人と人が感応してる時、その関係に上下も主従もない。現実には上司と部下という立場があろうと感覚的にはそれがない。
同じことで親と子、夫と妻、医者と患者、セラピストとクライアントという関係であろうと、身体ではそれが感じられない。
あくまでそれは現実のことであって、感覚世界、つまり心身の無意識領域においてはそんな区別はない。
一つの場の空気の中で、そこにいる人々はただ感ずるままに動いているだけなのだ。その感ずるままの動きによって夫となったり妻となったり、上司となったり部下となったりするのである。
こうなりたいと望んで行動するのではなく、気がついたらこうなっていたように行動することが理想である。
実際、関係性のセラピーではそのようなことをする。
ロールプレイといって、その場である役割で動いてみて、それがどうも空気を乱すようなら違うロールになってみる。
あるいはロールを設定せずに感ずるままに動いて、どういうロールが相応しいか判断するやり方もある。
これらの方法によって、平行線を辿る両者の関係がわずか数分で解決してしまうことを私は何度も見ている。
人は思考と感情、意志と気持ちで行動すると信じられている。思考感情、気持ちや意志は、身体で言えば手足に相当するものである。しかしそれは意識の表面の自我と呼ばれるものである。
人が自我で行動すれば何かしら他者と不調和を起こすことは、心理学でも宗教でも共通して認めている。
だから無心無我で行動することが良いことも、同じように認められている。
人が無心無我で動く時、身体はどんな動きをしているかというと、背骨、軸から動いている。
人と人が感応するというのは、背骨と背骨、軸と軸が感応するのだ。
そして背骨と軸の感覚を取り戻すことが体を整えることになる。
人というのは不思議なもので、自分一人で体を整えたり思考や気持ちを整理することも出来るが、他者との感応によっても体を整えたり思考や気持ちを整理することも出来る。
そして他者との感応によるほうが、何かうれしく生きている喜びまで感じられるものだ。
洋画家、中川一政の語録にこのようなものがある。「私は絵を描きたくて書いているのではない。そうであったならとっくにやめている。そうではなく、何かに描かされているのだ。」
同じことで親と子、夫と妻、医者と患者、セラピストとクライアントという関係であろうと、身体ではそれが感じられない。
あくまでそれは現実のことであって、感覚世界、つまり心身の無意識領域においてはそんな区別はない。
一つの場の空気の中で、そこにいる人々はただ感ずるままに動いているだけなのだ。その感ずるままの動きによって夫となったり妻となったり、上司となったり部下となったりするのである。
こうなりたいと望んで行動するのではなく、気がついたらこうなっていたように行動することが理想である。
実際、関係性のセラピーではそのようなことをする。
ロールプレイといって、その場である役割で動いてみて、それがどうも空気を乱すようなら違うロールになってみる。
あるいはロールを設定せずに感ずるままに動いて、どういうロールが相応しいか判断するやり方もある。
これらの方法によって、平行線を辿る両者の関係がわずか数分で解決してしまうことを私は何度も見ている。
人は思考と感情、意志と気持ちで行動すると信じられている。思考感情、気持ちや意志は、身体で言えば手足に相当するものである。しかしそれは意識の表面の自我と呼ばれるものである。
人が自我で行動すれば何かしら他者と不調和を起こすことは、心理学でも宗教でも共通して認めている。
だから無心無我で行動することが良いことも、同じように認められている。
人が無心無我で動く時、身体はどんな動きをしているかというと、背骨、軸から動いている。
人と人が感応するというのは、背骨と背骨、軸と軸が感応するのだ。
そして背骨と軸の感覚を取り戻すことが体を整えることになる。
人というのは不思議なもので、自分一人で体を整えたり思考や気持ちを整理することも出来るが、他者との感応によっても体を整えたり思考や気持ちを整理することも出来る。
そして他者との感応によるほうが、何かうれしく生きている喜びまで感じられるものだ。
洋画家、中川一政の語録にこのようなものがある。「私は絵を描きたくて書いているのではない。そうであったならとっくにやめている。そうではなく、何かに描かされているのだ。」