ライスカレー事件に対して浮かぶいくつかの疑問のうち、
今回は一番核心に触れると思われるこれらについて考えたいと思います。
・この話の情報源は高橋慶吾氏だが、彼はこの事件を目撃したとは言っていない
・ならばそのことを高橋氏に伝えた「X氏」がいるはずだが、それが誰か分からない
・その他にも目撃者は数名いたはずなのに、誰も名乗り出ない
後年、高橋慶吾氏は当時羅須地人協会に集っていた人々と座談会を開き、
ライスカレー事件について語っています。
該当部分を引用します。
K (略・「女の人」=高瀬露のしつこい訪問について語っている)
何時だったか、西の村の人達が二三人来た時、先生は二階にゐたし、
女の人(引用者注・高瀬露のこと)は台所で何かこそこそ働いてゐた。
そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。
その時先生は村の人達に具合悪がつて、
この人は某村の小学校の先生ですと、紹介してゐた。
余つぽど困って了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかったな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、
先生は、私は食べる資格はありませんから、
私にかまはずあなた方がたべて下さい、と
決して御自身たべないものだから女の人は随分失望した様子だつた。
そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。
そしたら先生はこの辺の人は昼間は働いてゐるのだから
オルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。
その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。
そんなやうなことがあつて後、先生は、あの女を不純な人間だと云つてゐた。
(筑摩書房・「新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)」P359~P360より)
Kは高橋慶吾氏、Cは伊藤忠一氏という方です。
他参加者にMこと伊藤克己氏という方がいるのですが、
座談会の全文(本サイト資料室より・別窓)をご覧頂ければ分かりますが、
賢治と高瀬露のことについて語っているのは高橋氏と伊藤忠一氏だけであり、
しかも、まるでライスカレー事件の現場に居合わせていたかのような話し方です。
いいえ、高橋氏の口からハッキリ「側にゐる私たちは困つた。」と語られています。
上田哲氏は、「高橋慶吾は、そこにいたのは自分であるとは言っていない。」
と述べていますが、この座談会を見落としていたのでしょう。
興味深いのは、高橋氏はこの日羅須地人協会に来ていたのは「二三人」程度だと話しているのに、
森荘已池氏や儀府成一氏の悪評系テキストでは数名訪ねて来てにぎやかになっている
と記されていることです。
また、集会に出席している人々が驚いているような様子も
高橋氏や伊藤忠一氏の口からは語られていません。
この事件が実際あったとすれば目撃者は情報源である高橋氏本人、
そして伊藤忠一氏であると考えてよろしいのかも知れません。
だとすれば、前回浮かんだ「集会の情報を高瀬露に伝えたのは誰か」という疑問は
高橋慶吾氏だという答えになるのでしょうか。
しかし、高瀬露の度重なる訪問に困り果てている賢治を見ているのに
わざわざ更に賢治を困らせるようなことをするのでしょうか。
高瀬露が「いつものように訪問してみたら、集会があることに気付いた」のだとしたら、
一旦ライスカレーの材料を取りに自宅に戻らなくてはなりません。
だとしたら、集会の輪にいるはずの高橋氏は「台所で何かこそこそ働いてゐ」る
高瀬露の姿に気付くことはないでしょう。
トイレなどで一旦席を外した際高瀬露に気付いたとするなら……
ここでも前エントリ「ライスカレー事件を考える(3)」で示した疑問が浮かびます。
賢治が高瀬露の訪問に困っていると知っているのなら、
それなりに対処するのが普通ではないでしょうか。
何も対処しないのはすごく不自然です。
一番の問題は、この座談会が行われた年月日が分からないことです。
1943年(昭和18年)発表の、関登久也著「宮沢賢治素描」に掲載されているということですが
それでも、賢治の亡くなった1933年(昭和8年)~1943年の間ということしか分かりません。
賢治の思い出を語る大事な座談会なのに、何故いつどこで開催したかという
大事なことを記録しておかなかったのでしょうか。
この座談会自体、本当に行われたのかさえ疑わしく感じます。
今回は一番核心に触れると思われるこれらについて考えたいと思います。
・この話の情報源は高橋慶吾氏だが、彼はこの事件を目撃したとは言っていない
・ならばそのことを高橋氏に伝えた「X氏」がいるはずだが、それが誰か分からない
・その他にも目撃者は数名いたはずなのに、誰も名乗り出ない
後年、高橋慶吾氏は当時羅須地人協会に集っていた人々と座談会を開き、
ライスカレー事件について語っています。
該当部分を引用します。
K (略・「女の人」=高瀬露のしつこい訪問について語っている)
何時だったか、西の村の人達が二三人来た時、先生は二階にゐたし、
女の人(引用者注・高瀬露のこと)は台所で何かこそこそ働いてゐた。
そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。
その時先生は村の人達に具合悪がつて、
この人は某村の小学校の先生ですと、紹介してゐた。
余つぽど困って了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかったな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、
先生は、私は食べる資格はありませんから、
私にかまはずあなた方がたべて下さい、と
決して御自身たべないものだから女の人は随分失望した様子だつた。
そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。
そしたら先生はこの辺の人は昼間は働いてゐるのだから
オルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。
その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。
そんなやうなことがあつて後、先生は、あの女を不純な人間だと云つてゐた。
(筑摩書房・「新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)」P359~P360より)
Kは高橋慶吾氏、Cは伊藤忠一氏という方です。
他参加者にMこと伊藤克己氏という方がいるのですが、
座談会の全文(本サイト資料室より・別窓)をご覧頂ければ分かりますが、
賢治と高瀬露のことについて語っているのは高橋氏と伊藤忠一氏だけであり、
しかも、まるでライスカレー事件の現場に居合わせていたかのような話し方です。
いいえ、高橋氏の口からハッキリ「側にゐる私たちは困つた。」と語られています。
上田哲氏は、「高橋慶吾は、そこにいたのは自分であるとは言っていない。」
と述べていますが、この座談会を見落としていたのでしょう。
興味深いのは、高橋氏はこの日羅須地人協会に来ていたのは「二三人」程度だと話しているのに、
森荘已池氏や儀府成一氏の悪評系テキストでは数名訪ねて来てにぎやかになっている
と記されていることです。
また、集会に出席している人々が驚いているような様子も
高橋氏や伊藤忠一氏の口からは語られていません。
この事件が実際あったとすれば目撃者は情報源である高橋氏本人、
そして伊藤忠一氏であると考えてよろしいのかも知れません。
だとすれば、前回浮かんだ「集会の情報を高瀬露に伝えたのは誰か」という疑問は
高橋慶吾氏だという答えになるのでしょうか。
しかし、高瀬露の度重なる訪問に困り果てている賢治を見ているのに
わざわざ更に賢治を困らせるようなことをするのでしょうか。
高瀬露が「いつものように訪問してみたら、集会があることに気付いた」のだとしたら、
一旦ライスカレーの材料を取りに自宅に戻らなくてはなりません。
だとしたら、集会の輪にいるはずの高橋氏は「台所で何かこそこそ働いてゐ」る
高瀬露の姿に気付くことはないでしょう。
トイレなどで一旦席を外した際高瀬露に気付いたとするなら……
ここでも前エントリ「ライスカレー事件を考える(3)」で示した疑問が浮かびます。
賢治が高瀬露の訪問に困っていると知っているのなら、
それなりに対処するのが普通ではないでしょうか。
何も対処しないのはすごく不自然です。
一番の問題は、この座談会が行われた年月日が分からないことです。
1943年(昭和18年)発表の、関登久也著「宮沢賢治素描」に掲載されているということですが
それでも、賢治の亡くなった1933年(昭和8年)~1943年の間ということしか分かりません。
賢治の思い出を語る大事な座談会なのに、何故いつどこで開催したかという
大事なことを記録しておかなかったのでしょうか。
この座談会自体、本当に行われたのかさえ疑わしく感じます。