4月22日京都から妻は福岡へ、私は東京へ
福岡から兄の友人Nさんと浜松町モノレール駅で合流、一緒に熊谷市郊外にある兄のお墓まで甥っ子のA君の車の運転でお墓参りをして来ました。
4月23日(水)友人の会社訪問、K君の計らいでスカイツリー展望台レストランで食事を頂いた。
順番を待つことなく優先で展望台へ、今日は昨日の雨後の快晴、幸運にも345mからの見晴らしは良かった。
眼下の道路、ビル小さく、車はプラモデルのように見えた。
雲一つない好天気でありながら遠くはスモッグなのか、昨日の雨で水蒸気なのか視界が良くなかった。
展望台のガラスの清掃が定期的に行われている。大変な作業に思えた。
夕方は実弟と久しぶりの再会、夕食しながら楽しいいひとときが過ごせた。
本日の夜は米国オバマ大統領が国賓として来日することになっていた。首都圏の高速道路は通行止め、交通機関も厳戒態勢、空港、各駅のコインロッカーは使用禁止、そのためか比較的スカイツリーの観光客も少ない様に感じた。
帰路は羽田から福岡へ、当然空席を利用したシニア割引、日本中,目下移動、沖縄に片道12900円で行ける。時間を気にせずJALもANAも乗れる優遇料金だ。
午後7時55分発で100席ほど空席があった。
自宅に11時半過ぎ帰り着いた。
4月5日(金)国指定の史跡岡城跡、桜も満開過ぎて平日のためか静かな城跡であった。
荒城の月の音楽を聴きながら、小鳥のさえずり、桜と若葉が日差しが当たり気持ち良かった。
城跡は小高い山に有り、東西南北に見晴らしが良く、東西に伸びる2.5kmもある城域の大きさに新ためて驚いた。
歴史[編集]ウィキペディアフリー百科事典添付
岡城の築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。
伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族[1]の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。一方、『豊後国志』[2]によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという[3]。天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている[4]。
滝廉太郎(別資料)
明治の作曲家。「荒城の月」「花」で知られている。吉弘,正子の長男として東京で生まれ,父の転勤にともない横浜,富山,東京,大分へと移り住む。竹田で高等小学校を卒業,上京して明治27(1894)年,東京音楽学校(東京芸大音楽学部)に入学する。同31年,卒業後研究科に入学,翌年から同校嘱託となり後進の指導に当たる。