アメリカの試される大地、アラスカ。
日本からはグアムやサイパンに次いで距離の近いアメリカ領のひとつとなっています。
このアラスカ州最大の都市といえばアンカレッジ市であり、アラスカの経済の中心地であるだけでなく、
北米を代表する港湾都市となっています。
いまの若者たち、とくに30代以下の人たちにとっては特に特別聞いたことがある都市ではないかもしれませんが、
特に1970年代から1980年代にかけて海外に行かれた経験がある方には非常になじみのある名前だと思います。
この記事では現在でもアラスカ経済において非常に重要な役割を担っている航空運輸についてお話をしましょう。
さて、第二次世界大戦後、日本はアメリカを中心としたGHQの占領下におかれることになり、
その後日本が国際社会に復帰した1950年代前半にかけて英国海外航空やエールフランスなど
ヨーロッパの航空会社も日本への乗り入れを始めていました。
しかし時はすでに冷戦期に突入しており、日本はアメリカや英仏などとともに西側諸国サイドにいたため、
ソ連や中国など東側諸国の上空を飛行することはできませんでした。
また当時はまだ航空機の性能も今ほどはではなく東京から西欧まで直行便で飛行することができなかったため
ロンドンやパリからは中東や東南アジアなどの都市を複数経由して日本までの航空路を伸ばしていたのです。
例えば東京ロンドン間のフライトの場合は直線距離では東京から北方向に飛行してロシアのシベリア上空に入り、
シベリアをひたすら西方のモスクワ方面へと飛んで行ったのちに北欧上空からロンドンへ向かうのが最短ルートとなります。
しかしロシア、当時のソ連上空を飛ぶことができなかったことからソ連の南側のルートを通ることとなり、
1952年のロンドン発東京行きの便はロンドンを出発したのちローマ、カイロ、バーレーン、カラチ、ニューデリー、カルカッタ、
ラングーン(現ヤンゴン)、バンコク、マニラと合計9か所を経由して東京へ向かっていました。
この「南回りヨーロッパ線」は東アジアへ乗り入れるヨーロッパの航空会社はもちろんのこと日本航空や大韓航空など
東アジアからヨーロッパへ向かう航空会社も利用していましたが、利用者からも航空会社からも評判はいまひとつでした。
というのも、この南回りヨーロッパ線は乗り継ぎが多いこともありかなり時間がかかってしまいます。
乗客にとっても苦痛な長時間フライトであることはもちろんのこと、乗員を管理している航空会社にとっても
途中の経由空港で乗員の交代などが複数回行う必要があるため人員管理が非常に複雑になってしまいます。
経由地によっては政情不安や天候などで遅延や欠航となってしまうこともあり、
また当時はまだまだ発展途上国であった地域を経由するため空港設備も先進国に比べて貧弱でした。
そこで考え出されたのが東京からカムチャッカ半島を回り込みアンカレッジに向かい給油、
その後北極圏やグリーンランド上空から西欧へ向かうという「北回りヨーロッパ線」でした。
この北回りヨーロッパ線では4か所から5か所の経由をしていた南回りヨーロッパ線に比べると
経由地がアンカレッジ1か所のみとなるため時間も人員管理の負担も大きく改善されることになりました。
そのため1960年代には多くの航空会社が南回りから北回りへとルートを切り替え、
欧州線のみならずアンカレッジ経由からアメリカ東海岸などに向かう北米線が加わり
毎日多数の航空便が東京とアンカレッジの間を飛行するになります。
特に日本航空は最盛期は貨物便を合わせると1日10便以上の航空便を東京とアンカレッジの間に飛ばしており、
アンカレッジ空港には多数の日本人が乗り継ぎのために訪れることになります。
そのためアンカレッジ空港には日本人を対象にした免税店やうどん屋がオープンするなど
欧米へ向かう多くの日本人に利用されることとなったのです。
ご家族が日本航空にお勤めであった劇団ひとりさんもアンカレッジに住んでいたことがあります。
しかしながら1980年代後半に入ると、外貨獲得のためソ連が上空を西側諸国の航空会社にも開放するようになります。
また航空機の性能も向上し、東京からロンドンやニューヨークなどへ無着陸で飛べるようになります。
その結果航空各社はアンカレッジ経由便を相次いで直行便へ切り替え、
1990年代初頭にはすべてのアンカレッジ経由の旅客便が姿を消すことになるのです。
そのため現在ではアンカレッジ経由便はおろか東京からアンカレッジへの直行旅客便自体がなくなっており、
東京からアラスカへのアクセスはシアトルなど北米の都市を経由していく以外にありません。
時代が進み世界が狭くなったといわれますが、アラスカに関しては逆に日本から遠くなったといえるかもしれません。
ではアンカレッジ空港が以前の賑わいを失ってしまったか?と言われたら実はそうではありません。
現在アンカレッジ空港は世界的な貨物ハブ空港となっています。
現在アンカレッジ国際空港はメンフィス空港や香港国際空港などに次ぐ貨物取扱量を誇り、
フェデックスやUPS、そして日本の日本貨物航空などもここアンカレッジにハブを置いているのです。
貨物便は旅客便と異なり、「いかに多くの貨物を一度に積載することができるが」がポイントになります。
そのため東京から遠方へのフライトでも積載量を抑えて直行便として運航するよりも
途中で経由してでも貨物を限界まで満載して飛んだほうが運航効率がいいのです。
またアンカレッジは北極圏近くに位置しており、東京やニューヨーク、ロサンゼルス、香港、パリ、ロンドン、フランクフルトなど
北半球のどの主要都市へも10時間以内のフライトで到着することができます。
そのため周辺には大きなマーケットがなくとも貨物空港のハブとしては非常に有能だったりするんです。
さて、ここでアラスカと飛行機にまつわる逸話を一つご紹介しましょう。
1971年秋、昭和天皇が香淳皇后同伴にて、初のヨーロッパ外遊に出掛けられます。
昭和天皇ご自身は皇太子時代の1921年にイギリスやフランスなど欧州訪問を行っていますが、
天皇に即位してからは初の外遊で、また歴代の天皇で即位後に日本国外を訪問した初めての機会となりました。
この時ベルギー、イギリスなど欧州各国を日本航空機で訪れた両陛下でしたが、
ヨーロッパへ向かう際に給油と休憩のためにアラスカにあるエルメンドルフ空軍基地に立ち寄ります。
その際に日本航空機から空軍基地に昭和天皇が降り立った瞬間が史上初めて歴代天皇が外国の地を踏んだ瞬間でした。
なおこの時にワシントンD.C.からはニクソン大統領が駆けつけ、昭和天皇との会談を行いました。
給油のための立ち寄りにも関わらず大統領がやってくるというのは歓迎の印のようにも見えますが、
実際にはニクソン大統領の訪中によりこじれた日米関係を修復するために企画されたとして
一部から批判された歴史も持っています。
近年ではめっきり減ってしまったアンカレッジ便ですが、現在でもチャーター便で運航がされている場合があります。
またフライトレーダーでは多くの貨物便が東京やソウル、上海などからアンカレッジへと飛んでいます。
かつての面影とは違った形で活躍するアンカレッジ国際空港、一度訪れてみたいものです。
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