宮中風紀紊乱事件、猪熊事件は1609年に起きた事件である。
征夷大将軍は二代目徳川秀忠、家康は大御所となっていた。
さて、この事件の主役は、猪熊教利(いのくま のりとし)。
この教利は「天下無双の美男子」と言われ、業平もひれ伏すぐらいのイケメン、美男子やった。
公家の四辻家に生まれ、高倉家に養子に出され、大人の事情で山科家を継ぎ、これまた大人の事情で山科家を出され、山科家の分家として猪熊家を創設し、初代当主となる。本人と無関係に各家を転々とさせられるなど決して恵まれた境遇とは言えなかった。
教利は天皇近臣である内々衆の1人として後陽成天皇に仕えていた。女官がいる内侍所で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に出席し、芸道にも通じていた。このあたりは業平っぽい。
で、業平さんと同様、やらかすのである。
ただ、業平と違うのは、教利は女癖が悪く「公家衆乱行随一」と称されていたという。どうやら、手当たり次第に女性に手を出してたのね。
天下無双の美男子が女官の役所である内侍所に演奏したり、和歌を詠みに行くなどして出入りするから、やらかす可能性は十分にあった。慶長12年(1607年)2月突如勅勘(天皇の激怒)を蒙って教利は大坂へ出奔した。原因は内侍所で女官長橋局と知り合い、密通がばれたからである。長橋局は宮中から追い出されてしまった。
女官というと御所で天皇や皇后の身の回りの世話や秘書みたいに思われているけれど、この時代の女官は側室である。教利は天皇の愛妾に手を出した。
教利はほとぼりが冷めたころに京都に戻った。が素行は収まらず、ひそかにあっちこっちの女性にちょっかいを出して、ブイブイ言わしていたのね。
左近衛権少将花山院忠長は、ある時後陽成天皇の寵愛深い広橋局(武家伝奏・大納言広橋兼勝の娘)に懸想した。そこで宮中深くまで出入りを許されていた歯科医の兼康備後(妹の命婦讃岐も宮中に仕えていた)に仲介を頼んで文通を始め、それをきっかけとして二人で逢瀬を重ねていた。
その話を漏れ聞いた教利は、俄然興味を持つ。というのは、猪熊教利は天皇から怒られ逃げ出す前のお役目は右近衛権少将で同僚であった。そのかつての同僚、花山院少将忠長が天皇の一番の寵姫との逢瀬は「この道(男女の関係)ならば誰にも劣らぬ」と思っていたプライドに火がついてしまった。
メラメラとライバル心を燃やす教利。
そして、花山院少将忠長に「この道」で遅れをとったことを悔やみ、花山院少将や大炊御門中将頼国や飛鳥井少将雅賢らかつての同僚、遊び仲間だった公家衆に、他の女官たちを必ずや誘惑してみせると啖呵を切るのであります。
そして、例の歯科医である兼安備後に連絡を取り、猪熊教利はイケメンを武器に自分の名で10代後半から20歳にかけての四人の女官に手紙を書いて呼び出すのね。女官たちは歌舞伎踊りに紛れて宮中を抜け出し、兼安備後の宿所で猪熊少将らと密会。そして、乱交パーティーを繰り広げた。そして、メンバーは様々な場所で乱交を重ねることとなった。
一回きりならともかく、何度も何度もやっていれば、噂は広がるし、発覚しないわけがない。
乱交公家野郎の一員である飛鳥井家に恨みを含む女性がいた。当時、賀茂氏の流れである松下家(上北面で従五位下に上る地下家)が家業としている蹴鞠で飛鳥井家をしのぎ、蹴鞠の許状などを松下家でも発行していた。この時代は武家の時代になり、荘園という私有地からの収入も少なくなっていて、和歌、書など、各公家が家業としている技術を教えて収入の足しにしていた。
飛鳥井家では松下家の蹴鞠を容認できず幕府に訴えた。裁可は慶長13年(1608年)に下り、飛鳥井家が全面的に勝った。松下家は地下家(下級公家)で、蹴鞠は主たる収入源であった。これにより松下家の収入源は絶たれたのも同然であった。その恨みを抱いて、宮中に出仕していた松下家の娘さんが密通していた女官たちの密談を立ち聞きし、憎っくき飛鳥井家の公家を陥れるために天皇に逐一言上した、「花山物語」は記している。
どういう経緯であれ、この乱行は後陽成天皇の耳に達する。機を見るに敏な猪熊教利は、露顕したことを知るや、一路九州へ逃れた。朝鮮国へ渡る心づもりだったともいう。
「ホンマかいな」ということで、事件を聞いた大御所・徳川家康の命を受け、京都所司代の板倉勝重およびその三男重昌が調査に当たることとなった。警察権、すなわち捜査権を持っている京都所司代が調査に乗り出した。
当然ながら後陽成天皇は怒り狂い、乱交に関わった全員を死罪に処せと命じたが、従来の公家の法には死罪は無かった。
調査が進むにつれ、思いのほか大人数が関わっていることが判明し、すべてを死罪とすれば大混乱を生ずることが懸念された。また国母、すなわち後陽成天皇の生母である新上東門院(勧修寺晴子)からも寛大な処置を願う歎願が所司代に伝えられた。そこで駿府の家康と京の勝重は、綿密に連絡を重ねながら公家衆への処分案を練っていった。
そして、日向に潜伏していた猪熊教利が捕らえられ、京都へ護送されてきた。
そこで、所司代は家康と相談し新上東門院からの歎願を考慮して、以下のように判決した。
公家衆は
死刑
左近衛権少将 猪熊教利、歯医者 兼安備後
流罪
左近衛権中将 大炊御門頼国、左近衛権少将 花山院忠長、左近衛権少将 飛鳥井雅賢、左近衛権少将 難波宗勝、右近衛権少将 中御門宗信
女官たちは全員流罪
典侍 広橋局、権典侍 中院局、中内侍 水無瀬、菅内侍 唐橋局、命婦 讃岐(兼安備後の妹)
恩免
参議 烏丸光広、右近衛少将 徳大寺実久
兼安備後は妹の同僚である女官としてたのね。
この判決は後陽成天皇の意を汲んで全員死刑にしてしまうと大混乱が起きるのではないか、と幕府が懸念したこともあった。この判決を朝廷は承認したけど、収まらなかったのは後陽成天皇であった。猪熊教利に側室を寝取られ、側室たちも臣下の役人と乱交パーティーで遊び呆けていたなんて、天皇にしてみれば「やってられへん」状態になるのであります。
後陽成天皇は譲位をほのめかすが、幕府は許さなかった。この譲位を巡る確執は,元関白近衛信尹の日記に「ただ、泣きに泣き申候」とあるように,結果的に家康に屈伏せしめられた。複数の側室に臣下と乱交浮気され、譲位もままならず、おまけに猪熊事件の処分も手ぬるく、「泣くしかあらしまへん」と近衛さんに心情を吐露した。この一件により天皇は周囲と意志の隔たりができ、側近の公家衆や生母、皇后とも逢うことが少なくなって孤独の中で暮らすようになり、この事件の2年後に退位するに至った。
天皇の即位と譲位や、あるいは古代以来天皇の役割であった改元や一部の官位叙任権までが幕府主導になっていくのであるます。その行きつく先が公家衆法度、それを発展させた禁中並公家諸法度の制定になるのである。
徳川の世になり、朝廷はあまりやることがなくなった。政治は武家がやってくれる。仕事が減った。やることって、決められた儀式、神事ぐらいで、あとは和歌を詠んだり、歌舞音曲とか・・・・。
要するにヒマになったのね。そういう状況でエロ公家が生み出される素地はあったのかも。
記録によると乱交の当日はくじ引きでお相手を決めたり、男女の数が合わない時は口にするのも憚られるようなことをしていたらしい。ホンマにお楽しみタイムだったのね。
猪熊教利は業平の再来と言われていたが、それはイケメンであったり、長身でスラッとして、所作も麗しかったかもしれないけれど、どこか業平とは違う。
多分、猪熊教利は漁色家なんやね。多分、というより、確実に。だから、相手に惚れたはれた、というより身体目当て、もしくはそれまでのプロセスが目当てなんやね、勝手に想像してしまう。
一方、業平はどうだったのか。わからん・・・・。けど、教利とは違う、何か品のようなものを感じてしまうのであります。業平は色の道になにか芯のあるような、主義みたいなものを感じてしまうのであります。
今の世なら、猪熊教利は文春砲やフライデーに情事を暴かれたり、女性からのタレコミで叩かれる人であったような気がするけれど、業平はそういうことがないような人かな、とやたらに業平を持ちあげて想像してしまう、業平贔屓のワタクシでございまする。
ところで、動画で大河ドラマ葵三代の一場面、猪熊事件が発覚して、関白九条忠栄(ただひで)が、京都所司代からの糾問状を奏上し、その後、京都所司代屋敷で武家伝奏(武家と朝廷の連絡、調整役)広橋兼勝と勧修寺光豊が所司代から怒られる場面を見つけた。
九条関白が所司代からの糾問状を読み上げた時に、「濡れ衣じゃあああ」と叫んだのは事件の当事者、参議烏丸光広、九条関白の後ろでよろけ崩れたのは、武家伝奏・広橋兼勝。娘はこの事件の当事者広橋局。
で、所司代屋敷で板倉勝重に広橋兼勝は黙らっしゃい!!と一喝される。
広橋役の石橋雅史さん、うまいねえ。また、一喝する所司代役の鈴木瑞穂さんも迫力あっていいねえ。余談やけど。
史実と違うのは、家康が厳罰を求めたのではなく、厳罰を求めたのは後陽成天皇であります。糾問状を聞いて退出する天皇はなんか悲しそう。
興味がございましたらご覧くださいませ。
では、また。
では、私も本事件が今の世ならどうなのかを申し上げます。
Wikipedia情報(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E7%86%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6#%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%A1%86%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%87%A6%E5%88%86)だと、事件に関わった公家は左近衛少将 猪熊教利、牙医 兼康備後、左近衛権中将 大炊御門頼国、左近衛少将 花山院忠長、左近衛少将 飛鳥井雅賢、左近衛少将 難波宗勝、右近衛少将 中御門宗信、参議 烏丸光広、右近衛少将 徳大寺実久と公家9人中7人、つまり淫行に及んだ公家の77.777777778%が近衛府高官となっています。
近衛府というのは禁中や皇族を警固するのが職責で、今で言う皇宮護衛官のようなものです。
つまり、本事件を今様に言うと、皇宮警視、皇宮警視正、皇宮警視長が内親王殿下や親王妃殿下と集団淫行を重ねているようなものです。
犯人の公家達が如何に職務に不誠実だったかが判ります。
死罪したら公家の家が軒並み後継いなくなっちゃうで
考えてみればこれだけの大人数であの狭い洛中に住む公家達がこのような淫行に及べば誰かの目に止まり、それを報告されてしまいます。その畏れについては当然当人達も考えたはずです。
しかし、実際にはこの信じがたい不祥事は発生した。これは彼等が自分達の行為が発覚するはずがないと高を括っていた証拠です。では何故そのような心理に彼等がなったか。常識的に考えれば朝廷の監察機能に問題が有ったと見るべきでしょう。
となれば、朝廷としては監察機能に不備はなかったか、有ったとしたら何処に不備が有ってそれを改善するにはどうすれば良いか調査と検討を行うべき処ですが、この辺り朝廷はどう対処したのでしょう。