整体セラピストの独り言  ウエダ心理整体塾のブログ

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感応という関係 4

2015-12-23 15:35:48 | 雑談
人と人が感応してる時、その関係に上下も主従もない。現実には上司と部下という立場があろうと感覚的にはそれがない。

同じことで親と子、夫と妻、医者と患者、セラピストとクライアントという関係であろうと、身体ではそれが感じられない。

あくまでそれは現実のことであって、感覚世界、つまり心身の無意識領域においてはそんな区別はない。


一つの場の空気の中で、そこにいる人々はただ感ずるままに動いているだけなのだ。その感ずるままの動きによって夫となったり妻となったり、上司となったり部下となったりするのである。

こうなりたいと望んで行動するのではなく、気がついたらこうなっていたように行動することが理想である。



実際、関係性のセラピーではそのようなことをする。

ロールプレイといって、その場である役割で動いてみて、それがどうも空気を乱すようなら違うロールになってみる。

あるいはロールを設定せずに感ずるままに動いて、どういうロールが相応しいか判断するやり方もある。

これらの方法によって、平行線を辿る両者の関係がわずか数分で解決してしまうことを私は何度も見ている。




人は思考と感情、意志と気持ちで行動すると信じられている。思考感情、気持ちや意志は、身体で言えば手足に相当するものである。しかしそれは意識の表面の自我と呼ばれるものである。


人が自我で行動すれば何かしら他者と不調和を起こすことは、心理学でも宗教でも共通して認めている。

だから無心無我で行動することが良いことも、同じように認められている。


人が無心無我で動く時、身体はどんな動きをしているかというと、背骨、軸から動いている。

人と人が感応するというのは、背骨と背骨、軸と軸が感応するのだ。

そして背骨と軸の感覚を取り戻すことが体を整えることになる。



人というのは不思議なもので、自分一人で体を整えたり思考や気持ちを整理することも出来るが、他者との感応によっても体を整えたり思考や気持ちを整理することも出来る。

そして他者との感応によるほうが、何かうれしく生きている喜びまで感じられるものだ。


洋画家、中川一政の語録にこのようなものがある。「私は絵を描きたくて書いているのではない。そうであったならとっくにやめている。そうではなく、何かに描かされているのだ。」




感応という関係 3

2015-12-22 15:21:27 | 雑談
しかし人間は思考と感情で動く生き物だから、人に対してコミュニケーションを求めるのは、何らかの考えの共有、気持ちの共感を求めてのことだ。相手に何も求めないのであれば、コミュニケーションする気も起きないだろう。

しかしそこに、少しでも強引で力ずくのものがあると、相手に対する気持ちや要求が前面に出てしまうと感応しなくなる。


感応しない関係とは、その場に私とあなたの二つの空気が存在し、空気と空気が溶け合わずぶつかり合っている様子が感じられる。それは硬く荒く冷たく、乾いた、角ばった空気感として感じられる。

意志で行動する人は、この分離した空気を論争、説得によって調和させることが出来ると思っているようだが、私はそれは出来ないと思っている。

論争や説得の結果は、どちらかが折れるだけである。

それはその場を丸く収めるために仕方なく、相手に従っただけであり、たとえそこで握手しようとその手は冷たく固く、感覚的には拒絶している。

だから分離した空気は何も変わらない。

それは国会での政治家たちの討論を見たら解るだろう。


空気を読んで行動することは感応ではない。それは頭で考え行動しているからだ。そうしている時の場の空気はやはり分離感が漂う。

頭で計算して行動しても場の空気は変わることはない。頭で考える限り思考、意志が働くからだ。

感応という関係 2

2015-12-21 15:07:45 | 雑談
存在と存在が共鳴しあうことが感応なら、人と人は価値観、考え方の違いを問わず、誰とでも感応するはずだ。

そう私は思うし、実際、整体のレッスンの場では価値観は共通しているが、性格などの違いから個人的には関係が生まれない二者の間に感応が起こることを経験している。

もちろんそれは、その時その場だけのことなのだが、個人的には関心のない両者が感応しあう経験は、新鮮な感覚を味わう。

しかしここで両者が、あるいはどちらかが相手を意識しだすと途端に感応は消える。


だから他人のことに干渉するのは、たとえそれが善意で親切な気持ちであろうと感応しない。

感応しない関係を、無理やり推し進めるのはコントロールとなる。

もちろん善意と親切心から干渉するわけだから、相手をコントロールしようなんて思ってないだろうが、感応しない関係を推し進めて来られると身体は何か不快に感じるものなのだ。


これは他者に対してだけでなく自分自身に対しても同様である。

言うことを聞かない身体を強引に扱うようなことや、葛藤し迷う気持ちを意志力で引っ張るようなことなことをしていると感覚は鈍くなってゆき、感応しない身体となってゆく。





感応という関係 1

2015-12-20 15:31:42 | 雑談
感応とは、存在と存在が同調共鳴し合う現象。

それが起こった時、共鳴しあった両者の心と身体は、良い気分になり元気になる。

その一番最初の経験は、整体協会で行われている「活元運動」の「相互運動」すなわち二人で組んで活元運動をするものであった。

相互運動とは、どちらがどちらをリードする訳でもなく、整体操法のように相手の身体を意図的に調整するものでもない。

二人で組んで共同作業をしているのに、二人とも自分の身体に意識があり相手の身体には意識を向けない。

それぞれが自分のために自分の身体を整える運動をしているのに、共鳴が起こるのが不思議なところ。


相手をどうこうしようと思わず、何も考えずにただ触れる。そして相手の身体を感じるのではなく自分の身体を感じる。

すると私と相手の身体が一つに溶け合うような感覚を経験する。

そしてその時私の身体に感じられるままに、自分の身体を整えることをすると共鳴作用で相手の身体も整う。

手は意図的に動かさず、感ずるに任せる。すると両者の共鳴が促され深まる処に行く。

するとお互いの身体が同時に整う。


身体が共鳴し合うと、心も自然と共鳴し、多くを語らずとも何か伝わり合うものがある。話を聞いてもらった訳でもないのに受け止められた感じがする。




この経験をしてから、私は世間で人と人がしている会話、コミュニケーションに違和感を感じるようになった。

人と人が会話をしても、それは相手が何を語っているかが情報で伝わるだけで、その奥にある心、気持ちは伝わらない。

それを伝えようとして言葉を増やしても伝わらない。

相手を気遣い相手を楽しませようとしても、何を考え何を言いたいのか、何を要求しているのかは理解出来ても、その奥にある心が伝わりあい共鳴した感覚はない。

相手が気遣えばこちらも気遣わなくてはならないような、義務感を感じて返って重い。

だから、相手のために一生賢明になれば、やはり感謝の一言も欲しいし、それがなければ金銭で対価をもらわなければ割が合わない気分になる。

そして相手のためは、相手に対する期待となり、いつのまにか相手をこちらの望み通りに動かそうとしていることになる。

そんな気持ちをお互いに抱いていれば、気持ちと気持ち、要求と要求がぶつかり合うことが無意識的に起こる。

すると大概、性格的に押しが強い人、社会的に立場が上の人の要求が通る。一方は雰囲気的に圧力に屈しただけで、仕方なく言うことを聞いただけだから、どこか不満が残る。

その不満は何となく相手に伝わるから、今ひとつ両者の間に信頼関係が生まれない。そこにあるのはどこまで進んでも、駆け引きの関係ではないか?

そういうことを私は、人間関係に感じてきた。