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支流からの眺め

お金の奴隷

 2024年1月20日
 思い違いの一連のブログで述べたように、資本主義社会の労働者は資本家が望む体制に貢献することで報酬を得ている。この意味で資本家の奴隷なのだ。現代の奴隷は昔より人間的に扱われているが、それは、強烈な搾取は生産性や収益性を下げることに資本家が気づいたからだろう。それが証拠に、技術革新などで生産性が上がっても、労働は軽減されず更なる競争が課せられるだけだ。

 しかし、この状態は資本主義体制であれば避けることができない。問題は、お金があれば何でも可能という思い込み(万能信仰)や、倫理を無視してまでお金を収奪しようとする貪欲さに支配されることだ。この「お金の奴隷」状態は、市場至上主義や新自由主義の底にも流れている。奴隷になる危険性は資本家(お金持ち)に高く、お金持ちがいるのは資本主義の国だけではない。

 言い古されているように、お金に換算できない大切なものがある。まずは親子を基盤とする家族だ。家事や育児の費用を請求しあう家族は家族とはいえまい。家族関係の延長には、公共性の高い社会活動(行政、司法、教育、医療、社会インフラなど)がある。これらの活動を市場原理で運用すれば、支える精神を荒廃させてしまう。自然環境もそうだろう。自然を金のなる木とみなして失ったものは大きい。

 一方、家族的関係だけでは多くの人と交流して大きな社会を築くことはできない。そこにお金の意味がある。お金を使う目的は、「不特定多数の人々と、有形無形の多様な価値の交換を促し、人々の生活を豊かにすること」であろう。その原点に立ち戻り、お金の万能性やお金への貪欲さに支配されず(お金の奴隷にならず)、こちらが主人となってお金を使うことが肝要ということになる。

 お金は人類社会の発展を促す強力な手段だ。しかし、その力に魅了され独占を図る人が後を絶たず、収奪のための暴力(戦争)や制度(奴隷制)は途切れることがない。今や国家までが翻弄されている。お金という便利な方法を編み出したのに、その奴隷になり下がったのだ。お金は人々の幸福のためだったとすれば、幸福の有り様を見失ったのか。その有り様は見えていても智慧が足りないのか。(続く)

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