旧「猫の事務所」調査書

宮沢賢治に関わった女性の風評についての意見・感想を綴っていました。2023年11月1日に新ブログ開設。

このブログについて

2024年02月06日 | 注意書き

『獅子が釣鐘の声でどなりました。
 「何といふお前たちは思ひやりのないやつらだ。
 ずゐぶんこれはひどいことだぞ。
 黒猫、おい。お前ももう少し賢こさうなもんだが
 こんなことがわからないではあんまり情ない。
 もう戸籍だの事務所だのやめて了へ。まだお前たちには早いのだ。
 やめてしまへ。えい。解散を命ずる。」
 釜猫はほんたうにかあいさうです。
 それから三毛猫もほんたうにかあいさうです。
 虎猫も実に気の毒です。
 白猫も大へんあはれです。
 事務所の黒猫もほんたうにかあいさうです。
 立派な頭を有った獅子も実に気の毒です。
 みんなあはれです。かあいさうです。
 かあいさう、かあいさう。』
               (宮沢賢治 「猫の事務所」初期形より)



このブログでは、これまで流布されてきた宮沢賢治と高瀬露の関係及び高瀬露の悪評や、それが今も黙認されている現状その他に対する管理人tsumekusaの考察や感想、意見などを載せております。
2008年11月20日に予定していた記事を全てアップ、更新を停止いたしました。
コメントの受付も現在停止しております。

2023年11月1日より新ブログ(https://ntcj-chousa.com/)にて意見・感想などを述べております。当ブログと併せてお読み頂ければ幸いです。
なるべく客観的な文章を心がけましたが、至らない部分が多々ありますことご容赦下さい。
当ブログの記述は2005年〜2008年当時の管理人の考えであり、2024年現在と相違のある部分もございます。

新ブログ開設準備に伴い2023年10月1日に当ブログの大半の記事を非公開(下書き状態)に致しましたが、2024年2月6日より新ブログの記事公開状況に合わせて関連する記事を再公開してまいります。

記事を非公開にしたのは新ブログがGoogleに「剽窃サイト」と判定されるのを避けたかったためでした。
しかし記事を非公開にした後「当ブログの記事を引用して下さっている方がおられ閲覧にご不便をかけてしまうこと、コメントやリアクションを下さった方に対して礼を欠いていること」に申し訳なさを感じるようになりました。
新ブログがGoogleにどう判定されるかは正直気になりますが、これまで当ブログを読んで下さった方にこれ以上失礼をしたくないという気持ちの方が強いです。
そういう理由で再公開に踏み切りました。

記事の中には2024年2月6日を以て削除したサイト「「猫の事務所」調査室」にリンクを繋いでいるものがありますが基本そのままにしております。
追々修正していくつもりですが、それまでご不便おかけすることをお許しください。

引き続き当ブログを新ブログ共々よろしくお願い致します。


文献からの引用は以下のように文字色を変えて表示しております。

悪評系文献からの引用。擁護系文献からの引用。その他関連資料からの引用。

また、資料中に含まれる一般及び存命と思われる方のお名前は、インターネットの性質とプライバシーの関係上伏せさせて頂きました。

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おひるねこ

2008年08月25日 | ひとやすみ
申し訳ありません、油断するとすぐ空白期間を作ってしまう

ほんの少し前まで何もしたくなくなるような暑さだったのに
最近はうってかわって涼しくなりましたね。
皆様もお体には十分お気をつけ下さいませ。

次回は「高瀬露の悪評の原因」について考えて行きたいと思います。

エントリが上がるまで、某神社の手水場で撮影した
お昼寝ねこさんの写真を眺めながらお待ち下さいませ


コメント (2)
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2008年もよろしくお願い致します。

2008年01月06日 | ひとやすみ
あけましておめでとうございます。

元日にエントリを上げておいて、
新年のご挨拶が後になってしまいまして申し訳ありません。

昨年は鈍足ながらいくつかエントリを上げることが出来ました。
(一昨年がサボりすぎなだけ……)
暖かいコメント、貴重なコメントも頂きまして、
本当に嬉しく思っております。

さて、ゆっくりと進めて参りました当ブログですが、
本年中に上手くすれば(……)予定している記事を
全て上げることになります。

まずは頂いたコメントをもとにして
「高瀬露の頻繁な訪問」についての補足記事を、
そして次は「高瀬露の中傷行為」についての記事を
上げていこうと考えております。

また、追々にですが、大ざっぱなままのカテゴリを
もう少し細かくし、記事を探しやすいようにしていきます。

では、本年もよろしくお願い致します。
コメント (2)
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停滞のお詫び

2007年03月15日 | お知らせ
久し振りの投稿になります。

昨年の初め頃、「足を使った考察・検証も……」と
張り切った内容の記事を投稿してしまいましたが、
それから間もなく精神面で考察・検証どころではない状態に陥ってしまい、
一年ほどもの間このブログの更新を停滞させてしまいました。
誠に申し訳ありません。

ようやく、完全にとまではいかないまでも、
新規記事を投稿する元気を取り戻すことが出来ました。
「足を使った考察・検証」はまだ出来ませんが、
この件についての意見や感想はゆっくりと投稿して行きたいと思います。

改めて、よろしくお願い致します。

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さざ波程度の動きでも

2006年04月09日 | ひとやすみ
三ヶ月もご無沙汰してしまい誠に申し訳ありません。

さて、私は昨年度いっぱいで三年弱在籍しておりました
宮沢賢治学会を退会致しました。
その際学会の方とメールをやり取りしまして、
停滞気味である高瀬露問題に少し流れを見ることが
出来たことに喜びを感じています。
今はさざ波程度の動きでも、やがて大きな流れに
なっていくことを祈っております。

白状すると、ここ数ヶ月ほどこのブログの運営に対して
意気消沈気味だったのですが、今回のことを励みに
運営を頑張っていこうと思います。

次回エントリでは、高瀬露が寳閑尋常小学校勤務時代
(=羅須地人協会に足繁く通っていたとされる時代)に
彼女が通勤で歩いた距離を実際に歩き、それを元に
通説である「日に数回もの訪問」が可能だったかを
考えていきたいと思います。

……とはいえ、今花巻に行くことは不可能なので、
地図を元に距離を計測し、私の居住地の近くで
同じくらいの距離を歩こうと考えています。

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本年もよろしくお願いします。

2006年01月11日 | ひとやすみ
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

2006年は足を使った検証にも出来る範囲で着手し、
一つでも多く充実した記事を掲載したいと思っています。
(出来たら花巻・遠野にももう一度足を運びたいです……)

本年も「『猫の事務所』調査室」及び「調査書」を
よろしくお願い致します。

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2005年最後の記事です

2005年12月28日 | ひとやすみ
早いもので2005年もあと三日ほど。
本年五月にこのサイトを開設して七か月が経ちましたが、
その間有難いことに色々なサーチに登録をさせて頂きました。
少しずつでもこの問題を広めていくことが出来たのかな、
と思っています。

早く研究家の先生方が過ちに気付きそれを認め、
早く高瀬露さんの汚名が完全に晴れることを
祈りながら、2006年もじっくり進んで行きたいです。

今年一年(七ヶ月)、ありがとうございました。
良いお年をお迎え下さい。

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彼と彼女の相性

2005年10月25日 | ひとやすみ
以前作ったプロミスリングをパソコンラックの柱に取り付けてみました。
ちなみにリングの下にあるのは、某お茶系飲料のおまけに付いていた
シーサーのマグネットです。


先日、「高瀬露」で検索をかけたら面白いサイトを見つけました。
こちらその内容

私は占いが大好きなのでとても興味深く拝見しました。
石川啄木・節子夫妻や太宰治・津島美知子夫妻も同じ相性なのだとか。

ところで、このサイトに用意されているツールを使用して
賢治研究者の多くが「有望」と押している伊藤チエと賢治の相性を占ってみましたら
このような結果になりました……。

十二星座だと(大雑把ではありますが)、
賢治は乙女座、高瀬露は山羊座、伊藤チエは魚座になります。
そこから相性を見てみると賢治と高瀬露はやはり好相性、
賢治と伊藤チエはまずまずの相性となるのですよね……。


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儀府成一氏の記述に対する意見・感想(2)

2005年10月19日 | 悪評系テキストの考察・感想
なお、儀府氏は高瀬露に関する記述の最後にこのようなことを記しています。


 一つは、賢治が内村康江をそう思ったり呼んだりしたのはいいとして、
 われわれまでそれに做って、この人のことを悪魔のように見たり
 云ったりするのはやめたい、ということだ。
 突然こんな風に書くと、一般の読者は「何を書いているのだろう」と思ったり、
 「その女の人は、そんな風に見られたり、書かれたりしている人なのか」と、
 疑問を抱かれると思う。
 これは、この人のことは誰もほとんど語らず、書かなかったこと――
 万一書いても、ほんの何行かでサラリと片づけていたことから生じる疑問にすぎない。

 理由は、彼女が平凡な家庭の主婦(それは大へん倖せなことなのだが)で、
 別に知名度の高い人でもなかったのと、
 何より、宮沢家に対する遠慮からだったと思われる。
 むろん宮沢家としても、内村家としても、二人のことはあまりふれたくない、
 ふれてもらいたくない事柄かもしれない。
 その気持はわかるけれど、これ以上いつまでもウヤムヤにしておかないで、
 この辺で事件の真相とまではいかなくても、ある程度まともな、公平な、と思われる
 一応の見方だけでもしておくべきだと思って、私は貧しい自分の仕事のなかに、
 この「やさしい悪魔」の章を加えることにしたのである。

 (中略)

 書いておきたいことの二つ目は、実はこの人についてである。
 あの"運命のカレーライス"事件を境にして、二人の間は画然と割れたあと、
 賢治に対するいろんないやがらせをしたというが、
 どのようなものだったのだろうか。
 「像に釘うつ」と賢治が書いているのをみても、
 非情に情熱的だったと云われる人柄からおして、
 かなり思い切ったことをしたのではないかとも思われる。
 今、それに当たっている時間は私にはない。
 目をつぶって追想の過程としてつづけていえば、
 いろんなことが嫌になるくらいたとえあったとしても、
 とにかく内村康江は、宮沢賢治に求愛し、求婚した、
 最初の女性であったという事実、同時に、この人ほど熱烈に賢治に想いを寄せ、
 その懐にまっしぐらにとび込もうとした人はいなかった、という点で、
 その名を何かに録しておきたい人だと思うのだ。

 凶作、冷害、不作がくり返される東北の暗鬱な自然と、
 どこに明るさをもとめたらよいのか分からない不況下の農村を背景に、
 田園にユートピアの建設をゆめみ、独居してみずからも鍬をふっている宮沢賢治に、
 人間の理想像をみたとばかり、ピタリと照準をあてた
 イーハトーヴォの一人の若い女性に、私はとにかく拍手をおくりたい。



再び失礼なことを言ってしまいますが、「開いた口が塞がらない」というのが正直な感想です。
本当に高瀬露(内村康江)のことを「悪魔のように見たり云ったりするのはやめたい」
「拍手をおくりたい」
と思い、「ある程度まともな、公平な、と思われる
一応の見方だけでもしておくべきだ」
と思ったのであるなら、
なぜその件についての検証を怠り、森荘已池氏の文章に
更に尾ひれを付けるようなことをしたのでしょうか。
儀府氏も研究者として人間として「やってはいけないこと」をやってしまったのです。

儀府氏は高瀬露を評価し庇うような発言をしていますが、
結局のところ(一応)やめにしたいはずの「悪魔のように見たり云ったり」する
行いを助長し、また「まとも」「公平な」見方など全くしていないのです。
「相手のCは、自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという職業婦人ではなくて、
名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であるということがシャクだった。」

この一文に、儀府氏の本音が凝縮されているような気がします。
儀府氏が高瀬露に対して抱く歪んだ理想像が見えるような気がします。

そして悲しいことに、この尾ひれだらけの「フィクション」が
史実として長年流布することになってしまいました。

最後に、私の心に引っかかる一文を引用します。

「賢治に対するいろんないやがらせをしたというが、どのようなものだったのだろうか。」

「高瀬露の中傷行為伝説」を検証するヒントとなる一文だと思います。
それについては後日考察します。

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儀府成一氏の記述に対する意見・感想(1)

2005年10月16日 | 悪評系テキストの考察・感想
儀府成一氏は、1972年に「宮沢賢治・その愛と性」という本を出版しました。
その中に賢治と高瀬露のエピソードがかなりのページ数を使って紹介されていますが、
私はその文章には森荘已池氏の文章以上に目を覆いたくなるほど
ひどい内容の尾ひれが付けられていると思います。
上田哲氏は「「宮澤賢治論」の再検証(二)<悪女>にされた高瀬露」
儀府氏の文章についての解説と指摘をしているので、
本サイト「資料室」に置いてあります資料をご覧下さい。→こちら
私は上田氏の指摘については全くその通りだと思いますので何も言うことはありません。

次に、私が気になった部分を引用し、それについて意見・感想を述べたいと思います。


(1)
 前後の状況ははっきりしないが、あるとき賢治は、内村康江に蒲団を贈った。
 なにかの返礼としてであった。

 (中略)

 内村康江の胸はとどろき揺れ、夢に夢みるここちになった。
 胸のところに組んだ手を押し当てて、「もう決ったわ」と彼女は叫んだ。
 叫びながら今までの迷いを一擲して、宮沢賢治との結婚を敢然と決意した。
 いや、かっきりと決意をあらたにしたのは、このときだったと思われる。

(2)
 Cが賢治を訪ねて花巻へきたこと、賢治がC兄妹の招きに応じて大島へいったこと……
 普通ならばだいたいこの辺の動きで断念し、おとなしく身をひきそうなものだが、
 聖女のさました人は逆だったらしい。
 相手のCは、自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという職業婦人ではなくて、
 名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であるということがシャクだった。
 それにもまして、賢治がCに奔ったのは、どっちがトクかを秤にかけて、
 打算からやったことだと邪推し、恋に破れた逆恨みから、
 あることないこと賢治の悪口をいいふらして歩くという、
 最悪の状態に陥ったのだと考えられる。

 (注・聖女のさました人とは高瀬露、Cは伊藤チエを指しています。)


幾度も言われていますが、これらは儀府氏が高瀬露に
その時の心情を聞いて書いたものではなく、
上田氏の言う「下劣な」「心情の表現」の一つなのです。
「胸のところに組んだ手を押し当てて
「もう決ったわ」と彼女は叫んだ。」
の部分では、
失礼ながら脱力と共に失笑が漏れるほどです。
蒲団を贈ったという「前後の状況がはっきりしない」のならば
なぜ裏付け取材を行なわなかったのでしょうか。

「賢治がCに奔ったのは、どっちがトクかを秤にかけて、
打算からやったことだと邪推し」
と述べていますが、
「内村康江の胸はとどろき揺れ、夢に夢みるここちになった。
胸のところに組んだ手を押し当てて、「もう決ったわ」と彼女は叫んだ。
叫びながら今までの迷いを一擲して、宮沢賢治との結婚を敢然と決意した。」
や、
「相手のCは、自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという
職業婦人ではなくて、名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であると
いうことがシャクだった。」
など、
真実を調べないばかりか高瀬露(内村康江)の心情にズカズカと立入り、
勝手に決めつけて書いている儀府氏のその行為は、
賢治の心情を邪推し悪口を言いふらしたという
幻の人物「内村康江」の醜悪な行為と同等ではないでしょうか。

また、「相手のCは、自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという
職業婦人ではなくて、名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であると
いうことがシャクだった。」
という記述には
儀府氏の、高瀬露を伊藤チヱの引き立て役に仕立てたい思いや
高瀬露に対する蔑視が垣間見えるようで非常に気分が悪くなります。
確かに「名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性」である伊藤チヱと
自分を比べて嫉妬し、「賢治もそう思っているに違いない」と思い込むのは
いじけた醜い考えですが、高瀬露は果たしてそうだったでしょうか。
それはこのエントリこのエントリで挙げた
周囲の人々の評判を見ればすぐに判ることと思います。
そのようないじけた醜い考えを持つ者は、周囲の人々に「仕事熱心で真面目」という
評価を受けたり長く慕われたりしないはずです。

因みに、高瀬露がカトリックに転会した際に霊名として選んだ聖モニカは、
既婚女性、母親のほかに児童教育の守護聖人でもあります。
(参考資料:「Truth In Fantasy 33 守護聖人 聖なる加護と聖人カレンダー」
真野隆也・著 新紀元社)
彼女は聖モニカの信心深さと生き様に心打たれその名を選んだのだろうし、
守護対象については全くの偶然なのでしょうが、
彼女にふさわしい偶然であると私は思います。

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「ガセビアよ、沈め!」

2005年10月01日 | ひとやすみ
今月だけスキンをハロウィンバージョンにします。


「トリビアの泉」という番組を毎週楽しみにしています。
といっても最近は「トリビアの種」「ガセビアの沼」というコーナーだけを
楽しみに見ているのですが……。

ところで、先日(9月28日)の放送では
「baseballを野球と訳したのは正岡子規である」というトリビアが
ガセだと判明し、私もそれを長い間信じていたので本当にびっくりしました。
広く信じられていたことも、きちんと調べれば
本当のことが分かってしまうものなのですね。


高瀬露のことも、早く「ガセビア」として広く認知される日が
来れば良いな、と思っています。

「それは全く違います。高瀬露という女性は教育者として
宮沢賢治の思想に深く共感し敬愛の情を抱いていただけであって、
伝えられている彼女の賢治に対しての恋愛感情や過剰なアプローチは、
賢治と親しかった者たちがいわゆる悪ノリで作ったフィクションなんです。」

なんて感じで。

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森荘已池氏の記述に対しての意見と感想

2005年09月07日 | 悪評系テキストの考察・感想
当エントリでは、森荘已池氏の高瀬露に関する記述を読み
個人的に引っ掛かった部分への意見や森氏の記述に対する
感想などを述べたいと思います。

まず、すれ違う際の高瀬露の様子の描写について。
「三人の女性」では随分と細かい描写をしていますが、
普通道ですれ違った人の細かい様子など記憶に無いものです。
そこまで詳しく覚えているなら相手を凝視する必要があります。
しかしそちらの方が異常だし、相手にも失礼です。

ただこの時高瀬露は和服を着ていて草履を履いていたゆえに
歩行速度が遅めであったから、詳しい観察が出来たとも言えるかも知れません。
しかし、「目がきらきらと輝いていた。そして丸顔の両頬がかっかっと燃えるように赤かった。
全部の顔いろが小麦いろゆえ、燃える頬はりんごのように健康な色だった。」
だけで
「異常だと直感」するなど、少し飛躍しすぎではないでしょうか。
「かなりの精神の昂奮でないと、ひとはこんなにからだ全体で上気するものではなかった。
歓喜とか、そういう単純なものを超えて、からだの中で焔が燃えさかっているような感じだった。」

これもまた考えすぎではないでしょうか。

「ふれあい」ではシンプルにすれ違った際目に入ったままを記し、
「三人の女性」ほど不自然な点はありません。
しかし、「ぱっと上気した顔いろ」をしていただけで「少し前まで興奮した「時間」があったのだな」
という、やはり飛躍し過ぎという感じがする一文も含まれています。
思いを寄せる(とされる)相手に会ったのであるなら、目を輝かせたり顔を赤らめたりするのは
ごく自然なことなのではありませんか。


そして次に、「ふれあい」の最後の記述。
これには私はとても憤りを覚えています。
「この女の人が、ずっと後年結婚して、何人もの子持ちになってから会って、
色々の話を聞き」
とありますが、森氏が高瀬露と会ったのは
後にも先にも羅須地人協会の途上での一回だけです。
森氏は上田哲氏にも直接それを語り、上田氏は「再検証(二)」
そのことを以下のように記述しています。


  森は彼女に逢ったのは、<一九二八年の秋の日><下根子を訪ねた>
  (注 下根子とは、賢治の羅須地人協会である)その時、
  彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていないことは
  直接わたしは、同氏から聞いている。



高瀬露の娘が語ったという話も本文を良く読めば人づて、
つまり高瀬露の知人とされる人物から更に第三者を介して聞いたとされる話のようです。
いわゆる「友人の友人の話」のようにぼやけていてかなり信憑性は薄いものなのです。
(女性週刊誌の芸能記事に良くある手口です)
森氏の完全な虚構である可能性も考えられます。


高瀬露が賢治のことを本当に日記に書いていたとしても、

1.実はただ単に「敬愛する宮沢賢治先生」という内容だったのが、
  伝言ゲームの要領で伝えられて行くうちに言葉が変わってしまい
  森氏のところに届く時には「宮沢賢治は、私の愛人」となってしまっていた

2.または森氏に届いた「高瀬露の日記の記述」は別の意味だったが、
  高瀬露に対する固定観念を持つ森氏がその言葉を歪めて取ってしまった


という可能性もあります。


森氏は、何故こんな必死になってまで高瀬露=悪女像を
定着させようとしたのでしょうか。
私には知る由もありませんが、どんな理由があるにせよ
やはりきちんと調査をしてから記述をすべきだったのではないでしょうか。

ご自分の書かれる文章は娯楽小説でもゴシップ記事でもないことは
自覚されていたのでしょうか。
名前を伏せてさえいれば、好き勝手に書いても構わないなどと
お考えだったのでしょうか。

きちんとした調査を怠ったどころか記述を二転三転させ、
あまつさえすぐに分かってしまう嘘までついた。
このような「やってはいけないこと」までして
高瀬露を悪女に仕立て上げようとした森氏のやり方は、
はっきり言ってあまりにも醜いと思います。

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森荘已池氏の記述に見られる相違点の考察

2005年08月29日 | 悪評系テキストの考察・感想
森荘已池氏がご自身の著書・コラムで記した高瀬露に関する記述。
当エントリでは両者に見られる相違点を比較し、考察したいと思います。

まず一つ目の相違点は森氏が羅須地人協会を尋ねたという時期
「三人の女性」では、様々な場所で指摘されていますが、
賢治が病を得て自宅療養をしている時期であるはずの
1928年すなわち昭和3年秋に、「下根子を訪ねた」としています。
森氏が高瀬露に羅須地人協会への途上で会った年月は
森氏の個人的な体験なので記憶違いも仕方がありませんが、
「ふれあい」では大正14年夏に羅須地人協会が設立され
その年の秋に訪問した
と記してあります。

しかしご承知の通り羅須地人協会の設立年は大正15年です。
大正14年秋は賢治はまだ花巻農学校で教鞭をとっていた時期なのです。
ただ、これもまた単なる「記憶違い」と言えるかも知れません。
それでも「三人の女性」「宮沢賢治の肖像」に収録された昭和49年、
そして「ふれあい」が連載された昭和55年から60年なら、
賢治に関する年譜も資料も充実しているはずです。
賢治の親族に確認を取るという手もあったでしょう。
いずれにしても羅須地人協会の設立年や賢治が病を得て
自宅に戻った時期など調べればすぐに分かったはずです。
森氏は賢治と親しい間柄だったというのに、評伝を書こうというのに、
何故こんな大事な年を二度も誤記したのでしょうか。

「三人の女性」で述べられている昭和3年当時高瀬露は27歳であり、
「ふれあい」で述べられている大正14年当時高瀬露は24歳でした。
「三人の女性」で昭和3年についての指摘を受け、
高瀬露を「二十二三才の女の人」と書いた辻褄合わせの為に
「ふれあい」では羅須地人協会の設立年を「大正14年」としたのでしょうか。
しかし高瀬露の年齢の辻褄は合わせることが出来ましたが、
羅須地人協会の設立年という面で結果的に誤記という結果になりました。


二つ目の相違点は、高瀬露が着ていたという着物のことについて。
「三人の女性」では派手ではなかったが、上品な柄の着物」としているのに対し、
「ふれあい」では「もみじ色の、はでではあるが高雅な気分のある和服姿」としています。
なぜここでも記述を変えているのでしょうか。
記憶が曖昧であるなら、先発である「三人の女性」の記述通りにしておくか、
着物の柄のことには触れなければ良かったのです。
しかし記憶が曖昧であったにしても両者の印象はあまりにも違い過ぎます。
森氏の、高瀬露をいかに悪女に仕立て上げようかという考えが
着物の柄の記述の相違点として出てしまったのではないでしょうか。
(一般的に悪女は派手な装いをしているイメージがありますから)

(なお、上田哲氏の論文「「宮澤賢治論」の再検証(二)<悪女>にされた高瀬露」において、
「高瀬露は、地味で控目な人だったのでいつの年代でも年令より数年ふけて見えた
というのが彼女を知る人の共通の印象だった」
とあります。
異性に会うからといえど、そういうタイプの人が
そのような派手な着物を着るとは考えられません。)


森氏が羅須地人協会を設立し下根子に住む賢治の元を訪れたことも、
その時賢治を訪問したあとの帰路につく高瀬露とすれ違ったことも否定はしません。
(ただ断言はできませんが、「女臭くて……」云々という賢治の言動は
森氏の虚構という可能性が考えられます。)
しかしこのたった二つの相違点だけで、森氏のこの話は格段に信憑性が薄れると思います。

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森荘已池氏の高瀬露に関する記述

2005年08月26日 | 悪評系テキストの考察・感想
高瀬露の悪評の出所は別にありますが、それを全国的に広めることとなったのは
森荘已池氏の「宮沢賢治と三人の女性」(以下、「三人の女性」)でしょう。

まずは、同書から高瀬露に関する記述を引用していきます。
(居留守事件、ライスカレー事件、レプラ発言、中傷の件を除きます。
その件については後日考察させて頂きます)



  一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。
  (中略)
  ふと向こうから人のくる気配だった。私がそれと気づいたときは、
  そのひとは、もはや三四間向うにきていた。
  (湿った道と、そのひとのはいているフェルトの草履が音をたてなかったのだ。)
  私は目を真直ぐにあげて、そのひとを見た。
  二十二三才の女の人で和服だった。派手ではなかったが、上品な柄の着物だった。
  私はその顔を見て異常だと直感した。
  目がきらきらと輝いていた。そして丸顔の両頬がかっかっと燃えるように赤かった。
  全部の顔いろが小麦いろゆえ、燃える頬はりんごのように健康な色だった。
  かなりの精神の昂奮でないと、ひとはこんなに
  からだ全体で上気するものではなかった。
  歓喜とか、そういう単純なものを超えて、
  からだの中で焔が燃えさかっているような感じだった。
  私はそれまで、この女の人についての知識はひとかけらも持ち合わせていなかった。

  ――が、宮沢さんのところを訪ねて帰ってきたんだなと直感した。
  私は半身、斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。
  私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振り返らなかった。



次に、森氏が昭和55年から60年まで朝日新聞岩手版に連載していた
「ふれあいの人々 宮沢賢治」(以下、「ふれあい」)というコラムにも
この話の記述がありますが、「三人の女性」とは異なる部分が少々見られるので
そちらも引用し、両者を比較したいと思います。


  それは、紅葉がほんとうに美しい、この秋一番という好天の日だった。
  何軒か、老杉と紅葉する大樹の混こう林の中に、大きな農家が何軒かあった。
  羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった。
  そこへ行くみちで、私はひとりの若い美しい女の人に会った。
  その人は、そのころからはやり出した、
  もみじ色の、はでではあるが高雅な気分のある和服姿であった。
  その着物と同じように、ぱっと上気した顔いろに、私はびっくりした。
  少し前まで興奮した「時間」があったのだなと私は思った。
  大正十四年夏、この協会ができた時、お訪ねしたいと手紙を出すと、
  今はとても忙しいから、秋においでなさいと返事があった。
  駄(だ)客、閑客の類だから、ヒマになったらおいで、ということだと、素直に受け取った。
  きょうが初めての未知の家への途上で、ばったりと、この女人に会ったのである。
  (中略)
  この女の人が、ずっと後年結婚して、
  何人もの子持ちになってから会って、色々の話を聞き、本に書いた。
  この人の娘さんが、亡き母の知人に
  「古い日記に母が『宮沢賢治は、私の愛人』と書いております」と話したという。

  これを耳にして、古い記憶にあざやかな、若い時のこの女人の顔と、
  中年もすぎ、生活とたたかい、りっぱに子を育てた年輪のある顔とが、
  どうしても重ね合わせられなかったことを思い出していた。



両者を読み比べてみると、相違点が二つあることに気がつくと思います。
次エントリにてそれを考察して行こうと思います。

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ブログ更新停滞のお詫び

2005年08月07日 | お知らせ
多忙につき一ヶ月以上もブログの更新を怠ってしまい
誠に申し訳ございません。
8月20日ごろまでこの状態が続きそうなので
どうかもう暫くお待ち下さいませ。

次エントリから「悪評系」テキストの代表である
森荘已池氏と儀府成一氏の著書についての感想と
考察を行いたいと思います。

酷暑の日が続きますが、お体ご自愛下さいませ。

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