雲の間にまに

日々想うこと感じたことをありのままに・・・

アマノコヤネノミコト

2008-11-30 21:52:17 | Weblog
ありがとうございます、元気の森もりです。

今年も、お伊勢参りに詣でました。
今年は、なんと、神島クルージング付きのプランでした。

すばらしいお天気で、すばらしい旅になりました。

そして、今年は、アマノコヤネノミコト神さまのお社を捜し参拝させていただきました。

検索した結果を添付コピーしておきます。
自分が忘れないために・・・





天児屋根神
アメノコヤネノカミ

別称:天児屋命、天之子八根命
性別:♂
系譜:天岩戸の前に集まった神々の一柱。興台産霊神(コゴトムスビノカミ)の子。中臣(のち藤原)氏の祖神
神格:言霊の神、祝詞(ノリト)の祖神
神社:牧岡神社、春日大社、大原野神社、吉田神社、蜂田神社、五社神社

 神社の祭礼や地鎮祭などの儀式の時に、神主が唱えるのが祝詞である。神に対して、その力に感謝し、たたえる言葉を申し上げ、さらなる幸運の導きを願うのだ。ただ、祝詞というのは、本来、祭祀などさまざまな儀礼の場で、神人つまり神懸かり者が、神の意志を伝える呪力のあるものであった。これに対して祝詞の中に寿詞(ヨゴト)と呼ばれるものがあるが、こちらは神に対して、祈願が成就したことを感謝してその力をたたえるという意味が含まれている。後者の方が今日の祝詞の意味合いに近いようだ。いずれにせよ、祝詞というのは、人間が神とコミュニケーションする手段だといえよう。
 その祝詞の祖神が天児屋根神である。由来としては、天岩戸事件の際の役割があげられる。詳しくは天岩戸隠れの項を参照していただきたい。とにかく、天岩戸の前で天児屋根神は太祝詞(フトノリト)を読み上げ、天照大神の心を大いに晴らしたということである。結局、天鈿女神の神楽などが功を奏して目的は達成された。ここで、祝詞を唱えるということは、祭を執り行ったということになる。そうすると、天児屋根神には神を奉祀するという役割がその本来の性格に備わっているといえるわけである。
 天岩戸の話は、言霊(コトダマ)信仰のルーツとも言われている。天児屋根神が天岩戸の前で唱えた祝詞の力は、言霊の持つ呪力に通じると考えられているのだ。言霊とは、言葉が神秘的な力と働きを持っているという考え方に基づき、その働きを司る神霊を指す呼び名である。言葉は人の心を動かし、いろいろな現象となって表れる。だから、言葉そのものには吉凶をもたらす神秘的な霊力がある、と考えるのが言霊信仰である。祝詞や寿詞は、その言葉によって吉をもたらし、凶を避ける行事ということになる。
 言葉を駆使するものは、天地も動かすことができると言ったら大げさだが、要するに言葉をしゃべると、その言霊の魔力によって物事が支配され、吉凶の結果が生じるということである。話術の巧みな人の演説などを聞いていて、その人が会場全体を支配している感覚にとらわれたことがないだろうか。こういったときには、理屈でなく感覚的に言霊の霊力を感じることができよう。今日ゲームにまで登場する魔法や、ヨーロッパの黒魔術の呪文、仏教のお経も、この言霊に働きかけて森羅万象を変化させるための言葉といえるだろう。

 天児屋根神が祝詞の祖神とされることは、この神が中臣氏の祖先神であることと深く関係している。「中臣」とは、神と人との間を取り持つという意味で、この一族は宮廷の神事を統括していた。それだけに政治的にも強大な力を持ち、しばしば一族の女性を天皇の后にしている。それほどの一族だけに、その氏族の伝承が記紀神話の中に多く入り込んでいる。そのひとつが祖先神の天児屋根神というわけである。
 祭政一致の古代においては、祭祀の権限を持つことが、すなわち権力を握ることであった。宮廷の神事で中臣氏がもっていた役職は、禊(ミソギ)と祓(ハラエ)を行うことだったようだ。その禊祓(ミソギハラエ(関連は禊祓へ))の祭儀を行うときには、神に捧げる言葉つまり祝詞を唱えたわけである。そういう役割からしても、神話の中での天児屋根神の活動は、ほとんど中臣氏の役職と一致しているということだ。


近鉄宮川駅近くにある『官舎神社』に参拝させていただきました。
お社につくと同時に、ねこバスが通る時のような風が吹き
風の神様がいらっしゃるにかなぁと思わせていただきました。


そういえば、今年の内宮の参拝も
白い布が、大全開に上がるほどの風が吹き
何かうれしい気分になりました。

でも・・・


ただ・・・


内宮の正殿の中の木が
昨年よりも元気なく感じたのが気になりました。

日本国の氏神様
どうぞ日本を、地球を御守り下さい。

家族とは

2008-11-24 13:50:12 | Weblog
ありがとうございます、元気の森もりです。

NHK大河ドラマの「篤姫」にはまっています。

11月16日の放送分は、5回も見ました。


あなたは、『家族』です。
あなたは、この徳川という家に集った家族である以上
私は、命をかけてもあなたを守らなければなりません。



私には、3歳年下の妹のほかに
実は、3人の兄弟がいたようです。
妹との間に       よしみー香玉(コウギャク)
5才くらい年下になる  ひろみー玉蓮(ギャクレン)
8才くらい年下になる  まさみー秋霜(シュソウ)

もしこの子らが、この世に生を受けていたら・・・
私は5人兄弟の一番上でした。
そして、もし、この子らの中に
男児がおり、長男として実家に育っていたら
私の人生も妹の人生も、全く今とは変わっていたでしょう・・・

(私のかわいい子どもたちとも、ここで会うことにはならなかったかも・・・)

そして、この子らも、私と同じようにこの世で生きていたら
おいしいものいっぱい食べられたり
きれいなものを着られたり
両親の愛に育まれるという経験もできたのに・・・


そう思うと、
生かされていることに感謝の気持ちをもち
生かされることにもっと責任を持たなければと思います。

私が生かされている意味と使命を知ること

そんなことまで考えてしまいました。

家族とは
人生とは
生まれるとは
生かされるとは



偶然ではなく
数億分の一の確率の必然なのですね。

日々、起こることに感謝します。

そして

これまで、私と出会ってくださっている全ての人に感謝します。


遍く自然

2008-11-20 23:03:32 | Weblog
ありがとうございます、元気の森もりです。

紅葉の美しい季節が、やってまいりました。
今年も季節は廻ってきます。

私は、どこへ流れ廻っていくのでしょうか・・・


何度も転世をくりかえし、同じような運命をたどるのか、
それとも、今世こそは、違った人生を歩み
魂の傷を癒すことができるのか


私はクリスチャンではありませんが・・・


以下、ウィキからの抜粋です・・・


   平和の祈り

主よ、わたしを平和の道具とさせてください。
わたしに もたらさせてください……
憎しみのあるところに愛を、
罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、
誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを。
ああ、主よ、わたしに求めさせてください……
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活するからです。
『フランシスコの祈り』(女子パウロ会)より


以上、ウィキの「アッシジのフランチェスコ」の記事からの抜粋です。

アッシジのフランチェスコは、フランシスコ会の創設者として知られるカトリック修道士で、悔悛と神の国を説き、中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりでなのだそうです。

フランチェスコというのは、「フランス風」という意味で、
父親がイタリア人なのにフランスびいき(?)であることからつけられたのだそうです。
母親がすでに「ジョバンニ」と名づけているにもかかわらず
そうつけたのですから
父親は、よっぽど、フランス好きだったのかも

この方は「対ペルージャ戦」に参加していたそうです。

って、ドコ対ペルージャの戦いだったのかな



フランチェスコは、太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」として主への賛美に参加させ、はては死までも「姉妹なる死」として迎えたのだそうです。


人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活する


自分を捨ててこそ
自分を忘れてこそ
赦してこそ
死んでこそ


私は、キリスト教信者では、ありませんが・・・
何故か、忘れたくない祈りです。

ダライ・ラマ

2008-11-07 01:38:51 | Weblog
ありがとうございます、元気の森もりです。

私の大好きなブロガーさんに『torut21』さんという方がおられます。
ブログの名前は『風に吹かれすぎて』

『風に吹かれて』でもなく『風になって』でもなく
『風と共に去りぬ』でもなく
『吹かれすぎて』という表現に、何故かはまってしまい
妙に、切なさやら、親近感やら、共感やらを得てしまい
よく、お邪魔させていただいています。

その『風に吹かれすぎて』のブログに
torut21さんが、ダライ・ラマの講演会に行かれた記事が載っていました。

調べてみると、ダライ・ラマの講演会が東京と北九州であったそうです。

北京オリンピックの開催までは、あんなに騒いでいた
中国とチベットの問題ですが
どうなってんでしょうねぇ。

チベット仏教には興味あるけど勉強はしたことない森もりですが
ラサの宮殿には、行ってみたいと願っています。

ところで、ダライ・ラマの講演ですが
北九州での演題は『幸せへ導く、慈しみのこころ』というだけあって
キーワードは『compassion(慈悲)』だったようです。

『慈悲』・・・難しいです・・・




そして、他の事で、過去記事一覧を見ていたら
なんと、非公開の記事のタイトルに
ダライ・ラマを発見!

自分で忘れないようにと思って
非公開でメモってあった記事なのに
すっかり忘れていました。

2008年3月16日でした。
そこには・・・



『自信を喪失してはいけません。人間は皆、同じ能力が備わっています。「私は価値の無い人間だ」と考えるのは、間違っています。全くの誤りです。自己を欺いているのです。私たちは誰でも考える力が備わっています。これ以上、何が欠けているのでしょうか。』



そう載っていました。


私たちは誰でも考える力を持っているのです。
自信を喪失なんてする前に
この難問をクリアすべく考えねばなりません。

そう、できない原因などないのです。
『Yes,we can!!』です。(これは、オバマです。)




どこから転載した記事(言葉)でしょか・・・
それすら忘れてしまいましたが
この機会に、ここに公開しておきます。

ダライ・ラマです。
オバマではありません。

凹む。。。

2008-11-06 21:51:11 | Weblog
ありがとうございます、元気の森もりです。

久しぶりに、体調すぐれず、凹んでました。。。
体調といっても
歯茎の奥が膿み、そこが熱をもっていたための発熱でした。




原因は・・・





一つ





部屋の電気を朝までつけっぱなして
ソファで眠ってしまうから・・・





以前もこれで、歯茎を腫れさせました。

「今日は、歯茎が腫れないぞ!」と思った日は
高速でスピード違反をして、罰金を払いました。

つけっぱなして寝ると、必ず痛い目にあいました。

だから、ずっと気をつけていたんです。


地球防衛隊の隊員として生きるために
マイ箸・エコバッグを持ち
洗剤やシャンプーにも気を配り
冷房や暖房の設定温度も守り
ゴミもしっかり分別
大好きな車でのおでかけも極力、バスや電車に替え
ペットボトル飲料を買わなくてすむように水筒持参
などなど


なのに




省エネに反する電気の朝までつけっぱなし




1日目
あらっ!?やっちゃったけど、大丈夫やわ!



2日目
また、やっちゃった!!
でも、歯茎はなんともないし
凶な結果もないぞ!



3日目
さすがにやばいよね?!
でも、なんともないね。




と3日間続けてやっちゃったもんやから
最初に発熱から始まり
段々、歯茎にきちゃいました。
3日分、まとめてきたので
その痛さと腫れ様といえば
破格ものでした

4日間、熱が続きましたが、仕事は休めず
主食は、豆乳&バナナにミックスジュース
ダイエットを志してはいませんが
おかげで、すっかりダイエッター並みに痩せちゃいました。
10日たち、やっと、やっと、本調子に戻ってきましたという次第です。


心引き締めて、改心するきっかけをありがとうございます。