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ファチマ・クルセーダー、昔のカトリック書籍などを掲載します。

ファチマの聖母マリア 2-2

2016-09-28 22:15:50 | ファチマの聖母(考察)
一致した熱心な期待

歳を取った人々はそのことを記憶しているが、1960年が近づくにつれて、全キリスト教徒は約束された秘密の公開を信頼して待った。そしてあなた達イタリア人(ここにいる)、あなた達は1959年に全国でマリアの汚れなき御心に対する献身の大運動が起こったことを知っている。数カ月間にわたってファチマのおとめがその跡を熱狂的な群衆を引きつけながら、そしていたるところで聖母の恩寵の奇跡、けた外れの熱狂、回心の奇跡、鳩の奇跡(注5)を振りまきながら、[イタリア]半島を縦横に通った。1959年9月13日には全司教がマリアの汚れなき御心にイタリアを荘厳に奉献した。不幸なことに、その運動は教皇ヨハネ二十三世によって殆ど鼓舞されなかったので、彼の沈黙と留保は注意されないままで過ぎ去ることはできなかった。

教皇ヨハネ二十三世は秘密を読まれ、そしてそれを公表することを拒否される

われわれは教皇が1959年8月17日にカステルガンドルフォで第三の秘密の封筒を、当時聖座の公式官であったモンシニョル・フィリップによって、彼のもとに持って来させられたことを知っている。教皇への秘密のこの伝達がこのように一つの公式的な性格を持ち、そしてその周りにある種の荘厳さを集めているということに注意しよう。そのことはその当時ファチマが遇せられた尊敬を示している。教皇ヨハネ二十三世は封筒を直ちに開けられなかった。彼は「私は私の告解聴聞者と共にそれを読むことを待っている」と宣言することに満足された。モンシニョル・カポヴィッラは正確にこう述べている。「数日後に秘密は読まれた。」「しかし、[ポルトガル語という]言語に特有の表現によって起こる困難のゆえに国務省のポルトガル語の翻訳者、モンシニョル・パウロ・ホセ・タヴァレスの援助が要求された。」彼は後にマカオの司教となった。後に教皇ヨハネ二十三世はそれを聖座の長官、オッタヴィアーニ枢機卿に読ませられた。

ここで簡単な括弧書きを入れておこう。確かにわれわれは「私的な啓示」を判断することは当局に属しているということをよく知っている。1960年には、教会がすでに公式に、グルーナー神父がさっきわれわれに思い出させてくれたように、議論の余地のない預言と輝かしい奇跡によって他のいかなる御出現よりもさらにより堅固に証明されたファチマの御出現の神的な真性性を承認していたということは明らかであった。シスター・ルシアを通じて伝えられた、いと祝せられたおとめの命令に一致して責任を負わされた二人の高位聖職者、レイリアの司教とリスボンの大司教は遅くとも1960年までには完全な内容を公表するように公式的に努力した。15年間以上にわたって、いかなる権威のある宣言も枢機卿、司教そして聖堂参事会員のガランバ師やバルタス師あるいはメシアス・ディアス・コエルホ神父のような有名なファチマ専門家たちによって世界中にこだましたこれらの繰り返された約束を反駁することはできなかった。教皇ピオ十二世の同意によって1942年に最初の二つの秘密の公開はさらに一つの前例をなした。その結果、信者はこの約束された啓示を最高の権威から期待する権利を完全に持っていたのである。彼らは少なくとも教皇の側での一つの正確なそして率直な説明に対する権利を持っていた。

悲しいかな、1960年2月8日に突然、ファチマの第三の秘密は公表されないということが簡単な新聞発表を通じて知らされた。それはそのまさに本性によって完全に無責任である一つの無名の決定であった。それを動機づけた理由は何であったのか?ヴァチカン・コミュニケはただつじつまの合わない、そして矛盾さえしたいいわけを提供しただけである。この無名の新聞発表の終わりの部分は裏切りでさえある。「教会はファチマの御出現を承認しているけれども、三人の羊飼いの子どもたちがおとめマリアが彼らに告げられたと言ったそれらの言葉の真実性を保証する責任を取ることを望まない」(注6)。このように、明らかにヴァチカンはダニス神父の支持され得ない立場(このつじつまの合わない論調の詳細な説明と分析は第一巻にある)(注7)を自らのものとしたばかりでなく、このコミュニケはさらに問題を生み出すものであった。それはシスター・ルシアの信頼性とファチマ・メッセージ全体に最も恥ずべき疑惑を公的にそして何ら妥当な理由もなしに投げかけているのである。

モンシニョル・カポヴィッラによれば、数人のローマの高位聖職者たちが相談を受けたということである。しかし、確かなことは責任を負っているポルトガルの当局者が明らかに無視されたということである。ヴェナンシオ司教もカレイェイラ枢機卿もローマによって相談を受けなかった、あるいは知らされなかったのである。

1960年2月8日のこの悲しむべき新聞発表を再読し分析すると、あるいはさらに、「チヴィルタ・カットリカ」紙においてカプリーレ神父によって6月に発表された憐れむべき記事を研究することによってさえ、ファチマの主題の関してローマ自身における責任ある当局者たちによって発言されてきたつじつまの合わないこと、不正確なことそして誤りの多くの例によってわれわれは落胆させられる。このことはあなたたちに、1960年までにその秘密を明らかにしなさいと要求された無原罪のおとめ、使徒たちの元后の明白な意志に何の注意も払わないという決定がいかに正当化されないものであり、正当化され得ないものであるかを、告げている。それがファチマ論争に大きな害を与えたこともまた確かである。

われわれは、いと祝せられたおとめに対する信心がカトリック教会のまさにふところにおいて目に見える仕方で、そして次に驚くべき仕方で減退し始めたのは「マリアの秘密」に対するこの公式の無視以後のこの時期からであったと言うことができる。これまで以上にシスター・ルシアの次の言葉が当てはまる。「祝せられたおとめは非常に悲しんでおられます。なぜなら、誰も聖母のメッセージに注意を払わないからです」。そしてこの誤りは数え切れないほどの結果をもたらすことになった、とわれわれは敢えて言わなければならない。なぜなら、ファチマの諸々の預言や命令を無視することにおいて無視されてきたのは、世界を前にしてあざ笑われてきたのは、神御自身だったからである。無原罪のお方、母親としての警告を通じて告げられた条件的な罰はそのとき悲劇的、不可避的に下されることになったのである。

II. 第三の秘密は明かされていないか?

オッタヴィアーニ枢機卿は、教皇ヨハネ二十三世は秘密を「一つの非常に深い、暗い井戸のようである資料保管所の一つの中に置いたので、その底には紙が落ち、誰ももうそれを見ることができない」と語った。われわれはシスター・ルシアの手書き原稿がどうなったかを非常によく知っている。われわれはそれの本質的な内容を発見することさえできる。1917年7月13日にわれわれの時代のために聖母がお与えになったこの警告の中で聖母はわれわれに何を告げておられるのか?まず第一に、われわれはこの秘密に関して四つの確実なそして客観的な事実を確立することができる。そしてそれらは秘密の解明においてわれわれの歩みを大いに進歩させることができるものである。

1. 第一の主要な事実:われわれは第三の秘密の文脈を知っている。厳密に言えば、1917年7月13日に完全に啓示された実際にはたった一つの秘密がある。ところで、この複合的全体について現在のところわれわれは四つの部分のうちの三つの部分を知っている。われわれは秘密の始まりの部分、最初の二つの部分、そして聖母がわれわれに約束しておられる「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、世界に平和の時期が与えられるでしょう」という結論によって確実に形成されている最後の部分を知っている。シスター・ルシア自身が秘密の第二の部分に関して、第三の秘密がたまたま挿入されることになると書いたのは、テキストにおいて「等々...」に続くこのすでによく知られた文脈においてである。そのようなことが最後の秘密の内容の発見において先へ進むことをわれわれに許すためにわれわれにとって一つの重要な道しるべである事実である。後者はその直接的な文脈と一致し、そしてファチマのメッセージの全体と調和的に一致しなければならない。

2. 第二の重要な事実:もしそれが啓示された状況がその基本的な統一性をわれわれに証明するならば、その書き下ろしのドラマティックな状況はそれ自身においてわれわれにその悲劇的な重大さを明らかにする。

3. 第三の非常に解明的な事実:1960年以来、諸教皇がそれを公表することを拒否してこられたのはその内容のせいであり、そしてただこの理由でだけである。

まず第一に、すでに見たように、教皇ヨハネ二十三世は全カトリック教会の熱狂的なそして切望的な期待にもかかわらず、それを公表することを拒否された。

パウロ六世はまっすぐに同じ態度を採用された。1963年6月21日に教皇に選出され、しばらく後に彼は秘密のテキストを要求された。このことはこの主題に関する彼の生き生きとして関心を証明している。誰も教皇ヨハネ二十三世がそれに関してしたことを知らなかったので、彼らはヨハネ二十三世の秘書であるモンシニョル・カポヴィッラに尋ねた。彼は手書き原稿がどこに置かれていたかを指摘した。教皇パウロ六世はその時点でそれを確かに読まれた。しかし彼はそれについて語られなかった。しかしながら、あなたたちも知っているように、1967年2月11日、ファチマ御出現の50周年が近づいたので、オッタヴィアーニ枢機卿は教皇の名において、ファチマの第三の秘密の主題に関して、それがまだ公表されないということを説明するために一つの長い宣言を作った。私の書物の中で、私はこのテキストを引用しそして分析した。ポルトガルの専門家たちに従って、私はどんな犠牲を払っても秘密を公表しないことを正当化するためにこの聖座の高位聖職者、教会における真理の至高の保証者がつじつまの合わないこと、そして明らかな虚偽を大量に集めることを強いられているということを検証せざるを得なかった(注8)。そして悲しいことには、われわれは1984年に彼の後継者であるラッツィンガー枢機卿によって述べられた理由はもはや首尾一貫していないということを見るであろう。

ヨハネ・パウロ一世はファチマの聖母に非常に献身しておられた方であった。彼は1977年にコヴァ・ダ・イリアへの巡礼に行かれた。そして非常に奇妙な事実であるが、シスター・ルシア自身が彼と会うことを要求した。それゆえにルチアーニ枢機卿はコインブラのカルメル修道院へ出かけ、この幻視者と長い間話をした。私はシスター・ルシアが彼と第三の秘密について語り、そして彼にその本質的な内容を明かしたということを検証する位置にいる。彼はその秘密によって非常な感銘を受けた。彼はイタリアに帰った時に周りの人々に、彼がどのように感動させられたか、そしてそのメッセージがどのように重大なものであるかを話した。彼はそれからファチマについて精力的な言葉で語りまた書いた。そして彼が明らかに聖人であると考えたシスター・ルシアへの感嘆と完全な信頼を表明した(私はこれらの未公刊の事実についてのすべての証明を第四巻において示すであろう)。教皇になる以前に、彼は明らかに何かあることをする前には世論を準備することを望まれた。不幸なことに、彼は何かあることを言うことができる前に悲劇的にわれわれから取り去られた。

ヨハネ・パウロ二世は1982年5月13日にファチマの巡礼に出かけられる前に、ポルトガル語に特有である、秘密のある表現を翻訳してもらうために教皇庁からポルトガル人の翻訳者の援助を求められた。それゆえに、彼もまた第三の秘密を読まれたのである。しかし彼もまた公表することを選ばれなかった。

最後に、われわれはラッツィンガー枢機卿がまた同様にそれを読まれたということを知っている。というのは、彼はイタリアのジャーナリスト、ヴィットリオ・メッソーリに、彼がそれを読んだということを語られたからである。ラッツィンガー枢機卿は、その内容を非常に異なった言葉でほのめかしながら、−それはわれわれにとって意味があるが−1984年11月と1985年6月の二度の機会に、それについて書いてさえおられる。私は自分の書物の中で、これら二つの続けて公刊された版の梗概について公刊し注解した(注9)。

4. 第四の主要な事実:第三の秘密の預言は1960年以来、われわれの目の前に現在の時点においては公表されていない。実際、ファチマの預言の実現には一つの時間表、一つの年表がある。

一方において、秘密の結論によって告げられた時間にはわれわれはまだ到達していないということは実際確かである。なぜか?そうされなければならず、そしていつかそうされるであろうように、ロシアがまだマリアの汚れなき御心に奉献されなかったからである。シスター・ルシアは1984年3月25日の行為の後でさえこのことを明らかに知らせた。ロシアはまだ回心していないし、そして世界は平和ではない、それから遙かに遠い!それゆえに、われわれはまだ預言の終わりにはいないのである。

他方において、第三の秘密において告げられた諸々の出来事は単にわれわれの未来に関係があるだけではない。なぜなら、われわれはもう一つの導きのしるし、すなわち1960年という年を持っているからである。聖母は秘密は1960年には公表されるべきことを要求なさった。というのはルシアはオッタヴィアーニ枢機卿に「1960年にはメッセージはより明瞭に現れるでしょう」と語ったからである。ところで、一つの預言を何の疑いもなしにある特別の日付以後からより明らかにするようになる唯一の理由はその実現の始まりである。そしてわれわれは「第三の秘密において聖母によって予言された罰はすでに始まりました」と言っているルシアからのもう一つ別の言明を持っている。

預言の出発点と終局点がこのように決定されたので、われわれは確実に、現在われわれは聖母が言っておられる時期に生きている、と言うことができる。それゆえ、われわれは第三の秘密を生きているのである。われわれはそれが告げている諸々の出来事の証人である。

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