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戯言

をのこのすなる日記といふものを
漏れもしてみんとてすなり。

風呂論

2004年10月13日 19時06分41秒 | column
最近更新が滞ってますが、それは研究のせいです。毎日研究漬けで華のない生活を送っているオイラの唯一の癒しはお風呂です。最近徐々に寒くなってきているので、お風呂が気持ちいい季節になってきました。今日はそんな風呂好きなオイラの風呂に対する想いの丈を述べてみたいと思います。

風呂。それは一日の疲れを癒し、その日の汚れを落とす神聖な場所。「シャワー浴びるとション〇ンしたくなる」という話をたまに耳にしますが、風呂では便意に耐えてください。あとから使う人が哀れです。あくまでも神聖な場所ということを忘れずに。

体を洗う際は頭から。次いで上半身、下半身という具合に上から下へと洗うほうが合理的です。シャンプーの泡など汚れを秘めた液体は重力の影響で下へ下へと流れるからです。

最後に顔を洗います。「格好よくなりますように」「可愛くなりますように」と念じながら優しく洗ってあげてください。ちなみに僕はAsisという洗顔料を拘って使っています。これは水の気持ち良さを存分に体感できます。もしよければ使ってみてください。

余談ですが体を洗っているときはオイラは風呂の窓を閉めます。そうすれば当然風呂の中は蒸します。そこで先程紹介した洗顔料が真価を発揮するのです。メンソール配合。すべて体を洗い終えた後、湯槽に浸かりながら窓を全開にします。湯の温度は夏は42℃、冬は43℃。江戸っ子は熱い湯にちゃっと浸かってちゃっと出るもんです。すると窓を全開にしたことで蒸した風呂の湿度がいっきに下がります。メンソールで外気に敏感になっている顔が冷やされ、究極の頭寒足熱はさながら露天風呂の気持ち良さ。これを味わわずにいては死んでも死に切れませんよ!

さぁ、これであなたも風呂マスターです。明日から、などと言わず今日から試してみてください。きっと人生観変わりますよ☆

アイラブ風呂!


幸福量保存則

2004年09月09日 21時35分09秒 | column
 オイラがまだ幼い頃から信じてやまない法則が一つあります。それが「幸福量保存則」。「人間が一生のうちに消費できる事のできる幸福量は生まれながらに決まっていて、かつ万人同じ量である」というものです。幸福と不幸はプラスマイナスの関係で打ち消し合います。仮に人が一生のうちに消費できる幸福量を10として、例えば好きな人と付き合えたので幸福量5消費。残る幸福量は5です。ここで財布を落としてしまったら幸福量は-3となり、残った幸福量は8となりました。…と、大体こんな感じで、人間は一生で生まれた時よりほんの少し幸せになって天に召されるのです。

 これになぞらえば、今現在幸せそうにしている人も晩年にはどんな不幸が待っているか分からないし、万が一宝くじで一億円でも当ててしまおうものなら、今後どんな不幸が襲いかかってくるか考えただけでも恐ろしい。一生分の幸福量を使い切ってしまえば、余生は不幸、もしくは幸せでない状態が継続する訳です。逆に今はとてつもない逆境に立たされていても、辛抱して精進を重ねればいつかは花開くというもの。夢と希望に満ち満ちた法則じゃあありませんか☆

 ただこれは、幸福量が個人のなかで補完されるかどうかは微妙。例えば現在とても幸せな人が交通事故などで突然逝ってしまった場合、その幸福量に見合うだけの不幸量はその人には訪れません。ただ、その人のまわりで悲しむ人は多い訳で、結果的に巨視的に見れば幸福量は保存しているんです。

 これを見ている貴方。貴方にも覚えがあるはずです。ある社会で、仲間と過ごした時間が楽しければ楽しいほど、別れは辛くなるものです。ただ、オイラとしては一生分の幸福量を生きられる時間で割って、断続的に微少量の幸福を得るよりは、一気に幸せになったり、その分不幸になったりと起伏の激しい生涯のほうがきっと楽しいと思います。皆さんはどう思いますか?この法則に対する意見や、「もし幸福量が保存しているならどんな生涯が理想か」など、意見お待ちしています。

無駄無駄無駄無駄(中略)無駄無駄ァ

2004年07月15日 23時03分25秒 | column
「無駄」という言葉についてちょっと考えてみた。
そもそも「無駄」というくらいだから「駄」ではない、ということだろう。

【駄】 他の語に冠して劣っている意味を表す。(駄馬、駄菓子など)

それじゃあ「無駄」は劣ってないってこと?

「無駄」 役に立たないもの。益のない事。

ううむ…素人考えでは矛盾している気がしてならない。
言葉って難しいね!
これについて詳しく分かる方、または推測でも構わないのでレス下さい!