妙な確信があったらしい。といっても、ラインラントに進駐してから48時間は滅茶苦茶緊張していたらしい。
そして、この冒険は成功した。
これからはイギリス、フランスは手を出さない、好き勝手できると踏んだ。
その上でヒトラーはオーストラリア併合し、次にチェコスロバキアに狙いを定めた。
ヒトラーは1938年にチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求した。ズデーテン地方はドイツ系の人が多く住んでいた。民族自決の観点からすれば、ズデーテン地方はドイツであるべきである、なので、ズデーテン地方はドイツであるべきだ、とヒトラーはいうのである。
それと同時にドイツはチェコスロバキアに対し攻撃準備をしたが、軍部はフランスやイギリスの介入による欧州戦争の発生を恐れていたのね。対チェコスロバキア勝利は考えられるが、欧州戦争には勝てないという見通しを持っていた。
が、ヒトラーは突っ走るのである。それはイギリス、フランスは出てこない、という確信があったからである。
このような状況で、やっぱりこの状況はまずいよね、ということで、フランス首相エドゥアール・ダラディエは、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンにヒトラーを含む首脳会談の開催を提案し、話し合いで決着をつけようとした。
戦争も辞さなかったヒトラーは会談に応じるかは不明瞭だったが、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相が仲介に入ることでこの会談を快諾してイギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーがミュンヘンに集まり会談を行うことで解決することが決まる。
ミュンヘン会談である。1938年9月。
当事国チェコスロバキアの政府首脳はこの会談に出席させてもらえず、かろうじて、駐英、駐仏のチェコスロバキアの大使がチェンバレンやダラディエにねじ込んでミュンヘンまで同行した。
この両大使は会談に同席を懇願したが参加することはできず、隣室で会議の結果を聞かされるほかなかった。その際、両大使は「すべては英国人が決める」とダラディエに言われたとか。
ここでヒトラーは「このズデーテン地方の割譲を最後の領土要求とする」と言い、チェンバレンとダラディエはズデーテン地方がドイツのものとなりヒトラーの領土拡張が治るのであれば安いものだとしてこのヒトラーの要求を全て容認することでまとまった。これによってイギリスやフランスはドイツは二度と領土拡張を行わないと踏んだ。ヒトラーの要求を丸吞みしたわけである。
チェコスロバキアは見捨てられた。
隣室で待っていた駐英駐仏のチェコスロバキア大使、マサリクとマストニーにはチェンバレンによって会談の結果が伝えられ、協定書の写しが手渡された。この時、マサリクは落胆のあまり涙を流したが、チェンバレンは大きく二度三度あくびをしたという。
しかし、ひどい話やねえ。当事国の代表は呼ばれず、他の国で勝手に相談してその国の運命を決めてしまうなんて、えげつない話である。おまけにあくびまでされた日には・・・・、チェコスロバキアにとっては泣くに泣けない話であった。
チャーチルは直後の議会演説で「すべては終わった。見捨てられ打ちのめされたチェコは沈黙と悲しみと包まれて闇の中に退場する。われらの護りは恥ずべき無関心と無能にあったこと、われらは戦わずして敗北したこと、その敗北が後にまで尾をひくことを知れ。これは終わりではない。やがてわれらに回ってくる大きなツケのはじまりにすぎぬ。」と非難することに。
ツケ・・・・、第二次世界大戦、イギリス市民にとってはロンドン大空襲でんな。また、チャーチルはイギリスは無能な恥かき野郎だと。
この当時戦争屋といわれ、あまりよく思われていなかったチャーチルが一発やらかしてくれれば、もしかしたらこれから先に起こってしまうホロコーストも無かったのではないか。
チェンバレン、ダラディエ、ムッソリーニは、戦争を回避した英雄として本国ではもてはやされ、熱狂的なお迎えを受けたのである。
ロンドンの飛行場に降り立ったチェンバレンは、空港を埋め尽くす歓迎の群衆に、英独共同宣言の文書を振りかざしてみせた。同日夜の首相官邸のバルコニーでの演説では、「我々の歴史の中で、名誉ある平和が戻ってきたのはこれで二回目である。これは我々の時代のための平和であると信ずる」と語った。
このミュンヘン会談が1938年9月、即時にズデーテン地方はドイツに併合された。
この後、ドイツはミュンヘン会談がなかったがごとく、拡張、侵略を開始。この半年後にはチェコスロバキアは解体され、地図の上からチェコスロバキアは消滅した。
そして、ミュンヘン会談から1年後、1939年にドイツはポーランドに侵攻する。さすがにチェンバレンはようやく目が覚めて、これを見過ごすことができずに、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまるのである。反対に言えばヒトラーは当てがはずれたことになる。ヒトラーは外務大臣リッペントロップに「お前が大丈夫というからポーランドに行ったんや、イギリスが宣戦布告ってどういうことや」と叱責した。
チェンバレンはしばらく首相を務めていたが、ドイツによるベルギー侵攻が1940年5月に始まり、戦争指導は任に堪えないとして、後任にチャーチルを推薦して首相を辞任するのである。
このドイツのベルギー侵攻作戦は電撃戦の開始で、あっという間にパリまで占領してしまう。その時の戦車部隊、自動車部隊は、皮肉なことであるけれど、ミュンヘン会談で割譲したズデーテン地方の鉄鉱石で作られた戦車、自動車がほとんどであった。
さて、チェンバレンはドイツをどう見てたのかしら。
ミュンヘン会談前にチェンバレンが前首相スタンリー・ボールドウィンから「あなたは、どんな侮辱を受けても戦争を回避しなければならない」という助言を受けていた。ボールドウィンはイギリスの戦争準備が不十分であることを指摘し、戦局が悪化すれば大衆の感情が悪化し、「貴方と私たちを街灯の電柱で絞首刑にするだろう」と告げている。
元首相のロイド・ジョージはチェンバレンはこの助言の影響を強く受けたものと見ている。また外相ハリファックス伯爵はイギリス世論で平和主義が広がり、何よりも戦争回避が優先されたために強硬策がとれなかったと回想している。
一連のチェンバレンによる宥和政策は、チャーチルが指摘したように「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与えた」と同時に「英仏が実力行使に出るという危惧を拭えていなかったヒトラーに賭けに勝ったという自信を与え、侵攻を容認したという誤ったメッセージを送った」として、現在では歴史研究家や軍事研究家から強く非難されている。
特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型」とされ、近代における外交的判断の失敗の代表例として扱われている。
我々は結果を知っているから、チェンバレンは間抜けや、とか外交の失敗例と、簡単に言えるけれど、このような時にチャーチルみたいなことを言えるかどうか・・・。
チャーチルは戦争屋と言われていて、人気がなかったのね。で、第一次世界大戦が終わって20年ぐらいしか経っていないこの時期である。親、兄弟で戦死、戦傷している人も多く、従軍した人も多く生き残っているのである。戦争はアカン、悲惨や、ということは国民は身を持って知っている。
それでも内外の情勢を見ながら冷静に判断していかないといけないのが外交。厳しいものやね。
平和を求め、戦争を避けた結果、より大きい戦争を引き起こすこともある。また、戦争をチラつかせて、平和が実現したり、戦争の結果、平和が達成されることもある。
考えてみると、戦争がある期間、ない期間、すなわち平時と戦時は交互に入れ替わる。そういう観点からすると、平和の原因は戦争、戦争の原因は平和ということになるね。
そういうことも含めて、ミュンヘン会談の例は頭のどこかに置いておかないとアカンなあ、と思う次第であります。
では、また。