2008年10月12日にポラン様より
「
高瀬露宛てとされる手紙の下書きが、なぜ高瀬露宛てなのだと断定されるのか」
という疑問を提示して頂きました。
ポラン様には厚く御礼申し上げます。
それに対して10月23日にレスをさせて頂きましたが、
この下書きも高瀬露の悪評を広げる一因となっていると考えておりますので、
改めてエントリを立てて感想・意見等を述べさせて頂くことに致しました。
レスと重複する部分がありますがご了承下さい。
賢治が高瀬露に宛てて書いた手紙の下書き(とされるもの)は
こちらです。
これらは高瀬露宛てのものと判明していたが、
高瀬露の存命中は「高瀬の私的事情を慮って」公表を控えられ、
1977(昭和52)年発行の
校本宮澤賢治全集第14巻(筑摩書房)で
初めて公表されたという経緯があります。
そして「高瀬露宛てのものである」と公表されてから、多くの人々(私も含む)は
無条件にそれを信用していました。
(過去エントリでこの下書きを高瀬露宛てのものと信じていた上で書いたものがありますので
追々訂正していこうと思います。)
宮沢賢治全集9(ちくま文庫)を見てみると他にも「宛先不明」の下書きがあります。
それらは備考で「○○宛てと推測される(が未詳)」と記されているか、
もしくは全く記述をせず、不明のままにしてあります。
そういう他の「宛先不明」下書きと同じく、この下書きは文中に相手の名前もなく
内容を読んでみれば
相手は女性であるらしいことは判りますが、
誰に宛てて書いていたのか全く判りません。
そんな下書きが「高瀬露宛て」とまで断定できる理由は何なのでしょうか。
1.「特別な愛」「この十年恋愛らしい……」
「独身主義をおやめに……」等恋愛や結婚に関する話が出てくるから
2.「慶吾さん(引用者注・高橋慶吾氏のこと)にきいてごらんなさい」
という一文があるから(252系下書きその1)
3.「「もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったら
あなたと結婚したかも知れないけれども、」と申しあげたのが重々私の無考でした。」
という一文があるから(252c)
考えてもこれだけしか理由が挙がってきません。
これだけの理由で高瀬露宛てだと断定できるのでしょうか。
ポラン様も仰っていますが、賢治の知人である女性は高瀬露だけではないでしょうし、
また高橋慶吾氏と知り合いである女性も
恋愛観・結婚観などを語る相手も高瀬露だけとは限らないでしょう。
これだけの理由でこの下書きを「高瀬露宛て」とするには浅薄すぎますから、
もしかすると他に決め手となった理由があるのかもしれません。
宮沢賢治全集9に掲載されている他の「文中に相手の名がないながらも
宛先が判明している下書き」には「その相手宛てとした理由」が書いてあるし、
場合によっては「必ずしも決定的ではない」等の記述もあります。
この下書きが「高瀬露宛て」と判断できた理由が他にあるならきちんと記述してあるはずです。
そう思って再び
宮沢賢治全集9の「高瀬露宛て」の下書きの部分及び解説を読み返してみましたが……
「高瀬露宛て」の下書きについては、そういった記述が備考にも解説にも一切ありません。
まさか本当に上記理由のみでこの下書きを「高瀬露宛て」ものと断定してしまったのでしょうか……?
もう一つ個人的に怪しいと思うのが、手紙の相手が法華経を信仰しているという部分です。
(この点については米田利昭氏も「
宮澤賢治の手紙(大修館書店)」P223で疑問を示しています)
この部分から高瀬露は「賢治の気を引くために法華経に乗り換えた」などと言われてしまいましたが、
高瀬露は19歳で花巻のバプティスト教会で洗礼を受けてから、批難や妨害などの嫌がらせにもめげず
プロテスタントからカトリックへの移行も経て、終生キリスト教への信仰を貫いています。
(
このカテゴリを参照下さい)
法華経に対してはある程度の興味を持ったり理解を示したりということはあったのかもしれませんが、
信仰、つまり「乗り換える」ということはしていません。
賢治も「法華経に興味があります」「法華経も理解できます」程度のことから
「
法華をご信仰なさうですが」とまで飛躍したことを言わないだろうし、
また高瀬露の人柄からも「誰かの気を引くために信仰を変える」などという
浅ましい真似をするとは考えられません。
宮沢賢治全集9の解説で天沢退二郎氏は「
相手の女性のイメージをも、
これまでの風評伝説の類から救い出しているように思われる。」(P624)と仰っていますが、
この下書きによって高瀬露のイメージは救われるどころか
「
浅ましい真似までして未練がましく賢治を追いかける往生際の悪い女」という
さらに悪いイメージがついてしまっているような気がします。
言い換えれば、上記理由のみでこの下書きを「高瀬露宛て」とすることも
高瀬露の悪評をますます強め広げていく行為なのです。
1977(昭和52)年の校本全集出版まで公表を控えていたのも、
「高瀬露の私的事情を慮って」というより「高瀬露に口を挟ませないために
高瀬露の逝去を待って」公表したのではないかという邪推までしてしまいます。
いくらこれまで身に覚えのない悪評に対して一切の弁解をしなかった高瀬露でも、
手紙を公開され、さらにそれまで身に覚えのないものなら何がしか言ってくるでしょうから。
この下書きを「高瀬露宛て」と断定したのは上記理由のみなのか、
それとも他に「高瀬露宛て」とできる決め手となった理由があったのか、
そういったことを今からでもきちんと公表して頂きたいと思います。
最後に個人的意見を述べさせて頂きます。
前述したようにこの下書きは高瀬露の私的事情を慮って公表を控えていたということですが、
本当に慮る気があるのならこの下書きをずっと公表しないままにするでしょう。
「宛先不明」として掲載しても、「この手紙の宛先は高瀬露なのでは」と勘ぐる人や
「そうに違いない」などと書き立てる人が必ず出てくるでしょうから。