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東洋に浮かぶイギリス、香港

2022-11-11 15:03:40 | 旅行

アジアを代表する世界都市といえばどこが思い浮かぶでしょうか?

経済力世界一の東京か、東南アジアの雄であるシンガポールか、はたまた今やアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となった中国の首都北京か…

 
もしくはアジア最大級の金融拠点、香港の名前も必ず上がってくるでしょう。
香港は中国南部にある世界的な金融センターのひとつで、「100万ドルの夜景」を作り出す密集する超高層ビル群、ショッピングセンターに軒を連ねる高級ブランドショップ、絶品料理の宝庫である広東グルメで知られており、日本人には観光地としても知られています。
 
しかしこの香港、1997年まではイギリスの植民地となっていたことは、若い方の中では知らない人もいるかもしれません。
 
何故この東アジアの狭いエリアのみがポツンとイギリスの植民地となり、世界の金融センターになったのでしょうか。
 
 
さて、いまでこそ香港は中国南部のみならず世界的な大都市のひとつに成長しましたが、
かつて中国南部の中心都市といえば数千年前から広州でした。
現在でも広州は華南地域の中心都市で、北京、上海とともに中国本土の三大都市にも数えられます。
この広州は単なる地域の中心都市であるだけでなく東南アジアやインド方面からの玄関口ともなっており、
インドシナやインド洋地域の国々との貿易の拠点としての機能も持っていました。
 
明代の海禁政策後、清代になった17世紀終盤からはインド洋方面からヨーロッパ勢力も来訪するようになり、
広州では清朝による厳しい規制のものとヨーロッパ諸国と中国との貿易も行われるようになっていきます。
 
イギリスもそんな中国と貿易をはじめたヨーロッパ諸国の一つで、
中国からは高級品である陶磁器や絹、茶などを大量に輸入していました。
一方でイギリスから中国へ輸出出来ていたものとしては植民地であったインドの綿花や綿製品など比較的安価なもので、
また中国でも当然生産できるものだったため中国もそんなに買ってはくれません。
 
つまりイギリスは大量に輸入して少しだけ輸出するといういわば大幅な貿易赤字状態になっていきます。
 
このままではイギリスの富がどんどん中国へ流出してしまう。果たしてどうしたものか。
そこでイギリスは考えました。なにか中国人が欲しがる、高いものを中国に売れないか・・・。
 
「そうだ、アヘンを売ろう!」
 
アヘンとはケシの実から採取される果汁を乾燥させたもので、まぎれもなく麻薬です。
イギリスはこの貿易赤字を解消するために、インドで取れたアヘンを中国に売ることにしたのです。
これにより中国には大量のアヘンが流入することになり、港町などを中心にアヘンが蔓延しはじめます。
 
当然ながら清朝はこのアヘンを輸入禁止にするなど厳しく取り締まるようになりますが
イギリスは官吏を買収するなど密貿易を続け、やがてイギリスは貿易赤字から貿易黒字へ転換するほどの量のアヘンを
中国へ密貿易するように。これに対して中国は外国商人にアヘンを持ち込まない旨を記載した誓約書を提出させたり、
国内のアヘンを焼却したり無害化したりとアヘン蔓延を食い止めようとするのですがこれにイギリスは反発。
 
「そうだ、戦争をしよう!」
 
というわけで、他国に麻薬を密貿易しておきながら対策をされると戦争をしかけるというまさにイギリスらしい鬼の所業で
イギリスは清へ出兵を行い、華南沿岸地域を中心に各所を次々と制圧しこの戦争に勝利します。
これが1840年に起こった世に言うアヘン戦争というものです。
 
その結果イギリスと清朝は南京条約を締結し、上海などの開港や賠償金の支払い、
そして香港島のイギリスへの永久割譲が定められました。
これが香港がイギリスの植民地となった第一歩となります。
 
これに調子に乗ったイギリスは再びフランスと結託して清朝にいちゃもんをつけ戦争をしかけます。
こちらが1865年に起きた第二次アヘン戦争、またはアロー戦争と呼ばれるものです。
この戦争の結果、香港島に加えて九龍半島もイギリスへ永久割譲されることになります。
 
さらに列強諸国の中国進出が進んだ1898年、九龍半島よりさらに北部の深圳河以南の地域、
いわゆるNew Territories(新界地区)の99年間の租借に成功し、現在の香港の基盤が完成するのです。
 
 
こうしてイギリスのけっこう無茶苦茶な戦争の結果香港はイギリスの植民地になり、
イギリス資本主義のもと華南貿易の拠点として大きく発展していくことになります。
香港政庁により統治で競馬場や大学が開設されたほか後に極東最大の銀行となる香港上海銀行が創設され、
1935年には香港ドルが発行されはじめるようになります。
 
一方でこの20世紀初頭の中国における経済や金融の中心地は香港や広州ではなく上海であり、
ヨーロッパ列強のほか日本やアメリカが上海へ進出、東洋のパリと謳われ民族資本家が台頭するようになります。
この時はまだ香港は世界都市ではなく、あくまで大英帝国のアジアの拠点のひとつにすぎなかったのです。
 
 
ここから香港が世界の金融センターに発展していくのは第二次世界大戦後になってから。
大戦が終わり東西冷戦という新たな対立構造が出来上がったことによるものです。
 
 
 
さて、第二次世界大戦中の日本軍による占領から戦後の発展についてはまた次の記事で。


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