旧「猫の事務所」調査書

宮沢賢治に関わった女性の風評についての意見・感想を綴っていました。2023年11月1日に新ブログ開設。

このブログについて

2024年02月06日 | 注意書き

『獅子が釣鐘の声でどなりました。
 「何といふお前たちは思ひやりのないやつらだ。
 ずゐぶんこれはひどいことだぞ。
 黒猫、おい。お前ももう少し賢こさうなもんだが
 こんなことがわからないではあんまり情ない。
 もう戸籍だの事務所だのやめて了へ。まだお前たちには早いのだ。
 やめてしまへ。えい。解散を命ずる。」
 釜猫はほんたうにかあいさうです。
 それから三毛猫もほんたうにかあいさうです。
 虎猫も実に気の毒です。
 白猫も大へんあはれです。
 事務所の黒猫もほんたうにかあいさうです。
 立派な頭を有った獅子も実に気の毒です。
 みんなあはれです。かあいさうです。
 かあいさう、かあいさう。』
               (宮沢賢治 「猫の事務所」初期形より)



このブログでは、これまで流布されてきた宮沢賢治と高瀬露の関係及び高瀬露の悪評や、それが今も黙認されている現状その他に対する管理人tsumekusaの考察や感想、意見などを載せております。
2008年11月20日に予定していた記事を全てアップ、更新を停止いたしました。
コメントの受付も現在停止しております。

2023年11月1日より新ブログ(https://ntcj-chousa.com/)にて意見・感想などを述べております。当ブログと併せてお読み頂ければ幸いです。
なるべく客観的な文章を心がけましたが、至らない部分が多々ありますことご容赦下さい。
当ブログの記述は2005年〜2008年当時の管理人の考えであり、2024年現在と相違のある部分もございます。

新ブログ開設準備に伴い2023年10月1日に当ブログの大半の記事を非公開(下書き状態)に致しましたが、2024年2月6日より新ブログの記事公開状況に合わせて関連する記事を再公開してまいります。

記事を非公開にしたのは新ブログがGoogleに「剽窃サイト」と判定されるのを避けたかったためでした。
しかし記事を非公開にした後「当ブログの記事を引用して下さっている方がおられ閲覧にご不便をかけてしまうこと、コメントやリアクションを下さった方に対して礼を欠いていること」に申し訳なさを感じるようになりました。
新ブログがGoogleにどう判定されるかは正直気になりますが、これまで当ブログを読んで下さった方にこれ以上失礼をしたくないという気持ちの方が強いです。
そういう理由で再公開に踏み切りました。

記事の中には2024年2月6日を以て削除したサイト「「猫の事務所」調査室」にリンクを繋いでいるものがありますが基本そのままにしております。
追々修正していくつもりですが、それまでご不便おかけすることをお許しください。

引き続き当ブログを新ブログ共々よろしくお願い致します。


文献からの引用は以下のように文字色を変えて表示しております。

悪評系文献からの引用。擁護系文献からの引用。その他関連資料からの引用。

また、資料中に含まれる一般及び存命と思われる方のお名前は、インターネットの性質とプライバシーの関係上伏せさせて頂きました。

悪評の原因について考える(2)

2008年10月01日 | 悪評の原因について
高橋慶吾という人物

まずは、高橋慶吾氏という人物についてみてみたいと思います。
高橋氏のプロフィールを以下に引用します。


明治39年(1906)12月28日~昭和53年(1978)4月23日
江刺郡稲瀬村出身。父は稲瀬村や花巻川口町などの養蚕教師や麦作指導を通じて賢治を知っていた。
父は慶吾の将来を案じ、農耕自炊中の賢治を訪問させた。
以後羅須地人協会に出入りし、楽団でヴァイオリンを弾いたりした。
賢治は高橋の職を心配し、昭和2年レコード交換会を開かせた。
3年には共済組合を組織し、さらに消費組合とした。
のち、この事業のうちの牛乳販売を続けたが戦時中は休業。戦後は豆腐製造業。
少年時からキリスト教信者だったが、賢治の影響により仏教を信仰、
昭和43年出家、慶雲と号し無寺托鉢の生活を送った。家で賢治遺墨店を開いた。
              (江刺ルネッサンス・賢治に関わりのある人々より)



太字下線部「少年時よりキリスト教信者だった」ということは、
上記資料以外にも宮沢賢治全集や数々の賢治評伝本でも書かれています。
しかし、その点を上田哲氏は以下のように指摘しています。


『校本宮沢賢治全集』(第十三巻書簡)の「受信人索引(付・略歴)」の「高橋慶吾」の項に
<少年時よりキリスト教信者だったが>と記載されているが誤りである。
花巻のバプテスト教会の在籍名簿には会員としての記録はない。
高橋は東京に一時行っていた時期があり、その時他のプロテスタント教派で受洗して、
花巻には自分の所属教派の教会がない場合客員会員として
バプテスト教会に所属したことも考えられるので調べたが、その記録もない。


実は、花巻地方は保守的、世俗的気風の強い土地柄で中々キリスト教が定着しなかった。

(中略)

花巻のバプテイスト教会が巡回教会から独立した教会として定着するのは
一九三〇年ごろでその基礎作りをしたのは林文太郎牧師、阿部治三郎牧師である。
高橋慶吾が出入りし、高瀬露が洗礼を受けたのは佐藤卯右衛門の巡回教会時代である。
ただ日本社会の一般的な道徳観にくらべかなり厳しいキリスト教倫理を受け容れ、
イエスを受肉せる神子キリストと福音的信仰告白をして受洗に至る者は少なかった。
高橋慶吾も信仰には至らないで教会を離れていったのである。
 (上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―」より)



花巻におけるキリスト教伝道は入っては撤退の繰り返しだったようで、
大正デモクラシーの気運に乗った若者たちが集うことでやっと定着していったということです。
詳細はこちらをご覧下さい。
そんな状態ですから高橋慶吾氏が「少年時」からキリスト教徒だったとは考えにくいです。

では、高橋慶吾氏の人となりはどうだったのでしょうか。
上田哲氏の論文から引用します。


高橋慶吾を戦前から知っている、
第一次『イーハトーヴォ』以来の菊池曉輝主宰の「宮沢賢治の会」の会員で
『農民芸術』その他に賢治についてのエッセイを寄せている鏑慎二郎は、
あの人は、新しいことが好きで理想主義者だが、足が地についていない感じもしました。」と語った。
職業も転々としていたこともあって鏑だけでなく彼を知る人は余り信用していなかったようである。
ある時期賢治の高弟を自称していて一部では反感も持たれていたという。
 (上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―」より)



先に引用したプロフィールを見ると、大変失礼ですが
「この人は結局何がしたかったんだろう」という印象を抱いてしまいます。
足が地についていないだけでなく自分のしたいことのビジョンもしっかり定められず、
また自己顕示欲の強い人のようにも見えます。
多少軽薄な印象さえ抱いてしまいます。
今風に言えば、「よく大風呂敷を広げるフリーター」といった感じでしょうか。
控え目な性格で自分を律するのに厳しく、小学校教諭を定年まで勤め上げた高瀬露とは対照的な人柄です。
高瀬露はともかく、高橋氏は高瀬露を少し煙たく思っていたのではないでしょうか。
そんな高橋氏がキリスト教とも相容れず、教会を離れていったのも分かる気がします。
コメント (4)

悪評の原因について考える(1)

2008年09月29日 | 悪評の原因について
※資料引用部分に不適切表現ありとの指摘を受け、画像で掲載いたしました。
(2022年3月11日)

「七尾論叢」11号の上田哲氏の論文は残念ながら未完のまま掲載されており、
ライスカレー事件の有無同様、何故このような悪評を流されたかについての
検証や考察はなされないままとなってしまいました。

上田氏の論文及び小倉豊文氏の「雨ニモマケズ手帳新考」を読んでいくと、
悪評の出所は全て高橋慶吾という人物に行き着きます。
高橋慶吾氏からの情報が関登久也氏、森荘已池氏、儀府成一氏に渡り、
尾鰭が付いて行ったことはこれまでも述べてきました。

キリスト教という縁で高瀬露と知り合い賢治と高瀬露の縁をつないだ張本人、
そして高瀬露の悪評の出所である高橋慶吾氏は、
高瀬露に私怨でも抱いているんじゃないかと邪推してしまうくらいに、
高瀬露の「愚行」を得意げに語っているように見えます。
その高橋慶吾氏という人物はどういう人なのでしょうか。

また、


(引用部分クリックで拡大します)

    (上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―」より)


という指摘のように、悪評の内容・伝わり方にも不可解な点があります。
また、非常に興味深いのが上田氏の論文に掲載されている、
高瀬露の娘の幼馴染みであるE.K氏の
後輩や若い人には、先輩としての義務観から忠告や注意をして
誤解されるようなこともあった
」という証言です。
高瀬露の悪評の原因は、彼女のこういう一面が鍵になっているような気がします。

まずは高橋慶吾氏という人物を見ていき、
それから悪評の出た原因や悪評が広がってしまった原因を考えていきたいと思います。
ただ、手元にある資料のみを元にした私の推測が多分に含まれてしまうので
「きちんとした検証」とは言えないものであることを先にお断りしておきます。

おひるねこ

2008年08月25日 | ひとやすみ
申し訳ありません、油断するとすぐ空白期間を作ってしまう

ほんの少し前まで何もしたくなくなるような暑さだったのに
最近はうってかわって涼しくなりましたね。
皆様もお体には十分お気をつけ下さいませ。

次回は「高瀬露の悪評の原因」について考えて行きたいと思います。

エントリが上がるまで、某神社の手水場で撮影した
お昼寝ねこさんの写真を眺めながらお待ち下さいませ


コメント (2)

「中傷行為」伝説について考える(9)

2008年07月29日 | 「中傷行為」について
まとめ?と個人的意見・2

理解できないのは、こんなひどい噂を花巻どころか全国区まで広められたというのに、
高瀬露は「事実でない事が語り継がれている」と言っただけで何の弁明もしなかったことです。
賢治でさえ、最初は黙っていてもとうとう関登久也氏に了解を求めに行ったくらいです。
どんなに度量のある人でも、身に覚えのないことを言われれば
弁明の一つもしたくなるのが普通です。

それについて上田哲氏は「これは彼女がキリスト者であったことによるのかもしれない。
肉体的苦痛はもちろん、貧窮、迫害、誹謗などを自分の十字架としてにない、
キリストの十字架の御苦に合わせ献げるため甘受するといった考え方が昔の信者にはあった。
また、どうしてこのようなうわさを流布されるようになったかを話せば
傷つく人のあることも考えていたようである。
」と述べています()。
それと共に「意見が違っても逆らわない方だった」という評判もあります()。
自分の名誉を守るために、宮沢家や関登久也氏、森荘已池氏、儀府成一氏らと
場合によっては泥沼化も考えられるような争いをすることは望まなかったのでしょう。

そういう高瀬露の意向に私が口を挟む権利はありませんが、
私自身は、それでも「ないものはない」と主張してほしかったと思っています。
ただ賢治のもとに学びに行き、賢治にかすかな恋慕の感情を抱いたかも知れないというだけで
そこまで貶められる筋合いはないのですから。

推測と憶測のみでこのようなことを書き、広めた関氏、森氏、儀府氏、
そしてそれを鵜呑みに信じ続け半世紀に渡って広め続けている
数々の賢治研究家たちのその行いこそ高瀬露を中傷する行為であり、
本当なら彼ら(高瀬露の中傷行為を否定していたとはいえ、
高橋慶吾氏もその一人であることは言うまでもありません)を
責めてもいい立場であるはずの高瀬露が
多くを語らないことで彼らを庇っているかたちになっているのです。

すでに鬼籍に入られている関氏、森氏はともかく
儀府氏(失礼ながら、まだご存命なのでしょうか?)、
そして今もなおこの話を鵜呑みにしている賢治研究家たちは
高瀬露の懐の深さに救われているということを忘れないでほしいと思います。
コメント (4)

「中傷行為」伝説について考える(8)

2008年07月28日 | 「中傷行為」について
まとめ?と個人的意見・1

あまりにも個人的な考えであり、かつ願望も入っていることをお断りして
私自身の中傷行為の有無を述べたいと思います。

私は高瀬露は賢治の中傷などしていないと考えます。
上田氏の述べるような状況的理由については地図や年譜をを見れば一目瞭然です。

悪評系は、賢治が昭和6年頃手帳に記した「聖女のさましてちかづけるもの」 ()を
「高瀬露の中傷行為」が現実にあった証拠のひとつとしていますが、どうなのでしょう。

「聖女のさましてちかづけるもの」が本当に高瀬露を指しているのかさえ
はっきりと分かりませんが、賢治は「自分の中傷をしている女がいる」という情報を
耳にしていると考えられています()から、そうであると仮定します。
(こんなことを言うと、「ヒドリ問題」みたいなトンデモ意見にされてしまいそうですが)
そうであるとしたら、この詩は単なる被害妄想の産物にすぎないと思います。
賢治は実際に高瀬露が中傷行為をしているところを目撃したわけでもなく、
また確認をとったわけでもないのですから。

また、高瀬露の(こういう事件を知らない)周囲の人の証言や
彼女のその後の行動について考えてみても「白」と言えるのでないでしょうか。
10年前後の時間が経過しているとはいえ、中傷までして憎んだ賢治を讃えるような短歌を作ったり、
積極的に賢治を偲ぶ集まりなどを開催するでしょうか。
また、このエントリでも書きましたが、
相手の心が自分の思い通りにならなかったと相手の悪口を言いふらすような人が、
教え子やその親、そして周囲の人たちに長く慕われるとは思えません。
それに、他人と自分を比べて嫉妬し、賢治の心情を邪推し悪口を言いふらすなど
誇り高く自分を律するのに厳し」く、「不正やいい加減が大嫌いだが、
他人の悪口や批判を決して口にしな
」い
高瀬露が一番嫌う行いではないでしょうか。

「中傷行為」伝説について考える(6)

2008年07月26日 | 「中傷行為」について
3.他の目撃者が現れない

では、その中傷はどのように伝わったのでしょうか。
森荘已池氏、儀府成一氏の文章では
あちらこちらに賢治の悪口を言いふらして回ったように書かれてあります。
関登久也氏は「(高瀬露が)賢治の中傷ををしていた」と断定調で言っており、
その妻ナヲ氏も下記引用文にあるようにその話をしていたようです。


 (略)
 その結果高瀬女史は賢治の悪口を言うようになったのであろう
 この点、高橋(引用者注・高橋慶吾氏のこと)否定していたが、
 私は関登久也夫人(賢治の妹シゲの夫岩田豊蔵の実妹ナヲ)から直接きいており、
 賢治が珍しくもこの件について釈明に来たことも関から直接きいている。
                (小倉豊文「宮沢賢治「雨ニモ負ケズ手帳」研究」より)




小倉豊文氏は、「彼らが話したから確実だ」と言いたげに書いていますが、
賢治側に立ちがちな親族のみの証言ではむしろ信憑性に欠けるでしょう。
賢治と高瀬露の「ゴタゴタ」を知らない人々からもそれを聞くべきです。
このエントリでも述べたように人というのは悪い噂をすぐに信じる癖があり、
また悪い噂というものは広まるのが早いものです。
そういう話が本当にあったのであれば「そんな話を聞いた」という人が
賢治と関わりのない人々からももっと沢山出てくるはずです。
そういう人々からのそういう話を出さないというのはおかしな話です。
それとも、そんな話は知らないという人が多くいたのに
それを隠しているということなのでしょうか。

また、あちらこちらに中傷して回ったというなら、
それぞれに「誤解のないよう了解を求めに行」くはずですが、
なぜ賢治は関氏だけにそのような話をしに行ったのでしょうか。

繰り返してしまいますが、この出来事を断定調で書いているのは関氏一人です。
また、この出来事について「見た、聞いた」という証言も
関氏と妻のナヲ氏のものしかありません。
高瀬露の「愚行」についての唯一の情報提供者である高橋慶吾氏ですら
この「中傷行為」を否定しているのです。
全ての真実を知っているのは、関氏だけのように見えます。

このエントリでも述べた、1930(昭和5)年10月の
二回にわたる高瀬露の関家来訪にその鍵があるように思えます。
次エントリでそれを考えたいと思います。

「中傷行為」伝説について考える(5)

2008年07月25日 | 「中傷行為」について
2.具体的に何を言ったのか分からない

儀府成一氏が「賢治に対するいろんないやがらせをしたというが、
どのようなものだったのだろうか。
」と
疑問を持っているように、中傷の内容はどんなものかすらもはっきりと分かりません。
女性が男性を中傷する内容ですぐに考えられるものとしては、

・賢治にたぶらかされて金品をだまし取られた
・    〃     夜遅くまで拘束された
・    〃     貞操を損ないかけた(もしくは損なった)

……みたいな感じのものでしょう。
本当にこんなことを言いふらされては普通は悠然と構えていられません。
いくら身に覚えがなくとも大慌てで火消しに回りたくなるはずです。
約3年も放置したあげく、親族にのみ了解を求めに行くという行為が
ますます不自然に見えてきます。

それにこのようなことを言えば、当の高瀬露の評判も地に落ちてしまいます。

では、本当に「わざわざ騒ぐほどではない」と思えるほど
もっと他愛のない内容だったのでしょうか。
例えば、高瀬露が高橋慶吾氏に宛てて出したハガキに書いてあるような、

「一人で来ちゃいけないって言われて、がっかりしたわ」
「私はもういいお婆さんなのに信じてもらえなくてちょっと戸惑ったわ」

……みたいな感じのものでしょうか。
それならば「悪口・中傷」というよりはただの「愚痴」で片付けることができ、
わざわざあげつらう程度のものではなくなってしまいそうなのですが。

「中傷行為」伝説について考える(4)

2008年07月24日 | 「中傷行為」について
1-3.「中傷行為後・もしくは中傷行為期間中」の高瀬露

中傷行為後、もしくは中傷行為の期間中、当の高瀬露は何をしていたのか……

2003年7月に見つかった関氏の日記には、
高瀬露は1930(昭和5)年10月4日に関氏の自宅を訪れ
賢治との結婚話をし関氏の母親の怒りを買い、
6日に再び関宅を訪れ賢治にもらった本を
返すように頼んだという記述があります。()
高瀬露が悪評系の言う「優しいが思い込みが激しく、
独り善がりで押し付けがましい
」ような人物でも、
他人を中傷するという愚を犯した後もしくは犯している最中に
中傷の標的にしている人物は当然のこと、
その親族にも顔を合わせることは普通出来ないはずです。
そういうことが平気で出来るほど面の皮の厚い人物なら
わざわざ関家を訪ねず堂々と宮沢家に足を運ぶと思います。

1932年4月には遠野の小笠原牧夫氏のもとに嫁ぐために遠野に入っていました。
そして上郷村(現在遠野市)の小学校で教鞭をとり、今でいう兼業主婦の生活をしています。
つまり、賢治が関氏のもとを訪れ了解を求めたという時期まで約半年、
高瀬露は花巻にいないということになります。

2008年6月現在遠野市内の(高瀬露の生活範囲と思われる)駅から
花巻まで行ける電車の本数は以下の通り(平日のみ、快速除く・goo路線より・別窓)。

岩手上郷駅遠野駅:共に8本

また、goo路線(別窓)にて調べた2008年6月現在の所要時間は以下の通り。
(快速列車での所要時間は除く)

岩手上郷駅:1時間11分~1時間15分
遠野駅:1時間1分~1時間5分

当時遠野ー花巻間は片道2時間ほどかかったと言い、
まして本数は推して知るべしでしょう。

賢治が関氏に了解を求めに行ったという時期には
長女を懐妊していたということです……が、
そのこと以前の問題ではないでしょうか。

小学校での勤務を終えた時点で既に花巻へ行く余裕などありません。
さらに家では主婦としての仕事もあるでしょう。
休日を使うという可能性があるとも考えられますが、
平日の忙しさに加え慣れない土地での生活でてんてこ舞いだっただろうという時に、
汽車での往復が4時間近くかかるような場所に、
わざわざ人の悪口を言うためだけに行く気など起こるでしょうか。
中傷行為の舞台を花巻から遠野に移していたかも知れないとも考えられますが、
そうであるなら遠野で高瀬露に関わっていた人々からそのような話が出てくるはずです。
しかしそのような証言はなく……それどころか、
賢治を心から敬愛している様子だった、という話しかありません()。

ならば1930年10月から1932年4月の間はどうだったか、というと……
結婚の準備や転勤に関わることで忙しい時期だったはずです。
人の中傷なんかしている時間など取れなかったのではないでしょうか。

※誤記がありましたので修正致しました。申し訳ありません。(2008年7月26日)

「中傷行為」伝説について考える(3)

2008年06月30日 | 「中傷行為」について
1-2.本人及び周りの者の対応がない

約3年もの間この行為への対応を中傷の的となった賢治をはじめとして
周りの誰も何もしていないというのは何故なのでしょう。

賢治は当時臥床中で対応することが出来なかった、と考えられます。
または中傷というものを取るに足らないと放置していたのかも知れません。
もしくは臥床中の賢治に気を使って家族が「高瀬露(もしくは"ある女")が
賢治を中傷しているらしい」ということを賢治に知らせず、
賢治は関登久也氏に了解を求めに行った1932(昭和7)年秋になって
そのことを知ったとも考えられます。

しかしそれなら、周りの者が何らかの行動を起こすのが自然ではないでしょうか。
人というのは悪い噂をすぐに信じてしまうものです。
高瀬露に対する悪評が長い間、そして現在もまことしやかに語られ続け
信じられ続けて来ているという身近な例もありますから。

約3年間断続的に行われていたのであればなおさら、
最初は放置出来ていてもやがて耐えられなくなってしまうだろうし、
いずれ賢治本人の耳にも入ってしまう恐れだって考えられないはずはありません。
やはり周囲及び中傷をして回った張本人である高瀬露に
何らかの対応をするのが自然でしょう。

ところで、高瀬露自身も「かなり名誉を損なわれるようなこと」を、
花巻だけでなく全国区に広められ(現在進行形でもありますが)ましたが、
生涯「事実でないことが語り継がれている」と言ったのみで何ら弁解もしませんでしたし、
家族親族が対応に回るということもしていません。
(その代わりに賢治や宮沢家・関家を悪く言うこともしていませんが)
賢治やその家族親族の行動を不自然というなら、
高瀬露やその家族親族の行動も不自然ではあります。
……が、そのことはこのカテゴリーのまとめで考えたいと思います。
コメント (2)

「中傷行為」伝説について考える(2)

2008年06月28日 | 「中傷行為」について
本エントリから、前エントリで上げた中傷伝説についての疑問点を考えて行きます。


1.いつ起こったことなのかはっきりしない

「レプラ告白・居留守事件」や「ライスカレー事件」と同様この話も
いつ起こったことなのかはっきりしていません。

本サイトの年譜に推定される時期を記載していますが、
それには1928(昭和3)年・1929(昭和4)年頃としています。
上田哲氏は1932(昭和7)年と推定しているようですが、それは不自然だと思います。
中傷行為の原因と考えられる出来事から約3年ほどの空白期間があるからです。
中傷行為というのはいざこざがあって間もなく始まるものであり、
空白期間があったとしても数ヶ月単位というのが普通ではないでしょうか。
3年も時間を置けばいい加減頭も心も冷えてしまうでしょう。

なので私は1928年か1929年のあたりと仮定します。

1928年の出来事とすれば、その理由は悪評系が想像する通り
「レプラ告白・居留守事件」や「ライスカレー事件」での賢治の態度、
そして伊藤チヱという女性に会いに大島まで行ったことを
恨みに思って……というのが自然かも知れません。

しかし、1928年から……というのには少し引っかかる点があります。
というのは、賢治の残した手紙下書きから、月日不明ながら1929年には
賢治と高瀬露の間に何通かの手紙のやり取りがあったとみられるからです。
その手紙の内容は、主に高瀬露の結婚話についての相談事であったようです。
相手の名前が判らないこの下書きが高瀬露宛てだったのかどうかははっきりしませんが、
もしそんな手紙をやり取りしていたのだとすれば、1928年に中傷行為を始めたとは考えにくいです。
中傷するくらいの相手に、手紙を書いて送るなんてことはもちろんのこと
相談なんて普通する気にはなれません。(※)

伊藤チヱとのことを嫉妬して……という点には多少納得いくものがあります。
賢治が大島に行く以前、伊藤チヱは一度兄と共に賢治のもとを訪れたことがあるようで、
もしかしたらその時高瀬露と顔を合わせたということも考えられるし、
高瀬露が伊藤チヱのことを気にかけないはずもありません。
しかしそれなら、翌年の手紙のやり取りがますます不自然になってしまいます。
賢治と伊藤チヱは結局「発展以前の問題」で終わってしまいましたが、
高瀬露もそのことを何らかのきっかけで知っていたのではないでしょうか。

では、手紙で気を引けなかったことを恨みに思って中傷を始めた……
すなわち1929年からと考えるのがちょうどいいでしょう。
しかしここでも引っかかる点が出てきます。
そこから関氏に了解を求めに行った1932年秋まで約3年もの間、
賢治及び家族親族は何故中傷行為を放ったらかしにしていたのでしょうか。
また、その期間の高瀬露の行動や出来事に中傷行為と噛み合わないものもあります。
何より賢治と高瀬露との間に手紙のやり取りがあったかどうかも
はっきりと判りません。(※)

ここまでで新たな疑問が2つ出て来ました。

1-2.本人及び周りの者の対応がない
1-3.中傷行為後・もしくは中傷行為期間中の高瀬露

これはまた後で考えようと思います。

※本日「高瀬露宛て」の手紙下書きが本当に高瀬露宛てなのかどうか
 疑わしいという内容のエントリを上げましたので、
 この部分を訂正・追記しました。(2008年11月16日)

「中傷行為」伝説について考える(1)

2008年06月05日 | 「中傷行為」について
これも有名なエピソードのひとつです。まずはそれに関連するテキストを
悪評系文献から引用します。


 賢治を慕う女の人がありました。勿論賢治はその人をどうしやうとも考へませんでした。
 その女の人が賢治を慕ふのあまり、毎日何かを持つて訪ねました。
 (中略)
 そしてそのたびに何かを返禮してた樣です。
 そこで手元にあるものは何品にかまはず返禮したのですが、
 その中には本などは勿論、布團の樣なものもあつたさうです。
 女の人が布團を貰つてから益々賢治思慕の念をつよめたといふ話もあります。
 後で賢治は其の事のために多少中傷されました
                            (関登久也「宮沢賢治素描」より)


 (略)
 第三は亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。
 それは賢治の知合の女の人が、賢治を中傷的に言ふのでそのことについて
 賢治は私に一應の了解を求めに來たのでした。
                            (関登久也「宮沢賢治素描」より)


 (略)
 宮沢賢治を、じぶんの愛情のとりこにしようとして、
 ついに果たさなかった女人は、いろいろ賢治について悪口をいってまわったものらしかった
 そのことについて、とても肚ににすえかねることがあって関登久也を訪ねて、
 何かいいたくてやってきたのである。
 というのはその女人は関登久也夫人とは女学校で同級生であったというような関係もあった。
                             (森荘已池「宮沢賢治の肖像」より)


 聖女のさました人(引用者注・高瀬露のこと)は逆だったらしい。
 相手のC(引用者注・伊藤チヱのこと)は、
 自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという職業婦人ではなくて、
 名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であるということがシャクだった。
 それにもまして、賢治がCに奔ったのは、どっちがトクかを秤にかけて、打算からやったことだと邪推し、
 恋に破れた逆恨みから、あることないこと賢治の悪口をいいふらして歩くという、
 最悪の状態に陥ったのだと考えられる
                            (儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」より)



高瀬露が中傷行為を行ったということについて
関登久也氏、森荘已池氏は割とシンプルに語っていますが、
儀府成一氏はその動機について勝手な憶測まで混ぜています。
これに対して、上田哲氏はこう指摘しています。


 関登久也は「賢治素描(五)」(『イーハトーヴォ』第十号)の中で、
 賢治が<亡くなられる一年位前>訪ねて来て、<賢治氏知人の女の人が賢治氏を中傷的に言ふので>
 <賢治氏は私に一応の了解を求めに来た>と述べている。
 賢治が関を訪問、<知人の女の人>が賢治の中傷をしていることについて
 誤解されないよう了解を求めたことを否定しないが、
 賢治は、その女が中傷している現場を見聞したのではなく、
 賢治を中傷している女がいるという人の話を、信じただけのことである。


 関は、あからさまに高瀬露とはいっていないが、多くの人はそう受けとめている。
 しかし、当時の彼女は、賢治の中傷をして歩くために花巻まで出かけられるような状況ではなかった。
 彼女のいた上郷村は、遠野から村二つ隔てた東方八キロの地点にあり、遠野駅までの通常の交通手段は徒歩であった。
 花巻までは、当時は二時間近くかかった。本数ももちろん少なかった。
 朝出ても、ちょっと用事が手間どると泊まらなければならなかったと聞いている。
 また、そのころ長女を懐妊していて、産休はなく、年休のかわりに賜暇はあったが、
 文字どおり賜るもので、休みをいただくのは容易ではなかった。
 こんな状況なので体をいたわり遠出をさけていたという。
 そして新婚早々の生活に満足していたのである。
             (河出書房新社「図説 宮沢賢治」所収「賢治をめぐる女性たち―高瀬露を中心に 」より)



この中傷伝説については疑問点がライスカレー事件同様
いくつか上がってくるので、箇条書きにします。

1.いつ起こったことなのかはっきりしない
2.具体的に何を言ったのか分からない
3.他の目撃者が現れない

疑問の内容もほとんどライスカレー事件と変わらないような気がしますが、
ともあれ、次エントリでそれを考えて行こうと思います。

「頻繁な訪問」について再度考察

2008年04月01日 | 「頻繁な訪問」について
「頻繁な訪問についての考察(2)」に、
2007年11月15日、花巻市在住の風屋様から貴重なコメントを頂きました。
風屋様には改めて御礼申し上げます。

風屋様のコメントによりますと、上田哲氏の論文にて述べられていた
熊堂古墳群の近くにある小学校は湯口小学校上中分教場という学校で、
高瀬露の勤務校であった寳閑小学校はそれより
西方2~3km離れた場所にあったそうです。
また花巻市街地から寳閑小学校のある西方の村へは
花巻電鉄という賢治の詩にも描かれている電車が走っていました。

上田哲氏はこれを見落とされていましたが、
恥ずかしいながら私も、調査不十分で花巻電鉄の存在を
見落としたまま記事を書いておりました。
注意が至らず、誠に申し訳ありませんでした。

当エントリでは、風屋様から頂いたコメントをもとに
改めて、高瀬露が通勤に花巻電鉄を利用していたことを考えた上で
再度「頻繁な訪問」が本当にあったのかを考えていきます。

まず、花巻電鉄ですが、Wikipediaによると


花巻電鉄 (必要箇所だけ転載)

路線データ

1965年当時

  ■路線距離:総延長26.0km
   ■西花巻~花巻温泉間7.4km(花巻温泉線、鉄道線)
   ■中央花巻~西鉛温泉間18.6km(鉛線、軌道線)
  ■駅数:総27駅
   ■鉄道線:7駅(西花巻含む)
   ■軌道線:21駅(西花巻含む)
(後略)



運行概要

1934年12月当時

 ■鉄道線
  ■運行本数:花巻~花巻温泉間13往復
  ■所要時間:全区間22分
 ■軌道線
  ■運行本数:花巻~西鉛温泉間6往復半(他、朝の大沢温泉~花巻間と夜の西鉛温泉~大沢温泉間に上り各1本)
  ■所要時間:全区間1時間34分~1時間36分
(後略)



駅一覧

軌道線
  中央花巻 - 西花巻 - 西公園(旧花巻川口町) - 石神 - 中根子 - 熊野 - 新田 - 歳の神 - 一本杉
   - 二ツ堰 - 神明前 - 松原 - 松倉 - 富士保前 - 志戸平温泉 - 渡り - 大沢温泉(旧湯口) - 前田学校前
   - 山の神 - 高倉山温泉 - 鉛温泉 - 西鉛温泉

鉄道線
  西花巻 - 花巻(通称電鉄花巻) - 花巻グランド前 - 瀬川 - 北金矢 - 松山寺前 - 花巻温泉

(後略)



とあります。
花巻市街地から西方の村へと延び高瀬露が通勤の足としたのは軌道線(鉛線)であり、
高瀬宅・羅須地人協会からの最寄り駅は西公園停車場と考えられ、
寳閑小学校からの最寄り駅である一本杉停車場まで5つの停車場を経由します。
両停車場間の所要時間は単純計算ですがおよそ20分前後でしょう。

そして、高瀬宅・羅須地人協会~西公園停車場、寳閑小学校~一本杉停車場の
所要時間も(徒歩で)およそ20分ほど。

片道の所要時間は最低約1時間かかります。
まして、1934年(昭和9年)当時の軌道線の運行本数は6往復半しかありません。
2時間に1本くらいの割合でしょうか。
高瀬露が賢治を頻繁に訪ねていたとされる大正15年~昭和2年頃は
まだ少ないか、良くても昭和9年と同じくらいだったでしょう。
往復の移動で約2時間プラス電車の待ち時間プラス羅須地人協会に居る時間を考えると……。

電鉄を利用したとしても、一日3回以上の訪問はやはり無理があります。
昼休みを利用したとしても間に合いません。

出勤前・退勤後の2回程度の訪問なら出来ないこともありませんが、
それを毎日、というのもやはり難しいのではないでしょうか。
退勤時間と電鉄乗車のタイミングが合えば良いのですが、
合わなければ、羅須地人協会に立ち寄って帰るような時間ではなくなってしまいます。

悪評系テキストは彼女を西方の村、すなわち寳閑小学校近辺に住んでいたとして
一日に二度も三度も訪問した」としていますが、
むしろそちらの方が大変ではないでしょうか。

無理を押して訪問するということもあったかも知れません。
1927年(昭和2年)の6月上旬、高瀬露は紹介者である高橋慶吾氏に
高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。
ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。(後略)

という内容のハガキを出しています(本サイト資料室より)。
オ寄リシナイデキマシタ」というのは、これまでは羅須地人協会を訪問した後は
高橋氏にそのことを報告していたが、この日は母親が心配するほど
遅い帰宅となってしまうので報告しなかったということでしょう。
ハガキでこのことを報告するということ、そしてハガキの内容を良く読んでみると、
夜の訪問は滅多にしなかった、というよりこの時が初めてだったのではないかと思います。

賢治の「女一人デ来テハイケマセン」という言葉も、高瀬露に辟易してというよりは
むしろ男性が一人で住んでいる家にこんな時間に女性が一人で来ることで招く誤解により
高瀬露に(もちろん自分にもでしょうが)変な噂が立つことを心配して、
そして帰路での身の安全を慮っての言葉のように思えるのです。


2008年もよろしくお願い致します。

2008年01月06日 | ひとやすみ
あけましておめでとうございます。

元日にエントリを上げておいて、
新年のご挨拶が後になってしまいまして申し訳ありません。

昨年は鈍足ながらいくつかエントリを上げることが出来ました。
(一昨年がサボりすぎなだけ……)
暖かいコメント、貴重なコメントも頂きまして、
本当に嬉しく思っております。

さて、ゆっくりと進めて参りました当ブログですが、
本年中に上手くすれば(……)予定している記事を
全て上げることになります。

まずは頂いたコメントをもとにして
「高瀬露の頻繁な訪問」についての補足記事を、
そして次は「高瀬露の中傷行為」についての記事を
上げていこうと考えております。

また、追々にですが、大ざっぱなままのカテゴリを
もう少し細かくし、記事を探しやすいようにしていきます。

では、本年もよろしくお願い致します。
コメント (2)

「ライスカレー事件はあったのか?」

2008年01月01日 | ライスカレー事件について
上田哲氏の論文「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―
に於いてのライスカレー事件の有無についての考察は、
残念ながら未完のままになってしまいました。

ライスカレー事件の最後の考察になる今回のエントリでは
私の推測や憶測が多分に入っていることをお断りした上で、
私なりの「ライスカレー事件はあったのか?」を
記していこうと思います。

いきなり結論から述べてしまいますが、
「ライスカレー事件」という、今日まで伝えられている出来事自体
やはり、「高橋慶吾作・森荘已池、儀府成一補作」の
完全なフィクションだと思います。

ただ、そのベースとなる出来事はあったのかも知れません。

それに関連しそうな賢治のエピソードに、
「農民からのお礼は絶対に受け取らなかったし、食事の誘いも断っていた。」
というものがあります。
賢治と高瀬露の間にも多分そういう、それも取り立てて
大騒ぎするほどではないレベルのやりとりがあり、
その現場に高橋慶吾氏が居合わせていた、
それだけのことだったのではないかと思います。

(賢治に断られ、「オルガンをブーブー鳴らし」たくなる程の
失望を感じたとしても、常識的な人間であれば
無関係な人々の前でそのようなみっともない真似はしないでしょう。
「自分を律するのに厳しい人」だった高瀬露ならなおさらです。)

高橋慶吾氏は、何故そんな話を作ってまで
高瀬露を貶めようとしたのでしょうか。
この疑問を後日考えていきたいと思います。