ふと、そんな連想が浮かんだ。
さうだ。感じているからこそ、間隔が意識される。
私とあなたは、そもそも異物であり、その異物が接近してくれば違和感を感じる。
その違和感を緩和するのが「間」。
私は人混みが苦手だ。
満員電車などは、相手との間が詰まりすぎている。
しかしそこを耐えられるのは、隣の人など全く意識してないからだ。
でも美術館においては、半径1メートル以内に他人がいるのは氣になる。
それが知人や友人であつても氣になる。
私は、絵と独りで、一対一で向きあひたい。
そして、絵の中に入ってゆきたい。
しかし隣の存在感は、その妨害となる。(私のほうから友人を誘う場合は別です。)
他人に対してズケズケと遠慮なく物が言える人は、果たして相手を感じているのだらうか?
少しでも感じているなら、言い方を配慮するか、言いづらいことはメールにするのではないか?
言い方、言葉の速度、言葉と言葉の間合いは、聞き手を感じての配慮なのだ。
俳句や和歌は、そこを意識して生まれた文化なのだらう。
しかし触れるといふことは、逆にその違和感が気にならない。それは私といふ意識が消えて相手そのものになるからだ。
その一体感は、ただ至福としか言いやうがないすばらしい感覚経験。
「相手の懐に入る感覚」。それが近いかもしれないが、「私が~している」と意識されていると懐に入れない。
ムズカシイ。
しかし相手のほうから懐に入ってくれると、とてもうれしい。
だから騙されやすいのだが。
さうだ。感じているからこそ、間隔が意識される。
私とあなたは、そもそも異物であり、その異物が接近してくれば違和感を感じる。
その違和感を緩和するのが「間」。
私は人混みが苦手だ。
満員電車などは、相手との間が詰まりすぎている。
しかしそこを耐えられるのは、隣の人など全く意識してないからだ。
でも美術館においては、半径1メートル以内に他人がいるのは氣になる。
それが知人や友人であつても氣になる。
私は、絵と独りで、一対一で向きあひたい。
そして、絵の中に入ってゆきたい。
しかし隣の存在感は、その妨害となる。(私のほうから友人を誘う場合は別です。)
他人に対してズケズケと遠慮なく物が言える人は、果たして相手を感じているのだらうか?
少しでも感じているなら、言い方を配慮するか、言いづらいことはメールにするのではないか?
言い方、言葉の速度、言葉と言葉の間合いは、聞き手を感じての配慮なのだ。
俳句や和歌は、そこを意識して生まれた文化なのだらう。
しかし触れるといふことは、逆にその違和感が気にならない。それは私といふ意識が消えて相手そのものになるからだ。
その一体感は、ただ至福としか言いやうがないすばらしい感覚経験。
「相手の懐に入る感覚」。それが近いかもしれないが、「私が~している」と意識されていると懐に入れない。
ムズカシイ。
しかし相手のほうから懐に入ってくれると、とてもうれしい。
だから騙されやすいのだが。