整体セラピストの独り言  ウエダ心理整体塾のブログ

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感覚は間隔?

2017-06-26 13:53:17 | 雑談
ふと、そんな連想が浮かんだ。

さうだ。感じているからこそ、間隔が意識される。

私とあなたは、そもそも異物であり、その異物が接近してくれば違和感を感じる。

その違和感を緩和するのが「間」。



私は人混みが苦手だ。

満員電車などは、相手との間が詰まりすぎている。

しかしそこを耐えられるのは、隣の人など全く意識してないからだ。


でも美術館においては、半径1メートル以内に他人がいるのは氣になる。

それが知人や友人であつても氣になる。

私は、絵と独りで、一対一で向きあひたい。

そして、絵の中に入ってゆきたい。

しかし隣の存在感は、その妨害となる。(私のほうから友人を誘う場合は別です。)



他人に対してズケズケと遠慮なく物が言える人は、果たして相手を感じているのだらうか?

少しでも感じているなら、言い方を配慮するか、言いづらいことはメールにするのではないか?

言い方、言葉の速度、言葉と言葉の間合いは、聞き手を感じての配慮なのだ。

俳句や和歌は、そこを意識して生まれた文化なのだらう。



しかし触れるといふことは、逆にその違和感が気にならない。それは私といふ意識が消えて相手そのものになるからだ。

その一体感は、ただ至福としか言いやうがないすばらしい感覚経験。

「相手の懐に入る感覚」。それが近いかもしれないが、「私が~している」と意識されていると懐に入れない。

ムズカシイ。

しかし相手のほうから懐に入ってくれると、とてもうれしい。

だから騙されやすいのだが。

間について思ふこと

2017-06-25 14:44:43 | 雑談
間とは、関係の距離感をいふ。

距離感とは、空間的、時間的の二つがある。


いつも顔を合わせている仕事の同僚とは、心の距離は近いのか遠いのか?

双方の性格にもよるだらうが、心の距離が近すぎるといつも顔を合わせていることがキツくならないか?

お互いが幸せで健康なら、共に良い氣を発しているなら、いつも共にいることで身も心も健やかで軽やかになるかもしれない。

しかしお互いが、どちらかが内面に問題を抱えていると、それを言葉や態度で隠しても雰囲気で伝わる。

その伝わってくる氣が重たければ、こちらも重たい気分となる。

いつも身近にいてなんにも感じないのは、お互い幸せだからか、心が遠く離れているか、鈍感だから。



私にとつて、人の身体に触れるとは、人の内面に触れることであり、人との間に距離がなくなり、私はあなたとなる。

すると相手が語らない、語られない内面の心情や過去の記憶が我がことのように感じられる。

そして、触れている時の着手の一手目と二手目、二手目と三手目‥と着手の「間」が流れを誘う。

私とあなたに距離がなくなると、私とあなたは息一つ、一つの生命の流れの中にあるから、その流れに従っていれば着手の合間が感じられるのだ。



しかし現実のコミュニケーションに戻れば、私とあなたの距離が再び意識される。

その時の「間」の取り方が難しい。

間を詰めて接してしまうと、転移、逆転移を招く。

すると相手は戸惑い恐れ、二度と私の前に現れなくなる。

そんな失敗も何度かしたが、心の触れ合わない赤の他人と毎日会う退屈さよりも、深入りしすぎて距離を置かれたほうが、生身の人間同士が触れ合っている感じがあつてどこかうれしい。








体性感情

2017-06-20 11:32:50 | 身体の技法
ふと思ひ出した。

新たな発見ではなく既に知っていたが、私にとつては当然過ぎて概念を忘れていた。

体性感情とは、身体に投影された感情あるひは想ひのこと。



私の記憶では、20年ほど前にある治療師が発見した。

そして治療師の間で関心は持たれたが、果たしてそれを扱うべきかどうか、多くの治療師は考えた。

そして大半の治療師の下した決断は、「これは扱うのをやめておく。」といふことだつた。

それはやはり、身体の治療の範囲を超えるからであり、これをやりだすとクライアントとの関係が変わつてくることを恐れたからだ。

その決断は間違ってないと思ふが、それなら体性感情を抱える患者は診ないのかといふと診ている。

だがさうすると、患者の抱える体性感情が治療師の身体に乗り移り、治療師は体調を崩すか、気づかぬうちに感じ方、考え方に影響して、物の見方がネガティブとなり、運気を落とすことにもなる。



私はこれを扱うと決めた。

しかしそこに触れられたくない患者は敬遠する。

あるひは触れたとして、その扱い方がよく解つてなかつたので、多くの患者に迷惑をかけた。

生兵法であつた。

しかしその後、扱い方が解つた。

いとも簡単なことであつた。


体性感情を患者自身がまず自覚する。

それは過去の未完了の出来事の記憶、理性では終わつたことでも感情としては終わつていない。

背骨のどこか、顎、歯、喉、胸、水落、肩、腰、膝などに投影されやすい。

慢性の肩こり、冷えなどは大概、体性感情が投影されている。


自覚したら、それを嫌い排除するのではなく、認め受け容れる。

そして身体運動、身体表現を通じて放散させる。展開させ姿形を変えてゆく。

言い換えれば、感情を育て成長させる。

方法として一番良いのが活元運動。他、ダンスでも音楽でも、活元運動と性質が同じものならなんでも構わない。



それを観たくないといふ人も多いが、これは後生損することになる。

つまらぬプライドは、臭いものに蓋をして体裁をよくする態度は、返つて簡単に治るものを治らなくさせ、簡単に解決することを解決出来なくする。


自分で自覚さえすれば、何も家族にも友人に話す必要もなく、治療師やセラピストを煩わせることもない。

体性感情の放散、これは最良の心身の健康法かもしれない。




再び、感じるについて

2017-06-15 14:35:34 | 雑談
前の記事は、何か私にとつて、歯切れの悪い、理屈っぽい内容となつた。

うーん、もつと優しくシンプルな表現が出来ないものか?

そんなことを考えた一週間だつた。


そこで再び。


天気予報では「今日は晴れ、明日も晴れ」であつても、今日の晴れと明日の晴れは同じ晴れでも微妙に違う。

どこが違うのか? 客観的には解らないし変わらない。

でも私にとつては、微妙なことだけど明らかに違う。

それは自然気象は、常に動いている、運動しているからであり、状態としては同じ晴れでも動きが違う。

同じやうに私の身体も常に運動しているから、昨日の身体と今日の身体は医学的には異常なしでも動きが違う。


その、動いているもの同士が出会うとき、近くに在るか遠くに在るか、近づこうとしているか遠ざかろうとしているか、で感じ方は違ってくる。


私が今日、あなたの身体に触れて感じたことと、明日あなたの身体に触れて感じることは違って当然であり、むしろ違わないほうが不自然ではないか?

私があなたの身体に触れて感じたことと、彼があなたの身体に触れて感じたことが著しく異なっていても当然であり、むしろ違わないほうが不自然なのだ。



だから感じるといふことは、感じるといふことに客観性はないのであり、客観性は基準にもならない。

あくまで、私と自然の関係、私とあなたの関係。



でもそんなことは、そんな違いは、働くことに、生活費を稼ぐことに、借金の返済に、立身出世に何の影響も及ぼさないから、たとえ違っていても、そこに不自然さがあつても、社会的には問題とされない。


だから現実生活とは関係のない、次元の違う、夢想の世界の話。




でもたとえ、現実的には無意味なことであつても、私たちが生きることには意味をなしてくる。

健やかに、愉しく生きるには、大いに意味をなしてくる。


うーん、まだだいぶ抽象的かな。

現実的に日々していることも、いつも会っている人の外見も変わらねど、そこに一点でも微妙な違いに気づけば良いのです。その違いは、こらちの状態の違いでもあります。


その感受性が私たちの日常を彩ります。





感覚は常に磨くこと

2017-06-08 20:51:54 | 身体の技法
知識というものは、知ってしまえば、記憶してしまえば終生役に立つ。

簡単なことならば、すぐに覚えられるし、複雑なものは、例えば医学などは数年かけて記憶してゆく。

車の運転も、運転の仕方を頭で記憶してしまえば良い。

そして一度記憶てししまえば大丈夫。



私たちはこうして、いろいろなことを学び、学んだ通りに行動出来るように、今度は身体に覚えさせる。

それはそれで良いのだが、どうしても知識だけでは、記憶だけではついてゆけないことがある。


それが原因の解らない身体の不調であり、理由の解らない他人の行動である。

私たちの頭といふのは、パターン化されているものには適応出来るが、パターンから外れたものはどう対処して良いか解らないのだ。

その、パターンから外れた行動を、そこに別のパターンを見つけやうとして対応する。

それが心理学といふもの。




しかし自然現象は、そしてその自然に支配されている私たちの身体は、パターンがあるようでない。

食欲も眠たくなる時間も、決まっているやうで微妙に波がある。

気象もパターンがあるやうでいて、ない。


その、パターンから外れたものに対応するのが、感覚なのです。

しかし感覚自体、パターン化された生活をしていると鈍ってくるのです。


あることに対しては微に細に感じても、他のことには全く無神経。

これは感覚が鋭いのか鈍いのか?

実はそれ自体、もはや感覚なのではなく、意識の記憶がもたらしたものなのです。

パターン化された生活の中で感じているといふことは、記憶の再現なのです。



しかし本当に感覚が働くときは、どんなことにも、大きなことから小さなことまで、隅から隅まで細に感じるものであり、感覚自体パターンがないので臨機応変な対応が出来るのです。


それでは感覚を磨くには?

身体の咄嗟の反応、自発的運動に従うこと。

それが活元運動なのです。

しかしその活元運動でさえ、惰性にマンネリ化すると記憶の範疇となります。


そこでさらに感覚を磨くには、出来るだけ調子の合わない人と同調すること。

二人組みの活元運動です。

さらに植物や動物など、人間以外の生物と同化すること。



それから出来るだけ不便な生活を強いてみる。

昔の人は、時計もないのになぜ、約束の時刻に人と会えたのでせう?

地図もないのに、なぜ目的地までたどり着けたのでせう?

どこに居るのか解らない、仇討の相手となぜ巡り会えたでせう?


そして、頭が真っ白になるやうな未体験なことにチャレンジしてみる。



でもそこまでするには、小さな現実的な目的意識では動機づけになりません。

だから、大願を持ちませう。広大な夢想を抱きませう。

衆生無辺誓願度‥。

世界人類を幸福にします。


ただし、それを金と地位に結び付けないやうに。

近い将来は良いが、遠い先には転落してゆくパターンが身についてしまいます。

これは私の痛い経験から言へます。














拝む行

2017-06-03 10:35:21 | 心の技法
思ひ立つて、拝む修行をはじめた。

歩いていて、街路樹や雑草を拝む。

昆虫や鳥を拝む。

道ですれ違う人を拝む。

日頃、ご縁のある方々を拝む。

そして、私のことを否定誹謗する人も、拝む。


合掌はしないが、手を合わせているやうなつもりになり、わずかに頭を垂れる。

人と会って話している時も、内心拝む気持ちで接する。

いゃな感じの人、憎たらしい人は、その人の前では出来ないから、家に帰って拝む。



そんな行為を続けてみると、何か謙虚な気持ちになり、少しは腰が低くなつたかなと感じる。

そして拝むとは、他者を迎へ入れる感じになる。迎へ入れるとは我が家へ迎へ入れる如く、こらちの懐へ招き入れる、招待する感じ。

するとすべての人、生き物とつながれると云ふ夢想が沸き起こる。



しかしこの行の原典は、法華経の常不軽菩薩普門品で、周りの人々から馬鹿にされ軽蔑された常不軽菩薩はそれでも彼らを拝み続けるといふ話。

そしてその修行の成果は?

彼が死んでから、彼と彼を馬鹿にした魂すべてが光に包まれ菩薩の世界へ生まれ変わると云ふ話。



なんという夢想!

夢想もここまで来ると、チャンピオン級。

現実には成果は出ませんと言われれば、誰もがあほらしくなつてこんなことをする気にもならないだらう。

それでも、いやそれだからこそこの修行をしたくなる人がいるのだ。

そんな変わり者は誰か?

宮沢賢治であり、良寛さまであつた。

さうか、確かにさうだ。この二方は一流の夢想家であつた。


私も彼らについてゆき、一流の夢想家を目指そう。