「占い」は「哲学」

2011年09月12日 | 癒やされタイム
本日のカフェ探訪は「BECOカフェ」です。
午後2時からオープンというゆるさがステキ…。

住宅街の意外な路地裏にあるお店ですが、予想外にお客さんも多し。
壁には雑誌の記事やいろいろな言葉がレイアウトされています。
「本の雑誌」のBNが読めるので、とてもありがたいです。


入り口も、さりげなくていい感じ…。
このカフェでは「読書会」も開かれているもよう。本好きにはオススメです。


さて、長い夏休みも終わり、また大学院での学生生活が始まります。
後期の予定はみっちりハードですが、前期以上に多彩な授業が待っているのでとっても楽しみ。

久々に大学生に戻ってもっとも感謝すべきは、私の「運命学」に対する意識が格段に変わったことです。

「占い師」とか「運命学」といえば、大概の人が「うさんくさい」「あやしい」と思うに違いない…と、この25年間ずっと身構えていました。
占い業界から一歩でも外に出ると、目に見えない世界を扱うことに関する偏見や軽蔑の眼差しが向けられることを、今までいやというほど味わってきたからです。

(本の出版でも、今でこそ占いやスピリチュアルの本は本屋にあふれていますが、一般書として出そうという当時の苦労は並大抵ではありませんでした。私自身が無名だし、まず、何の知識もない編集者さんに「占い」の本質的なところを理解してもらうのが大変…。)←愚痴です(笑)

必要な人にわかってもらえればそれでいいし、占いをカルチャーととらえれば広く受け入れてもらえる、そう考えて過ごしてもきましたが、どこか釈然としませんでした。

でも、いざ大学院に通うようになったとたん、空気は一変しました。

「私はなぜこの運命を生きているのか」「これからどう生きるべきか」と徹底的に向き合う「占い」「運命学」は、人生の哲学そのものだということがハッキリわかったということ。
そして、思想や哲学を扱う研究者の方々が、口々に「占い」や「運命学」に学究的な関心を示してくれ、学ぶ価値があるものとして肯定してくれたこと。

私にとっては本当に意外な展開でしたが、今まで自分なりに大切に考えていたものが決して「怪しいもの」でも「間違った取り組み」でもなかったと教えられた気がして、心救われる思いがしました。
(メソポタミアの天文学とギリシア思想に端を発し、幾世紀にも渡って人々に指針をもたらしている占星学を、単なる大衆文化だと自分に言い聞かせていた私自身が大問題…と猛省。)

とはいえ、人の悩みはいつでも等身大のものが基本です。
「私はいつ結婚できますか」「本当にこの仕事をしていていいのでしょうか」という悩みも、人生そのものを考える一端に違いありません。

いま本当に何が重要なのか、起こっていることはどんな意味があるのか…。
これについて、お客様と私の一対一で真剣に考える鑑定時間は本当に貴重なものであり、私の宝物だといえます。

21世紀に必要な形で、これからも「占い」や「運命学」は生き残るのではないかと思います。
また、そうあってほしいし、これから先も永遠に必要な人の元に必要な叡智が届き続けることを強く願っています。

占いを通じて、みなさまの「私はなぜこの運命を生きているのか」「これからどう生きるべきか」の答えの一助が見つかればと祈りつつ、これからも鑑定に向き合いたいと思います。