旧「猫の事務所」調査書

宮沢賢治に関わった女性の風評についての意見・感想を綴っていました。2023年11月1日に新ブログ開設。

このブログについて

2024年02月06日 | 注意書き

『獅子が釣鐘の声でどなりました。
 「何といふお前たちは思ひやりのないやつらだ。
 ずゐぶんこれはひどいことだぞ。
 黒猫、おい。お前ももう少し賢こさうなもんだが
 こんなことがわからないではあんまり情ない。
 もう戸籍だの事務所だのやめて了へ。まだお前たちには早いのだ。
 やめてしまへ。えい。解散を命ずる。」
 釜猫はほんたうにかあいさうです。
 それから三毛猫もほんたうにかあいさうです。
 虎猫も実に気の毒です。
 白猫も大へんあはれです。
 事務所の黒猫もほんたうにかあいさうです。
 立派な頭を有った獅子も実に気の毒です。
 みんなあはれです。かあいさうです。
 かあいさう、かあいさう。』
               (宮沢賢治 「猫の事務所」初期形より)



このブログでは、これまで流布されてきた宮沢賢治と高瀬露の関係及び高瀬露の悪評や、それが今も黙認されている現状その他に対する管理人tsumekusaの考察や感想、意見などを載せております。
2008年11月20日に予定していた記事を全てアップ、更新を停止いたしました。
コメントの受付も現在停止しております。

2023年11月1日より新ブログ(https://ntcj-chousa.com/)にて意見・感想などを述べております。当ブログと併せてお読み頂ければ幸いです。
なるべく客観的な文章を心がけましたが、至らない部分が多々ありますことご容赦下さい。
当ブログの記述は2005年〜2008年当時の管理人の考えであり、2024年現在と相違のある部分もございます。

新ブログ開設準備に伴い2023年10月1日に当ブログの大半の記事を非公開(下書き状態)に致しましたが、2024年2月6日より新ブログの記事公開状況に合わせて関連する記事を再公開してまいります。

記事を非公開にしたのは新ブログがGoogleに「剽窃サイト」と判定されるのを避けたかったためでした。
しかし記事を非公開にした後「当ブログの記事を引用して下さっている方がおられ閲覧にご不便をかけてしまうこと、コメントやリアクションを下さった方に対して礼を欠いていること」に申し訳なさを感じるようになりました。
新ブログがGoogleにどう判定されるかは正直気になりますが、これまで当ブログを読んで下さった方にこれ以上失礼をしたくないという気持ちの方が強いです。
そういう理由で再公開に踏み切りました。

記事の中には2024年2月6日を以て削除したサイト「「猫の事務所」調査室」にリンクを繋いでいるものがありますが基本そのままにしております。
追々修正していくつもりですが、それまでご不便おかけすることをお許しください。

引き続き当ブログを新ブログ共々よろしくお願い致します。


文献からの引用は以下のように文字色を変えて表示しております。

悪評系文献からの引用。擁護系文献からの引用。その他関連資料からの引用。

また、資料中に含まれる一般及び存命と思われる方のお名前は、インターネットの性質とプライバシーの関係上伏せさせて頂きました。

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おひるねこ

2008年08月25日 | ひとやすみ
申し訳ありません、油断するとすぐ空白期間を作ってしまう

ほんの少し前まで何もしたくなくなるような暑さだったのに
最近はうってかわって涼しくなりましたね。
皆様もお体には十分お気をつけ下さいませ。

次回は「高瀬露の悪評の原因」について考えて行きたいと思います。

エントリが上がるまで、某神社の手水場で撮影した
お昼寝ねこさんの写真を眺めながらお待ち下さいませ


コメント (2)
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「頻繁な訪問」について再度考察

2008年04月01日 | 「頻繁な訪問」について
「頻繁な訪問についての考察(2)」に、
2007年11月15日、花巻市在住の風屋様から貴重なコメントを頂きました。
風屋様には改めて御礼申し上げます。

風屋様のコメントによりますと、上田哲氏の論文にて述べられていた
熊堂古墳群の近くにある小学校は湯口小学校上中分教場という学校で、
高瀬露の勤務校であった寳閑小学校はそれより
西方2~3km離れた場所にあったそうです。
また花巻市街地から寳閑小学校のある西方の村へは
花巻電鉄という賢治の詩にも描かれている電車が走っていました。

上田哲氏はこれを見落とされていましたが、
恥ずかしいながら私も、調査不十分で花巻電鉄の存在を
見落としたまま記事を書いておりました。
注意が至らず、誠に申し訳ありませんでした。

当エントリでは、風屋様から頂いたコメントをもとに
改めて、高瀬露が通勤に花巻電鉄を利用していたことを考えた上で
再度「頻繁な訪問」が本当にあったのかを考えていきます。

まず、花巻電鉄ですが、Wikipediaによると


花巻電鉄 (必要箇所だけ転載)

路線データ

1965年当時

  ■路線距離:総延長26.0km
   ■西花巻~花巻温泉間7.4km(花巻温泉線、鉄道線)
   ■中央花巻~西鉛温泉間18.6km(鉛線、軌道線)
  ■駅数:総27駅
   ■鉄道線:7駅(西花巻含む)
   ■軌道線:21駅(西花巻含む)
(後略)



運行概要

1934年12月当時

 ■鉄道線
  ■運行本数:花巻~花巻温泉間13往復
  ■所要時間:全区間22分
 ■軌道線
  ■運行本数:花巻~西鉛温泉間6往復半(他、朝の大沢温泉~花巻間と夜の西鉛温泉~大沢温泉間に上り各1本)
  ■所要時間:全区間1時間34分~1時間36分
(後略)



駅一覧

軌道線
  中央花巻 - 西花巻 - 西公園(旧花巻川口町) - 石神 - 中根子 - 熊野 - 新田 - 歳の神 - 一本杉
   - 二ツ堰 - 神明前 - 松原 - 松倉 - 富士保前 - 志戸平温泉 - 渡り - 大沢温泉(旧湯口) - 前田学校前
   - 山の神 - 高倉山温泉 - 鉛温泉 - 西鉛温泉

鉄道線
  西花巻 - 花巻(通称電鉄花巻) - 花巻グランド前 - 瀬川 - 北金矢 - 松山寺前 - 花巻温泉

(後略)



とあります。
花巻市街地から西方の村へと延び高瀬露が通勤の足としたのは軌道線(鉛線)であり、
高瀬宅・羅須地人協会からの最寄り駅は西公園停車場と考えられ、
寳閑小学校からの最寄り駅である一本杉停車場まで5つの停車場を経由します。
両停車場間の所要時間は単純計算ですがおよそ20分前後でしょう。

そして、高瀬宅・羅須地人協会~西公園停車場、寳閑小学校~一本杉停車場の
所要時間も(徒歩で)およそ20分ほど。

片道の所要時間は最低約1時間かかります。
まして、1934年(昭和9年)当時の軌道線の運行本数は6往復半しかありません。
2時間に1本くらいの割合でしょうか。
高瀬露が賢治を頻繁に訪ねていたとされる大正15年~昭和2年頃は
まだ少ないか、良くても昭和9年と同じくらいだったでしょう。
往復の移動で約2時間プラス電車の待ち時間プラス羅須地人協会に居る時間を考えると……。

電鉄を利用したとしても、一日3回以上の訪問はやはり無理があります。
昼休みを利用したとしても間に合いません。

出勤前・退勤後の2回程度の訪問なら出来ないこともありませんが、
それを毎日、というのもやはり難しいのではないでしょうか。
退勤時間と電鉄乗車のタイミングが合えば良いのですが、
合わなければ、羅須地人協会に立ち寄って帰るような時間ではなくなってしまいます。

悪評系テキストは彼女を西方の村、すなわち寳閑小学校近辺に住んでいたとして
一日に二度も三度も訪問した」としていますが、
むしろそちらの方が大変ではないでしょうか。

無理を押して訪問するということもあったかも知れません。
1927年(昭和2年)の6月上旬、高瀬露は紹介者である高橋慶吾氏に
高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。
ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。(後略)

という内容のハガキを出しています(本サイト資料室より)。
オ寄リシナイデキマシタ」というのは、これまでは羅須地人協会を訪問した後は
高橋氏にそのことを報告していたが、この日は母親が心配するほど
遅い帰宅となってしまうので報告しなかったということでしょう。
ハガキでこのことを報告するということ、そしてハガキの内容を良く読んでみると、
夜の訪問は滅多にしなかった、というよりこの時が初めてだったのではないかと思います。

賢治の「女一人デ来テハイケマセン」という言葉も、高瀬露に辟易してというよりは
むしろ男性が一人で住んでいる家にこんな時間に女性が一人で来ることで招く誤解により
高瀬露に(もちろん自分にもでしょうが)変な噂が立つことを心配して、
そして帰路での身の安全を慮っての言葉のように思えるのです。


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2008年もよろしくお願い致します。

2008年01月06日 | ひとやすみ
あけましておめでとうございます。

元日にエントリを上げておいて、
新年のご挨拶が後になってしまいまして申し訳ありません。

昨年は鈍足ながらいくつかエントリを上げることが出来ました。
(一昨年がサボりすぎなだけ……)
暖かいコメント、貴重なコメントも頂きまして、
本当に嬉しく思っております。

さて、ゆっくりと進めて参りました当ブログですが、
本年中に上手くすれば(……)予定している記事を
全て上げることになります。

まずは頂いたコメントをもとにして
「高瀬露の頻繁な訪問」についての補足記事を、
そして次は「高瀬露の中傷行為」についての記事を
上げていこうと考えております。

また、追々にですが、大ざっぱなままのカテゴリを
もう少し細かくし、記事を探しやすいようにしていきます。

では、本年もよろしくお願い致します。
コメント (2)
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「ライスカレー事件はあったのか?」

2008年01月01日 | ライスカレー事件について
上田哲氏の論文「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―
に於いてのライスカレー事件の有無についての考察は、
残念ながら未完のままになってしまいました。

ライスカレー事件の最後の考察になる今回のエントリでは
私の推測や憶測が多分に入っていることをお断りした上で、
私なりの「ライスカレー事件はあったのか?」を
記していこうと思います。

いきなり結論から述べてしまいますが、
「ライスカレー事件」という、今日まで伝えられている出来事自体
やはり、「高橋慶吾作・森荘已池、儀府成一補作」の
完全なフィクションだと思います。

ただ、そのベースとなる出来事はあったのかも知れません。

それに関連しそうな賢治のエピソードに、
「農民からのお礼は絶対に受け取らなかったし、食事の誘いも断っていた。」
というものがあります。
賢治と高瀬露の間にも多分そういう、それも取り立てて
大騒ぎするほどではないレベルのやりとりがあり、
その現場に高橋慶吾氏が居合わせていた、
それだけのことだったのではないかと思います。

(賢治に断られ、「オルガンをブーブー鳴らし」たくなる程の
失望を感じたとしても、常識的な人間であれば
無関係な人々の前でそのようなみっともない真似はしないでしょう。
「自分を律するのに厳しい人」だった高瀬露ならなおさらです。)

高橋慶吾氏は、何故そんな話を作ってまで
高瀬露を貶めようとしたのでしょうか。
この疑問を後日考えていきたいと思います。


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ライスカレー事件を考える(4)

2007年10月02日 | ライスカレー事件について
ライスカレー事件に対して浮かぶいくつかの疑問のうち、
今回は一番核心に触れると思われるこれらについて考えたいと思います。


・この話の情報源は高橋慶吾氏だが、彼はこの事件を目撃したとは言っていない
・ならばそのことを高橋氏に伝えた「X氏」がいるはずだが、それが誰か分からない
・その他にも目撃者は数名いたはずなのに、誰も名乗り出ない



後年、高橋慶吾氏は当時羅須地人協会に集っていた人々と座談会を開き、
ライスカレー事件について語っています。
該当部分を引用します。


K (略・「女の人」=高瀬露のしつこい訪問について語っている)
  何時だったか、西の村の人達が二三人来た時、先生は二階にゐたし、
  女の人(引用者注・高瀬露のこと)は台所で何かこそこそ働いてゐた。
  そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。
  その時先生は村の人達に具合悪がつて、
  この人は某村の小学校の先生ですと、紹介してゐた。
  余つぽど困って了つたのだらう。

C あの時のライスカレーは先生は食べなかったな。

K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、
  先生は、私は食べる資格はありませんから、
  私にかまはずあなた方がたべて下さい、と
  決して御自身たべないものだから女の人は随分失望した様子だつた。
  そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。
  そしたら先生はこの辺の人は昼間は働いてゐるのだから
  オルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。
  その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。
  そんなやうなことがあつて後、先生は、あの女を不純な人間だと云つてゐた。

        (筑摩書房・「新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)」P359~P360より)



Kは高橋慶吾氏、Cは伊藤忠一氏という方です。
他参加者にMこと伊藤克己氏という方がいるのですが、
座談会の全文(本サイト資料室より・別窓)をご覧頂ければ分かりますが、
賢治と高瀬露のことについて語っているのは高橋氏と伊藤忠一氏だけであり、
しかも、まるでライスカレー事件の現場に居合わせていたかのような話し方です。
いいえ、高橋氏の口からハッキリ「側にゐる私たちは困つた。」と語られています。
上田哲氏は、「高橋慶吾は、そこにいたのは自分であるとは言っていない。
と述べていますが、この座談会を見落としていたのでしょう。

興味深いのは、高橋氏はこの日羅須地人協会に来ていたのは「二三人」程度だと話しているのに、
森荘已池氏や儀府成一氏の悪評系テキストでは数名訪ねて来てにぎやかになっている
と記されていることです。
また、集会に出席している人々が驚いているような様子も
高橋氏や伊藤忠一氏の口からは語られていません。

この事件が実際あったとすれば目撃者は情報源である高橋氏本人、
そして伊藤忠一氏であると考えてよろしいのかも知れません。

だとすれば、前回浮かんだ「集会の情報を高瀬露に伝えたのは誰か」という疑問は
高橋慶吾氏だという答えになるのでしょうか。
しかし、高瀬露の度重なる訪問に困り果てている賢治を見ているのに
わざわざ更に賢治を困らせるようなことをするのでしょうか。
高瀬露が「いつものように訪問してみたら、集会があることに気付いた」のだとしたら、
一旦ライスカレーの材料を取りに自宅に戻らなくてはなりません。
だとしたら、集会の輪にいるはずの高橋氏は「台所で何かこそこそ働いてゐ」る
高瀬露の姿に気付くことはないでしょう。

トイレなどで一旦席を外した際高瀬露に気付いたとするなら……
ここでも前エントリ「ライスカレー事件を考える(3)」で示した疑問が浮かびます。
賢治が高瀬露の訪問に困っていると知っているのなら、
それなりに対処するのが普通ではないでしょうか。
何も対処しないのはすごく不自然です。

一番の問題は、この座談会が行われた年月日が分からないことです。
1943年(昭和18年)発表の、関登久也著「宮沢賢治素描」に掲載されているということですが
それでも、賢治の亡くなった1933年(昭和8年)~1943年の間ということしか分かりません。
賢治の思い出を語る大事な座談会なのに、何故いつどこで開催したかという
大事なことを記録しておかなかったのでしょうか。
この座談会自体、本当に行われたのかさえ疑わしく感じます。

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ライスカレー事件を考える(3)

2007年09月30日 | ライスカレー事件について
ライスカレー事件に対して浮かぶいくつかの疑問のうち、
今回はこれらについて考えたいと思います。


・高瀬露は朝から羅須地人協会にいたのか、飛び入りでカレーを作り始めたのか
・最初からいたのであれば、なぜライスカレーが運ばれてくるまで
 誰も高瀬露の存在に気付かなかったのか・賢治は対処しなかったのか
・飛び入りでカレーを作っていたにしても、匂いなどで気付かなかったのか



その日、高瀬露はいつ羅須地人協会を訪れたのか、
悪評系テキストの伝え方はバラバラです。

森荘已池氏によれば、お昼になっていきなり
出来上がったカレーを持って現れた
ことになっており、
儀府成一氏によれば、朝早くやって来て協会内の掃除等を終えたあと、
カレーを作り始めた
ということになっています。

儀府氏のテキストは、上田哲氏の指摘によれば森氏のテキストに
儀府氏が勝手に想像した賢治や高瀬露の心情などが混ぜられており、
また儀府氏は羅須地人協会活動時、賢治との面識がありません
ので
森氏のテキストより信用に足る部分は少ないのですが、
来客があると知れば、高瀬露は羅須地人協会の一会員として
早朝から一働きしに来ることもないとは言えないかも知れません。
その「この日来客がある」という情報をどうやって高瀬露が入手したのだろう、という
新たな疑問がここでわいて来ますが、そのことは後日考えることにします。

ともかく、掃除をしていればそれなりに物音が立つはずです。
まさか防音できる床や壁を羅須地人協会の建物に使っているわけでもないはずですから、
その時点で当然賢治が気付き、快く思わないのであればその場で忠告も出来るはずです。
それとも賢治は半ば諦めていて、「好きなだけやらせておけばいずれ帰る」
と思っていたのでしょうか?

悪評系テキストが伝える高瀬露は、(おそらく本音ではこう伝えようとしたいのでしょう)
「優しいが思い込みが激しく、独り善がりで押し付けがましい」
という人物像になっています。
賢治が何も言わなければ強引なアプローチを繰り返し、
賢治が忠告しても「いやよいやよも好きのうち」ということにして
アプローチをやめることはない、そんな(悪評系の理想である)高瀬露を放っておけば
どんどん独り善がりな行動をするということはこれまでの経験で分かっているはずです。
それでも放っておいたということは、よっぽど賢治に学習能力がないのか、
もしくは疎ましく思いながらもやはり高瀬露を信じていたということなのでしょうか?


それでは、早朝から来たのではなくお昼前に飛び入りでやって来て
カレーを作り始めたということにすると……
(しかしここでも、「どうやって集会の情報を高瀬露が得たのか」という
疑問を抱くことになります)

カレーというものは強い匂いを放ちます。
羅須地人協会程度の広さならあっという間に部屋という部屋に
広がっていくのは容易に想像出来ます。
その匂いに、賢治や集まった人々が気付かないはずがありません。

ただ、羅須地人協会の台所は建物の内部にはなく、
建物から少し離れたところにあったようです。
その距離がどのくらいであったかは詳しく知らないのですが、
そんなに遠く離れたところにあるとも考えにくいでしょう。
やはり、窓を閉めているのでもなければカレーの匂いは伝わると思います。

それ以前に、炊事というものもそれなりに物音が立つものなのです。
建物内に台所があるのはもちろん、離れた場所にあったとしても
集会に出席するためにやって来た者が「先生のところの台所で
誰かが働いている」ことに気付くのではないでしょうか。
そしてそれが賢治に伝わり、高瀬露をたしなめることも出来たはずです。

集会出席者が高瀬露を見かけても「家族か親戚の女性」と思い込んで
賢治にあえて伝えなかったのではないか、とも言えますが、
悪評系テキストをそれぞれ見返してみると、
どれも集会出席者はライスカレーを運んで来た高瀬露を見て
「誰、この人」という反応をしています。
集会出席者で賢治の家族や親族の女性に面識がある人が
そんなに多いとも思えないし、家族・親族か無関係の人かなど
賢治が自ら言うまで分からないはずです。
集会出席者が高瀬露を家族・親族と思い込んでいたなら
ライスカレーを運んで来た高瀬露を見てもさして驚くことはないでしょう。

今回考えた疑問点については、思わず苦笑してしまうほど
物理的にも心理的にも矛盾が多すぎて、
まとめるのにかなり時間を要してしまいました。

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ライスカレー事件を考える(2)

2007年08月10日 | ライスカレー事件について
「ライスカレー事件を考える(1)」で挙げた
ライスカレー事件に対してのいくつかの疑問点の中から
今回はこの点について考えたいと思います。


・ライスカレー事件はいつの出来事か


宮沢賢治と高瀬露の逸話となると必ず出てくるこの事件ですが、
どの文献(殆どが悪評系ですが)を見てもハッキリとした時期が書いてありません。
ですが、どの文献もこの話を高瀬露の幾度もの熱烈なアプローチや
それに対する賢治の奇行などのエピソードの後に記している……
いわゆる「ひとつの締めくくり」的な位置に持って来ています。
また文献の内容を読んでみると、高瀬露に対しいよいよ
我慢の限界を超えそうになっている賢治の様子や心情が
手に取るように表現されています。

本サイトの年譜にも記してありますが、
昭和2年の5月下旬から6月上旬にかけての間のいずれかの日に、
高瀬露は賢治から「女一人で来てはいけません」と
たしなめられたことにショックを受け、
そのことを記したハガキを高橋慶吾氏に送っています。
(その消印は昭和2年6月9日)

しかし、悪評系テキストによると、
「この後も彼女の単独訪問は繁々続いていた。」
        (小倉豊文「宮沢賢治「雨ニモ負ケズ手帳」研究」より)

とのことです(しかもそれは高橋慶吾氏の証言であるそうです)。

それを本当だとし、また数々の文献におけるライスカレー事件の位置づけから考えると、
ライスカレー事件は昭和2年6月半ば頃~昭和3年上半期頃の出来事と推測できます。

一年ほどの間が開いているとはいえ、だいぶ絞ることができました。
とはいえ、これはあくまでも私個人の推測であるし、
何より元々裏付けのない話が多い悪評系テキストを材料にしていますので、
あやふやな感じは抜けないのですが……。

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ライスカレー事件を考える(1)

2007年07月26日 | ライスカレー事件について
高瀬露のエピソードの一つとして、また事実であるかのように語り継がれている
このライスカレー事件ですが、不思議なことにこの話もその他のエピソード同様、
いや、それ以上に何もかもが曖昧なのです。

上田哲氏も以下のように指摘しています。


不思議なことにこの出来事のあった年月日時は不明である。
いつごろと漠然とした程度の時もわからない。

また、この物語りの主人公は、賢治と高瀬露である。
それに数人の賢治を訪ねてきた農民たちがいるが、それは誰だかわからない。
戦前から有名になっていた話なのだからあの時いたのは、俺れだぐらい言っても
よさそうだが、とうとう名乗り出なかった。

それに、この事件が事実なら仰天した農民たちとは別に
冷静に客観的に一部始終を見ていた人物X氏がいたはずである。

そういう人物がいなければこの話は伝わらなかったはずである。
それが誰だかわからない。
これも不思議である。
森荘已池氏も、その場にいなかった。
あとで詳しく述べるが、この話の最終的情報源は、
今のところ高橋慶吾にたどりつきそこで止まってしまうが、それより先はわからない。
高橋慶吾は、そこにいたのは自分であるとは言っていない。
あるいは親しい人には、話したかも知れないが、
少くとも文献的にも、あるいは誰かの証言という形でも遺っていない。
(上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露」―より)




まず、悪評系が伝えるこのエピソードの、「運ばれたカレーを賢治が拒否するまで」の部分を
それぞれ引用します。



(略)

その日、羅須地人協会には客があった。
近くの村の人たちで、四、五人連れ立って訪ねて来て、
二階で賢治をかこみ、いろいろと農事について相談をし、適切なアドバイスをうけていた。
きく方も教える方も声が大きく、いきいきとした時間の流れが感じられた。
しかし内村康江(引用者注・高瀬露に冠した仮名)の来訪は、
この人たちよりもっと早かった。
彼女はいつものように階下にいて、玄関から居間、
オルガンのある部屋、お勝手、階段まで掃除をし、
あと片づけがすむと台所に入って、時間をかけて何かひそかにやっていた。

(略)

正午すぎ、彼女は二階に、食事を持ってあがってきた。みると、何度かにわけて、
こっそりとそこまで運んだのであろうが、人数分のカレーライスであった。
容器は揃いではなかったが、人数分キチンとあった。
村の人たちは恐縮して腰を浮かしたが、それはカレーライスの接待のためというより、
女がいないはずのこの協会で、どういう人か素性の分からない女の人が、
いきなり姿をあらわしたためのようであった。
宮沢先生が、嫁をもらったという話はきいたことがないし、
さらばといって感じからいって、妹さんでも、親戚の娘というのでもなさそうだ。

賢治は最近、何とも間のわるい、どのように説明し、
その場をとり繕っていいか分からないような目に、ちょいちょいあわされてきている。
何とか二人の間に、二人は他人であることを悟らせるような、
はっきりとした線を引かなければと苦慮しながら、
ずるずるに押しまくられ、追いつめられたかたちになっている。
そして今日だ。

賢治は立ちあがって、村の人たちに「この人は××村の学校の先生です」と紹介した。
彼女は頬を少々上気させただけで、慌てないでおじぎを返し、あらためて目をみはり、
躰をかたくしているような来客たちに、一枚々々、カレーライスの皿を渡した。
水を入れたコップも運ばれ、みんなは食べ始めた。
しかしこの家の主人である賢治は、どうしたことか食べようとはしないのだった。
内村康江は寄り添うようにして、「先生も、どうぞ召し上がってください」とすすめた。
如何にも女らしいやさしさが、声にも動作にもあった。
彼女が二度、同じことばを繰り返したとき、賢治は声をころして――
しかし、ここからは、もう一歩もゆずれないといった劃然とした態度で、こたえた。
「私にはかまわないでください。私には食べる資格などありません」
                  (儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」より)



花巻の近郊の村のひとたちが、数人で下根子に訪ねてきたことがあった。
彼はそのひとたちと一緒に、二階にいたが、
女人(引用者注・高瀬露のこと)は下の台所で何かコトコトやっていた。
村のひとたちは、彼女のいることについてどう考えているかと彼は心を痛めた。

(略)

みんなで二階で談笑していると、彼女は手料理のカレー・ライスを運びはじめた。
彼はしんじつ困ってしまったのだ。
彼女を「新しくきた嫁御」と、ひとびとが受取れば受取れるのであった。
彼はたまらなくなって、
「この方は、××村の小学校の先生です。」
と、みんなに紹介した。
ひとびとはぎこちなく息をのんで、カレーライスに目を落したり、彼と彼女とを見たりした。
ひとびとが食べはじめた。――だが彼自身は、それを食べようともしなかった。
彼女が是非おあがり下さいと、たってすすめた。――すると彼は、
「私には、かまわないで下さい。私には、食べる資格はありません。」
と答えた。
                        (森荘已池「宮沢賢治の肖像」より)



遠くから来た協会員もあったらしくて、会員が数人、にぎやかになったことであった。
もちろん、近所の会員も、あったことだと思うが、T女(引用者注・高瀬露のこと)が
台所でことこと働いていることに誰(だれ)も気が付かなかったらしい。

お昼になった。T女が、いつの間に作ったのか、いいにおいのするカレー・ライスが、
つぎつぎ運ばれて、「めしあがって下さい」と、T女が、はればれした顔で言った。
みんな、たいへんな御馳走にびっくりしたが、ぶぜんとした賢治は、
「私は食べる資格がありませんから」とT女がいくらすすめても手をつけなかった。
                   (森荘已池「ふれあいの人々 宮沢賢治」より)



これらのエピソードを見てみると、上田氏の指摘の他にも
疑問点が出て来ますので、箇条書きにしてみます。



・ライスカレー事件はいつの出来事か
・この話の情報源は高橋慶吾氏だが、彼はこの事件を目撃したとは言っていない
・ならばそのことを高橋氏に伝えた「X氏」がいるはずだが、それが誰か分からない
・その他にも目撃者は数名いたはずなのに、誰も名乗り出ない
・高瀬露は朝から羅須地人協会にいたのか、飛び入りでカレーを作り始めたのか
・最初からいたのであれば、なぜライスカレーが運ばれてくるまで
 誰も高瀬露の存在に気付かなかったのか、賢治は対処しなかったのか
・飛び入りでカレーを作っていたにしても、匂いなどで気付かなかったのか



細かい点での疑問もいくつかあるのですが、
きりがなくなるのでこれだけ記しておきます。
次回からは、これらの疑問点をもとに
ライスカレー事件を考えてみようと思います。

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「頻繁な訪問」についての考察(2)

2007年03月21日 | 「頻繁な訪問」について
上田哲氏は、悪評系の述べる矛盾点を詳しく解説しています。

距離については地図を見れば一目瞭然です。

まず、熊堂古墳群はどの辺りにあるのでしょうか。
花巻市博物館によると上根子字熊堂とあります。

それをもとに寳閑小学校近辺と思われる場所をgoo地図で検索した結果が
こちら。

また、同じく地図で当時の羅須地人協会の位置も検索しました。
こちら。

ご覧になれば分かりますが、直線距離では四キロ程度、
道を辿って行けば軽く五キロは超えます。
大雑把に「西方の村」と言っただけでも
かなり離れていることが分かるのではないでしょうか。
私も花巻を旅行した際現地をレンタカーで走ったことがありますが、
車で走っていても……改めて言うまでもないでしょうが
「遠い」ことがはっきり分かる距離でした。

上田氏も述べておりましたが自家用車は当然のこと、
公共交通機関も普及していない当時、これだけの距離を往復して
まして仕事を持つ身で「一日に二度も三度も訪れる
なんて、到底出来ることではありません。
仮に自転車を所有し使用していたとしても、かかる時間は推して知るべしでしょう。
(また将来花巻を訪れる機会があれば、寳閑小学校近辺から羅須地人協会跡までの
徒歩による所要時間を測定したいと思います。)

実際高瀬露は羅須地人協会の近所に住んでいたのですが、
そうだとしても一日に二度は(出勤・帰宅時)ともかく
三度以上の訪問は難しいのではないでしょうか。
当時の小学校の就業時間は良く分からないのですが、
午後五時に学校を退勤したとして自宅に着くのは午後七時頃。
そんな時間に賢治のもとを訪れたとしても、
その後三度目の訪問のための時間など取れないはずです。
自分の仕事の明日の準備もあるでしょうし。

どちらにしても、伝えられているような「頻繁な訪問」が毎日あったとしたら、
高瀬露が悪評系の伝えるような人柄だったとしたら、
さっさと教員を辞めて賢治のもとへ通うことを優先させると思います。
しかし、高瀬露は教員を続けていました。
そして、これまで述べて来た高瀬露の教え子や関係者による
彼女への評価を見れば、彼女がそんな人間だったかどうかは
もう書くまでもないでしょう。
コメント (3)
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「頻繁な訪問」についての考察(1)

2007年03月20日 | 「頻繁な訪問」について
高瀬露を語る上でのキーワードのひとつとなっている、「頻繁な訪問」。
ここではそれについて考えていきたいと思います。
まずはそれに関するテキストを悪評系擁護系からそれぞれ引用していきます。
(下線は引用者によるものです)



 (略)
 その協会員のひとりが、花巻の西方の村
 小学校教員をしている女の人を連れて来て宮沢賢治に紹介した。
 その女の人は村へ稲作指導にきた賢治を彼女の勤めている学校で、
 はじめて見たのであった。
 そののち彼女はときどき賢治を下根子の家に訪問するようになった。
 (略)
 どうやら彼女の思慕と恋情とは焔のように燃えつのって、
 そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、
 一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。
               (森荘已池「宮沢賢治の肖像」より)




 (略)
 本を返すという名目で、賢治がまだ床の中で横になっている早朝に、
 遠いところからやって来たり、日によっては、一日に二度も
 三度も顔を出すようになってきた。
 むろん、夜分もそうだった。
                (儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」より)




 遠いところをやってきたと森は、書いている。
 森は、引用文の初めの方で<花巻の西の方の村で小学校教員をしている女の人>と書いている。
 西の方の村というのは、一九五四年(昭和29)四月一日の市制施行にともなって
 花巻町ほか湯本、矢沢、宮野目、太田の各村と合併するまでは
 湯口村といっていた地域であろう。
 村の小学校というのは、寳閑尋常小学校であった。
 当時の所在地名は湯口村字鍋倉で一八八九年(明治22)の市町村制施行以前は
 鍋倉村という小さな村であった。
 現在の花巻南インターの附近、熊堂の古墳群の辺りと聞いているが、
 学校は廃校になって跡形はない。
 森は、遠いところと彼女が学校の附近に住んでいたように想定しているが、
 湯口村の何処に住んでいたかによって違うが花巻駅までは四キロから五キロ、
 賢治が住んでいた羅須地人協会までは五キロ以上六キロは離れているので、
 何もしないで交通機関のない当時往復するだけで二時間前後はかかるのである。
 掃除や朝の支度などのためにやって来るのでなければ意味がない。
 そうだとすると三時間はかかる。
 無職の人ならよいが、八時ごろには学校に出勤していなければならない。
 もっとも日曜や休日なら出来ないこともないが、それでも大変なことである。
 それはよいとして、一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。
 といっているが、そういうことの出来るような距離ではないのである。
 (中略)
 向小路二十七番地の実家から通学していたのである。
 向小路なら羅須地人協会まで一〇分以内でいける。片道の約六キロが省けるから
 朝早く訪ね一仕事して通勤することも不可能ではない。
 勤めを持つ身で「一日に二回も三回も遠いところからやって」くることは、出来ない。
 彼女が、夜の訪問を賢治にたしなめられたと高橋慶吾宛の手紙に書いているが、
 これは勤めを持つ身で昼間の訪問が出来なかったことを示している。
     (上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)<悪女>にされた高瀬露」より)


コメント (2)
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停滞のお詫び

2007年03月15日 | お知らせ
久し振りの投稿になります。

昨年の初め頃、「足を使った考察・検証も……」と
張り切った内容の記事を投稿してしまいましたが、
それから間もなく精神面で考察・検証どころではない状態に陥ってしまい、
一年ほどもの間このブログの更新を停滞させてしまいました。
誠に申し訳ありません。

ようやく、完全にとまではいかないまでも、
新規記事を投稿する元気を取り戻すことが出来ました。
「足を使った考察・検証」はまだ出来ませんが、
この件についての意見や感想はゆっくりと投稿して行きたいと思います。

改めて、よろしくお願い致します。

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さざ波程度の動きでも

2006年04月09日 | ひとやすみ
三ヶ月もご無沙汰してしまい誠に申し訳ありません。

さて、私は昨年度いっぱいで三年弱在籍しておりました
宮沢賢治学会を退会致しました。
その際学会の方とメールをやり取りしまして、
停滞気味である高瀬露問題に少し流れを見ることが
出来たことに喜びを感じています。
今はさざ波程度の動きでも、やがて大きな流れに
なっていくことを祈っております。

白状すると、ここ数ヶ月ほどこのブログの運営に対して
意気消沈気味だったのですが、今回のことを励みに
運営を頑張っていこうと思います。

次回エントリでは、高瀬露が寳閑尋常小学校勤務時代
(=羅須地人協会に足繁く通っていたとされる時代)に
彼女が通勤で歩いた距離を実際に歩き、それを元に
通説である「日に数回もの訪問」が可能だったかを
考えていきたいと思います。

……とはいえ、今花巻に行くことは不可能なので、
地図を元に距離を計測し、私の居住地の近くで
同じくらいの距離を歩こうと考えています。

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本年もよろしくお願いします。

2006年01月11日 | ひとやすみ
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

2006年は足を使った検証にも出来る範囲で着手し、
一つでも多く充実した記事を掲載したいと思っています。
(出来たら花巻・遠野にももう一度足を運びたいです……)

本年も「『猫の事務所』調査室」及び「調査書」を
よろしくお願い致します。

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2005年最後の記事です

2005年12月28日 | ひとやすみ
早いもので2005年もあと三日ほど。
本年五月にこのサイトを開設して七か月が経ちましたが、
その間有難いことに色々なサーチに登録をさせて頂きました。
少しずつでもこの問題を広めていくことが出来たのかな、
と思っています。

早く研究家の先生方が過ちに気付きそれを認め、
早く高瀬露さんの汚名が完全に晴れることを
祈りながら、2006年もじっくり進んで行きたいです。

今年一年(七ヶ月)、ありがとうございました。
良いお年をお迎え下さい。

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