天川貴之 理念哲学講義録 哲学的エセー

無常から絶対無にいたる哲学の実相を平易なことばで綴り、人生に即した叡智のあり方を解きあかす。

7-5「知恵の本質について」天川貴之

2018年06月18日 | 哲学(本文)
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あの稲盛和夫をして
こう言わしめた書籍
『精神的ジャパニーズドリーム』
「京都賞受賞の可能性がある」
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理念哲学講義録~哲学的エセー~天川貴之
第七章 知識と叡智について


第五節 知恵の本質について

第二に、知恵についてであるが、
この段階においては、
思索によって把握している段階であり、
概念の内実を真に認識しえている、
深い内奥なる知であるといえよう。
かかる知に到るためには、
心の開拓、精神の開拓が必要であり、
内なる知恵の光が、外なる知恵の光を、
照らし出しているといえるのである。
この段階では、物事の本質がよく観えているので、
思想として世に問うても、
充分な生産性をもつ段階であるといえよう。
有名な哲学者、思想家、学者の引用もあるが、
それらを材料として、
自分自身の思想を主体としている。
そして、その表現は明瞭で、
確固たる調子であり、
全体として心に深く響くものである。
この知性の特徴は、
物事を統合的に思考し、
全体的、総合的に探究してゆく性格が強く、
そのため、枝葉と幹の区別がはっきりとしていて、
中心理念をよく押さえていることが多い。
知恵の段階に到ると、
その知が生産性をもち始めると同時に、
無私なる人々への奉仕の気持ちが強くなってくる。
そして、人々の役に立つ実践的哲学が、
著作されることが多いのも特徴である。
過去の偉人でいえば、
例えば、セネカ、エピクテトス、マルクス=アウレリウス、
ヒルティ、パスカル、アランなどの実践哲学は、
知恵の結晶であるといえる。
現代に生きておられる知識人は数多いが、
その中で、知恵の段階まで到達している方は、
数少ないと思われる。
しかし、こうした方を人生の師となし、
積極的に学んでゆかなければならない。
 

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7-4「知識の本質について」天川貴之

2018年06月18日 | 哲学(本文)
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第七章 知識と叡智について


第四節 知識の本質について

それでは次に、知的探求をしてゆく上で、
知性の質に違いがあることを述べてゆきたい。
そのことは、知的探求の大いなる指標になることであろう。
知性の質は、知識と知恵と叡智に大きく分かれる。
原則として、叡智にゆく程、
より高次な知性であるといえるが、
そのどれもが相補って大切であるともいえる。
まず第一に、知識についてであるが、
この段階においては、
情報として記憶しているだけで、
概念の内実を真に認識しえていない、
表面的な知であるといえよう。
その大部分は、肉体的な頭脳によって、
保たれているといっても過言ではなく、
いわば、コンピューターにインプットされて、
保存されている知であるといってよいであろう。
この段階では、
物事の本質がよく観えていないので、
思想として世に問うても、
充分な生産性をもたない段階であるといえよう。
大抵の場合、有名な哲学者、
思想家、学者の引用を主体として、
自分の思想はほとんどなく、
知識と知識をつなぎ合わせたようなものになりやすい。
そして、その表現は不明瞭で自信のない調子であり、
全体として心に響かないものである。
この知性の特徴は、物事を分けて思考し、
部分的、専門的に探究してゆく性格が強く、
そのためか、枝葉と幹とがはっきりしないばかりか、
枝葉に入り込みすぎて、
幹が見えなくなっていることが多い。
しかし、知識が豊富であること自体は尊いことであり、
真なる知を底支えするものであろう。
 

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7-3「知的生活の心得について」天川貴之

2018年06月16日 | 哲学(本文)
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第七章 知識と叡智について


第三節 知的生活の心得について

では、知的生活を送り、
知的探求の旅に出るにあたっての、
大切な心得について述べてゆきたい。
まず第一は、かつてソクラテスが説かれたように、
自らの「無知」を自覚することである。
たとえどのように数多くの知識をもっていても、
いや、もっているが故に、
本当に何も真に分かっていないことが分かってくるのである。
よくよく自己の知を自己観照してみれば、
知っているようにみえて、
人間の本質と世界の本質が、
真には観えていないことに気づくのである。
第二に、「無知」の自覚故に、
真なるエロスを発現させ、
限りなく知を愛し、
愛し求めてゆこうとする情熱が大切である。
知的情熱、哲学的情熱というものはあるのであって、
限りなく真なる知を求めて、学び、
探究してゆこうとする精神態度が大切なのである。
第三に、手段の知ではなく、
目的としての知を求めてゆくことである。
「の~ための」学問、例えば、
受験のための学問、記憶のための学問、
資格取得のための学問というものをされている方は多いが、
それはまだ、
知の探究における純粋性があまりないといえるのである。
真の知を探究するためには、
「それを学ぶこと自体が尊い」学問を、
探究してゆかなくてはならないのである。
この時に、限りなく知的に純化され、
知的高みに向けて飛翔してゆくことができるのである。
故に、すぐに役立つ実用的な学問も時には大切ではあるが、
原則として、
すぐには役に立たない教養的な学問を、
積んでゆくことが大切なのである。
例えば、大学生などでは、
学校の授業でよい成績を取るための学問だけではなくて、
そうした枠をはるかに超えた、
幅広い教養を積んでゆくことが大切なのである。
また例えば、ビジネスマンなどでは、
仕事に即結びつく学問だけではなくて、
そうした枠をはるかに超えて、
全人格を陶冶してゆくつもりで、
幅広い教養を積んでゆくことが大切なのである。
まさしく、目的としての学問は、
生涯学習そのものであって、
人生全体をかけて学び、修めてゆくものなのである。
第四に、より高貴なる精神、
より崇高なる精神に触れてゆくことである。
書物の本質とは、
それを書いた方の精神のエッセンスであるといえよう。
故に、ただ単に知識的に理解しようとすることなく、
その背後にある著者の精神そのものに触れ、感動し、
自己の精神の糧としてゆくことが大切なのである。
精神の世界においては、
偉人と凡人の差は、
まさしくエベレスト山の如き巨人と、
砂山の如き小人との差があるのである。
精神界の巨人の魂に触れ、
それを常に理想像として、
自己の精神を限りなく向上させてゆくことが、
無限の精神の生長をもたらすのである。
 

7-2「知的生活の意義について」天川貴之

2018年06月10日 | 哲学(本文)
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第七章 知識と叡智について


第二節 知的生活の意義について

このように、知的探求をしてゆくにあたっては、
何よりも知の質というのが大切になってくるのである。
そして、真なる知を学ぶことによって、
真なる知者となってゆくことが大切なのである。
ここでいう真なる知者とは、
真に学徳のある方のことである。
かつてソクラテスが知徳合一を説いたように、
真なる知を修めれば、
自ずから真なる徳が身についてくるのである。
故に、真なる知的向上は、
真なる人格の向上につながるのであり、
真なる知を修めてゆく道は、
永遠の大道であるといえるのである。
しかし、現代においては、
非常なる知の時代であるにもかかわらず、
それらの知の奥にあるものに気づかず、
快楽追究を第一とするライフスタイルをもっている方々が多い。
しかしこれは、真なる知を、
探究する幸福というものを、
知らないからであるといえよう。
真なる知を探究することの悦びに、
一度目覚めたならば、
いかなる快楽も色あせてみえ、
知的生活に没頭されるはずなのである。
表面的な味気ない知識ばかりを読んでいると、
知的生活がむしろ苦痛にみえてくるのであるが、
本物の深き知に目覚めると、
知的生活を送ること、
知的ライフスタイルをもつことが、
何よりもの人間の幸福であることに気づくのである。
このように、真なる知的生活が、
人間の真なる幸福の源であるという観点から、
多くの方々に対して、
真なる知に目覚めることの大切さと、
真なる知的生活を送ることの大切さを、
訴えかけてゆかなくてはならないのである。
 

7-1「真の知と真の知者について」天川貴之

2018年06月10日 | 哲学(本文)
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第七章 知識と叡智について


第一節 真の知と真の知者について

知識と叡智について論じてゆきたい。
現代は、歴史的にみても、非常なる地の時代であって、
膨大な量の知識が情報として飛び交っている。
大型書店にいけば、毎年毎年、
大量の本が出版されては、
大洪水の如く氾濫し、
すぐ様、その姿を消してゆく。
こうした大きな知の大流の中にあって、我々は、
いかにその中を漕ぎ渡ってゆけばよいのであろうか。
たいていの方が、その地の大流の中を流されながら、
自らがどのあたりを、
何のために流れているのか、
分からなくなってきているのが実情であると思う。
こうした時に大切な心構えは、
何が真の知であり、
どのような方が真の知者であるかを、
見極めてゆくことである。
知識の量は時代と共に増えているが、
真なる知は時代を超えている。
こうした時代を超越した真なる知を、
どこまでも探究してゆくことこそが、
真なる知者となるためには大切なのである。
徒らに、溢れんばかりの知識をかき集めても、
真なる知者となることはできない。
現代には、むしろ内実のない知識が多いといえよう。
かのギリシャ哲学のプラトンの知は、
現代の哲学者の知と比べて、
時代が古いという理由だけで、
果たして劣っているであろうか。
いや、そうではない。
むしろ、現代の知識をすべてかき集めても、
プラトンの叡智には及ばないというのが、
実情ではないだろうか。
このように、文化とは、
その時代、その時代に独特の高みがあるものであり、
時代が進展したからといって、
高くなるものではないのである。
かのギリシャでいえば、
その建築芸術や文学芸術なども、
現代と比べて非常なる高みにあるといえるのである。
特に、真理の世界においては、
例えば、宗教的真理においても、
釈尊以降に釈尊を超える仏教者が出ていないように、
イエス・キリスト以降に、
イエス・キリストを超えるキリスト教者が出ていないように、
その特定の真理の高みは、
時代を超えているのである。
同じく、哲学的真理においても、
ソクラテス、プラトン以降に、
ソクラテス、プラトンを、
真に超える哲学者がほとんど出ていないように、
その特定の真理の高みは時代を超えているのである。
このように考えてみると、
現代の知識の洪水というものが、
ただ単に量だけのもので、
質においては、
過去の哲人、賢人達の書の方がはるかに高いし、
ためになるものであることが分かるのである。
 

6ー6「大楽天観の哲学」天川貴之

2018年06月09日 | 哲学(本文)
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理念哲学講義録~哲学的エセー~天川貴之
第六章 厭世観と楽天観について


第六節 大楽天観の哲学

究極の哲学者の御心は、遠大で深遠で、
何故にかくの如き人間と世界を創られたのかは充分に忖度しえない。
しかし、徹底的なる叡智と愛の実在であられるから、
必ず、地上の人生と世界の形式の裏には、
遠大で深遠なる意志があられるはずなのである。
私が探求できたことは、
煩悩的実在の人生の本質、世界の本質は、
「苦」であるという現象の真理と、
理性的実在の人生の本質と、世界の本質は、
「法楽」であるという理念の真理の両方があるということであり、
前者が厭世観の源となりやすく、
後者が楽天観の源となりやすいということである。
さらに、究極の絶対者は、
すべての人生と世界の幸と不幸、
光と闇とをすべて包みながら、
すべてを限りなく生長させてゆき、
同時に、限りなく芸術的に、
昇華してゆかんとされているのではないかということである。
かかる究極の絶対者を、
人生と世界の根底に把握することができたならば、
限りなく積極的に人生を生きてゆくことができるのである。
そこに、現象の真理である厭世観も、
理念の真理である楽天観も大きく包んだ、
大楽天観の哲学がうまれるように思うのである。
この大楽天観の哲学は、
大いなる究極の絶対者の御心を忖度したものであり、
その神髄は、「芸術的発展」にあるというえよう。
限りなく生長発展してゆきながら、
その過程で限りなく芸術的であること、
かかる観点から人生と世界を観じてゆき、
すべての与えられた存在を、
すべて「よきもの」として積極的に受けとめてゆくこと、
そして、かかる観点から、
「すべての経験を『よきもの』である。」と大楽天的に観じ、
芸術的に発展してゆくという視点が大切であると思う。
大楽天観の前では、すべてが光であり、
すべてが真であり、善であり、美であり、聖であり、
そして、すべてが絶対者の栄光の顕れなのである。

6-5「苦悩と絶対者の意図」天川貴之

2018年06月09日 | 哲学(本文)
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第六章 厭世観と楽天観について


第五節 苦悩と絶対者の意図

さらに、「人生と世界の本質は苦悩である。」という見解についても、
より高次なる立場から解釈しておきたいと思う。
「人生と世界の本質は苦悩である。」ということは、
通常の煩悩の内にある人間にとっては真理である。
この原理について、
何故このようになっているかと考察してゆくと、
そこに、絶対者の意志があられるといわざるをえないのである。
しかし、この絶対者とは、
ショーペンハウアーの述べるような「盲目的」な実在ではない。
限りなく合理的な叡智的実在である。
この地上は、あえて絶対者が、
煩悩に包まれたままでは苦悩の人生となることが、
予定されていると考えられるのである。
故に、かかる絶対者の配慮を忖度すれば、
地上のありとしあらゆるものは、
それがたとえ苦悩の源であっても、
積極的に受けとめなければならないということになるのである。
その意味で、人生の上でおこるすべてのことは無駄はなく、
すべては精神の糧であるといえるのである。
ある時は、精神を磨く砥石になって下さっているし、
ある時には、人生の芸術を彩る素材になって下さっているものなのである。

6ー4「人生の諸段階の弁証法的考察について」天川貴之

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第六章 厭世観と楽天観について


第四節 人生の諸段階の弁証法的考察について

それでは次に、厭世観と楽天観における、
人生の諸段階の弁証法的考察を論じてゆきたいと思う。
まず、あまり人生を経験しないで、
人生を深く見つめない段階における楽天観がある。
この楽天観は、底の浅い楽天観である。
これは、人生と世界に対する単純肯定の時代であるといえよう。
この段階においては、多くの場合、
自己肯定的な快楽的人生を送っている人が多い。
しかし次に、人生の途上で様々な苦悩を経験することによって、
人生を深く見つめ、特に、
人間と世界の暗黒部(例えば、エゴイズム、煩悩)を、
洞察することによって、
厭世観をもつ段階がある。
この厭世観は、ある程度、
底の深い厭世観である。
これは、人生と世界に対する単純否定の時代であるといえよう。
この段階においては、多くの場合、
自己否定的な求道的人生を送っている人が多い。
人生を真剣に探究する文学者や哲学者や宗教家が、
暗い人生観、世界観をもっていることが多いのは、
人生を深く探究した結果、
人生の暗黒面の真実が洞察されているからでもあり、
同時に、そこから抜けられないからである。
さらには、人生の本質、世界の本質を、
深く深く探究すると、
人間の本質にも光輝く理念があり、
世界の本質にも光輝く理念が、
横たわっていることが認識されてくる。
これらの光り輝く理念を観ずるためには、
まず何よりも、自己の内なる光輝く理念を発見し、
磨き出し、顕現させなくてはならない。
真に自己の理念が顕現した時、初めて、
人生の理念が観え、世界の理念が観え、
その結果、人生と世界が光輝いて観えてくるのである。
この段階に達した代表的な思想家として、
エマソンが挙げられる。
彼の楽天的な自己観、人間観、人生観、
社会観、自然観、宗教観などは、
すべて自己の理念を光り輝かせることによって、
洞察したものなのである。
また、すべてのものの根底に、
理念を観ずることが出来たヘーゲルもまた、
徹底した楽天観であるともいえる。
彼もまた、内なる理念を光輝かせることによって、
すべてのものを射照らし、
観ずることができた哲学者なのである。
この段階の楽天観は、
真に底の深い楽天観であり、
本物の楽天観であるといえよう。
それは、人生と世界に対する絶対肯定の時代である。
この段階においては、
真なる自己信頼に基づく、
法悦的幸福の人生を送っている人が多い。
このように、人生と世界を、
真に深く深く洞察したならば、
絶対的楽天観へと到達するのであり、
人生と世界の本質は、
限りなくよきものであるという真理を、
体得することができるのである。

6-3「両哲学を止揚した楽天哲学について」天川貴之

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第六章 厭世観と楽天観について


第三節 両哲学を止揚した楽天哲学について

そこで、この両者の厭世哲学と楽天哲学を比較検討してゆくに、
まず、根本的な実在観についてであるが、
大宇宙の摂理、大自然の摂理、
そして、人間の摂理をよくよく洞察してみた時に、
そこに、限りなく合理的な叡智的実在を、
認めざるをえないであろう。
故に、ショーペンハウアーのいう盲目的意志は、
究極の実在とはいえないと思う。
では、ライプニッツのような絶対者の存在を、
前提として考えてみると、
地上は調和し、幸福に満ち満ちているはずであるが、
地上の現実は、数多くの不幸や苦悩の存在で満ち満ちているので、
これをどのように位置づけてゆけばよいか、問題となる。
そこで、両者を止揚してみると、
叡智的絶対者を前提とした上で、
人間の本質とは、心の内奥に確かに、
絶対者と同じ理性が宿っていることが認められるが、
同時に、煩悩と自由意志を、
有した存在であることが洞察されるのである。
すなわち、地上に現れている不幸や苦悩は、
絶対者が創られたものではなく、
人間の煩悩の迷いに基づいた自由意志の行使の結果、
現れているものであると考えるのである。
この見解は、人間の煩悩を、
理性の発露によって統御でき、
人間が理性を顕現すれば、地上は調和し、
幸福で満ちてくるという人生観、
世界観に立つことになるので、
楽天観的哲学の方に入ると思われる。

6-2「ショーペンハウアー哲学とライプニッツ哲学について」天川貴之

2018年06月09日 | 哲学(本文)
理念哲学講義録~哲学的エセー~天川貴之
第六章 厭世観と楽天観について


第二節 ショーペンハウアー哲学とライプニッツ哲学について

例えば、厭世観の代表的な哲学者として、
ショーペンハウアーを挙げることができるが、
彼は、人生の根底にあるもの、
世界の根底にあるものは、
非合理的な盲目的意志であると述べている。
すべての根底にある形而上学的実在は、
盲目的意志であるが故に、
かかる実在の有限化、
具現化した人間の人生と世界は、
苦悩に満ち満ちたものとなるのである。
そして、ショーペンハウアーは、
地上の様々な不幸の実例、
例えば、戦場の光景や、病院の光景などを挙げて、
人生と世界が苦悩に満ち満ちていることを、
実証してゆくのである。
一方、楽天観の代表的な哲学者として、
ライプニッツを挙げることができるが、
彼は、人生の根底にあるもの、
世界の根底にあるものは、
賢明で善良な絶対者であると述べている。
すべての根底にある形而上学的実在とは、
合理的な絶対者であるが故に、
かかる実在の有限化、
具現化した人間の人生と世界は、
幸福に満ち満ちた世界となるのである。
ライプニッツは、
賢明で善良は絶対者を前提とした上で、
賢明であられるこらこそ、
あらゆる可能性の中で最善の世界を考えつかれ、
善良であられるからこそ、
最善の世界の中に人間を創られたと推論してゆくのである。

6-1「厭世観と楽天観について」天川貴之

2018年06月09日 | 哲学(本文)
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第六章 厭世観と楽天観について


第一節 厭世観と楽天観について

厭世観と楽天観について論じてゆきたい。
これは、人生の本質、世界の本質を、
根本的にいかに洞察するかという点において、
異なった観方が生じてくるというものである。
厭世観においては、人生の暗い面、
世界の暗い面が強調されて洞察されているし、
楽天観においては、人生の明るい面、
世界の明るい面が強調されて洞察されているといえよう。
実際の人生においても、世界においても、
明るい面と暗い面の両方があるといえるが、
どちらの方がより本質的であるかということが、
哲学上の課題となっているのである。
そして、人生の根底にあるもの、
世界の根底にあるものの洞察が、
その背景にあるといってよい。