岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

淡路、祖谷紀行

最も好きな季節、5月に休暇を取り、淡路島へ。初めての訪問。到着するまでが地獄だった。名神高速道路茨木付近から吹田ICまでが事故による渋滞。数メートル動くと、15分は完全な停止状態。その繰り返し。5時間は損をしたと思う。この地獄から逃れようと、茨木ICから出た。どこかで昼飯をとの考えだったが、ここも地獄だった。右も左も渋滞で、かつ、うどん屋の看板一つない。人口稠密度も高そうだった。何もない、自由な、ゆとりの空間が乏しい。偶々だったかも知れないが、降り立った地域は、人も車も風景も神経に触る不快なだけの場所だった。地名としては、多分、そこは高槻市だった。

それでも、何とか日の暮れないうちに、淡路島のウインスティンホテルに到着した。精神的疲労は濃厚。安藤忠雄氏デザインのホテルの外観も、その周辺の「夢舞台」も、貴重な時間を失った僕の鉛色の心に響かなかった。夕食の席に着いても、気分転換はあまり出来なかった。ビールを飲んで、蛸の天麩羅を食べて寝た。量的にはしたたか食べたが、舌の味蕾は反応したか、しなかったか。記憶にない。

翌5月19日、朝飯前に、積んできた自転車に跨り、ホテルの地下駐車場から敷地外へ出ようとした。広い駐車場だった。幾度か迷った挙句、外に出たが、今度はホテル隣接の会議場や公園の敷地内で再び迷った。どんなに迷っても、自転車だから苦にはならなかった。しかし、前日に引き続き「自分の思うようにならない事態」から脱け出せないことについては、僕は依然として少し気にしていた。

大阪湾を左に見ながら、僕は曇り空の下を走った。多くの若い女性が捨てた涙のせいで大阪湾は播磨灘より少ししょっぱくなっているのか。仮屋港付近まで走った。港では青年や老人があちこちで釣りをしていた。それがどこであろうと、港湾風景はなぜかいつも僕の心を泣かせる。僕は停泊中の漁船の写真を撮った。繋がれている漁船はどれも項垂れて泣いているようだった。

朝食。ヨーグルトに蜂蜜をかけて食べたら、少しだけ心の調和が回復した。或いは、少しずつ心の調和が回復し始めていたから、ヨーグルトを美味しく味わえたのか。舌の味蕾が、案外、明日の未来を約束するのかもしれない。そう、数か月先のカレンダーに予め書き込めるような形での幸福はない。不幸もない。行動等の予定は、無論、書き込める。計画出来る。しかし、その首尾についての約束など、誰とも出来ない。誰からも得られない。自分の未来は、自分の今の舌の味蕾が決めていく。不断の努力、不断の注意深い息遣いがすべてだ。

鳴門海峡の渦潮見物は断念した。朝食後、高速道路を使って福良港までは出向いたのだが、観潮船の出航時刻が僕らの予定と合わなかった。踵を返し、小雨降る中、淡路島随一の名刹、先山千光寺へ向かった。ホテルは明石海峡に近い北淡に位置していた。千光寺は島の中央部の山奥にある。細い上り坂を幾度も曲がりながら辿り着くと、古ぼけて暗い茶店があり、奥には老婦が一人いた。店先には「営業中」の札がぶら下がっていた。窓から覗き見ると、笊のようなものの中に「ようかんあります」と書かれた縦長の白い紙きれが置いてあった。入る気にはならず、折り畳み式の銀色のレジャーシートで頭を雨から守り、本堂へと続く石段を駆け上って行った。真言宗のマントラを何度も唱えながら、賽銭箱の脇に置いてあった墨書を読んだ。「逆境(こんなん)から逃げようとすると追いかけてくる」、そういう意味のことが書いてあった。僕は振り返って、茨木IC付近の激しい交通渋滞に巻き込まれた自分、そこから逃げようとして逃げられなかった自分を思い浮かべた。オン バサラ タラマ キリク。Mantra/Om vajra-dharma hrih。

 雨のため自転車に乗れない。仕方ないので、午後は線香屋でお香(incense)作りの体験を申し込んだ。多くの種類の香料の中から瞑想向きの沈香を選び、練り、引き延ばし、型取り、最後は、自然乾燥させるために厚紙に挟んで縛った。帰りには香炉も購入し、その日の行路変更を締めくくった。

 夕方、ホテルが提携している温泉へ行く送迎バスに乗った。温泉から出ると、飲食コーナーの受付で、先ほどの送迎バスの運転手が受付係をしていた。入浴料700円。枝豆をつまみ、生ビールを飲んでホテルに帰った。帰りのバスに乗ると、生ビールを売ってくれた受付係が運転席に座った。

 5月20日に徳島県三好市の祖谷渓谷に入った。宿舎は蕎麦屋も兼ねていた。名を「祖谷美人」と言う。後で知ったことだが、元プロサッカー選手の中田英寿も数年前に蕎麦打ち体験のために祖谷を訪れ、この宿に宿泊していた。フロントにその折りの写真が飾ってあったが、なかなか写真写りのいい男だ。きりっとした意志堅固な風貌が、賢そうに見えた。

祖谷と言えば、平家の落人伝説、かずら橋。通行料500円。このかずら橋は3年に一度架け替えられる。地元民の話によれば、昨今はその材料であるシラクチカズラ6トンの調達に難儀している。隣県の高知県の山からも取らせてもらっている。他の蔓ではすぐ切れてしまうということだった。祖谷の観光業関係者にとっては、まさに金蔓のシラクチカズラ、その不足傾向には頭を痛めているだろう。

夕食の部屋は個室で、その食卓の真ん中に囲炉裏があった。眺めているだけで炭火が心を癒してくれる。目の前の自在鉤は飾りではなく、実際に鍋を吊り下げて煮炊きした。ここの仲居の三木ちゃんが看板通りの祖谷美人だった。色は白く、鼻筋は通り、胸は豊かで、声は綺麗で、何よりも気立てが良かった。第三者が聞けば他愛もない僕と三木嬢との会話をここに詳細に再現するつもりはない。ただ、彼女の出身地が剣山の奥の方だと知って、僕が翌日剣山登山を決心したということだけは、言っておきたい。「そこから通勤してるの?」と僕が尋ねると、三木ちゃんは「3時間かかるから、こちらで家を借りています」と答えた。古女房が尋ねると、剣山に登ったことないですと言った。僕が人差し指を1本立てて、「一つだけ教えて。今までで一番遠くへ行ったのはどこ?」と質問した。三木ちゃんは少し考えて、「大阪」と答えた。この意外な答えが、実は、僕の心を決定的に捉えた。山奥の、不便で、空の狭い、しかし、大地の息吹に直接触れながら生活できる場所で育った素朴で、人懐こい、優しい女性。僕は自分の心が彼女を包み込もうとしているのを感じた。僕は世界の中心が剣山でも良いと思った。水の話になった。彼女は実家では山の湧水を飲んでいた。「向こうでは〈そこ水〉と言うんですけど、夏は冷たく、冬は湯気が出るほど温かいんです」と言った。「水道代は要らないの。ただ?」と聞くと、彼女は「ただです」と答えた。山奥に住む色の白い若い娘、またしても僕の好きな幻想が心の中で揺れ動き出した。デザートの時、三木ちゃんは個室の入口の所に座って祖谷の粉挽き節を歌ってくれた。山の湧水のように清らかな歌声だった。

5月21日は剣山登山。隣の次郎笈にも上った。晴天だったが、靄のため視界不良だった。車とリフトを利用したので、剣山には40分で難なく登頂できた。登山と言うよりは散歩に近かった。帰りに奥祖谷の二重かずら橋に立ち寄った。祖谷のかずら橋に比べると、こちらの方が観光客の数は少なく、静寂度は深かった。

5月22日、早朝、落合集落へ行った。急峻な山の斜面に畑と集落がへばりついていた。一番高い所(標高1700メートルくらい)にある家の住人から少し話を聞くことができた。ジャガイモが終わると蕎麦を播く。これが斜面で作業する時の鍬で、「さらえ」と言う。おじさんは6本歯の特殊な農機具を見せてくれた。家のすぐ下の斜面の畑の周囲に茶の木が数十本あった。おじさんはまた、家の中にあった大きな缶の蓋を開けて手作りの番茶を見せてくれた。家の脇の墓にも案内してくれた。小さな墓石には「天保」と刻まれていた。ここでも水の話をした。山から水を引いている、水源地は歩いて1時間の所にある、と言った。僕は眼下の川と周囲の山々の壁を見た。眺望はいい。しかし、この高所の斜面で不安なく暮らすには、やはり平家の落人の血が必要かもしれない。

おじさんが眼下に見える赤い屋根を指差した。旧落合小学校だ。あそこまで毎日歩いて通ったという話だった。確かに小さく見えていたが、僕の目には遠くに見えた。おじさんは最後に、またゆっくり遊びに来いと言ってくれた。風来坊なので声に出しては言わなかったが、その時の僕としては、茶摘み作業の手伝いに来月にでも出かけたい気持ちで一杯だった。

朝、大歩危で川下りの観光船に乗ったあと、帰路に着いた。1200キロの旅だった。心の味蕾で僕が味わったのは、人の心遣いだった。

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