整体セラピストの独り言  ウエダ心理整体塾のブログ

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排除された身体

2018-04-08 12:45:42 | 雑談
ほとんどの宗教、あるいは心理学、心理療法が共通して排除しているものがある。

それが身体である。

それはほとんどの宗教、心理療法を信じる人にとって、身体は物質であり機械であり、車と同じ扱いをして、乗りこなす、手懐けるなど、こちらの意のままになるようにする対象と見なされている。

私はそれに異議を唱える。



もちろん、最初からそういう見方をしていたのではない。

身体が、小さい頃からどうしても意のままにならないのである。

最初はみんなと同様、普通に西洋医学を信頼していたのだが、いつまでたっても治らない。そして漢方、針灸、ヨガ、断食、食養などを経て野口整体と出会った。


野口整体の身体観はおどろきであった。身体を精神から解放する。身体に従う。

それが活元運動。

そうだった。身体が意のままにならないのであれば、意のままにするという態度を改め、90度方向転換し、身体の意に従う。

身体の意とは、身体の自発的運動であり、生命の働きのことである。

病氣も生命の働きが健全であるからこそから生じる。そして病は身体を造り変える。これが野口整体の病理観である。

そしてもし、微細な氣の感覚が感じられるなら、それこそ思考、イメージの前にある心の源であり、その感覚が動くことで意識が変わる。

それは理屈よりも実感者が身を持って語ってくれている。


ところで、活元運動と同じことを、宗教的文脈で行っているところがある。

スブドという団体のラティハンクジワアンという行為である。

この二つから身体の可能性に対する確信を得て、「身体的心理技法」が生まれた。



しかし精神の方向づけとなるものは、やはり思想、宗教であると思う。

何を信じても良いと思うが、やはりその行動の背景に思想性、宗教性があると、その行動はしっかりしたものとなる。

さらにその思想性宗教性に身体からの裏付けが欲しい。

人個々の思想、宗教は生命から生まれる。

そう思っている。

本を読んだり人の話を聞いて心が動かされるのは、著者と読者の生命の共鳴が生じたからであり、その思想は読者の身体の中に既にあったのである。

身体の中に微細感覚としてあったものが、共鳴現象によって意識化されたのである。


神道や仏教、キリスト教などは、生命から生じた普遍的なものであり、そこからさらに個別の教えは、個々の身体から生ずる。


そう感じている。

しかし身体から、そのような宗教的出家者の欲求はまったく生じず、世間的に市井人として生きる欲求が生じたのであれば、その生き方がその人にとっては宗教的である。

そのように考えている。

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