旧「猫の事務所」調査書

宮沢賢治に関わった女性の風評についての意見・感想を綴っていました。2023年11月1日に新ブログ開設。

ライスカレー事件を考える(4)

2007年10月02日 | ライスカレー事件について
ライスカレー事件に対して浮かぶいくつかの疑問のうち、
今回は一番核心に触れると思われるこれらについて考えたいと思います。


・この話の情報源は高橋慶吾氏だが、彼はこの事件を目撃したとは言っていない
・ならばそのことを高橋氏に伝えた「X氏」がいるはずだが、それが誰か分からない
・その他にも目撃者は数名いたはずなのに、誰も名乗り出ない



後年、高橋慶吾氏は当時羅須地人協会に集っていた人々と座談会を開き、
ライスカレー事件について語っています。
該当部分を引用します。


K (略・「女の人」=高瀬露のしつこい訪問について語っている)
  何時だったか、西の村の人達が二三人来た時、先生は二階にゐたし、
  女の人(引用者注・高瀬露のこと)は台所で何かこそこそ働いてゐた。
  そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。
  その時先生は村の人達に具合悪がつて、
  この人は某村の小学校の先生ですと、紹介してゐた。
  余つぽど困って了つたのだらう。

C あの時のライスカレーは先生は食べなかったな。

K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、
  先生は、私は食べる資格はありませんから、
  私にかまはずあなた方がたべて下さい、と
  決して御自身たべないものだから女の人は随分失望した様子だつた。
  そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。
  そしたら先生はこの辺の人は昼間は働いてゐるのだから
  オルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。
  その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。
  そんなやうなことがあつて後、先生は、あの女を不純な人間だと云つてゐた。

        (筑摩書房・「新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)」P359~P360より)



Kは高橋慶吾氏、Cは伊藤忠一氏という方です。
他参加者にMこと伊藤克己氏という方がいるのですが、
座談会の全文(本サイト資料室より・別窓)をご覧頂ければ分かりますが、
賢治と高瀬露のことについて語っているのは高橋氏と伊藤忠一氏だけであり、
しかも、まるでライスカレー事件の現場に居合わせていたかのような話し方です。
いいえ、高橋氏の口からハッキリ「側にゐる私たちは困つた。」と語られています。
上田哲氏は、「高橋慶吾は、そこにいたのは自分であるとは言っていない。
と述べていますが、この座談会を見落としていたのでしょう。

興味深いのは、高橋氏はこの日羅須地人協会に来ていたのは「二三人」程度だと話しているのに、
森荘已池氏や儀府成一氏の悪評系テキストでは数名訪ねて来てにぎやかになっている
と記されていることです。
また、集会に出席している人々が驚いているような様子も
高橋氏や伊藤忠一氏の口からは語られていません。

この事件が実際あったとすれば目撃者は情報源である高橋氏本人、
そして伊藤忠一氏であると考えてよろしいのかも知れません。

だとすれば、前回浮かんだ「集会の情報を高瀬露に伝えたのは誰か」という疑問は
高橋慶吾氏だという答えになるのでしょうか。
しかし、高瀬露の度重なる訪問に困り果てている賢治を見ているのに
わざわざ更に賢治を困らせるようなことをするのでしょうか。
高瀬露が「いつものように訪問してみたら、集会があることに気付いた」のだとしたら、
一旦ライスカレーの材料を取りに自宅に戻らなくてはなりません。
だとしたら、集会の輪にいるはずの高橋氏は「台所で何かこそこそ働いてゐ」る
高瀬露の姿に気付くことはないでしょう。

トイレなどで一旦席を外した際高瀬露に気付いたとするなら……
ここでも前エントリ「ライスカレー事件を考える(3)」で示した疑問が浮かびます。
賢治が高瀬露の訪問に困っていると知っているのなら、
それなりに対処するのが普通ではないでしょうか。
何も対処しないのはすごく不自然です。

一番の問題は、この座談会が行われた年月日が分からないことです。
1943年(昭和18年)発表の、関登久也著「宮沢賢治素描」に掲載されているということですが
それでも、賢治の亡くなった1933年(昭和8年)~1943年の間ということしか分かりません。
賢治の思い出を語る大事な座談会なのに、何故いつどこで開催したかという
大事なことを記録しておかなかったのでしょうか。
この座談会自体、本当に行われたのかさえ疑わしく感じます。

ライスカレー事件を考える(3)

2007年09月30日 | ライスカレー事件について
ライスカレー事件に対して浮かぶいくつかの疑問のうち、
今回はこれらについて考えたいと思います。


・高瀬露は朝から羅須地人協会にいたのか、飛び入りでカレーを作り始めたのか
・最初からいたのであれば、なぜライスカレーが運ばれてくるまで
 誰も高瀬露の存在に気付かなかったのか・賢治は対処しなかったのか
・飛び入りでカレーを作っていたにしても、匂いなどで気付かなかったのか



その日、高瀬露はいつ羅須地人協会を訪れたのか、
悪評系テキストの伝え方はバラバラです。

森荘已池氏によれば、お昼になっていきなり
出来上がったカレーを持って現れた
ことになっており、
儀府成一氏によれば、朝早くやって来て協会内の掃除等を終えたあと、
カレーを作り始めた
ということになっています。

儀府氏のテキストは、上田哲氏の指摘によれば森氏のテキストに
儀府氏が勝手に想像した賢治や高瀬露の心情などが混ぜられており、
また儀府氏は羅須地人協会活動時、賢治との面識がありません
ので
森氏のテキストより信用に足る部分は少ないのですが、
来客があると知れば、高瀬露は羅須地人協会の一会員として
早朝から一働きしに来ることもないとは言えないかも知れません。
その「この日来客がある」という情報をどうやって高瀬露が入手したのだろう、という
新たな疑問がここでわいて来ますが、そのことは後日考えることにします。

ともかく、掃除をしていればそれなりに物音が立つはずです。
まさか防音できる床や壁を羅須地人協会の建物に使っているわけでもないはずですから、
その時点で当然賢治が気付き、快く思わないのであればその場で忠告も出来るはずです。
それとも賢治は半ば諦めていて、「好きなだけやらせておけばいずれ帰る」
と思っていたのでしょうか?

悪評系テキストが伝える高瀬露は、(おそらく本音ではこう伝えようとしたいのでしょう)
「優しいが思い込みが激しく、独り善がりで押し付けがましい」
という人物像になっています。
賢治が何も言わなければ強引なアプローチを繰り返し、
賢治が忠告しても「いやよいやよも好きのうち」ということにして
アプローチをやめることはない、そんな(悪評系の理想である)高瀬露を放っておけば
どんどん独り善がりな行動をするということはこれまでの経験で分かっているはずです。
それでも放っておいたということは、よっぽど賢治に学習能力がないのか、
もしくは疎ましく思いながらもやはり高瀬露を信じていたということなのでしょうか?


それでは、早朝から来たのではなくお昼前に飛び入りでやって来て
カレーを作り始めたということにすると……
(しかしここでも、「どうやって集会の情報を高瀬露が得たのか」という
疑問を抱くことになります)

カレーというものは強い匂いを放ちます。
羅須地人協会程度の広さならあっという間に部屋という部屋に
広がっていくのは容易に想像出来ます。
その匂いに、賢治や集まった人々が気付かないはずがありません。

ただ、羅須地人協会の台所は建物の内部にはなく、
建物から少し離れたところにあったようです。
その距離がどのくらいであったかは詳しく知らないのですが、
そんなに遠く離れたところにあるとも考えにくいでしょう。
やはり、窓を閉めているのでもなければカレーの匂いは伝わると思います。

それ以前に、炊事というものもそれなりに物音が立つものなのです。
建物内に台所があるのはもちろん、離れた場所にあったとしても
集会に出席するためにやって来た者が「先生のところの台所で
誰かが働いている」ことに気付くのではないでしょうか。
そしてそれが賢治に伝わり、高瀬露をたしなめることも出来たはずです。

集会出席者が高瀬露を見かけても「家族か親戚の女性」と思い込んで
賢治にあえて伝えなかったのではないか、とも言えますが、
悪評系テキストをそれぞれ見返してみると、
どれも集会出席者はライスカレーを運んで来た高瀬露を見て
「誰、この人」という反応をしています。
集会出席者で賢治の家族や親族の女性に面識がある人が
そんなに多いとも思えないし、家族・親族か無関係の人かなど
賢治が自ら言うまで分からないはずです。
集会出席者が高瀬露を家族・親族と思い込んでいたなら
ライスカレーを運んで来た高瀬露を見てもさして驚くことはないでしょう。

今回考えた疑問点については、思わず苦笑してしまうほど
物理的にも心理的にも矛盾が多すぎて、
まとめるのにかなり時間を要してしまいました。

ライスカレー事件を考える(2)

2007年08月10日 | ライスカレー事件について
「ライスカレー事件を考える(1)」で挙げた
ライスカレー事件に対してのいくつかの疑問点の中から
今回はこの点について考えたいと思います。


・ライスカレー事件はいつの出来事か


宮沢賢治と高瀬露の逸話となると必ず出てくるこの事件ですが、
どの文献(殆どが悪評系ですが)を見てもハッキリとした時期が書いてありません。
ですが、どの文献もこの話を高瀬露の幾度もの熱烈なアプローチや
それに対する賢治の奇行などのエピソードの後に記している……
いわゆる「ひとつの締めくくり」的な位置に持って来ています。
また文献の内容を読んでみると、高瀬露に対しいよいよ
我慢の限界を超えそうになっている賢治の様子や心情が
手に取るように表現されています。

本サイトの年譜にも記してありますが、
昭和2年の5月下旬から6月上旬にかけての間のいずれかの日に、
高瀬露は賢治から「女一人で来てはいけません」と
たしなめられたことにショックを受け、
そのことを記したハガキを高橋慶吾氏に送っています。
(その消印は昭和2年6月9日)

しかし、悪評系テキストによると、
「この後も彼女の単独訪問は繁々続いていた。」
        (小倉豊文「宮沢賢治「雨ニモ負ケズ手帳」研究」より)

とのことです(しかもそれは高橋慶吾氏の証言であるそうです)。

それを本当だとし、また数々の文献におけるライスカレー事件の位置づけから考えると、
ライスカレー事件は昭和2年6月半ば頃~昭和3年上半期頃の出来事と推測できます。

一年ほどの間が開いているとはいえ、だいぶ絞ることができました。
とはいえ、これはあくまでも私個人の推測であるし、
何より元々裏付けのない話が多い悪評系テキストを材料にしていますので、
あやふやな感じは抜けないのですが……。

ライスカレー事件を考える(1)

2007年07月26日 | ライスカレー事件について
高瀬露のエピソードの一つとして、また事実であるかのように語り継がれている
このライスカレー事件ですが、不思議なことにこの話もその他のエピソード同様、
いや、それ以上に何もかもが曖昧なのです。

上田哲氏も以下のように指摘しています。


不思議なことにこの出来事のあった年月日時は不明である。
いつごろと漠然とした程度の時もわからない。

また、この物語りの主人公は、賢治と高瀬露である。
それに数人の賢治を訪ねてきた農民たちがいるが、それは誰だかわからない。
戦前から有名になっていた話なのだからあの時いたのは、俺れだぐらい言っても
よさそうだが、とうとう名乗り出なかった。

それに、この事件が事実なら仰天した農民たちとは別に
冷静に客観的に一部始終を見ていた人物X氏がいたはずである。

そういう人物がいなければこの話は伝わらなかったはずである。
それが誰だかわからない。
これも不思議である。
森荘已池氏も、その場にいなかった。
あとで詳しく述べるが、この話の最終的情報源は、
今のところ高橋慶吾にたどりつきそこで止まってしまうが、それより先はわからない。
高橋慶吾は、そこにいたのは自分であるとは言っていない。
あるいは親しい人には、話したかも知れないが、
少くとも文献的にも、あるいは誰かの証言という形でも遺っていない。
(上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露」―より)




まず、悪評系が伝えるこのエピソードの、「運ばれたカレーを賢治が拒否するまで」の部分を
それぞれ引用します。



(略)

その日、羅須地人協会には客があった。
近くの村の人たちで、四、五人連れ立って訪ねて来て、
二階で賢治をかこみ、いろいろと農事について相談をし、適切なアドバイスをうけていた。
きく方も教える方も声が大きく、いきいきとした時間の流れが感じられた。
しかし内村康江(引用者注・高瀬露に冠した仮名)の来訪は、
この人たちよりもっと早かった。
彼女はいつものように階下にいて、玄関から居間、
オルガンのある部屋、お勝手、階段まで掃除をし、
あと片づけがすむと台所に入って、時間をかけて何かひそかにやっていた。

(略)

正午すぎ、彼女は二階に、食事を持ってあがってきた。みると、何度かにわけて、
こっそりとそこまで運んだのであろうが、人数分のカレーライスであった。
容器は揃いではなかったが、人数分キチンとあった。
村の人たちは恐縮して腰を浮かしたが、それはカレーライスの接待のためというより、
女がいないはずのこの協会で、どういう人か素性の分からない女の人が、
いきなり姿をあらわしたためのようであった。
宮沢先生が、嫁をもらったという話はきいたことがないし、
さらばといって感じからいって、妹さんでも、親戚の娘というのでもなさそうだ。

賢治は最近、何とも間のわるい、どのように説明し、
その場をとり繕っていいか分からないような目に、ちょいちょいあわされてきている。
何とか二人の間に、二人は他人であることを悟らせるような、
はっきりとした線を引かなければと苦慮しながら、
ずるずるに押しまくられ、追いつめられたかたちになっている。
そして今日だ。

賢治は立ちあがって、村の人たちに「この人は××村の学校の先生です」と紹介した。
彼女は頬を少々上気させただけで、慌てないでおじぎを返し、あらためて目をみはり、
躰をかたくしているような来客たちに、一枚々々、カレーライスの皿を渡した。
水を入れたコップも運ばれ、みんなは食べ始めた。
しかしこの家の主人である賢治は、どうしたことか食べようとはしないのだった。
内村康江は寄り添うようにして、「先生も、どうぞ召し上がってください」とすすめた。
如何にも女らしいやさしさが、声にも動作にもあった。
彼女が二度、同じことばを繰り返したとき、賢治は声をころして――
しかし、ここからは、もう一歩もゆずれないといった劃然とした態度で、こたえた。
「私にはかまわないでください。私には食べる資格などありません」
                  (儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」より)



花巻の近郊の村のひとたちが、数人で下根子に訪ねてきたことがあった。
彼はそのひとたちと一緒に、二階にいたが、
女人(引用者注・高瀬露のこと)は下の台所で何かコトコトやっていた。
村のひとたちは、彼女のいることについてどう考えているかと彼は心を痛めた。

(略)

みんなで二階で談笑していると、彼女は手料理のカレー・ライスを運びはじめた。
彼はしんじつ困ってしまったのだ。
彼女を「新しくきた嫁御」と、ひとびとが受取れば受取れるのであった。
彼はたまらなくなって、
「この方は、××村の小学校の先生です。」
と、みんなに紹介した。
ひとびとはぎこちなく息をのんで、カレーライスに目を落したり、彼と彼女とを見たりした。
ひとびとが食べはじめた。――だが彼自身は、それを食べようともしなかった。
彼女が是非おあがり下さいと、たってすすめた。――すると彼は、
「私には、かまわないで下さい。私には、食べる資格はありません。」
と答えた。
                        (森荘已池「宮沢賢治の肖像」より)



遠くから来た協会員もあったらしくて、会員が数人、にぎやかになったことであった。
もちろん、近所の会員も、あったことだと思うが、T女(引用者注・高瀬露のこと)が
台所でことこと働いていることに誰(だれ)も気が付かなかったらしい。

お昼になった。T女が、いつの間に作ったのか、いいにおいのするカレー・ライスが、
つぎつぎ運ばれて、「めしあがって下さい」と、T女が、はればれした顔で言った。
みんな、たいへんな御馳走にびっくりしたが、ぶぜんとした賢治は、
「私は食べる資格がありませんから」とT女がいくらすすめても手をつけなかった。
                   (森荘已池「ふれあいの人々 宮沢賢治」より)



これらのエピソードを見てみると、上田氏の指摘の他にも
疑問点が出て来ますので、箇条書きにしてみます。



・ライスカレー事件はいつの出来事か
・この話の情報源は高橋慶吾氏だが、彼はこの事件を目撃したとは言っていない
・ならばそのことを高橋氏に伝えた「X氏」がいるはずだが、それが誰か分からない
・その他にも目撃者は数名いたはずなのに、誰も名乗り出ない
・高瀬露は朝から羅須地人協会にいたのか、飛び入りでカレーを作り始めたのか
・最初からいたのであれば、なぜライスカレーが運ばれてくるまで
 誰も高瀬露の存在に気付かなかったのか、賢治は対処しなかったのか
・飛び入りでカレーを作っていたにしても、匂いなどで気付かなかったのか



細かい点での疑問もいくつかあるのですが、
きりがなくなるのでこれだけ記しておきます。
次回からは、これらの疑問点をもとに
ライスカレー事件を考えてみようと思います。

記事停滞のお詫び

2007年05月28日 | お知らせ
ようやくあげた新記事から早二ヶ月経ってしまいました。
只今ライスカレー事件に関する記事を作成中ですが、
プライベートの事情で進行が遅れがちになっています。
もう少しお待ち下さいませ。大変申し訳ございません。


そんな中で、当サイトと当ブログは
ひっそりと開設から二周年を迎えました。
ご覧下さっている皆様に感謝致します。
そして、これからも……超が付くほどの鈍足更新ですが、
当サイトとブログをよろしくお願い致します。
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「頻繁な訪問」についての考察(2)

2007年03月21日 | 「頻繁な訪問」について
上田哲氏は、悪評系の述べる矛盾点を詳しく解説しています。

距離については地図を見れば一目瞭然です。

まず、熊堂古墳群はどの辺りにあるのでしょうか。
花巻市博物館によると上根子字熊堂とあります。

それをもとに寳閑小学校近辺と思われる場所をgoo地図で検索した結果が
こちら。

また、同じく地図で当時の羅須地人協会の位置も検索しました。
こちら。

ご覧になれば分かりますが、直線距離では四キロ程度、
道を辿って行けば軽く五キロは超えます。
大雑把に「西方の村」と言っただけでも
かなり離れていることが分かるのではないでしょうか。
私も花巻を旅行した際現地をレンタカーで走ったことがありますが、
車で走っていても……改めて言うまでもないでしょうが
「遠い」ことがはっきり分かる距離でした。

上田氏も述べておりましたが自家用車は当然のこと、
公共交通機関も普及していない当時、これだけの距離を往復して
まして仕事を持つ身で「一日に二度も三度も訪れる
なんて、到底出来ることではありません。
仮に自転車を所有し使用していたとしても、かかる時間は推して知るべしでしょう。
(また将来花巻を訪れる機会があれば、寳閑小学校近辺から羅須地人協会跡までの
徒歩による所要時間を測定したいと思います。)

実際高瀬露は羅須地人協会の近所に住んでいたのですが、
そうだとしても一日に二度は(出勤・帰宅時)ともかく
三度以上の訪問は難しいのではないでしょうか。
当時の小学校の就業時間は良く分からないのですが、
午後五時に学校を退勤したとして自宅に着くのは午後七時頃。
そんな時間に賢治のもとを訪れたとしても、
その後三度目の訪問のための時間など取れないはずです。
自分の仕事の明日の準備もあるでしょうし。

どちらにしても、伝えられているような「頻繁な訪問」が毎日あったとしたら、
高瀬露が悪評系の伝えるような人柄だったとしたら、
さっさと教員を辞めて賢治のもとへ通うことを優先させると思います。
しかし、高瀬露は教員を続けていました。
そして、これまで述べて来た高瀬露の教え子や関係者による
彼女への評価を見れば、彼女がそんな人間だったかどうかは
もう書くまでもないでしょう。
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「頻繁な訪問」についての考察(1)

2007年03月20日 | 「頻繁な訪問」について
高瀬露を語る上でのキーワードのひとつとなっている、「頻繁な訪問」。
ここではそれについて考えていきたいと思います。
まずはそれに関するテキストを悪評系擁護系からそれぞれ引用していきます。
(下線は引用者によるものです)



 (略)
 その協会員のひとりが、花巻の西方の村
 小学校教員をしている女の人を連れて来て宮沢賢治に紹介した。
 その女の人は村へ稲作指導にきた賢治を彼女の勤めている学校で、
 はじめて見たのであった。
 そののち彼女はときどき賢治を下根子の家に訪問するようになった。
 (略)
 どうやら彼女の思慕と恋情とは焔のように燃えつのって、
 そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、
 一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。
               (森荘已池「宮沢賢治の肖像」より)




 (略)
 本を返すという名目で、賢治がまだ床の中で横になっている早朝に、
 遠いところからやって来たり、日によっては、一日に二度も
 三度も顔を出すようになってきた。
 むろん、夜分もそうだった。
                (儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」より)




 遠いところをやってきたと森は、書いている。
 森は、引用文の初めの方で<花巻の西の方の村で小学校教員をしている女の人>と書いている。
 西の方の村というのは、一九五四年(昭和29)四月一日の市制施行にともなって
 花巻町ほか湯本、矢沢、宮野目、太田の各村と合併するまでは
 湯口村といっていた地域であろう。
 村の小学校というのは、寳閑尋常小学校であった。
 当時の所在地名は湯口村字鍋倉で一八八九年(明治22)の市町村制施行以前は
 鍋倉村という小さな村であった。
 現在の花巻南インターの附近、熊堂の古墳群の辺りと聞いているが、
 学校は廃校になって跡形はない。
 森は、遠いところと彼女が学校の附近に住んでいたように想定しているが、
 湯口村の何処に住んでいたかによって違うが花巻駅までは四キロから五キロ、
 賢治が住んでいた羅須地人協会までは五キロ以上六キロは離れているので、
 何もしないで交通機関のない当時往復するだけで二時間前後はかかるのである。
 掃除や朝の支度などのためにやって来るのでなければ意味がない。
 そうだとすると三時間はかかる。
 無職の人ならよいが、八時ごろには学校に出勤していなければならない。
 もっとも日曜や休日なら出来ないこともないが、それでも大変なことである。
 それはよいとして、一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。
 といっているが、そういうことの出来るような距離ではないのである。
 (中略)
 向小路二十七番地の実家から通学していたのである。
 向小路なら羅須地人協会まで一〇分以内でいける。片道の約六キロが省けるから
 朝早く訪ね一仕事して通勤することも不可能ではない。
 勤めを持つ身で「一日に二回も三回も遠いところからやって」くることは、出来ない。
 彼女が、夜の訪問を賢治にたしなめられたと高橋慶吾宛の手紙に書いているが、
 これは勤めを持つ身で昼間の訪問が出来なかったことを示している。
     (上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)<悪女>にされた高瀬露」より)


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停滞のお詫び

2007年03月15日 | お知らせ
久し振りの投稿になります。

昨年の初め頃、「足を使った考察・検証も……」と
張り切った内容の記事を投稿してしまいましたが、
それから間もなく精神面で考察・検証どころではない状態に陥ってしまい、
一年ほどもの間このブログの更新を停滞させてしまいました。
誠に申し訳ありません。

ようやく、完全にとまではいかないまでも、
新規記事を投稿する元気を取り戻すことが出来ました。
「足を使った考察・検証」はまだ出来ませんが、
この件についての意見や感想はゆっくりと投稿して行きたいと思います。

改めて、よろしくお願い致します。

さざ波程度の動きでも

2006年04月09日 | ひとやすみ
三ヶ月もご無沙汰してしまい誠に申し訳ありません。

さて、私は昨年度いっぱいで三年弱在籍しておりました
宮沢賢治学会を退会致しました。
その際学会の方とメールをやり取りしまして、
停滞気味である高瀬露問題に少し流れを見ることが
出来たことに喜びを感じています。
今はさざ波程度の動きでも、やがて大きな流れに
なっていくことを祈っております。

白状すると、ここ数ヶ月ほどこのブログの運営に対して
意気消沈気味だったのですが、今回のことを励みに
運営を頑張っていこうと思います。

次回エントリでは、高瀬露が寳閑尋常小学校勤務時代
(=羅須地人協会に足繁く通っていたとされる時代)に
彼女が通勤で歩いた距離を実際に歩き、それを元に
通説である「日に数回もの訪問」が可能だったかを
考えていきたいと思います。

……とはいえ、今花巻に行くことは不可能なので、
地図を元に距離を計測し、私の居住地の近くで
同じくらいの距離を歩こうと考えています。

本年もよろしくお願いします。

2006年01月11日 | ひとやすみ
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

2006年は足を使った検証にも出来る範囲で着手し、
一つでも多く充実した記事を掲載したいと思っています。
(出来たら花巻・遠野にももう一度足を運びたいです……)

本年も「『猫の事務所』調査室」及び「調査書」を
よろしくお願い致します。

2005年最後の記事です

2005年12月28日 | ひとやすみ
早いもので2005年もあと三日ほど。
本年五月にこのサイトを開設して七か月が経ちましたが、
その間有難いことに色々なサーチに登録をさせて頂きました。
少しずつでもこの問題を広めていくことが出来たのかな、
と思っています。

早く研究家の先生方が過ちに気付きそれを認め、
早く高瀬露さんの汚名が完全に晴れることを
祈りながら、2006年もじっくり進んで行きたいです。

今年一年(七ヶ月)、ありがとうございました。
良いお年をお迎え下さい。

「レプラ告白」、居留守事件についての考察(3)

2005年12月10日 | 「レプラ告白」・居留守について
高瀬露は賢治の忠告に対して「信用されていなかったのか」と、
戸惑いながらも言われた通りに訪問を控えるようにしました。
ただ「訪問を遠慮するようにした」というのは本人の弁であり、
全てを信用できないかも知れません。
小倉豊文氏は「宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究」の中で、


 しかし高橋氏(引用者注・高橋慶吾のこと)の話によると、
 この後も彼女の単独訪問は繁々続いていた。
 しかして、顔に灰を塗る(墨という人もあるが
 高橋氏は灰であるという)とか、
 戸棚にかくれるとか、不在と偽るとか、
 森荘已池が訪問すると、彼女の辞去後の
 室内の女臭さを嫌って風を入れたとか、
 同夜宿泊すると彼女が泊まったと間違われるのを
 慮って一夜中電灯をつけておいたとか
 (森著「宮沢賢治と三人の女性 昭和二十四年一月、人文書院刊、
 同講演「宮沢賢治と三人の女性」 昭和三十九年九月五日、
 盛岡市城西中学校に於ての自筆要旨 等)いった、
 むしろ奇矯ともいうべき賢治の行動は、
 何れも前掲の手紙以後であったと推定される。



と述べています。
但しこれは、「推定される」と結んであることから
きちんとした検証を行い裏付けを取ったわけではなく、
高橋慶吾の話を鵜呑みにした上での論述に過ぎないのですが。
(後日考察しますが、これは悪評系テキスト共通の特徴です)

高瀬露はハガキの中で、高橋慶吾に対し賢治のもとを訪れたことや
その詳細をきちんと報告し、「勝手なことをしてごめんなさい」とお詫びもし、
紹介者である高橋慶吾への礼をきちんと尽くしています。
それに対し高橋慶吾は嘘八百を並べ立て高瀬露を悪人に仕立て、
彼女を裏切るような行為をしたのです。(これも後日考察します)

とにかく、そこまで気を使える人が「女一人で来てはいけない」と言った
賢治の気持ちを汲みとらずしつこく単独訪問を繰り返したなどとは
到底考えにくいのです。

しかし、この居留守事件については、賢治の教え子である
鈴木操六氏、伊藤忠一氏も「そういうことがあった」と証言されています。
ただ、高橋慶吾と共謀してそのような証言をした、ということも考えられるのです。
はっきりそうだとは言い切れませんが、これについて証言しているのは
高橋慶吾を含むこの三人だけなのです。
そしてそういう話を作ることによって、羅須地人協会から
人々の足が遠退いていった原因を高瀬露に被せようとする節も見られます。
(これも後日考察します)

「レプラ告白」、居留守事件についての考察(2)

2005年12月05日 | 「レプラ告白」・居留守について
上田哲氏は、儀府氏の文章を中心に一連の出来事の伝説について
以下のように指摘しています。


  ……あくる日の羅須地人協会の入口には、「本日不在」の木の札が下げられた。
 その木の札が、十日も掛けられっぱなしになっていることもあった。
 (注・儀府は、羅須地人協会のあったころは、賢治と交際がなく、
 一度も羅須地人協会を訪ねたことはない。)

 居るすをつかい、嘘をつき、逃げかくれた。つかまると、賢治は顔じゅうに灰やスミを塗り、
 わざとぼろをまとって乞食の風を粧い、彼女の前にあらわれた。
 (注・居留守も使えぬ不意打ちの訪問で顔を合せた賢治が一たん引込み
 台所に行き灰やスミを塗り、どこかでボロ服に着替えて露に逢ったということになる。
 儀府氏は、作家である。
 作家ならもう少しリアリティと説得性のあるフィクションを書いたらよかった。)


 高瀬露の訪問が迷惑であるなら迷惑であるから来ないでくれと
 言うことも出来たはずである。
 現に、賢治が、訪ねて来た高瀬露に「女一人デ来テハイケマセン」といっているのである。
 これは、高瀬露が高橋慶吾に宛てた一九二七年<昭和二年六月九日>付
 消印のあるはがきに彼女自身が書いている。
 (中略・はがきの内容はこちら参照)

 賢治は、詩人として普通の人と違う変わった所があったかも知れないが
 それほど常識はずれの人ではなかった。
 「本人不在」の札を出して居留守を装うような
 幼稚な姑息な手段を使うような卑屈な人だったのだろうか。
 「本人不在」の札を十日も出しっ放しにしておいたら
 大切な用事をもってきた人に迷惑をかけることがあるかも知れない。
 また自分にとっても不利益や困ったことが生ずることがあるかも知れない。
 こういうことに考えが及ばない莫迦な人だったのだろうか。
 ましてや顔に墨や灰を塗ったり、乞食の真似をしたり、
 レプラだといったり、その様な馬鹿げたことをしたであろうか。

 もし、そんなことをしたらE.K氏のいうような誇り高い女性だった高瀬露は、
 賢治を軽蔑して、没後賢治を師としてたたえる短歌を作ったり、
 生涯賢治を先生とよんだりはしなかったろう。

 (6)仕方なく彼が帰ろうとすると、俄かに座敷の奥の押入の襖があいて、
   何とも名状しがたい表情の賢治があらわれ出たのであった。
   彼女の来訪を知って賢治は素早く押入の中に隠れていたのであった。
 これは、高瀬露が来た気配で賢治が押入れに隠れた。そこへ教え子が訪ねて来た。
 賢治の姿が見えないので帰ろうとすると押入れからあわてて出て来たという。
 出てくるくらいなら隠れなくてもよかった。無意味な行動をしたものである。
 俗にいう阿呆なことである。賢治はそんなおろかなことをする人間だったのだろうか。


 よく読んでみるといろいろ疑問点や矛盾点が出てくる。不自然な話である。
     (「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)<悪女>にされた高瀬露」より)




しかし実際には、賢治は高瀬露に単独での訪問をきちんと注意していたのです。
大の大人として当然の行動ではないでしょうか。

何より悪評系が述べるような一連の行動は非常識以外の何者でもありません。
ついこの間までは歓待してくれたのにいきなり居留守など使われては
誰だって驚くだろうし憮然とした態度も出てしまうでしょう。
まして彼女を遠ざける目的だけで「レプラである」などと嘘をつくなど、
卑怯以外の何者でもない行為ではありませんか。

「嘘をついた人間とは頑として口を聞こうとしなかった」ほど
嘘が嫌いな人だったはずの賢治がたかだかそのくらいの理由で、
場合によっては冗談にもならないような嘘をついたりするのでしょうか。
「嘘も方便だ」と言われるかも知れませんが、
それではあまりにもご都合主義が過ぎるのではないでしょうか。

高瀬露を貶めたいがための作り話を書くならば、
賢治にはもう少し大人の対応をさせるべきだったのではないでしょうか?

「レプラ告白」、居留守事件についての考察(1)

2005年11月24日 | 「レプラ告白」・居留守について
今回から、長年まことしやかに語られてきた
宮沢賢治と高瀬露のエピソードを一つずつ、私なりの考えで考察、
出来るものは検証して行きたいと思います。

今回は賢治の「レプラ告白」及び居留守事件について考察します。
この件については様々な研究書や評論本などで必ず記されていますが、
詳細を書いているテキストは二つ、森荘已池氏の「宮沢賢治と三人の女性」
儀府成一氏の「宮沢賢治 ●その愛と性」です。
その部分を引用します。


 彼はすっかり困惑してしまった。「本日不在」の札を門口に貼った。
 顔に墨を塗って会った。
 あるとき協会員のひとりが訪れると、賢治はおらず、その女の人がひとりいた。
 (中略)
 仕方なく彼が帰ろうとすると、俄かに座敷の奥の押入の襖があいて、
 何とも名状しがたい表情の賢治があらわれ出たのであった。
 彼女の来訪を知って賢治は素早く押入の中に隠れていたのであった。
 (中略)
 「私はレプラです」
 恐らく、このひとことが、手ひどい打撃を彼女に与え、心臓を突き刺し、
 二度とふたたびやってこないに違いないと、彼は考えたのだ。
 ところが逆に、彼がレプラであることそのことが、彼女を殉教的にし、
 ますます彼女の愛情をかきたて、彼女の意思を堅めさせたに過ぎなかった。
 まさに逆効果であった。
 このひとと結婚しなければと、すぐにでも家庭を営めるように準備をし、
 真向から全身全霊で押してくるのであった。彼女はクリスチャンであった。
 「私はレプラです。」
 という虚構の宣言などは、まったく子供っぽいことにしか見えなかった。
 彼女は、その虚構の告白に、かえって歓喜した。
 やがては彼を看病することによって、彼のぜんぶを所有することができるのだ。
 喜びでなくてなんであろう。恐ろしいことを言ったものだ。
                  (森荘已池「宮沢賢治と三人の女性」より)



 あくる日の羅須地人協会の入口には、「本日不在」の木の札が下げられた。
 その木の札が、十日も掛けられっぱなしになっていることもあった。
 居るすをつかい、嘘をつき、逃げかくれた。
 つかまると、賢治は顔じゅうに灰やスミを塗り、
 わざとぼろをまとって乞食の風を粧い、彼女の前にあらわれた。
 喜劇『饑餓陣営』『ポランの広場』『植物医師』の作者兼演出家の、
 じきじきの自作自演である。
 べつの時、そうと聞いたら愛想づかしをしてあきらめるだろうと思い、
 自分はレプラだと告白調でいってみた。やはり駄目であった。
 おなじ墓穴を掘るにしても、こんなまずい墓穴をほるなんて、
 めったにあることじゃない。
 内村康江は、クリスチャンであった。逃げ出すどころか、
 そんな不幸な身の上なら尚のこと、私の生涯をよろこんで
 捧げさせていただきますと、逆に彼女の殉教的な精神を煽り、
 結婚の意思をますます固めさせる結果となってしまった。
 (中略)
 ある日協会員のひとりが、急ぎの用事で桜へ出かけた。
 が、賢治の姿はなく、内村康江がひとり、放心のさまで立っていた。
 「先生はおいでになりませんか」
 協会員といっても、彼は農学校時代の賢治の教え子でもあったから、
 勇気を出して彼女に声をかけた。
 「おりません」
 いつも愛想の良い彼女から、ブッキラボーな返事が反ねかえった。
 (中略)
 その会員は帰ることにして、ひとこと賢治へのことづてを彼女にたのみ、
 向きをかえようとしたとき、彼女の後ろの戸がさっとあいて、
 顔を異常に興奮させた賢治がとび出してきた。
 愕きのあまり会員は声も出ず、といって逃げ出してしまうわけにもいかず、
 二人の顔から目をそらして、立っているのがやっとの思いだった。
 おもうに家にいた賢治は、彼女の不意の来訪をすばやく感知して、
 といって遠くへ逃げる時間などなく押入れの中にとびこみ、
 呼吸をころして隠れていたのであろう。
 (後略)
               (儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」より)



この行動を云々する前に、まず賢治がこのような行動を起こす前に
高瀬露に頻繁な訪問を控えるよう進言したのか否かを考えましょう。
その進言があってもなお彼女が訪問を繰り返したのであれば、
彼女に分別がなく、賢治のこのような行動もやむなしと言うことが証明されますが、
進言も何もないままいきなりこのような行動に出たのであれば、
賢治が非常識であるということになります。

では、お二人の文章にそのような過程が記述されてあったか……
答えは否です。

高瀬露の度重なる訪問や贈り物に賢治が一人で恐怖感を募らせ、
ある日突然このような行動に出たという描写でしかありません。

ところで、森氏の文章と儀府氏の文章では一連の出来事の順序が
あべこべになっているのがとても気になります。
当方で作成した年譜をご覧になればお分かりになると思いますが
この出来事の時系列はかなりあやふやなので、
この出来事が事実であるということさえ非常に怪しいのです。
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彼と彼女の相性

2005年10月25日 | ひとやすみ
以前作ったプロミスリングをパソコンラックの柱に取り付けてみました。
ちなみにリングの下にあるのは、某お茶系飲料のおまけに付いていた
シーサーのマグネットです。


先日、「高瀬露」で検索をかけたら面白いサイトを見つけました。
こちらその内容

私は占いが大好きなのでとても興味深く拝見しました。
石川啄木・節子夫妻や太宰治・津島美知子夫妻も同じ相性なのだとか。

ところで、このサイトに用意されているツールを使用して
賢治研究者の多くが「有望」と押している伊藤チエと賢治の相性を占ってみましたら
このような結果になりました……。

十二星座だと(大雑把ではありますが)、
賢治は乙女座、高瀬露は山羊座、伊藤チエは魚座になります。
そこから相性を見てみると賢治と高瀬露はやはり好相性、
賢治と伊藤チエはまずまずの相性となるのですよね……。