
常に念仏を唱えていなければ、
悟りをひらけない修行の人。
立派な人になりたいと思う。
それは悟りか、強欲か。
ありがたいお経など本当はいらない。
その人にその振る舞いさえあれば。
常に神様や仏様を拝み見なければ、
救いが得られない俗世の人。
善良でありたいと願う心。
手を合わせて心洗われたと感じる。
お賽銭やお布施など本当はいらない。
その心にその準備さえできていれば。

みな本意とは違うところにある。
でも、それを責めることは意味がない。
自分をかえりみればわかること。
皆、形あるものが必要なのだ。
たくさんの参拝者があり、
立派な仏像や神体があり、
お賽銭箱にお金を投げ入れ、
鈴や鐘を鳴らし、
手を合わせて目を閉じる。
それでいいのだ。
常に念仏を唱えていなければ、
悟りをひらけない修行の人。
常に神様や仏様を訪れなければ、
救いが得られない俗世の人。
形なきものに価値を与えることができるのは、
ただその人の心のなかでしか生きられないもの。
豊かでなければ、それはすぐに消え失せる。
清らかな祈りや願いは、いつしかどこかで欲にすり変わる。
自分をかえりみればわかること。

大学の体育会のOB会から、現役チームへの寄付金の案内が舞い込んできた。
苦しい現状は、どこも同じのようだ。
大震災の義援金や母の月参りのお布施よりも、もちろんお賽銭など比ではない多くの金額を振り込むことにした。
この気持ちは、どこから来るのだろう。
ふと、考えてみる。
はるか昔の自分に出会う。
自分は人徳者ではなく、ましてや神様でもない。
ただ、その刹那に感じるががままに綴る旅。