ほとんどの宗教、あるいは心理学、心理療法が共通して排除しているものがある。
それが身体である。
それはほとんどの宗教、心理療法を信じる人にとって、身体は物質であり機械であり、車と同じ扱いをして、乗りこなす、手懐けるなど、こちらの意のままになるようにする対象と見なされている。
私はそれに異議を唱える。
もちろん、最初からそういう見方をしていたのではない。
身体が、小さい頃からどうしても意のままにならないのである。
最初はみんなと同様、普通に西洋医学を信頼していたのだが、いつまでたっても治らない。そして漢方、針灸、ヨガ、断食、食養などを経て野口整体と出会った。
野口整体の身体観はおどろきであった。身体を精神から解放する。身体に従う。
それが活元運動。
そうだった。身体が意のままにならないのであれば、意のままにするという態度を改め、90度方向転換し、身体の意に従う。
身体の意とは、身体の自発的運動であり、生命の働きのことである。
病氣も生命の働きが健全であるからこそから生じる。そして病は身体を造り変える。これが野口整体の病理観である。
そしてもし、微細な氣の感覚が感じられるなら、それこそ思考、イメージの前にある心の源であり、その感覚が動くことで意識が変わる。
それは理屈よりも実感者が身を持って語ってくれている。
ところで、活元運動と同じことを、宗教的文脈で行っているところがある。
スブドという団体のラティハンクジワアンという行為である。
この二つから身体の可能性に対する確信を得て、「身体的心理技法」が生まれた。
しかし精神の方向づけとなるものは、やはり思想、宗教であると思う。
何を信じても良いと思うが、やはりその行動の背景に思想性、宗教性があると、その行動はしっかりしたものとなる。
さらにその思想性宗教性に身体からの裏付けが欲しい。
人個々の思想、宗教は生命から生まれる。
そう思っている。
本を読んだり人の話を聞いて心が動かされるのは、著者と読者の生命の共鳴が生じたからであり、その思想は読者の身体の中に既にあったのである。
身体の中に微細感覚としてあったものが、共鳴現象によって意識化されたのである。
神道や仏教、キリスト教などは、生命から生じた普遍的なものであり、そこからさらに個別の教えは、個々の身体から生ずる。
そう感じている。
しかし身体から、そのような宗教的出家者の欲求はまったく生じず、世間的に市井人として生きる欲求が生じたのであれば、その生き方がその人にとっては宗教的である。
そのように考えている。
それが身体である。
それはほとんどの宗教、心理療法を信じる人にとって、身体は物質であり機械であり、車と同じ扱いをして、乗りこなす、手懐けるなど、こちらの意のままになるようにする対象と見なされている。
私はそれに異議を唱える。
もちろん、最初からそういう見方をしていたのではない。
身体が、小さい頃からどうしても意のままにならないのである。
最初はみんなと同様、普通に西洋医学を信頼していたのだが、いつまでたっても治らない。そして漢方、針灸、ヨガ、断食、食養などを経て野口整体と出会った。
野口整体の身体観はおどろきであった。身体を精神から解放する。身体に従う。
それが活元運動。
そうだった。身体が意のままにならないのであれば、意のままにするという態度を改め、90度方向転換し、身体の意に従う。
身体の意とは、身体の自発的運動であり、生命の働きのことである。
病氣も生命の働きが健全であるからこそから生じる。そして病は身体を造り変える。これが野口整体の病理観である。
そしてもし、微細な氣の感覚が感じられるなら、それこそ思考、イメージの前にある心の源であり、その感覚が動くことで意識が変わる。
それは理屈よりも実感者が身を持って語ってくれている。
ところで、活元運動と同じことを、宗教的文脈で行っているところがある。
スブドという団体のラティハンクジワアンという行為である。
この二つから身体の可能性に対する確信を得て、「身体的心理技法」が生まれた。
しかし精神の方向づけとなるものは、やはり思想、宗教であると思う。
何を信じても良いと思うが、やはりその行動の背景に思想性、宗教性があると、その行動はしっかりしたものとなる。
さらにその思想性宗教性に身体からの裏付けが欲しい。
人個々の思想、宗教は生命から生まれる。
そう思っている。
本を読んだり人の話を聞いて心が動かされるのは、著者と読者の生命の共鳴が生じたからであり、その思想は読者の身体の中に既にあったのである。
身体の中に微細感覚としてあったものが、共鳴現象によって意識化されたのである。
神道や仏教、キリスト教などは、生命から生じた普遍的なものであり、そこからさらに個別の教えは、個々の身体から生ずる。
そう感じている。
しかし身体から、そのような宗教的出家者の欲求はまったく生じず、世間的に市井人として生きる欲求が生じたのであれば、その生き方がその人にとっては宗教的である。
そのように考えている。
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