みこころネット

ファチマ・クルセーダー、昔のカトリック書籍などを掲載します。

ファチマの聖母マリア 1-2

2016-09-28 15:36:23 | ファチマの聖母(考察)
平信徒でさえわれわれの祝せられた信仰を擁護しなければならない

われわれは429 A.D.に教会史におけるこのことのもう一つ別の例を持っている。エフェソにおける大主教であったネストリウスは満員の大聖堂の中で説教をしていた。その中で彼は祝せられたおとめマリアは神の母ではないと言った。

これは教会がその教義を決定する以前のことであったことを思い起こして頂きたい。大聖堂の中で立ち上がって、そしてネストリウス、会衆、そしてそこにいたすべての聖職者にこれは異端であると告げたのは大聖堂の中にいた司祭たちではなく、そこに居合わせた他の司教たちではなく、一人の平信徒であった。

その平信徒の主張が正当であると立証されたのはそれから2年後、431 A.D.年のことであった。彼の信仰の擁護はエフェソの公会議を開催する原因になった。その結果として、431 A.D.年10月11日に−それは1560年前のことであるが−聖母はエフェソ公会議の荘厳な決定によって真に神の母であると宣言されたのである。

そして聖ロベルト・ベラルミンについてもそうである。彼は単に聖人であるばかりでなく、教会博士でもある。彼はわれわれに、信仰が危機に瀕しているときには、一人の司教、あるいは一人の枢機卿、あるいは一人の教皇(彼は含めている)のうちからでさえ、その人は誰であろうと、公に非難されるとわれわれに告げている。

ところで、カトリック教会には列聖された数千人の聖人がいる。しかし、カトリック教会にはただ32人の博士しかいない。博士はまず第一に聖人である。しかし第二に彼はまた聖人たちの間で学問のある人でもある。そして彼の教説はそれが模範的であるということ、そして聖人たちの間においてさえ最も教訓的であるということを見るために二重に検討されてきたのである。

聖ロベルト・ベラルミンはそのような一人の人、そのような一人の聖人である。そして彼の特殊性は彼が教皇制の擁護者であり、教会が神によって建てられたものであることの彼の擁護のゆえに博士であるという点である。聖ベラルミンの例は、もしあなたたちのうちの誰かが「新たにされた」集会に出席したとすれば、今日教えられているものとは全く正反対のものである。「新たにされた」集会においては、例えば、あなたは、もし誰かある人が異端をとうとうと述べるならば、声をあげるべきではなく、彼を非難すべきではなく、親切な、友情にあふれた微笑みを維持することになっている、等々と告げられる。

これらの人々の多くは必ず善意をもって誤りに陥っている。われわれは彼らを敵あるいは悪意のある人と考えるべきではない。しかし、それにもかかわらず、特に、ファチマの第三の秘密が、信仰が内部から掘り崩されているがゆえに、われわれは危険な状態にあるということを告げているこの時期には真理は弁護され、そして信仰は擁護されなければならない。

第三の秘密は明かされなければならない

それが、聖母が第三の秘密が信徒たちに明かされるべきだと望まれた、そして今もなお望んでおられる理由である。あなたたちが多くの他の場所で告げられた嘘と違って、第三の秘密は教皇だけに宛てられたものではない。確かにそれは教皇に宛てられたものであるが、しかし彼だけに宛てられたのではない。それは全信徒に宛てられているのである。

私は、あなたたちのうちの多くの人々が1960年にはわれわれが第三の秘密の開示に対して持っていた期待を思い出すと確信している。その期待は、ファチマの司教が遅くとも1960年には、あるいはもしシスター・ルシアが死んだ場合にはそれ以前に明かすであろうとシスター・ルシアに荘厳に約束したがゆえに、根拠のないものではなかった。

そしてリスボンの総大司教・枢機卿は公式的に約束した。彼は、もしファチマの司教、ファチマの最初の司教ダ・シルヴァ司教が1960年以前に死んだら、彼が個人的にそれを見る、第三の秘密は信徒に明かされる、と公式に約束した。これは公式の記録に属する事柄である。それは歴史的事実の問題である。

ところで、フレール・ミッシェルはそのことを彼の書物の第3巻465-479ページに記録している。われわれが言っているほとんどすべてのことがわれわれの敵対者たちによって問題視されているので、あなたたちが参考文献を知ることは大切である。われわれはまたFatima Crusader Issue No. pages 18,19および39にこれらの多くの参考文献を挙げておいた。それゆえに、私はわれわれの信仰を擁護することの重要性のゆえに、第三の秘密の重要性を強調しなければならない。

われわれ各自は神がわれわれに与え給うた恩寵の程度に従って、われわれの能力、そしてわれわれの機会の程度に応じて、ファチマのメッセージによってばかりでなく、堅振におけるキリストの兵士としての、そして洗礼における神の子としてのまさにあなたの義務によって、カトリック信仰を擁護する荘厳な義務を持っている。

誰も同じ程度に信仰を理解するのではない。誰も同じ能力を持っているわけではないし、教えられる同じ機会を持っているわけではない。しかし、われわれすべてが知っている信仰についてのある基本的な事柄がある。

聖トマスはわれわれにこう告げている。使徒信条の条項はあからさまに信じられなければならない。もし誰かがそれらを否定するならば、たとえ彼が聖なる神学における博士であろうとも、使徒信条あるいはニケア信条において述べられたカトリック信仰のある条項を否定するならば、彼は非難されなければならない。そしてあなたは、彼がその誤りの中を歩み続けることに固執するならば彼と共に歩んではならない。

愛の使徒である聖ヨハネはローマの通りでマルキオンを悪魔の子として公に非難した人であった。それゆえ、もしあなたが神を愛し、そしてあなたがあなたの隣人を愛するならば、それはわれわれがつまらないものであるということを意味しない。それはわれわれが神を熱烈に愛し、そしてわれわれが神の意志に従ってわれわれの隣人を愛するということを意味する。

もしわれわれが善を愛するならば、そのときわれわれは悪を憎まなければならない。そのことは詩編44において我らの主について言われているように、善を愛することのまさに本性である。「あなたは正義を愛し、不正を憎まれました。神、あなたの神はあなたの同胞たちを越えて、あなたに塗油なさいました」。

そしてそれゆえ、悪を憎むことはキリスト者のしるしである。われわれは罪人を愛しなければならないが、しかしそれにもかかわらず罪を憎まなければならない。

信仰に反する異端と誤謬が撃退されなければならないのはなぜか?

異端は殺人よりも悪い。現在、われわれの時代にはそのことはいささか奇妙に、あるいは一つの誇張と響くかもしれない。しかし、それは完全に真である。そしてまさに正確に真である。というのは、殺人はただ身体を殺すだけである。それが悪いことは悪いのであり、私はそのことを全然軽視しようとは思わない。しかし、身体を殺すことは霊魂を殺すことあるいは霊魂を永遠にわたって地獄へと宣告することほどには悪くない。そしてそれが異端がすることである。

ひとたびある人が異端に陥るとき、もし彼がこのことを知りながらするならば、彼はすでに大罪を犯したということを、あなたは知っている。そしてたとえ彼がこのことを故意にしているのでないとしても、矯正されても、自らを正すことを拒むならば、そのとき彼は大罪に陥る。

ある人が信仰を失うとき、あなたは彼は無防備であると言ってもよい。というのは、罪人、大罪にある人(しかし、異端の罪に陥っていない人)は少なくとも自分自身のために祈る力を持っているからである。しかし、信仰を失う人は祈りをする信仰を欠いているゆえに自分自身のために祈ることができない。

そしてそれゆえ、聖母は彼らのために祈り、彼らのために犠牲をする人が誰もいないので、地獄に堕ちる多くの霊魂がいると言われるのである。彼らは彼らのために祈ってくれる人を持たない。そしてそれが、教皇ピオ十二世が指摘しているように(それは一つの大きな神秘である、しかしそれにもかかわらず真である)、救われる霊魂の数がカトリック者が神の恩寵とどのようによく協力するかということに依存している理由である。

それがファチマの聖母が罪人たちのために祈り、そして償いをするようにわれわれに願われた理由である。そして聖母がわれわれが重大な危険、われわれの信仰のこの危険に陥っているのをご覧になられるがゆえに、われわれに警告するために来られたのである。

われわれは今重大な危険に陥っている!

さて、私はこの危険は特に1960年に始まったということに言及することから話を始めた。われわれはどのようにしてこれがその年であるということを知ったのであろうか?よろしい、シスター・ルシアは「なぜ1960年にだけ秘密は明かされることになったのか?なぜそれを今明かさないのか?」と質問された。これはファチマ作家の一人、モンシニョル・バルタスが1946年にダ・シルヴァ司教のいる前で彼女にした質問であった。そして彼女は非常に興味のある答えをした。「そのときにはそれがいっそう明らかになっているでしょうから」。

1955年にオッタヴィアーニ枢機卿は第三の秘密についてシスター・ルシアに語った。そしてオッタヴィアーニ枢機卿は後で第三の秘密を読んだ。そして第三の秘密が一つの預言であるということを理解した。一つの預言がいっそう明らかになるということは、それが実現され始めるということ以外にはどう理解されるであろうか。そしてそれゆえ、第三の秘密は1960年に明かされ始めた一つの預言なのである。

われわれはまた同様に秘密のもう一方の別の終端を知っている。われわれがそれが止むということを知っている。それは聖母が「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が人類に与えられるでしょう」と言われるときに、聖母の言葉が実現された時に終わるだろうということを知っている。そしてこのことはまだ起こっていないのである。われわれは1960年と聖母の勝利の時の間にいるのである。そしてそれゆえ、われわれの信仰が今掘り崩されているということを特に忠告されるということはわれわれにとってよいことである。

アロンゾ神父は沈黙した。その生涯の最後の16年間をファチマの公式記録保管者として過ごしたアロンゾ神父はシスター・ルシアと話す多くの機会を持った。彼の死の前に、彼はその著作のいくつかを公刊させることができた。しかし、彼の著作の大部分−それは14巻にもなるが−は今日まで公刊することを許されていない。しかし、フォックス神父のような異端者たちは異端的なことを書くことができ、それらを公刊することができる。そして誰もそれについて何もしないのである。

現在10年間にわたってアロンゾ神父の14巻の書物は葬られて来た。それらは教会当局によって公刊を許可されていない。われわれが繰り返し証明したように、シスター・ルシアが過去31年間にわたって沈黙させられてきたのと同じである。

アロンゾ神父は、彼が死ぬ前に、ある神学雑誌において一つの短い論文を発表した。その中で彼は、第三の秘密はわれわれの信仰に対する諸危険(ラッツィンガー枢機卿もまた完全に是認した一つの事実)に言及しているということを記録した。アロンゾ神父はさらに先へ進み、第三の秘密は今日の教会内部での背教の状態として高位聖職者の罪に言及していると言った。

ところでシスター・ルシアは過去に、彼女が別の時にいるときに、第三の秘密についての誤った理論を論駁するために呼び出された。シスター・ルシアは今日までいかなる仕方でも第三の秘密についてのアロンゾ神父の分析を決して否定したり、あるいは攻撃したことはなかったし、あるいは訂正しようとしたことはない。

実際、1970年代の彼女の手紙の中に書かれたものを読むならば(フレール・ミッシェルは彼の書物の中でさまざまの手紙を引用している)、われわれはアロンゾ神父がこの説をありもしないことからでっちあげたのではないということを見ることができる。シスター・ルシアは教会において大きな責任を持った人々でさえ感染している悪魔的な方向逸脱について語っている。彼女はこのことを一度ではなく、多くの異なった機会に言っている。

 
聖ヨハネ・グアルベルトは公表する

7月12日が祝日である聖ヨハネ・グアルベルトは当時の教皇にフィレンツェの大司教がその職を買うことによって、すなわち、聖職売買によって得たということを告げようと努力した。教皇は、その時代の他の聖人、聖ペトルス・ダミアヌスがそうしたように、彼の言うことを聴いた。しかし、彼らは確信するに至らなかった。

それゆえ、聖ヨハネ・グアルベルトはヴァロンブローザ(私はイタリアで勉強しているときにそこを訪ねた)へと戻り、彼が言っていることが真実であるということを証明するための一つの奇跡をはたらくという神からの一つの特別の霊感をそこで受けた。それはあなたがあなたの霊感に確信をもたない限り確かに企てるはずのない、最も劇的な奇跡であった。

聖ヨハネ・グアルベルトは一つの大きな火を起こさせた。彼は町の人々すべてに来て、そして神が彼とフィレンツェの大司教の間を証言なさるのを目撃し、そして誰が正しいかを見るようにと呼び集めた。彼は人間が注意を払わないので彼の証人として神を呼び求めたのである。

聖ヨハネ・グアルベルトはフィレンツェの大司教は彼が持っていた高い職務に値しないというすべての人々に対する積極的な公の証明を約束した。彼は彼と悪しき大司教との間を判断なさるように神に呼びかけた。彼は彼の修道士たちの一人を彼が正しいという証明として、さもなければ確実な死から守るという奇跡を働いてくださるよう神に願った。

そしてそのようにこの火が起こされ、準備ができ、そして町の人々が集められたとき、聖ヨハネ・グアルベルトは兄弟聖イグナティウスに聖なる従順の下に、火を通って歩くように命じた。

今や神は巨大な篝火を通り抜けるこの人に奇跡を働かれた。彼はもし神が彼を守られなかったならば、明らかに死んでいたであろう。彼は反対側に傷を負わず、焼かれもせずに出て来た。そして人々は神が彼らに与えられたこの証言の前に彼らの義務を理解した。彼らは疑いのどんな影をも越えて、大司教が司教に任命されるために賄賂を使った悪い人間であるということを知った。

今やその大司教を町から追放することが彼らの義務であった。それが彼らがその同じ日に行なったことであった。

そしてそれゆえ、あなたたちに第三の秘密は重要ではない、あるいはそれはあなたたちに知らせるように宛てられたものではない、あるいはそれらの事柄についてあなたが為し得ることは何もないと告げる人々のために、聖ヨハネ・グアルベルトの時代のフィレンツェの人々が一人の悪い羊飼いから教会とフィレンツェの教区を救うために呼び出されたということを理解してほしい。

今日の教会にとっての危険は約千年前のフィレンツェの教区に降りかかったことよりもはるかに劇的であり、はるかに悪い。それが、まず何よりも危険が存在するということを理解することがわれわれにとってなお重要である理由である。われわれが危険に気づかないならば、われわれは何もしないであろう。そして第二に、われわれがすることが何もないとわれわれが考えるならば、われわれは何もしないであろう。明らかに、もし聖母がわれわれにとってすることが何もないと考えられたのならば、聖母はわれわれの信仰が危険に陥っている、そしてその危険はカトリック教会の内部から来ているということをわれわれに告げようとなさらなかったであろう。

第三の秘密は聖職階級を非難している

もしあなたたちがなぜ第三の秘密が明かされないのか、なぜシスター・ルシアが31年間にわたって沈黙させられているのか、なぜアロンゾ神父の14巻の書物が公刊を禁じられているのか、を知りたいのならば、それは第三の秘密が今日の聖職階級の多くの者の現在の方向を非難しているからである。そしてもしあなたたちがファチマの聖母があなたたちがそうすることを望まれなかったということを知ったならば、聖職階級に同調しないからであろう。それがわれわれにとってまず何よりも祈りと犠牲において聖母と我らの主へと立ち戻ることがなぜ緊急であるかの理由である。

聖ペトロが牢獄にいたとき、あなたたちが使徒行伝のうちに読むように、全教会は日夜彼のために祈った。そしてそれゆえ、神は天使を送って彼の足かせから彼を救われた。彼は一日二十四時間二人あるいは四人の看守の間にはさまれて手錠をかけられ、また足かせをはめられていた。これは人間にとって逃亡不可能な状況である。にもかかわらず、神は聖ペトロを解放された。

教皇と教会は教会の初期の時代、ヘロデの時代における聖ペトロのように、言ってみれば足かせをはめられている。そして聖母がわれわれにするように求めておられることは教皇のために祈り、犠牲をすることである。

例えばフレール・ミッシェルの書物の中で、第三の秘密を読むと、彼は三人の子どもの大きな犠牲を指摘してる。ちょうど7歳であったジャシンタがそのいとこと兄弟と共に8月13日に誘拐され、死の脅しの下に一般の犯罪者と一緒に牢獄に閉じこめられたことを考えてみなさい。彼女は泣き始めた。彼女は、死にそうになったからではなく、母親をもう見ることができないだろうから、泣いたのである。

彼女を慰めるために、シスター・ルシアは彼女がジャシンタに大いに興味があることを知っていたあるものでもって気を紛らわせようと努めた。彼女はこう言った。「私たちはこのことを犠牲として捧げることができるでしょう。私たちはそれを罪人たちのための犠牲として捧げることができるでしょう。私たちはそれを聖母の汚れなき御心に対する償いにおいて捧げることができるでしょう。私たちはそれを教皇のために捧げることができるでしょう」。ジャシンタが彼女の犠牲をどの意向のために捧げるかを尋ねられて、彼女が「私はそれをそれらのすべてのために捧げます」と答えたということに注目することは興味のあることである。ジャシンタは教皇についての二つの幻視をした。彼女はこれら二つの幻視を見た唯一人の人間であった。

一つは「飢えのために泣いているそして食べるものを何も持っていない人々でいっぱいの道路と野原。そして無原罪の聖母の前で祈っている教会における教皇。そして彼と共に祈っている大勢の人々」の幻視であった(Frere Michel, The Whole Truth About Fatima, Vol.III, page 716を見よ)。

そして別の時にジャシンタはこう言った。「私は両手のなかに頭を埋め、テーブルの側に跪いて、泣いている、非常に大きな家にいる教皇を見ました。家の外には多くの人々がいました。彼らのうちのある者は石を投げ、他の者は彼を呪い、汚い言葉を使っていました。かわいそうな教皇、私たちは彼のために大いに祈らなければなりません」(Frere Michel, The Whole Truth About Fatima, Vol.III, page 715を見よ)。

教皇についてのこれらの幻視はジャシンタに永続的な印象を与えた。ジャシンタは繰り返し教皇のために祈る必要を強調し、そして繰り返し繰り返し彼女自身そうすることを約束した。彼女は教皇のために多くの祈り、苦しみ、犠牲を捧げた(Frere Michel, The Whole Truth About Fatima, Vol.III, page 717-720を見よ)。

教皇はファチマのメッセージにおいて初めから終わりまで、特に第二の秘密おいて、そして明らかに第三の秘密において、取り上げられていると言ってもよいだろう。最終的にはすべては教皇にかかっている。それは非常に大きな責任である。それはいかなる人の手段をも越えた一つの責任である。彼の名前が何であれ、彼が教皇ピオ十一世であれ、教皇ピオ十二世であれ、教皇パウロ六世であれ、教皇ヨハネ・パウロ二世であれ、そうである。

それにもかかわらず、神は彼にこの巨大な責任を果たすことを期待されるのである。

奉献は紅海の奇跡のようなものではない。旧約における神の民の偉大な指導者を考えてみよ。モーセのことを考えてみよ。彼はファラオに民を神を礼拝するために行かせるように確信させたがその後に、ファラオは心を変えて彼らに対して彼の軍隊を送った。そしてそれゆえ、彼らは砂漠を出て、逃れる場所がなかった。彼らの前には紅海が横たわり、そして背後には彼らを殺す準備を整えて彼らに襲いかかろうとするエジプト軍がいる。神の民は鎧甲もなく、武器も持たずに、行く所がない。

神は紅海がどこにあるかを忘れておられなかった。また神はファラオの気が変わり、彼らを攻撃するために出発したということを忘れ、あるいは理解されなかったのでもない。しかし、むしろ、神はそれからより大きな善を引き出すために、言ってみれば彼らの歴史のこの頂点へと彼らをもたらされたのである。単にモーセの権威を再び言明するためばかりでなく、洗礼のシンボルや他の多くの事柄をわれわれに与えるためにである。

神はモーセの側での従順と信仰の行為を求められた。そしてこの従順の行為は人間的な知恵の光に照らせば非常に賢明であるとは思われなかった。(結局、神がもし語られなかったならば、彼らにとって逃げる、あるいは隠れる、あるいは散り散りになることがより賢明であったろう)。彼らは彼らの生き残りをモーセを通しての解放に依存するように求められたのである。

そしてモーセは信仰と従順のこの行為を求められた。モーセは彼が告げられたことをした。彼は紅海の上に彼の腕を伸ばした。そうすると海が開け、彼らは救われた。そして、歴史において実際に起こったその光景はわれわれが今日がおかれている現実のシンボルである。

新約聖書における神の民は、彼らがそのことを理解していようといまいと、取り囲まれている。そして彼らは大虐殺へと定められている。そしてわれわれは、教皇が最終的にロシアを奉献するというこの命令に従うとき、神のより偉大でさえある行為によって救われるであろう。

シスター・ルシアが説明したように、「聖母は何度も私自身に、そしてジャシンタとフランシスコに、ロシアは、もしわれわれがその前にそのかわいそうな民の回心を獲得していないならば、全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具である、ということを告げられました。」

懲罰の道具を用いる神という観念に驚く人々のために、私はエレミヤの時代に言及しよう。エレミヤはエルサレムの聖なる都は捕囚において取り去られる、これら悪しき異教徒であるバビロニア人がエルサレムに対する戦闘において勝利するであろうと予言した。

ところで、その当時エルサレムに住んでいた人、ダヴィデとその子孫への約束を知っていた人にとって、預言者エレミヤによるそのような予言は異端と思われた。それはメシアの到来の約束、そしてエルサレムの都への約束と調和させることは不可能だと思われた。

ある人々は信仰を自分たちは知っていると考えるその無知において、エレミヤが言わなければならなかったことを拒否した。

彼らはそれを拒否し、その結果彼らは肉体的な危険に陥った。彼らは虐殺され、また補囚へと連れ去られた。神は預言者たちを通じて、神が神の民を彼らの罪のゆえに罰するためにバビロンを用いたと説明された。

ファチマはロシアが世界を再び奴隷化すると予言している。これは今日のカトリック教会の光景である。全世界が悪魔的な共産主義に従属するということは、我らの主が「世の終わりまでのすべての日を通じて」その教会と共にいる、と約束されたのだから、不可能であると考える考えるカトリック者がいる。

聖母は共産主義には言及されなかった。聖母はロシアの誤謬に言及された。そしてロシアは全世界の懲罰の道具であろうということに言及された。

1946年にアメリカの作家で歴史の教授であるウィリアム・トマス・ウォルシュはシスター・ルシアにインタビューした。そして彼は彼女にこう尋ねた。「われわれは今日預言のどの段階にいるのですか?」そして彼女はこう答えた。「私たちはロシアがその誤謬を全世界に広めつつある段階にいます」。彼は彼女に尋ねた。「それはロシアが世界中のあらゆる国を征服するという意味ですか?」そして彼女は言った。「そうです。」ウォルシュ教授は彼女がその質問を理解しなかったと考えたので、彼女に対する質問の言葉を換えて、今度はこう言った。「そしてそのことはアメリカ合衆国を含みますか?」そして彼女は言った。「そうです。」

それゆえ、われわれにとって、あなたたちが、テレビ・セットをつけ、あるいは新聞を読む時に得ているいわゆるニュース(もっと正確に言えば誤った情報)は常に真理であるのではないということを理解することはよいことである。まず何よりもわれわれにロシアは回心しつつあると告げる教会内部の人々に対して答えるために、われわれはゴルバチョフが全国的なテレビにおいて自分は無神論者であると語ったということを指摘する。彼はこのことを、私がもっと正確には「クークークー」と呼ぶであろういわゆる「クーデタ」の後で言った。

 

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