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東西に分かれた運命の都市ーベルリン

2022-12-11 22:12:23 | 旅行

ヨーロッパを代表する世界都市のひとつ、ベルリン。

現在でこそドイツはもちろん中央ヨーロッパを代表する都市として

世界中の人々が訪れ、居住する都市となっていますが、

1990年代初頭までは西と東に分断されていたのは皆さんもご存知でしょう。

 

前回の記事ではこのベルリンの黎明期からドイツの首都となり、

第二次世界大戦で瓦解するまでをご紹介しました。

今回はこのベルリンの歴史で避けては通れない、

冷戦期における東西分断から統一、そして現代までをご紹介しましょう。

 

 

1945年5月2日、ベルリンのドイツ軍は攻め込んできたソ連軍に対して無条件降伏を行い、

10万人以上の死者を出したベルリン市街戦は終了し、ベルリンは陥落します。

そしてその約1週間後の5月8日にドイツは連合国側との無条件降伏文書に調印し、

ここにドイツは第二次世界大戦において正式に敗戦することとなります。

 

その際敗戦しドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国によって分割統治され、

さらのその首都ベルリンも上記の4カ国で分割統治される予定でした。

これはあくまでベルリンというひとつの都市を4カ国で分担して統治するというもので、

ベルリンという1つの都市を4つの都市に分割するものではありませんでした。

 

しかし第二次世界大戦末期からは米英仏とソ連との対立が鮮明になり、

資本主義諸国が中心の西側と社会主義諸国が中心の東側諸国が対立するという

新しい世界秩序が構築されていき、それはドイツ統治も例外ではありませんでした。

 

この敗戦したドイツに対して、ソ連はきっちり戦時賠償金を請求することを主張します。

もちろんドイツは激しい戦火に晒され国土はボロボロであり

とても「はいどうぞ」と支払える状況ではありません。

そのためソ連はドイツを社会主義に基づく計画経済の下に復興を行い、

その過程でドイツから戦時賠償金の返済を行わせようとしたのです。

 

それに対して米英仏の西側諸国は復興を最優先することを主張します。

つまり戦時賠償金は後回しにして、とにかくドイツへ支援や投資を行い、

ドイツを自由経済の下に経済回復を軌道に乗らせようとしたのです。

 

まさに社会主義と資本主義のイデオロギーの激突というわけです。

 

またこのドイツ政策以外ににもアメリカはヨーロッパの共産化を防ぐため、

西欧だけでなくギリシャやトルコなどへの支援を表明しソ連に対する封じ込め政策を進めます。

一方ソ連もドイツにおいて社会主義政策に基づく土地改革や通貨改革を行います。

こうした対立を受けて首都ベルリンの統治を主導権をどこが握るかという問題に発展し、

ソ連は周辺がすべてソ連の統治地域(その後の東ドイツ)であるという地の利を生かし、

ソ連統治地域に囲まれている西ベルリンへの交通制限を課すことを発表します。

逆にいえば第二次世界大戦直後は東西ベルリンは自由に行き来が出来たということなんですね。

 

それに対抗するべく西側諸国は米英仏の3カ国の統治地域のみにおいて通貨改革を実施、

ソ連はこれに激しく反発しさらに東西陣営の対立が激しさを増していきます。

そしてソ連は1948年6月、西ベルリンへの道路はもちろん鉄道や水路を含めた

全ての陸路と水路を封鎖してベルリンを陸の孤島にすることとなるのです。

これが世に言う「ベルリン封鎖」です。

 

 

このベルリン封鎖により、西ベルリンにはまったく物資が入ってこないことになります。

いわば兵糧攻めのようなものですね。

ソ連はこのように西ベルリンを孤立されることで西ベルリン市民の不満が鬱積し、

やがてそれが社会主義革命につながることを期待しました。

もしそこまでいかなかったとしても、200万人の西ベルリン市民を支えるだけの

物資を陸路と水路を使わずに輸送することは不可能であり、

いずれ西側諸国は西ベルリンを手放さざるを得ないというソ連の目算だったのです。

 

しかしこのソ連の目算は残念ながらはずれることとなります。

この記事では封鎖されたものとして「陸路と水路」という表現を使ってきましたが、

これには意味があり、実は「空路」は封鎖されていなかったのです。

西ベルリンはドイツ西部の米英仏の統治地域との交通のため、

ドイツ西部と西ベルリンをつなぐ3本の航空路を「ベルリン回廊」として

ソ連統治地域の上空を通過することを認めていました。

このほか西ベルリンとドイツ西部との間には高速道路アウトバーンが4本、

鉄道路線が4本それぞれ交通として確保されていましたが、

この高速道路と鉄道路線はベルリン封鎖の対象となったのにも関わらず、

3本の航空路は封鎖対象とならず依然として交通が確保されていました。

これはソ連政府も西側諸国との全面対決は避けたかったということと、

空路のみでは西ベルリン市民を支える物資の輸送が出来ないと判断したからです。

 

しかしここで屈してしまったら資本主義諸国の名折れ、

アメリカはこのソ連に対抗すべくこの残された空路を使って

西ベルリンに大規模な物資空輸作戦を決行することになります。

これがのちに「ベルリン大空輸作戦」と呼ばれるものです。

 

 

実際に西ベルリンでは封鎖直後から食料や物資の欠乏に喘ぎます。

この西ベルリンを支えるために必要な物資は食料や燃料なども含めて

1日あたり4500tあまりとされ、とても通常の輸送体制では

この大量の物資を輸送を賄うことなど出来ません。

 

そのためアメリカはC-47やC-54などの輸送機を本国からも大量に派遣し、

イギリスなどから派遣された輸送機とともに西ベルリンへの物資輸送任務に就任します。

またアメリカ本国ではこのベルリン回廊を模した飛行ルートを訓練ルートとして開設し、

この任務につく乗務員の訓練が行われるようになります。

このほか物資の積み下ろしや物資の手配なども体系的に整えられていき、

急速に西ベルリンへの大空輸作戦が整えられていくことになるのです。

 

こうした西側諸国の支援により西ベルリンへの物資輸送量は急激に増加し、

封鎖から半年後には1日あたり5000t以上の輸送量を確保することとなります。

またアメリカ軍は輸送中の機内から西ベルリンへパラシュートをつけた

お菓子を播くなどしたため西ベルリンではアメリカの好感度が非常にあがり、

ソ連の目算とは逆に西側諸国への信頼が絶大になっていってしまいます。

 

そのためソ連はこのベルリン封鎖作戦を失敗と認めざるを得なくなり、

封鎖から約1年後の1949年5月12日に封鎖は解除されることとなります。

 

この封鎖により当時主力であったC-47やC-54などの輸送機のほか、

より大型のC-74やC-82などが試験的に導入されるなど

大型輸送機の技術革新に大きな役割を果たしたほか、

3本の航空路で数分単位でやってくる航空機をいかにして捌くかという

航空管制システムにも影響を及ぼすこととなり

ソ連にとってはまさに「大失敗」といえる結果になってしまったのです。

 

こうして西側諸国と東側諸国との対立が決定的になり、

1949年にそれぞれ西ドイツ、東ドイツがそれぞれ成立し、

東西冷戦の下ドイツが東西に分断されることになり

それに伴いベルリンも東西に分かれることになるのです。

 

東西ドイツ分裂後のベルリンについてはまた次の記事で。

 



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