整体セラピストの独り言  ウエダ心理整体塾のブログ

身体的心理技法による健康指導 京王線稲田堤徒歩5分 tel 044-944-5156 

心の闇を見つめる 3

2016-01-31 15:25:42 | 雑談
真面目に自己を律して固く生きようと、日々遊び感覚で楽しく生きようと、もし心の奥に汚れたものがあるのなら、表に出るときは出るのだ。

どちらで行こうと変わりないなら、日々遊び感覚で生きたほうが良いと、思う。



そしてその上で、行ったほうが良いこと。

ただ楽しいだけでは、持てる才能、能力が高まることはないから、技芸の上達においてはもちろん、それに留まらず、日常の何気ない動作を意識し、集注感を持って、身体の使い方を工夫する。

日常の仕草、動作が流れるようにしなかやでキレもあるような、舞っているようなダンスのような、動作している自分が快く、見ている他人には美しく。

そして、日々の生活、行動している時の心を観察し、心の使い方を工夫する。

心の使い方とは、人の悪口、陰口を言わない、不平不満愚痴や目の前の相手を非難罵倒するなど人が不快になるような話をしない、常に笑顔で接し人が喜ぶよう気を配り、場の空気を明るくすることを心がける。

加えて、神社参拝も自由意志で。

ただしそれは目的達成のためではなく、願いが叶う叶わないに関係なく、意識と感覚の質を高めるためである。




そしてそういう意識と感覚で生きているなかに、暗く醜く汚い心が現れてきたとしても、それを受け容れ許すことが出来よう。


暗く醜く汚い心を許すだって!?


そう、許せばその心は、力を失ってしまうからです。





心の闇を見つめる  2

2016-01-31 14:57:09 | 雑談
しかし、その時節が到来し、何か事が生じたとき、人は自己の心を見つめるよりも、自己の心を見る余裕などなく、問題解決のために右往左往するだろう。

利害関係の諍いでは、誰しも「自分は正しい」と思いたがり、その正しさを裏付ける要素を探す。そして「相手は間違っている」と思いたがり、相手の問題点を探す。



やはり、「人の心は本質的に汚れている」という観点から心を見つめたほうが良いのだろうか?

しかしそうすると、自分で自分の粗探しを始め、心の暴走を恐れ、間違いを犯さないように、真面目におとなしく生きるようになるのでは。

これは良いことなのだろうか?

どうも、心身が固まってしまい、持てる才能、能力が発揮出来ず、能力が高まることもないように思う。

それにこういう、真面目な努力家は人としての魅力に欠け、嫌われないかわりに好かれることもない。


真面目な瞑想者は、瞑想の前に真面目にヨーガを修する。固めた心身をほぐすためだが、生き方考え方自体が心身を固めているので、緩みそうで緩まない。

身体の表面の筋肉は緩むかもしれないが、感情とつながる深層筋は緩むことはない。

その固い感性で心を見つめようとしたとき、心は暗い姿として捉えられる。そしてその暗さを責める。

だから、何年も何十年も瞑想修行しようと、いつまで経っても至福が訪れない。


その類の人も随分と見てきた。というか、私もその類であった。


頭を信じ、教えに従い、理性的に自己を律することの問題点がそこにあると、思う。



だからやはり、まずは考えよりも気持ちに正直に、やりたいことをやり、日々楽しんで過ごしたほうが良いように思う。







心の闇を見つめる 1

2016-01-30 15:49:48 | 雑談
技芸の上達に際して、自己啓発に際して、心しておくこと。


あなたは、なぜ、そこまでするのか、その先に何を欲するのか? 望みが叶ったとしてそこで得られるものは何か? 周りの人々に与えるものは何か?

そして、その望み、想いはどこから来るのか?

そして、その裡に、人には言えない、知られたくない想いはないか?

それは、誰かに対する、社会に対する、怒り、妬み、妬み、復讐心など。

仏教で言えば、心の三毒(貪、愼、痴)。


そこをしっかりと見つめ自覚を深めなさい、と昔、瞑想の師から言われた。

そこを見つめないでスルーして、出世すると、後で大変な事態を招きますよ。

それは、他人の生き様を見ていると、特に芸能人などは目立つので「なるほどな」と思わせる出来事は割とある。

なのでその訓示は、今でも、私の心に響いている。




しかし言われた当時(今から25年ほど前)は、気付けなかった。

まだそこに気づく時期ではなかったのだ。

特に人には言えない知られたくない想いは、自分でも抑圧するからなかなか気づきにくい。

他者から指摘されれば、「そんなやましい気持ちなど微塵もありません」と身の潔白を主張するだろう。



だからこういうことは、時節の到来を待つほうが良いと、経験的に思う。

それは誰にでも共通するようで、初心者の時期、学生時代、修業中の身である時期、新婚早々の時期は、みな純粋に将来を明るく語り合い励まし合うものだ。

ところがそれぞれがそれぞれに結果成果が現れ始めた頃に、他者に対する妬みと同時にコンプレックスが意識されるようになる。




神社参拝

2016-01-24 15:43:19 | 雑談
日本には、あちこちに神社がありますね。

そこはどこでも、何か心が落ち着き、清々しい気分になります。


ところで、神道には教えというものがないのです。

教えがないから、特に市民に参拝を呼びかけることもしないし、自宅に神様を祀ることを要請もせず、参拝しないと不幸になるなど新興宗教のような脅しもありません。

会費も特に要求しません。お賽銭も自由意志です。


それなのに、神社に行くと必ず誰かが参拝している姿を見かけます。

彼らはなぜ、参拝するのでしょう?


私の経験からすれば、参拝したからといって、病気が奇跡的に治ることもなければ、行き詰っていた仕事や人間関係の問題がいきなり解決することもありません。

現実の問題は、やはり現実的努力を必要とします。



おそらく、参拝する人は神様の存在を頭では信じていないかもしれない。大体、姿は目に見えないし声も聞こえないですからね。

それなのに参拝するというのは、身体で何かを感じているのではないでしょうか?

身体は、神様を感じているのかもしれませんね。


参拝しても現実は何も変わらないのですが、何か心身はリセットされる気分になります。それが良くて、みなさん参拝されるのかもしれませんね。

しかし心身のリセットが毎月繰り返されると、自然と物の見方、感じ方は少しずつ変化してゆきます。

どう変化するかは解りません。でも心身が整えば悪いほうへは流れないだろう。

そんな楽天性もあります。



身体を信じるというのは、こういうことだと思うのです。










所長履歴

2016-01-24 15:32:18 | 野口整体
昭和33年1月23日、東京生まれ

日本柔道整復専門学校、日本針灸理療専門学校 卒業

資格 柔道整復師 あんまマッサージ指圧師 はりきゅう師

昭和52~55年 八木接骨院(東京目黒) 勤務

昭和55年~59年 三浦整骨院(東京小岩) 勤務

昭和59年 東京ヨガ断食道場 勤務

昭和61~平成2年 内神田整骨院 院長として勤務

平成2年 独立 世田谷区豪徳寺にてヒーリングスペース竹林精舎

平成8年 経営難により閉鎖

平成10年 東京三鷹にて、ウエダ整体塾 開業

平成26年 現在地に移転


※整骨院勤務時代より、自身の経験と臨床経験から、病の根本原因は意識にあり、背骨の歪みや食生活の乱れは意識の乱れによる二次的反映であるということに気づき、治療術よりも意識改革の方法に関心を示す。

ヨガ、断食、密教、神道などの修行をいろいろ経験する。

平成10年 野口整体に出会い、自分の求めていたことがそこにあった。以後は野口整体の方法論をペースに治療を行う。ただ私の関心は整体操法ではなく、潜在意識教育にあった。

無意識と身体の関係であり、それをユング派分析、プロセスワーク、アドラー心理学なども併せて学ぶことで理解を深めた。さらに家族関係、家の因縁の作用を実感し、ファミリーコンステレーション、そして吉本伊信師の内観法も経験的に学ぶ。

そして研鑽が進み、身体を通じて心を知ることに奥深さを感じ、身体技法をベースとした心理療法を研究中。











頭を信じるか身体を信じるか?

2016-01-19 15:05:57 | 雑談
自分を信じるとか、他人を信じる、という前に、私たちは、頭を信じているでしょうか。身体を信じているでしょうか?

その違いは、物の見方、考え方、経験の仕方まで、かなりの開きがあるように思います。


頭を信じる、頭を通して信じるというのは、言葉とイメージによって信じようとするものです。なので、その言葉から容易に連想が浮かぶような具体性、論理性が求められます。

身体を信じる、身体を通して信じるというのは、感じることによって信じようとするものです。感じるには、話を聞いたり本を読んだりすることでは足りず、経験しなくてはなりません。


心を見つめるということも、頭のタイプは言葉とイメージから分析して心を理解しようとします。

身体のタイプは、感覚的に心の姿を捉えようとします。



西洋医学を信じるのは頭のタイプでしょうが、東洋医学や自然療法を信じるのはどちらでしょうか?

たとえ論理、理屈で理解してなくとも、噂を信じるとか他人の体験談を信じるというのは、やはり頭ではないでしょうか?


身体を信じる人は、病は自然現象で回復現象だから、放っておいても自然に良くなるということに疑いを持っていません。なので自然の経過を待てるのです。

それが待てないというとき、それは社会生活の都合からで、ちょっと回復を促せば良いだけなので薬を数日飲むか整体を1~2回受ければ済みます。

なので実に経済的ですね(笑)。



人の心を知ろうとするのも、頭のタイプはよく話を聞いて分析して理解します。それが西洋の心理学、心理療法のスタンスです。

身体のタイプは、話を聞くだけでなく、身近に接する、同じ釜の飯を食うなど、ある行為を共にすることを通じて知ろうとします。

修行とか稽古という習慣はその目的があります。

それが条件的に難しければ、相手の身体に触れることを通じて感覚的に心を知ることもできます。

これは難しそうでいて、実際経験してみると易しいのです。私はこのスタイルを好んでいます。



そして、どちらのタイプも、最後には自分の心を信じ、他人をとことん信用したいのです。

でも心というものは奥にしまわれ、自分でも解りづらくなっているのです。



さてあなたは、頭か身体か、どちらから心に到りますか?

一般的には、頭から入ったほうが易しそうですね。

でもそれだけだと浅い自覚に終わるように思います。











アドラー心理学に出会う

2016-01-11 15:20:29 | 雑談
アドラー心理学については、以前から知っていたのだが、あまり関心を持ちませんでした。

ところが最近、書店にてアドラー心理学を解りやすく解説している本と出会いました。

私は正直、一般向けの優しい表現の本を好みません。

なぜかというと、優しく、解りやすくということで、かなりの情報が削除されてしまい、これで本当に趣旨が伝わるのか、趣旨はどこにあるのか?が気になるからです。

しかしこの本は、著者の表現力でしょうか? 優しく解りやすくページ数も多くはないのに、かなりの情報が凝縮されていたのです。



私はアドラーについては、理解が浅いので解ったようなことは言えませんが、私なりに印象深く、共感する考えを紹介します。

それは、「無意識の目的」。

心身に起こる全ての出来事は、たとえ意識では望んでなくとも無意識で望んでいるから、そのようなことが起こるのだと。


例えば、飲みすぎがたたって肝臓を壊したというとき、飲みすぎが原因と普通は考えます。でも誰でも飲みすぎれば肝臓を壊すことくらい解っているのです。だからある処でブレーキをかけるはずです。

それなのに飲み過ぎるのは何故か? 飲み過ぎることで肝臓を壊したいのです。肝臓を壊すことに何の目的があるのか?

それは、今の状況をご破産にしてリセットしたいのかもしれないし、あるいは他人から同情を買いたいのかもしれない。



このような意識と無意識に要求の食い違いが起こる背景には、人間関係があります。

アドラーは、「すべての心の悩みの原因は人間関係にある」と語っています。

他人を意識した思考、行動。そこには他人に認められたい、他人より優位に立ちたい、他人を思い通りに操りたい、あるいは他人に献身したい、という願望があります。

そしてその願いが、その心が他人に通じないと、自分を責めるか他人を責めます。しかしその、責める想いを抑圧して理性的に、物分りの良い人として振舞おうとする。

しかしその理性が、自己矛盾をもたらします。


キリスト教の信仰から、他人に社会に献身的に振舞う人がいます。それがただうれしくて楽しくてしょうがないなら、その人からは幸せそうな良い雰囲気が漂います。

でもそれがちっともうれしくないと、いくら献身しても、献身すればするほどに苦しくなります。そこには原罪という罪の意識から自分を責めているのです。その人からは重苦しい雰囲気が漂い、そのためにいくら献身しても幸せになれない。


皮膚病というのは、そこに他者へ、社会へいろいろと要求、主張があります。そして皮膚病の人はプライドが高い。でもそれに本人が気づいていない。なぜでしょうか?

人との競争意識から、人に優位に立ちたい、リーダーになりたい、でもなれない。そのコンプレックスが他人に醜い姿をさらすことで、同情を買いたい、注目を浴びたい。 より美しくありたいと願う女性にも、似たような心理があります。

でもその感情を、理性のほうで否定しているからです。



もちろん、すべての人のすべてのケースにおいてそうだと言っているのではありません。

それにこういうことは、他人から指摘されれば余計に傷つくし、傷つくのを恐れて心のガードを固くするでしょう。

だから、「そういう見方もあるのかな」くらいに捉えて、ともかく自分の心を内観することです。

ただしその心を頭で解釈、分析している間は、まだ腑に落ちません。

直観的に、感覚的に、「ああそうか!」と気づいたとき、腑に落ちます。

すると、今までの悩みがウソのように消えたり、身体症状が消失してしまうこともあります。



ところでその本とは

「嫌われる勇気」岸見一郎 著 



誕生月と誕生地

2016-01-08 19:58:16 | 雑談
今月は、私も含め知り合いに誕生月である方が何人かおられます。

誕生月になると、仙椎2番に自然集注が起こり骨盤が整います。


でもそれが何の意味があるのか、特に病気が早く回復するわけでもなければ病気にかかりにくいわけでもなく、現実に抱える問題が解決するわけでもないしそのためのインスピレーションが訪れるわけでもありません。


だから、現実的な視点からは、このことに何の意味も価値もありません。

なので、現実的、社会的、客観的に見たら、そんなことに喜んでいる人は、ちょっと変わった思想趣味、オタクと見られても、それは的を得ています。



でも、その感覚経験を何度かした側からすると、まるで違うのです。

その経験は、母との同化であり、それを通じた自然との同化なのです。

そして、その感覚意識から、我が身、我が行いを振り返ることが出来る。


そこから我が身、我が行い、さらにはこの世の人間の振る舞いを見つめてみる。


そこに意味があるように思います。



正直、この世での成功とか物質的な幸福とか、バカバカしく思えるようになります。



でも、現実に生きる限り、そのバカバカしさのなかで、それぞれに役割が与えられその責任を果たさなくてはならないことも解ります。


では現実と、人生と、どう向き合い関わって行ったら良いのでしょうか?


それも、骨盤が整うという感覚経験に答えがあります。